ギル菊
 
 今までの人生全てを、一人の人間に賭けた。
 
 生まれた時から、そうしろと言われ、教育し、信念のもとに忠誠を誓っていたのだ。彼女は自分を兄弟のように、道しるべのように思ってくれているのだと、勝手に奢っていた。
 街が戦争で焼かれ、市民が貧困で泣き叫び、最初は気にも止めていなかったくせに、俺は胸が張り裂けそうになって、終に声を上げる。「もう、やめろ」と。
 それが間違いであったと、言いたくは無い。言いたくは無いけれど、声を上げたが為、忠誠を誓っていた人物からあっけなくも裏切られたのだ。
 戦争が全ていけないとは思わなかったし、存分に利用させてもらっていた。幼い弟を守るためだと思えば、地位の確立に使う労力などいとわない。
 しかしもう無理であった。元々不正に溺れる性格ではない。今までしたことが祟ってしまったのかもしれない。
 運からも、自分が率いていた軍隊からも見放されて、利用していた戦争を利用され、今はボロ雑巾のように山に捨てられていた。
 ギルベルトはこの国の将軍だった。頭がきれるため、参謀をやらせても十分やり遂げるし、行動力も良いため重宝されていた。しかしそれも今日までの事だ。
 戦争のどさくさに紛れ、味方からリンチを受け捨てられていた。彼等は、ギルベルトが死んだのだと思い込んでいるのだろう。その中に、ギルベルトを持て余しがちになっていた、忠誠を誓っていた筈の女王陛下も見受けられた。
 悔しさよりも、自嘲が浮かぶ。それは悲しみさえ、絶望さえ滲ませた笑いだ。
 指先は冷たくなり、もう体は動かない。弟であるルートヴィッヒの事を考えるとはらわたが煮えくり返りそうだけど、もう、動けない。
 目が、殴られた際の衝撃か、もう何も見えない。息さえままならない。
 
 もう何も捉えない目から、涙が零れそうだった。
 
 
 
  道しらべ
 
 
 
 乳白色の世界の中、コトコトと鍋の蓋が揺れる音がし、おいしそうな匂いが一杯に自身を包み込んだ。大きく腹が鳴り、腹が減ったのだと覚醒した。
「起きられましたか」
 安堵の色が濃い声色が上から振ってきて、目を開けてそちらを見やる。が、見えるのはやはり乳白色の世界で、それ以外には何も無い。延々と、真っ白な世界。
「良かった。もう起きられないのかと思いましたよ」
 女の声は、ギルベルトに近付く。警戒をしたいのだが、まず何も見えないことに動揺し、上半身を起き上がらせただけで固まる。女は一瞬息を呑み込んでから、そっとギルベルトの腕をとった。
「お口に合うか解りませんが、消化によろしいと思ってスープを作りました」
 そっと渡されたのがお椀であると気が付き、鼻を寄せてその匂いを嗅ぐ。特に変な匂いはしない。否、寧ろおいしそうだ。
 腹が空いたままにガツガツと平らげると、何処にいるのか解らない女にその椀を返した。
 目が見えなくなったことに絶望を少しも感じなかったといえば嘘になるが、どうせ死んでしまうだろうとおもっていたのだから、そこまでショックはなかった。生きていたことの方が驚きであったし、森に倒れている時、もう目は使えないだろうと思っていた。
「ここ、どこだ」
「私のお家ですよ。ずっと森の中だから、きっと誰にもみつかりません」
 その返事に、眉間に皺を寄せ顔を上げると、彼女が笑う声がする。
「とても上等なお洋服を着てらっしゃっていたので、何か事情があるのかと……」
 最後は尻すぼみになり、「ごめんなさい」で締められた。暖炉では炎が爆ぜている音が聞こえ、後はほぼ無音だ。彼女以外、この家には誰もいないのかもしれない。
「いや、お前のいうとおりだ。……ところで名前なんてーんだ?」
「菊、です。あなたは?」
 よく知られている名前であるから一瞬躊躇して名乗ると、彼女は何も言わずに一度自身の名前を繰り返して唱える。それから、恐らくだが、にっこりと微笑んだ。
 
