舞姫

 

『舞姫』
 
なんかまんまですが、森鴎外の『舞姫』がモデルです。ひゃっほい。
でも全くもって舞姫じゃなくなりますから…!だめですよ、授業とかで↓の事とか言っちゃったら!白い目されます。
因みに年齢考えるとドイツがいたくロリコンですが、気にしないで下さい。
あと、ヤグルマソウは普通冬じゃ咲かないけど、気にしないで下さい。orz

 

 

 ルードヴィッヒがこの地、日本に足を踏み入れてから早くも半年が経とうとしていたこの時、日本は冬でコートが無くては歩けない程の冷え込みであった。
 夜中に雪が降るだろうと、今日誰かがぼやいていてのを思い出し、帰路の足を速め暗い空を眺めた。
 時計は暗くて見えないが、恐らくもう夜の九時を回る頃だろう。
 まだ明治の中期である今、外国人が珍しいのか、それとも自分の顔が不機嫌そうなのか、すれ違う人は皆彼を振り返る。
 ルードヴィッヒはドイツの権威ある大学を卒業し、医学のより良い伝達の師となる為にこの地に派遣された。
 日本人は他国よりも勤勉であったが、少々何を考えているのか分からない節もあり、未だに友人等も居ない。
 フト顔を上げると、まだ珍しい街灯の下に何か目映い程の赤い何かが丸くなって座り込んでいて、そこを通る人々を驚かしていた。
「どうした?」
 よく見れば、その赤い物体はキモノを着込んだ日本人の女の子の様で、まだ発音が怪しい日本語で語りかければ、驚いて彼女が顔を持ち上げる。
 その長い睫に涙の水滴が数個付き、真っ黒な瞳も今日の天気の様に水分をたゆたわせていた。
 白い肌に間反対な黒色の長い髪と瞳が酷く彼女の儚さと弱さを強調している様で、思わずハッとさせられる。
 どこの誰だろうと、彼女の美しさを文字で描き尽くせる人など居ないだろうと、そう思ってしまう程にこの少女は美しい。歳は十六七だ。
「なんで泣いてるんだ。力が貸せるようだったら貸そう。」
 考えるよりも前に飛び出した、あまりにらしくない大胆な発言に、思わず自分で驚き呆れてしまうものの、一度出た言葉は掻き消すことは出来ない。
 あまり外国人を見ない所為か、一寸酷く狼狽えたものの、
「…父が、父が死にました。でも、もう我が家には一銭の蓄えもないんです。このままだとお葬式も出せません。」
 と、酷く悲しそうな声で呟く。
 その瞬間、この子を救えないというのは、自分が今までしてきた事を全否定する事の様にさえ思えて、気が付くとその小さな手を取っていた。
「分かった。家に案内してくれ。出来るだけの事はしよう。」
 瞬時、彼女の目が大きく不安と不思議を綯い交ぜにした様な色を放ち、それからゆっくりと閉じられる。
「あなたは、優しい人の様に思えます。この様に私の愚痴を聞いてくださるなんて。」
 ハラハラと落ちる美しい涙が、細い顎を伝いポタポタと零れて土の夜道に丸い跡を残していく。
 彼女の手に引かれてやって来たのは、一部屋しか無い様な壊れかけの長屋で、彼女が自分の扉の前に立つと、待ちかまえていたかのように隣の家の扉が開く。
「菊、どこいってたか。…そちらは?」
 少々つり目の、彼女と同じ東洋系の顔立ちに真っ黒な髪を後ろで一つに結い上げた男が、一度彼女に責める様な口調で尋ねてからルードヴィッヒに目を向けて眉間に皺を寄せる。
「王さん。この人は私を此処まで送って下さったのです。」
 王と呼ばれた男は、彼女が目元を真っ赤に腫らしていた事にようやく気が付いたのか、先程責めた為にかばつが悪そうに「そうか」と呟き自分の家に引っ込んでしまった。
「いまのは?」少しだけ屈んで問いかけると、まだ赤い目で無理に彼女は微笑んだ。
「隣に住んでいらっしゃる中国の方で、王さんとおっしゃいます。いつも世話を焼いて下さる良い方です。」
 
