ギル菊
これからの人生全てを、一人の人間に賭けようと思う。
時間というのは残酷だ。これは一体誰の言葉であったのだろうか。顔さえ見たことが無かったからか、それとも多忙な毎日のためか、直ぐに思い出は魚の小骨の様に小さくなった。
思い出すのは夜更けと夜明けと、そして夕日を見たとき。まるで夢の一部の様に、声色と抱いた体温をフッと思い出す。あまりにもリアルなその情景は、恐らく一生涯残るだろう。
王耀が居なくなってから2年半が経過していた。菊の家を出てから3年半、そして彼女を捜し始めて2年だ。もう見つかるという核心は無い。
道しらべ 中
元々東の人間への差別はあった。それに拍車が掛かったと明記する方が正しいのだろう。浪費癖が激しい陛下に辟易していた大衆は、そのストレスのはけ口としてこの反抗者達を扱っていたのは、目に余る事実だった。
忠誠心などとっくになくなっていたけれど、情報が流れてくるという利点で、未だに軍の長を務めていた。両目は完治したわけではなく、まだ霧が掛かったようにどこかぼんやりとしている。よって、もう戦場の前線に立つことはもう不可能だろう。
完全に昇進を絶たれていたというのに、突然貴族の娘との婚約を持ちかけられた。このまま悠々と暮らせる立場が手に入れられるのならば、よく知らない女との結婚もよくあることである。
その噂を早速どこかで聞きつけていたギルベルトの友人は、こぞって彼をからかいに来る。返事はまだしていない、という事で、彼等は口々に適当な事を口にするのだ。
「胸も尻も出ててええやん」
アントーニョは仕事帰りのギルベルトを掴まえると、またしても他人事だからこそ言えることを笑って言った。ギルベルトもそれに応えてケセセセセと笑ってそれに応えた。
「俺はもっと胸がでぇ方が良いぜ」
気質の高い貴族の娘をこうして笑いあいながら、ふと菊が胸を小さいことを気にしていたのを思い出す。指摘するとポコポコ怒ってしばらくギルベルトの言葉に返事もしなかった。
「ギル?」
不意に黙り込んだギルベルトを不思議に思って、アントーニョは彼を見上げ声を掛けた。ハッと自我を取り戻したギルベルトはギョッとしてアントーニョを見やる。
「なんや自分、熱あるんとちゃう?」
訝しそうに尋ねられ、ギルベルトはアントーニョから視線を外した。弟以外とは菊の話をしかたことが無いから、不意の思い出を誰かに語る事は無い。語りたいとも思わない。
黙り込んだギルベルトに、いつも五月蠅い彼らしくないとない、アントーニョは眉間に皺をよせた。しかし無言に耐えられないアントーニョは、唇を尖らせて違う話題を頭の中で思い浮かべる。
「あ、そうやギル。王耀の義妹が見つかったんやって。今地下牢にいれられとるんやって」
そう言い足下を指さすアントーニョを見やり、特に感慨も無く「ふうん」と頷いた。
次の日の夜、業務明け間際にほぼ強制的に牢へと連れて行かれた。どこか饐えた臭いがするのはいつもながら、鉄格子の向こうには部屋の隅で俯せに横たわっている女の姿を見やる。
まるでゴミか何かのように転がされているその姿を見て、ギルベルトは微かに眉間に皺を寄せた。投げ出された腕には痣があり、服は汚れ、所々破けて煤けている。その肌は黄色人種独特の色をしていた。
「えげつ無いわぁ。可哀想や。義妹なら王耀の居場所なんて、知っとる訳ないっちゅうのに、拷問とかされるんやろ」
イーッと唇を伸ばし、心底嫌そうにアントーニョが渋い顔をすると、隣に立っていたアルセーヌも軽く肩を竦めた。
「貴族陣でもアーサーだけが特に反対してんだけどね」
「げ、なんでカークランドやねん」
カークランドという名前を発するだけでも嫌らしいアントーニョは、先程から更に渋い顔をする。
「なんか、元婚約者らしいよ」