 乳白色の世界でも雨が降る。雨が降ると、土の薫りが咽せかえるように世界を包み、虫が楽しそうに鳴く。また太陽も動くし、星も出る。今まで見過ごしてきたもの全てが、全て詰め込まれているようだった。
 最初は体の傷が治るまで。と言って引き留められていたのだが、その内収穫で男手が必要だろうから、とか、森の中で女一人では危ないからなんて、そんな理由で居続けるようになった。毎回菊にも引き留められるから、出て行くタイミングを失っていく一方だ。
 街の情勢がどうなっているのか解らないが、兎に角一度弟の安否を知りたいのだが、街におりればどうなるか、考えずとも解る。どこかでギルベルトの身分を知っているのか、菊は追求しないながらも、彼を快く置いておいてくれていた。
 目が見えない生活は不自由ではあるが、菊のお陰でどうにかやっていけている。時には悪態をつくほど、お互いの関係は良好だった。お互いの事は詮索しない、という暗黙の了解の内に、やがて春が来る。
 家の裏手では鼻の薫りが一杯に立ち込め、鳴く鳥の声も変わった。
 いつもの家に帰るまでの道のりの途中、不意に彼女が立ち止まる。繋いだ手が動くのを止めたのを不思議に思い、ギルベルトも立ち止まった。どうしたのかと尋ねれば、彼女はポツリと呟く。
「夕日が……赤くて、あなたの目と同じ色」
 ザアッと風が走る音がし、青々とした出たばかりの若葉の匂いがする。風はまだ少々冷たい。
「……俺の目って、まだ赤いのか」
 てっきり濁ってしまっているとばかり思っていたものだから、意外そうに言うと、菊は気に掛けた様子でそれに応える。
「ええ、ルビーのように真っ赤で……綺麗です」
 乳白色の世界に、いつか見たのだろう夕日が甦る。穏やかで、懐かしい橙色は弟と見たのか。ぼんやりとした象徴的世界に、滲んだ黒髪を持つ人影を見た気がする。
「お前は、綺麗なんだろうな」
 考える前に零れた言葉に、自分でも吃驚していると、隣の気配が笑う。
 そして、握って居たギルベルトの手の平を、そっと己の頬にあてがった。初めて触った彼女の頬は、予想に反して微かにデコボコしている。
「私、前の戦火でほっぺた火傷したんです。家も全部燃えてしまって、その上この容姿では……婚約も破談で、兄にここをいただいたのです」
 内の感情は解らないけれど、彼女は微笑む。頬が緩み、笑った気配を手の内に感じる。
 両掌で頬を包み込んで位置を確かめると、身を屈めた。少しばかり狙いがはずれて下唇にキスを送ると、相手がどんな顔をしているか解らないまま、ニッと笑った。
 てっきり怒るのだろうと思っていたのだが、予想外にも彼女は再び笑った。「さぁ御飯にしましょう」と、ギルベルトの腕をとって家の中へと帰って行く。
 菊の住んでいる家は、なんとなく自分の家よりも暖かい気がする。菊の声を聞くと懐かしささえ覚え、指先が触れると離しがたくなくなってしまう。二人で住むようになって、もう大分長い時間が経ってしまっていた。
 
 手探りで探る彼女の肌は滑らかで、今までのどの女より張りを感じた。雰囲気はずっと落ち着いていて、取り乱したりした所を聞いたことも無いから年上だと思っていたけれど、体の感じは若さが見える。
 指先だけでその存在を認識していく過程で、菊は甘く熱い息を腹の底から吐き出した。耳にはいるのと同時に、グツグツと煮えたぎる感情に入れ替わる。
 顔も知らない。声と、性格と、伸ばしたその手の暖かさ程しか知らなかった。じっとりと汗の掻いた首筋を探り唇を寄せると、甘い薫りが鼻孔をつく。腕の内に手の内に、暖かい存在が息づき、乳房に顔を寄せれば彼女の心臓の音がする。
 菊、と名前を呼ぶと、彼女は「はい」と微笑み顔を埋めるギルベルトの髪を手櫛でといた。手探りのせいか、作業はいつもよりも長引き、そして丁寧であったかもしれない。
 いつまでも変わらない色の世界の中、微かな鉄の、血の臭いを感じる。苦しそうな荒い息と、泣き声混じりの喘ぎ声、しがみつく指先が懸命にギルベルトに、離れないようにしがみつく。
 巡るような一夜の中で、一人の女の存在以外全て忘れ去ってしまいそうだった。ただ一つ引っ掛かったのは、置いてきてしまった弟だ。時折ギルベルトの不安を煽るのも、その存在。
 菊と絡めた指先を強め、手の平を一杯合わせて存在を確認しあいながら、互いに不安を払拭させるように求め合う。投げ出された者同士が存在を確認しあう行為だけれども、傷をなめ合うというのには愛しすぎる。
 全てを中に吐き出し何も考えず、抱き合ったまま二人は泥のように眠った。その次の朝は、いつもどおりの様に目を覚まし、いつもの様に食事をし、いつもの様に二人で過ごした。
 そんな日常がぼんやりと滲んで、確実に仲は親密となっていった。まるで夫婦のようだと、ある夜隣から聞こえてくる寝息の音を聞きながら思っていた。
 