 室内はかび臭く、本当に小さな部屋で家具など殆ど無い。
 そしてその室内の中央に、真っ白な布を被った男とまだ火の付いた2〜3本の線香が立てられたままであった。
 けれど部屋の隅には古そうな書物が積まれ、そこに埃などは積もっている様子も見受けられない。
「どうぞ座っていて下さい。お茶をお出しします。」
 少女がそう言って台所に向かおうとするその細い腕を掴み、自分の右腕に巻かれていた腕時計を外し、握り込ませる。
 驚いて振り返った少女の目が大きくなり、このままでは零れ落ちてしまうのでは、と不安になる程であった。
「この時計を質屋に入れれば、恐らく葬儀代の半分は浮くだろう。」
 バッとコチラを向いた少女の瞳は、不安に陰り眉間には小さな皺が寄っている。
「頂けません」数秒固まっていた少女は、やがてふるふると首を振り手に持っていた時計をコチラにさし返す。
「いや、貰ってくれ。礼はいらない。時計ならいくつか持っているんだ。」
 大事なモノを持つように半開きなままだった少女の手を、グッと上から握りしめてシッカと握らせた。
 それから家に上がらずに踵を返してこの長屋から出ようとすると、少女が慌てて追いかけてきて自分の名を問うので名乗ると、酷く日本訛りで一度繰り返す。
「私の名前は菊です。本田 菊。いつか、いつかお返しは致します。」
 彼女の乾いたはずの瞳が、再び水を孕み揺れ動くのをみつつ、ルードヴィッヒはこの雪の降りそうな空の下を早歩きに抜けていった。
 
 それから菊と名乗った少女には一週間後再び出会った。
 初めて会った場所で、彼女は夜の闇から一人浮き出たように立ちルードヴィッヒがそこを通るのを待っていて、目が合うと嬉しそうにかの日本訛りでルードヴィッヒの名前を呼ぶと笑顔で駆け寄ってくる。
 ルードヴィッヒの時計のお陰で大金が手に入り、どうにか父親の葬式は無事に済まされたという。
 まだお返しは出来ないけれども、少しずつでも何かさせて下さい。と、それから彼女は何かをこしらえてきたり、果物などを持ってきた。
 自分が休みの日には少女と会ったり、また時折少女に家に招かれたりする様になり、次第に二人の仲が近付くのは自然な事であった。
 ある休日、いつもの様に菊の家で二人雑魚寝しながらルードヴィッヒが母国から持ってきた独逸語の本を日本語訳しながら菊に聞かせてやっていた。
それはドイツのおとぎ話の類で酷く幼かったのだが、幼い頃から聞いて育ってきたその話達を、ルードヴィッヒは愛していて、日本に来る事が決まったときに大事な資料と共に鞄に詰め込んだモノだ。
 もうどこもかしこも破れ、文字も滲み、押し絵の印刷も良く見えないまで掠れていたが、亡き母を思い出すその本はルードヴィッヒにとって大切なものであり、何者にも代え難い宝だ。
 この時も二人の子供が森に迷い込み魔女と会う話を、菊は酷く面白がり目をキラキラさせて聞いている。まるで子供だ。
 全て話し終えてパタンと本を閉じると、彼女は少しだけ悲しそうに微笑む。
「でも、魔女も焼かれてしまうなんて、可哀想ですね」
 意外な、それでも彼女らしい感想に、思わずルードヴィッヒは目を丸くさせて彼女の姿をじっと見つめると、菊も少しだけ頭を上げてコチラを見やった。
 黒い瞳がルードヴィッヒの金髪を反射させているかの様に、キラリと光る。
「キス、していいか?」
 静まりかえった室内に、驚く程自身の声が響き、ルードヴィッヒは少しだけ目を見開きながらも菊から視線を離さない。
 小さく、コクリと菊が頷くの見ると、そっとその細い顎を掴むとゆっくりとまずは一度口づけた。
 それからいったん離すと、再度もう一度、先程より深く押し当てると、ルードヴィッヒの鼻に菊自身の甘い香りが擦り、フトルードヴィッヒの意識が遠のく。
 菊の細い肩を押し、その小さく頼りの無い身体を畳みの上に仰向けにさせ、三度目の口付けで微かに開いた菊の口内に舌を押し入れ絡ませる。
 顔に熱が上り、ルードヴィッヒは自分が今まで抱いた女では感じられなかった程の興奮が自身を支配している事に気が付いた。
「…ぁ、イヤッ」 ルードヴィッヒの手が着物の裾から侵入した瞬間、菊の鋭い声が響き、両の細い腕がルードヴィッヒの身体を強く押しのける。
 そしてルードヴィッヒもガバリと菊の上から飛び退いた。
「菊、お前!」
 驚きで思わず声を荒げたルードヴィッヒに、菊の瞳は忽ち涙で潤み頬には朱が混じる。
「…許して、下さい。だますつもりは、なかったのです……」
長い髪を畳みの上に散らし寝ころんだまま、ほろほろと菊の瞳から透明な涙が掠れた言葉と共に遂に溢れだした。
「私の父が病を持つまで、私は学校に通っておりました。
けれども父の肺に病があると分かり父が床に伏した時、叔父がやって来て、私たちの財産を取り上げていったのです。
私は働く事を決意して、学校を辞めました。けれど、どこも父の薬代を賄える働き口はありませんでした。
それで、それで叔父は私に踊り子をやる様に言ったのです。そこは、叔父が経営している男色の売春宿でした。」
 菊は両目をその手で強く押し、止まらない涙を無理に止める様な仕草をする。
「それで、こんな格好をさせられ……私にも、お慕いしていた女性も、おりました、のに…」
 遂にシャクリを上げはじめ、益々彼は自失し語調を強めたが、やがてシャクリに言葉は負け室内には彼の泣き声だけが響く。
 ルードヴィッヒが彼の名を呼ぼうとしたが、それも涙で滲んだ彼の声に遮られる。
「それでも、あなたは…好き、でした。」と。
 