思わず苦笑を漏らしてそう言うと、アルセーヌは誰よりも早くに歩き出した。綺麗なものが大好き!と公言する彼は、こんな生臭いところなど当然好きではないのだろう。
アルセーヌの後を追いかけてアントーニョが離れ、最後に残ったギルベルトは彼女を一瞥すると、やっとその場から離れて歩き出す。外では雨がふっているらしく、湿気は更に強くなり、じめじめと気持ちが悪かった。
出入り口で彼等に別れを告げ、待っていた馬車を先に返した。小雨であった雨よけのローブだけを羽織り、なんとなく街を歩きたかったのだ。最近ギルベルトが大好きだった”活気”は見受けられなく、今日の雨のようにじっとりとしていた。
歩き出してまだ1分と経たない内に、小さな影が電灯としたで丸まっているのを見つけ、ギルベルトは歩をとめた。雨だというのにその影……少女は傘もささずに、小動物の様に体を震わせていた。
黒い髪にクリームに卵黄を混ぜたような色の肌は、見まごう事なき東の出である証拠だ。ここは西の人間が多い地域で、東の人間はとっくに逃げ出してしまっている。子供一人が迷い込むような場所ではない。
どうせ誰もが見て見ぬふりをするだろうし、そうなれば一晩と経たない内に少女は死んでしまうだろう。もしかしたら、もっと酷い目に遭うかも知れない。
「おい、ガキんちょ。お前の親はどこだ」
丸まった少女にそう声を掛けると、彼女は丸まったまま、今ギルベルトが出てきた建物を真っ直ぐに指さした。あそこには東の人間など居ない筈だ、と、一瞬ギルベルトは顔を顰めかけてハッとした。
先程床に転がされていた女を思い出す。王耀の妹は、恐らく二度と出てこられないだろう。持って帰ったらルートヴィッヒに怒られるだろうか、と悩み始めると、目の前の少女は不意に顔を持ち上げた。
濡れた頬と瞼を拭い、不思議そうな、訝しそうな様子でギルベルトを下からジッと見上げた。肩口で切り揃われた黒髪、寒さで色を失った、東の人間独特な肌の色。どこからどうみても彼女は東の人間なのだが……
普通の東の人間は黒い髪に黒い瞳……
『夕日が……赤くて、あなたの目と同じ色』
不意に彼女の声色がリアルに耳元に甦った。ルビーのよう、ホオズキのよう、そう言って何度も何度も褒められた真っ赤な瞳が、今一心にギルベルトに向けられていた。
彼女は首を傾げたまま、ギルベルトに向かってゆったりと指を伸ばした。冷え切って真っ赤になっていたその指を、ギルベルトは思わず包み込むように掴んだ。
包み込んだ手の平をそのまま額に寄せると、小さな手の平がよしよしと、懸命にギルベルトの頭を撫でる。
夜は大抵二人しか警備の人間が居ない。ギルベルトは彼等に休みをとるように言うと、先のまま床に肢体を投げ出してグッタリとしている主を見掛け、鉄格子を掴んでその痩せた腕を眉間に皺よせて見やった。
「……よぅ、久しぶりだな、菊」
声を掛けても、彼女はピクリとも反応しなかった。ギルベルトは更に身を乗り出してもう一度彼女の名前を呼んだ。
「外にお前のガキが居た。仕方がねぇから、連れ帰って風呂いれて、飯食わせて寝かせた」
都合良くまだルートヴィッヒが帰ってきていなかったから好き放題出来たけれど、帰ってくれば直ぐに見つけるだろう。今はどうにかギルベルトの部屋に寝かせている。
昔ルートヴィッヒの世話をしていたからか、愚図った少女も上手く宥めてようやく寝かしつけてきた。お陰で今や深夜もいいところだ。
「おい、菊、顔を上げろ」
ガンガン、と拳で鉄格子を打って音を出すけれど、彼女はまるで反応しない。寝てるのか失神しているのか、はたまた……
「菊!顔を上げろ!」
苛立ちと焦燥で声を荒げたギルベルトに、菊はふるふると首を振った。ちゃんと意識は持っているのか、と、意識するよりも早くにギルベルトは息を吐き出す。