 
 
 菊が家にいない時は、薪を拾っている時か、どうしても手に張らない物を街まで買いに行っているときだ。街に降りる時に彼女の兄に会っていて、お金を受け取るらしい。その為ギルベルトは彼女の兄には会ったことがなかったが、話を聞くには優しい人らしい。
 久しぶりに菊が不在のため、ギルベルトは午後の陽気を浴びながら野鳥に餌を撒いていた。菊が用意したパンくずを庭先に撒いているだけなのだが、異様に鳥に好かれる体質らしく、いつもかなりの数が集まる。
 目が見えなくなってから音に敏感になったし、味覚も変わったようにさえ思えた。そして一番驚いたのが、動物がよってくることだ。チイチイと鳴く小鳥が1羽、頭に乗っかってきたのが解った。
 そんなほのぼのと過ごしている中、林が動くのを感じてギルベルトは顔を持ち上げる。
「お、菊、帰ってきたか。なんか今日は遅かったな」
 笑ってそういうのにも関わらず、菊は何も返しては来ない。不思議に思いギルベルトが首を傾げると、ようやく相手は声を出した。
「……本当に眼が」
 悲観に滲んだ声色に、思わずギルベルトは息を呑み込んだ。ここに来て1年が経とうとしていて、もうずっと昔に聞いた声色のように感じる。
「……ルートヴィッヒか?」
 そこの佇んでいるだろう弟に声を掛けると、彼の足音が近寄ってくるのが聞こえる。
「なんでココがわかったんだ?」
「彼女が教えてくれた」
 ギルベルトは聞きたいことが山ほどあったのにも関わらず、ついて出たのはそんな事であった。ルッツが示しただろう場所から、菊がギルベルトの名前を呼んだ。
「帰ろう、兄さん。その眼も治せるかもしれない。それに、陛下も兄さんを捜している。必要としているんだ」
 ルートヴィッヒの言葉にギルベルトが眼を微かに大きくさせた。情報が一切入ってこなかったため、今一体何が起こっているのかは知らない。
「荷物は纏めておきますので、後でとりにいらしてください」
 ギルベルトをおいてとんとんと進む話に、彼は一人でポカンとしていた。そんな彼の横をスルリと抜けかけた気配の腕捉え尋ねると、いつもどおり優しいながら、突き放すような彼女の声がする。
「……あなたの事、存じておりました。けれど、都では皆あなたの事良く言われてなく、ついつい引き留めて参りました。けれど……」
「詳しい過程は後で俺から話そう。……俺は先に馬車の所へ戻っているから、兄さんをよろしく頼む」
「はい」
 力弱く応えた菊は、ルートヴィッヒの足音が遠ざかったのを確認してからおずおずと話を続ける。
「けれど、今はあなたを必要とする方は沢山いらっしゃいます。……弟さんとは、少し前からお話しをしておりました。
 どうしてもあなたには言い出せず……ごめんなさい」
 語尾も、掴んでいる腕も震え始める。すん、と鼻をすする音が聞こえ、一体何をそんなに怖がっていたのか、語気を強めて言うことは出来ない。
「お前も来い」
「何をばかな事を仰っているのです。私がついて行っても、なんにも出来ませんよ。それに、眼が治ったら……」
 額に掛かっていたギルベルトの髪を、菊の細い指先が掻き上げる。そして苦笑をする気配を感じた。
「さようなら、ギルベルトさん。あなたとの暮らし、楽しかったです」
 まるで、もう思い出にしてしまったかの様な口調に、思わずギルベルトは眉間に皺を寄せる。そしてその頬を掴むと、いつかと同じ様に唇を落とす。何度も繰り返したこの行為は、今や失敗することの方が少ない。
 離れた時、子供をあやすような手の平が己の頭をよしよしと撫でるのを感じ、更に不機嫌そうな表情を浮かべた。
「また来る。来るのは俺様の自由だから、文句はねぇだろ。あったとしても、聞かねぇがな」
 片方の口角を上げて笑うと、菊も小さく喉を鳴らして笑った。それが肯定の様で嬉しくて、掴んでいた腕を離す。
 