 ルードヴィッヒは彼が泣き止むまでジッと隣に座りひたすらシャクリを聞いていた。
 やがて随分落ち着いた菊は、また小さくしゃべり出す。その目は未だに手に覆われている。
「父が死んだ日、いつもと同じ様に私は踊り、そして客を取りました。その帰りに、あなたに出会ったのです。」
 ようやく手を取ってルードヴィッヒの顔を見上げた菊の顔は、涙に濡れそぼったまま少しばかりだが笑みを浮かべていた。それから囁くように
「今日はもうお帰り下さい。……今まで有り難う御座いました」と言った。
 
 一晩眠ってもルードヴィッヒの混乱は取り除かれる事など無かった。
 それでもいつもと同じ時間に目を覚まし、顔を洗い、髭を剃り金色の髪を後ろになでつけ食事を摂る。
 そして自国から持ってきた種でやっと育った白色のヤグルマソウをポキリと折り、いつもより早い時間に家を出て、通勤と違う雪の降る道を、一歩一歩ゆっくりと意志を固めるかの様に歩く。
 彼と会った時、自分が言うべき事を探るかのように。
 
 
 そして雪が止み春が訪れ、菊が好きだと言った桜の花が国中に咲き乱れ、その散り姿はまるで雪の様だった。暖かい日に散る雪だ。
 菊の父が病だった時に背負った借金は重く、いくら普通に働いているルードヴィッヒですら助ける事の出来ない金額であり、菊もそれ故今の職業を辞めるわけにはいかない。
 だから夜、菊がルードヴィッヒと別れる時に浮かべる笑顔が、ルードヴィッヒにとっては酷く辛かった。
 そうしてやがて夏が来ようとしていた時、ルードヴィッヒの元に一通の母国からの手紙が宛てられた。
 