投げ出していた腕で体を抱きしめる仕草をするけれど、やはりギルベルトの方は少しも観ない。意図してそうしているのが解り、更に苦々しい表情を浮かべる。
「……あの子を、お願いします」
あまりにも弱々しいその声色は、それでもあの懐かしく胸に迫る声だった。一緒に暮らした一年間は、自分にとってはあまりにも長かったのかもしれない。
あの声が自分を起こし、笑いかけ、名前を呼んでくれたのだ。まわった四つの季節の中、何度その声に名前を呼ばれたか、呼んだだろうか。
「お前が顔を見せたら、考えてやっても良い」
しゃがみ込んでその顔を覗き込もうと首を傾げた。ギルベルトの狡い言い方に、暫く菊は何も言わず、キュッと体を小さくしていた菊は、ゆっくりと上半身を持ち上げる。
黒髪の合間から、真っ黒な大きな瞳が煌々とギルベルトを見やった。小さな、中々作りの良い顔の右頬には火傷の跡が残っている。
「あなたに、こんな汚い姿を見せたくは無かったのですが……」
戸惑った様に瞳は他方に彷徨い、ギルベルトから視線は反らされた。泣き出しそうな表情を浮かべた菊に、ギルベルトはゆったりとその赤い瞳を細める。
「見えねぇよ。眼がわりぃんだよ」
腕を伸ばして来い来いと手招きすると、どうしていいのか分からずに暫く悩んでから、ゆっくりと四つ足のまま近寄ってきた菊の、目に掛かった髪を指先で上げた。
頑なに顔を反らそうとするその顔を、正面に向ける。戸惑いと恐怖に滲んだ黒い眼が、意固地にギルベルトから反らされていた。口の端が切れて、血が滲み、そして青痣が浮かんでいる。
「……マジで汚くなってんな」
ギルベルトの一言に、菊がビクリと肩を震わせて顔を持ち上げると、苦笑した彼と目があった。久しぶりに見た顔に、反らすのも忘れて暫くその表情を見つめてしまう。
と、頬を包んでいたギルベルトは、そのままグイと彼女を自身の方へと引っ張り、そしてそのまま唇をあわせた。鉄格子二本が二人の合間を隔てる為に、その体を掻き抱く事が出来ず、驚いた菊によって直ぐに引き離された。
「なんで直ぐに俺んとこに来なかったんだよ」
菊が口を開くよりも早くにそう問うと、菊は開きかけていた口をキュッと閉じた。
「私はっ……私は、兄様の、王耀の妹です。それに、こんな顔で、どうしてあなたの前に出られるでしょうか」
細い指が自身の顔を包み込み、その顔を隠してしまおうとする。
「家、焼き出されたんだろ?今までどこに居たんだよ。どうやって食ってたんだ」
顔を覆って俯く菊の髪の毛を弄りながら、尋ねるが、菊は意固地に何も答えない。しかし菊は幼子を危険な場所へは連れて行かないだろう事は、ギルベルトも理解していた。責めるつもりはさらさら無いし、問うとすれば純粋に知りたいからだ。
けれども全く答えようとしない菊を見やり、一つあからさまに溜息を吐き出して肩を竦める。
「……まだ迎えにいけねぇから、暫く我慢してろ。ガキもちゃんと預かる」
その言葉に菊はゆったりと顔を持ち上げ、真っ黒な瞳でギルベルトを見やった。ああ、それは想像の中で夕焼けを見ている姿とそっくりそのままであった。
「ガキは両親が居た方が良いだろ」
けせせ、と笑うと、見上げていた菊の黒い眼はウルウルと揺らぎ、ようやく小さく笑った。
「に、にいさん、あれは何だ……!」
家に帰ると、深夜だというのにガタガタ震えたルートヴィッヒがギルベルトを迎えた。ギルベルトが子供を連れ帰ったと、使用人から聞いて確認したのだろう。
「お前の姪っ子だな」
あくまで笑顔を通し抜こうと、ギルベルトは高い笑い声をあげてみせた。けれども勿論ルートヴィッヒはそんなのに誤魔化されるわけはなく、寧ろ眉間の皺をより深くさせる。
「も、もしかしなくても……き、菊、の……」