 窓の外へ身を乗り出すと、そこにいるのだろう彼女に向かい声を上げた。
「いいかお前、家に居ろよ!俺が迎えに来るまで、離れんなよ!」
 その応えに、彼女がどんな顔をしたのか分からない。分からないけれど、直ぐそこに居るという事は、分かる。それなのに菊は、何も言わずにギルベルトを見送った。しかし菊は『どこにも行くところが無い』と言っていたから、あの家から離れる事はないだろう。
「……あいつ、綺麗だろ」
 馬車が動き出して幾分かしてそう呟くと、隣に座っているルートヴィッヒは「ああ」と直ぐに頷いた。
 家に帰ると知り合いが一同に集まっていて、なんだかんだ騒ぎに騒ぎ、眼の診察は結局明日に回されてしまった。久しぶりにビールを飲み、懐かしいベッドで眠る。慣れた床は心地がいいけれど、朝起きて隣に誰もいないのは、どこか足りない。
 瞳は濁っていないから、もしかしたら治療をすれば治るかもしれない、更には精神的な問題かも。と医者に言われ、ギルベルトは納得しきれない様子で唇を尖らせた。
 そして陛下の方は、ギルベルトを討てと唆した人物がそのまま謀反を企てていた事に気が付いたのだという。その上それまでギルベルトが完璧に仕切っていた軍は、今や壊滅状態で困っているのだという。
 一度忠誠を誓った以上、夫婦の様に彼女の人生に命をかけ、添い遂げなければならない。けれど、自身もう一度死んだ身である。森の中に捨てられ、そして違う女性に拾われた。
 陛下の謝罪を聞きながら、心の内は違う声色が重なる。『裏切られた』という思いは、この会合でいともあっさり、なんとも虚しく馬鹿げた悩みだったと思えるほどになった。最後に見た、戦場でコチラを冷たく見やる彼女の視線も、もう思い出しても怒りさえ浮かばない。
 引っかかりが全て抜けきり、眼の治療が始まった。眼がもしもまた見られるようになったのならば、是非戻ってきて欲しいと陛下に言われていたが、その気は毛頭なかった。
 簡単に半年ほどが経った後、朝起きて周りを見渡した時、本当に突然ぼんやりと景色が見え始めた。医者が言っていた『精神的な物』というのは本当だったのか、納得はいかないがルートヴィッヒは感心したように唸っている。
 これでようやく、あの事件以前の暮らしに戻るのだろうと思っていた矢先、今だ己の領土の事ばかり念頭にある陛下に愛想を尽かした東の人間達が国家から離れる事を明言したのだ。
『キク』という名前も、東の人間に付けられる名前だ。だから想像上の彼女は真っ黒の髪をしていた。
 反旗を翻したのは東の帝王である王耀だった。東の人間で構成された部隊を統括していた彼は、ギルベルトのような軍人ではなく、おおむね参謀というところだった。いつも涼しい顔をしているけれど、東の人間に被害が及ぶと静かに激昂する。
 そんな彼が『東の人間はもう手伝わない』と明言したがために、国は彼等を非難した。それほどにまで敏感にならない様立ち回ったつもりだったが、思った以上に確執は強く、やがて身を案じた王耀は姿を消した。
 東の出の人間は、スラムの地域に追いやられた。もとより人から離れてひっそりと生きている彼女には関係の無い事だと思ったけれど、気に掛かった物だからルートヴィッヒを連れて再び彼女の家に訪れる。が、そこにはただ廃墟しか無い。
 てっきり懐かしい家を眼で確かめられると思ったのにも関わらず、家は焼け残った土台しか残っては居ない。名前を呼んで瓦礫を漁ってみても、見えてくるのは焼けこげた家具ばかり。こんな状況になってしまってからあまり時間が経っていないのか、煤がギルベルトの手の平を真っ黒に染めた。
 半分崩壊してしまったベッドは小さく、あの刻を思い出すのにはあまりにも心細い。家具だって何一つ見たわけではないから、懐かしみも悲しみも絶望も、実感を伴ってくる事は無かった。
「……兄さん、帰ろう」
 自失しかけていたギルベルトの意識を拾いあげたのは、ルートヴィッヒの戸惑い勝ちの声だった。
「ああ」
 ボロボロになってしまった手袋を見やりながら、ギルベルトは抜けた声で返す。立ち上がり振り返ると、寝床に帰るのだろう太陽は、真っ赤に色づいていた。