 ルードヴィッヒが菊の元に来なくなって三日が経とうとした頃、夜中仕事から帰ってきた菊はジッと部屋の中央に敷かれた布団の上で身体を小さくする。
 もしかして自分の元に、もう二度とルードヴィッヒは訪れないのでは?と恐ろしい考えが脳裏を過ぎった瞬間、ガンガンと扉が叩かれた。
「はい」と慌てて立ち上がり扉の前に行くと、懐かしいルードヴィッヒの声がし、嬉々として菊は扉を開ける。
 いつもと同じ様な苦々しい顔をしたルードヴィッヒに、それでも違和感を覚えた菊が、笑顔を消してジッとルードヴィッヒの顔を見上げた。
「どうしたんですか?」
 不安で堪らない、という声色で菊がルードヴィッヒに尋ねても、黙ったままのルードヴィッヒが鞄から一つの厚い封筒を取り出し菊の手に持たせた。
 恐る恐る封筒の中身を覗いた菊の動きがピタリと止まる。
「何ですか…これ。」
 菊が泣き出しそうな、否、怒ったかの様な声で、震えながらその封筒をルードヴィッヒに向ける。
「それだけあれば、多分借金は返せるだろう」
 ルードヴィッヒの淡々とした声に、菊は眉を曲げ八の字を描き、ふるふると首を振った。
「待ってください。何でこんな大金……まさか…」
「退職金だ。国に帰るよう命令が来た。」
 菊は一度、大きく息を吸い込み全身を微かに震わせる。封筒をもった手に力がこもった。
「でも帰ってくる。絶対また日本に来るから。だからその金は受け取ってくれ。頼む……菊」
 諭す様にその肩を掴むと、彼の大きく見開かれた黒くて吸い込まれそうな目と向かい合う。それから小さく菊は呟いた。
「嘘だ」と。「帰ってくるって、一体いつですか?嘘だ。あなたは帰ってくるつもりなんて無いです。だから……こんな…」
 菊は言葉に詰まり、それからわなわなと震えだした手でルードヴィッヒの肩に置かれた手を振り解くと両の手で玄関先に立っていたルードヴィッヒを敷居の外に押しやり、封筒をルードヴィッヒの胸元にバシリと投げつけた。
 それから何かを言いたげに瞳をユラユラと揺らしたが、ただの一言も出てこなかったのか無言のまま扉をバタリと強く閉める。
 ルードヴィッヒはその閉じられた扉に右手でそっと触れるが、向こう側で菊が泣き出すのを聞き、思わず瞼を伏せた。
 
 結局封筒は菊を弟の様に可愛がっていた王に手渡し、何かあったら連絡してくれとあのグリム童話が書かれた本の裏の空所にドイツの自分の住所をしたためたモノも預けて日本を後にした。
 ドイツは何もかもが懐かしく、一仕事終えたルードヴィッヒを周りは酷く褒め賞したが、彼の心にはいつもかの東洋人が付いて離れはしない。
 手紙の一通でも送りたかったが、何と書けばよいのかもはやまるで分からなかった。
 そしてドイツでは何事もなく月日は過ぎていき、新しい仕事も当てられ随分生活に慣れ始めた頃、待ちに待った日本からの手紙が一通、やっと届いた。
 慌てて送り主の名を見ると、それはルードヴィッヒが待ちわびた主では無く、あの隣人の王である。
 手紙の内容を読んだルードヴィッヒは真っ青になり、旅行鞄に身の回りのモノを適当に詰め込み、身支度もそこそこに船に駆け込んだ。
 その時のドイツでの仕事は、当然全てを投げ出して。
 
 東京は季節的に遅め雪が、それでも積もった雪が全ての世界を銀色に塗り替えている。
 真っ黒な世界に、その雪は街灯の光を受けて反射し、それでもまだ満足せずに後から後から降っていた。
 ズボリと、一歩踏み込む度に足は深くはまり、革靴は直ぐに水で濡れ足先は冷えて感覚など無い。それなのに身体は熱を持ち吐く息は白く舞い上がる。
 ほんの少し歩いただけで足が痛み始め、重い荷物で肩の骨が抜けてしまいだったが、決して歩くのは止めない。
 
『8月に菊は少々病で床に伏せ、けれどその時は意識もしっかりしていたが、秋口に気が触れた』
 手紙には、確かにそう、簡潔だが書かれていた。そして……死んだ、と。
 心臓が冷え、景色が一瞬にして遠のくほどの喪失感を、たったその『死』という文字だけで覚えた。
 自分でも信じられない程、自分にとって彼の存在は大きいのにようやく気が付いた。それは、遅すぎたのか。
 