戦慄くルートヴィッヒに、元気よく「Ja!」と答えると、彼は苦悩に満ちた顔を両掌で包み込んだ。そしてそのまま巨体を縮めこませてしゃがみ込むものだから、ギルベルトは鼻歌を歌いながら横を通り抜ける。
寝室を覗くと、クゥクゥ寝息を立てて彼女は寝入っていた。先程「桜」と名乗っていて、菊に字も教えて貰った。明日は朝一で服を買いに行き、それで旨い飯を一杯食わせてやろう。
ピンクに戻った頬をフニフニといじりながら、こそばゆい気持ち一杯になった。精々2歳数ヶ月程度で、舌もあまり回っていない。さぞや引き離される時に菊は拒んだだろう。
暫くしていまだルートヴィッヒが帰ってきていないことに気が付き、玄関にまで赴くと彼はそこでずっと蹲っていた。屈んでみると、何やらブツブツと言っている。
「ルッツー、お前にはわりぃけどさ、俺は菊と一緒になるぜ」
「……いや、悪い事なんて一つもない。兄さんは兄さんの好きなようにした方が良い。俺は……突然だから吃驚しているだけだ」
こめかみを抑えて唸るルートヴィッヒに、ギルベルトはまた笑った。
「俺もさっき知ったんだ」
菊の処分はカークランドのごねと、ギルベルトが裏からどうにか手を下したため、長引いた。ギルベルトが菊の事を預かり受けるようになってからは、それなり融通も効くようになって、食事や衣服も渡せるようになった。
その間にギルベルトは引退する準備を進め、後任としてルートヴィッヒを推した。それまで同居していたのだが、ギルベルトは他に一軒借りると荷物を簡単にまとめ上げる。
子供服を買い込みすぎたギルベルトは、荷物を詰め込むのに困難を期してルートヴィッヒに怒られた。当の桜は最初ぐずっていたけれど、ギルベルトが子供っぽいからか、直ぐに慣れてしまう。そのため、ギルベルトには心を許してよくじゃれ合った。
子供が二人に増えた……と、更に頭を悩ますルートヴィッヒは、面倒を見なくて済んだ事に少々ホッとしていた。しかし居ないとなると、中々寂しい物だ。
そんなこんなで、計画を実行するまではルートヴィッヒはちょくちょく様子見をしていた。昼間はルートヴィッヒもギルベルトも仕事のため、使用人に桜の相手をして貰い、夜は早めに帰宅した兄貴が子供と遊んだ後片付けをして、食事を摂った。
何も知らない方が良いのだと言う物だから、詳しいところまでは突っ込めていない。ルートヴィッヒが知っているのは、菊は今王耀の義妹として捕まっている、と、その情報だけだった。
その日もいつものように彼の家に行くと、主はどこにも見あたらなかった。どうしたことか、今の時間なら疾うに寝ている筈の桜も、寝室には居ない。
眠たい目を擦り、アントーニョは夜中に訪れた主を見やった。珍しい人物ではなかったけれど、彼が連れている小さな者は随分と珍しく、思わず眠い目もぱっちりと開く。
「よう、アントーニョ。お前ガキ好きだよな?」
小さな少女を連れたギルベルトは、いつもどおりニヨニヨとし、彼女を抱え上げる。
「え?なんやの?そりゃ、好きやけども……」
確かにロヴィーノを育て上げたし、子供も好きだ。好きだけど……一体どうしてそんな子供をギルベルトが連れてくるのか、そこが全く理解出来ない。
ギルベルトが抱き上げている少女は、必死にキュッとギルベルトの衣服を掴み、泣き出しそうな、不安そうな目でアントーニョを見やった。真っ赤なその瞳は、見覚えのある色だ。
「そんじゃ、よろしくな」
無理矢理抱きかかえさせられた少女は、手の平を懸命にギルベルトに伸ばすけれど、彼はそんな少女の頬と指先にキスをしてあやすと、そのまま離れてしまう。
少女は目に一杯の涙を溜めながら、「やだ」と、アントーニョにさえ届くか届かないかの小さな声で、呟いた。泣いてしまうのかと慌てると、まだまだ幼いというのに目に一杯涙を溜めたきり、唇を噛みしめる。