 あの懐かしい長屋の前に、懐かしむ心地など微塵も無く立ち、2,3度昔していた様にノックをするが、返事は無い。
「菊、菊」と何度も名を呼ぶものの、昔の様にそこを笑顔で開けてくれる主は居ない。
 もしかしたら自分が名を呼ぶ声を全て、雪が吸収しているのかもしれない。もしかしたら全て夢なのかもしれない。
 そうであって欲しい。そうであって……身体が絶望と寒さで震えだした頃、ガラリと隣の扉が開けられ、王が顔を出した。
「お前、本当に帰ってきたのか」
 王の表情は、何か同情めいた悲愴な顔で、ルードヴィッヒと目が合った瞬間微かにその黒い瞳が揺れる。
「菊は?」
 必死めいた目でルードヴィッヒが尋ねれば、一瞬だけ身体を硬くしてから王はルードヴィッヒと向き合って言い放つ。
「手紙に書いたとおり、死んだある。」
 王の言葉にルードヴィッヒは軽く頭を振った。後ろになでつけた金髪が少しだけ崩れる。
「嘘を吐いてる。目を見れば、分かる。……あの子はどこに居る。お願いだ、会わせてくれ。」
 数歩で王に詰め寄ると、彼は両手を開いて首を振った。
「お願いある。あの子に、会わないで欲しい。あの子は、それを望んでいない…」
 眉を曲げた王を無視し、その手を払い王の室内に乗り込んで、思わず動きを止めた。
 彼は初めて会った時と同じあの赤い着物を着て、ぼんやりと最後に残していったドイツ語の本を眺めていて、ただ違うのはその身体が一回り痩せて小さくなっていた事。室内は荒れに荒れ、家具は殆どひっくり返り破壊されていたが、彼だけは一つも欠ける事なくそこに居た。
 やがてゆっくりとルードヴィッヒの方に目を向けて、少しだけあの光る黒い瞳を見開く。
「どなたですか?……そんなに汚れてしまって。」
 菊のそのセリフは、ルードヴィッヒの全ての感情を奪うのに十分すぎる程だった。
 雪に足が取られ何度も何度も転んだ所為で黒くなり水分を含んでいたコートと靴を一度見下ろしてから、もう一度菊をみやるが、彼は昔のまま酷く美しい。
 
 
 寝入った菊に布団を掛けると、王はルードヴィッヒの前に銚子を置き酒を勧めた。
「手紙に書いた事は、死んだ事以外本当ある。……暴れ出すと我にも手が付けられない」
 諦めた様な王の微笑に、思わずルードヴィッヒは俯いて歯を強く食いしばると、絞り出すように呟く。
「なぜ、オレを責めない?」 ルードヴィッヒの言葉に、王が少しだけ眉間に皺を寄せると、笑っていた口元を引き締めてルードヴィッヒの顔を見上げる。
「確かに、お前の所為でもある。だけど、結局お前はあの子の恩人でもある。
それに、お前が居なくなってから最初はあの子も塞ぎ込んでいたけど、病気する前に立ち直って我の所に来たある。」
 王の言葉にルードヴィッヒは驚いて目を見開き王の顔をジッと見つめた。
「仕事が欲しい、と。まともな仕事をして何年かかってでもお金を貯め、ドイツに行きたいって言ってたある。
勿論我は喜んで仕事を探してやった。だけど…」
 王の瞳が、不意に鋭さを増す。
「あいつが、菊の叔父がやってきて借金はもう全て払ったのに、まだ利息分を貰って無いって言ってきたある。
あいつは菊を手放したく無かったある。あの子は、人気があったから…それで菊は高熱を出して、やっと床上げが出来たら、ああなっちまってた。」
 王が心底悲しそう表情で声を荒げ、ここに居ないその菊の叔父を罵りやがて泣き出した。
「……店の名前は?」
 ルードヴィッヒの凍て付く様な声色に、王は目を見開きルードヴィッヒの蒼い瞳をジッと見つめてから囁くように店の名を告げる。
 店の名を聞いて直ぐに立ち上がったルードヴィッヒの服の裾を王は慌てて掴み、何しに行くのだと問うてきた。
「……恐らく、お前も一度考えたことだ。」
 まだ黒く汚れたコートに手を通し、呆然としたままの王を残して長屋を後にする。
 雪の降る夜は酷く真っ暗で、何の音も聞こえては来ない。ただ時折屋根から重たい雪が落ちる音だけだ。
 
 初めて菊と会った所の近くに、王の言っていた店があり、中に入り店主を呼ぶように言う。
 毛色も瞳の色も、それから体格までまるで違うルードヴィッヒに驚きながらも、従業員は一人の太った醜い男を連れてきた。
 相手も自分を呼び出した主が外国人だと知ると、あからさまに不安そうな顔をするが、外国人は金がある、というこの国の暗黙の了解にルードヴィッヒを追い返そうとはしない。
「ちょっと話がある。外に。」と流暢な日本で話しかけると、男はひるみながらも暗い夜道に降り立つ。
 しんしんと振り落ちてくる雪に膝まで浸かりながら、ルードヴィッヒは菊の叔父と対面し、この豚の様な男が本当にあの菊と血縁者なのか、それがまず信じられなかった。
 店から幾分かまで離れた所にやってくると、男は不安そうな声をあげ、一体何の用かと尋ねてくる。その身体を、思いっきり蹴り倒した。
 ボスン、とこんな男ですら雪は優しく受け止める。
 男が声を上げようとするのを、でっぷりと突きだした贅肉にドカリと足を落とし阻止した。
 男は潰れた蛙の様な声を上げた。
 ルードヴィッヒはコートの右ポケットを探り、冷たくなった一本のナイフを探り当てて取り出し、ギラリと光る刃をむき出しにさせる。
 男が、引きつった声を上げるのを聞きながら、その刃男の頸動脈に押し当てた。
 ナイフが恐くて抵抗出来ないのか、男は盛大に悲鳴を上げ雪の中でばたつく。醜かった。恐らく、今自身も酷く醜いだろうと、ルードヴィッヒは微かに微笑んだ。自分やこの男が吐き出す息の白さが、菊が吐き出す息と同じなのが許せない。
 ナイフに力を込めて、引こうとした瞬間、頭の中で菊が少しだけ悲しそうに微笑んで
『でも、魔女も焼かれてしまうなんて、可哀想ですね』 といつかのセリフを囁いた。
 何故?自分の頭を支配したのは、その問いかけだけだった。この男を菊は許すというのか。
 それともこの頭を過ぎった菊は、自分の独りよがりの悲しい幻影に過ぎないのか。否、自分はこの男を殺す事になんら抵抗は無い。言い切っても良い。
 けれども、菊の悲しそうな笑顔がルードヴィッヒの脳内に焼き付いて離れはしなかった。
 不意に、菊と再会した時にも流れなかった涙が両の目から、まるで何かが剥がれ落ちる様に零れ、銀色の世界が何重にも重なり揺れる。
 男は声を上げて自分から逃げ去っていくのが分かったが、今はそれ所では無かった。
 菊、と囁いたルードヴィッヒの小さな声を、雪が掻き消し、その上にどんどん降り積もり醜い自分も、この街も隠していく。
 
 ようやっと辿り着いた菊の寝る部屋は酷く暖かく、一度凍て付いたルードヴィッヒの涙を再び溶かし、寝入った菊の横で濡れた身体もそのままに膝を付いてルードヴィッヒは泣き出した。
 王は、恐らくルードヴィッヒを連れ戻す為に外出したのだろう、居なかった。
 ポタポタと泣き声を伴わないその涙に、それでも菊は気が付いたらしく顔をもたげて目を覚ます。
「……どうして泣いていらっしゃるのですか。力が貸せる様ならば、貸しますよ。」
 悲しそうに眉を曲げた彼が、寝ぼけ眼のままそっとルードヴィッヒの頬に手を添えると、ルードヴィッヒは菊を抱き寄せてその右頬に己の左頬を押し当てる。
「暫くでいい、こうさせておいてくれ」
 泣きながら絞り出した声色に、菊が不思議そうに、けれど一度コクリと頷く。
 その温かさを噛みしめながら、ルードヴィッヒはやがてやってくるであろう朝の光を思う。
 幾重にも重なり合った雪は、世界を偽り何事もなかったかの様にキラキラと輝くのだ。それは正しく菊の様だと思った。