「明日詳しく話すから、取り敢えず預かってくれ。名前は桜だ」
笑う友人に、問い直そうと思った心地が一歩退いた。ギルベルトは最後に少女の額に唇を寄せると、「直ぐ迎えに来るからな」と彼女の頭を撫でる。
ギルベルトが行ってしまった後、アントーニョがどうしたものかと頭を掻きながら部屋に戻ると、起きてきていたロヴィーノがギョッとしてアントーニョの腕のなかのものを見つけた。
「な!なんだよそれ……!ギルベルトが来てたんじゃねーのか?」
吃驚しながら、やはり吃驚している少女を見やり、おそるおそるその顔を覗き込んだ。
「……ギルとおんなじ色の目、だな」
涙が溜まった瞳を覗き込んで、スッとその目を細めた。
固いベッドにはいつまで経っても慣れず、体のあちこちが痛くなって目覚める。何よりも清潔が好きだった菊にとって、不潔な牢獄は正に地獄だったが、最近はギルベルトが物を持ってきてくれるので助かっていた。
「おい、出ろ」
不意に声を掛けられて顔を持ち上げると、目の前に彼がいた。思わず名前を呼びかけて、菊は急いで口を閉じた。ギルベルトの後ろには数人の部下がついていて、冷めた眼でこちらを見やっている。
菊は急かされるままに立ち上がると、彼はその二の腕を掴んで引っ張るように歩き出した。運動不足のために足がもつれ転びかけ、懸命にその歩きについていく。
「……どこへ連れて行かれるのですか?」
恐る恐る尋ねると、赤いビー玉のような目がこちらに向けられる。返事は無く、普段と違う雰囲気に菊は胸の内が寒くなるのを覚えた。
牢を出て、長い廊下を抜け、階段を上る。どこもかしも真っ暗で、冷え冷えとした石の感触が足の裏に直に感じた。
重たい鉄の扉が、幾つもの鍵でよやく開かれる。久しぶりに浴びる太陽の光があまりにも眩しくて明るくて、己の格好が見窄らしいのに気が付いて思わず体を縮めた。
見慣れた看守が数人と、逃げられないと踏んでいるのか、人数は少ない。庭には大きめな馬車が一つ止められていて、しっかりとした扉が付いた四角い箱のようであり、護送用だと分かる。
窓は小さな物が上の方に設置されているぐらいで、扉にも明かり取りの一つもない。薄暗く、椅子は壁にピッタリとくっついているように設置されていた。乗り込んだのは菊とギルベルト、それから二人の若い兵士。
菊の隣にギルベルト、二人の前に若い兵士が座る。馬のいななきを合図に、馬車は多少揺れながら動き出した。どこへ向かっているのか分からない不安が大きく、座っている膝が微かに笑っている。そっとギルベルトを見やっても、彼は少しも菊に視線をやらない。
「なぁ、お前、俺の下で働きはじめてどのぐらいになるんだ?」
「え?あ、2年になります」
目の前の青年にギルベルトが声を掛けると、不意をつかれた男は、驚き顔を持ち上げながらもそう受け答える。ギルベルトは満面の笑みを浮かべると、そうか、と一つ頷いた。
「今日を最後で、全部ルートヴィッヒに任せてきた。これからはルッツを頼む」
動揺する二人に、一瞬間をおいてからギルベルトは顔を扉の方へ向けた。
「なんか変な音がしたな。扉を開けろ」
走行中に扉をあけることなどあまりないし、不審な音もギルベルト以外は聞いていない。不審がりながらも、上司の命令に背くことが出来ないため、男の一人が立ち上がり鍵を開けた。扉を開けると景色が忙しなく動いている。
向かっているのは街中にある裁判所(中には裁判所という名の拷問所も設置されていた)である筈なのに、景色はどんどん林の中に入っていく。不思議に思い男が前のめりに外を覗き込んだ瞬間、ドン、と背中に衝撃を覚え、箱の中から転がり落ちた。
けせせせせ、と高笑いする主を、菊ももう一人の男がギョッとして見やる。と、間髪入れずにもう片方の襟首を掴み、グイと外へ押し出した。不意を突かれ油断していた男は、簡単に芝生の上へと落ちていく。
「わりぃな、人生には選択が必要なんだよ。おし、アントーニョ!計画通りやれよ!」
「はいはい、聞こえとるよー」
馬の方へと声を上げると、間が抜けると表現できるような声色が帰ってくる。手早く扉を閉めると、椅子の下から何やら袋を取り出す。
「ほら、さっさと着替えろよ」
ほぼ無理矢理押しつけられ、呆然とする菊を余所に、ギルベルトは騎士と分かる服装を手早く脱いでいる。ぼんやりとギルベルトを眺めている菊を見つけると、彼は盛大に眉間に皺を寄せた。
「おら、時間ねぇんだから」
「……説明してくれませんか」
菊もしゃがみ込んでギルベルトの顔を覗き込んで、小さく首を傾げた。が、ギルベルトは菊の頭をゴシゴシと擦るように撫でると、にっこりと笑う。
「愛には逃避行がつきもんだろ!」
……楽しんでる。菊は眉根をおろして、仕方なさそうに笑うと、手に持たされていた鞄を開ける。鞄の隙間から絹のドレスが顔を出す。
森の中に馬車を停めると、繋がれていた馬をアントーニョが離す。馬は頭が良いので、大抵の場合家にまで己で帰り着くことが出来る。
菊はベールに化粧を施し顔つきを誤魔化し、ギルベルトは真っ黒なカツラを被る。アントーニョにげらげら笑われながら、市街地を抜け大きな屋敷の前に辿り着いた。
アントーニョの事は、一緒に住んでいるときにギルベルトが楽しそうに話していたことを覚えている。弟と、アントーニョと、あと確か金髪の……
「お、いたいた!こっちだよー」
屋敷の裏手でブンブン手を振っている金髪の青年を見つけ、三人は足早に歩き出す。手を振っていた主は、顎髭を生やした綺麗な顔をした青年である。
「初めまして、菊ちゃん。ここは俺の別荘だから、安心して使ってねー」
手を取って口を付けようとしたところを、ギルベルトによってスネを蹴られ、思わずその手を離す。
「早くしろよ髭」
「そんな事言ってはいけませんよ」なんて後ろでポコポコ怒られているのを聞きながら、取り敢えず客間に案内する。ロヴィーノとの約束の時間までまだまだあるからと、元来綺麗好きだという彼女にお風呂場を貸した。
なんともまぁ、あまりにもギルベルトと正反対な性格をした彼女は、ぺこぺこと、心底申し訳なさそうに風呂場を借りていた。出た後に食べさせてやろうと思っていた茶菓子を用意し、三人で座ってぼんやりとお茶を飲んだ。
「まだなんかしら連絡ないのか?」
「んー……何かあったら一応アーサーから連絡くるようにしたんだけどね」
紅茶の中身をクルクルとかき混ぜながら、アルセーヌも不思議そうに首をかしげてみせた。おそらくは一番にルートヴィッヒの所が忙しくなるのだろうが、アントーニョとアルセーヌにも何かしら連絡が来るはずである。
「げ、またカークランドかよ」
ギルベルトと同様、アントーニョも心底嫌そうな顔を浮かべているのを、アルセーヌが苦笑をしながらみやった。
「しかしアレやな、ギルはもっと阿呆な子が好きやと思っとったわ」
ニヨニヨとアントーニョが笑みを浮かべている中、控えめなノックの音が聞こえる。一瞬三人顔を見合わせると、取り敢えずギルベルトは寝室に続く部屋へ行くように無言でアルセーヌに示唆され、頷く。
「お客様がお見えです」
扉の向こうから現れたのは、アルセーヌの執事である。一旦後ろ手に扉を閉めかけ、瞠目して立ち止まった。
客、は大人しく客間で家の主が来るのを待つのが通説である。が、今回の客にはそれが通じないのだろう。否、もうずっと通じていない。
「おい髭、オレを顎で使うたぁ、良い度胸じゃねぇか」
苛々を翡翠の様な瞳にたっぷり宿し、仁王立ちした客人は、棘のある口調でそう言いアルセーヌを睨む。後ろで待機していたアントーニョが盛大に「げ!カークランドや!」と叫び声を上げた。