ギル菊 ※ ぷにちですー長い長い。ぷにちは大抵英が可哀想で申し訳ない。
 
 
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 翡翠色の目を細めると、彼は大股にずんずんと部屋の中央へと向かって歩く。麦色の金髪が揺れるその後を、慌てた様子のアルセーヌが追いかける。
「ぼっちゃんの登場やな」
 椅子に座ったまま、アントーニョは鼻で微かに笑いを零すと、コチラを睨むアーサーを見返す。そんなアントーニョから不意に視線を外すと、アーサーは部屋の中を一度グルリと見渡し、再度アルセーヌに視線をやる。
「お前等また集まって、何を考えてやがる」
 アルセーヌが詳しい説明をしていなかったためかか、アーサーは心底訝しそうな様子でそう問うと、困ってアルセーヌはアントーニョに目配りをするけれども、アントーニョは唇を尖らせているだけでなんの反応もしない。
 緊迫した雰囲気の中、せめて説明すべきかどうか迷っていると、遠慮がちな扉の音が聞こえた。次いでヒョイと顔を覗かせた人物は、アーサーを一目見やると驚き立ち竦む。音に釣られてそちらに目線をやったアーサーも、同じように目を大きくさせ、立ち竦んだ。
「……カークランド様」
 ポツンと漏れた言葉に、一瞬呆けていたアーサーはハッと我を取り返し、立ち竦んでいた菊に歩み寄る。アルセーヌが用意した白のドレスに、まだ湿り気のある黒い髪が垂れていた。
「……何故ここに居るんだ、菊」
 不思議な会合を目の当たりにして、静かになりかけた部屋の中、アントーニョが椅子を引く音が響く。
「オレらかて可哀想やと思ったから、協力したんや。」
 にっこりと笑うアントーニョと、その姿を睨む様子で一瞥するアーサー。その後ろで冷や汗を流しながら事の顛末を見やるアルセーヌ。菊は三人にオロオロと目線だけをやる。
「しかし無事で良かった……」
 ふ、と息を吐き出すと、向かい合った菊にアーサーは笑顔を向ける。柔らかな様子で瞳が細められた、その懐かしい表情に、菊は思わずホッと息を吐き出した。
 最後に会ったのは、二人の婚約が解消される前だ。菊が捉えられてからは、中々様子が確かめられる時間が無く、対面したのは随分と懐かしい。
「火傷をしたと聞いていたんだが、大したことないみたいだな」
 右頬に掛かった黒髪を指先で持ち上げながら、嬉しそうにアーサーが笑う。その笑みを心底恐ろしそうな様子でアントーニョが見やっていた。鳥肌のたった腕をさすり、身震いしている。
「いいえ、このような姿、恥ずかしいばかりです」
 アーサーから視線を反らしながら、恥ずかしそうに菊は呟いた。荒れた指先を隠す様に、手の平の内へ握りこむ。
「菊、オレは……」
「んだよ、菊。こいつと知り合いなのか?最悪だな」
 いつの間に居たのか、ニョッと菊の背後から顔を出したギルベルトに、お腹に腕を回され頭の上に顎を乗せられる。ギョッとして菊が振り返り、合った赤目を細めて楽しそうに笑った。
 それから顔を持ち上げ、アーサーとギルベルトは互いに視線をあわせ、フト目を細めた。奇妙な沈黙に、大人しく腕に抱かれながら、菊は視線を落として耐えた。そうだろうとは思っていたが、二人は実際やはり知り合いで、しかもこんな雰囲気になるなど、思ってもみなかったのだ。
「あの……アーサー様も尽力してくださったと聞いております」
 沈黙に耐えられず、菊は顔をパッと明るくしてアーサーを見上げかけ、慌てて俯いた。今菊の真上に居る彼等二人に、火傷の跡を見られたくは無かったのだ。が、声を掛けられたアーサーはやや前屈みになり、菊の顔を覗き込んだ。
「いや、貴女が一番大変な時に何もしなかった。それがずっと気懸かりだったんだ。」
 切なげに細められた緑色の瞳を見上げ、菊はフルフルと首を振った。「いいえ、そんな」と伸ばしかけた菊の腕を、ギルベルトが掴む。
「お前を結果的に助けたのはオレだぞ」
 子供のような口調で唇を尖らせるギルベルトを見上げ、菊は若干目を大きくさせた。
「あなたは本当、少しも変わっていませんね。桜の方がよっぽど大人ですよ」
 やはり子供を叱るような口調の菊に、ギルベルトはまるで不良な声色で「あぁん?」と肩を竦める。そんな人相にもまるで動じず、菊はギルベルトの鼻をギュッとつまんだ。
「ちょっと大人しくなさってて下さい」
 珍しく眉間に皺を寄せた菊のその発言に、大人しく周りで見やって居たアルセーヌとアントーニョがブッと吹き出した。
「ところで、なんか用があって来たんやないの?流石に様子見で自分から動かんやろ」
 片肘を付いたまま、実に怠惰的な様子でアントーニョが言う。確認だけであるならば、わざわざアルセーヌの別荘にまで、アーサーが足を運ぶとは到底思えない。
 アントーニョの言葉に、アーサーは顔を上げる。菊に向けていた表情は厳しくなり、緑色の瞳は訝しそうな色を灯す。
「……陛下が、殺された」
 実に冷静に放たれた言葉に、一番に反応したのは菊にピッタリとくっついていたギルベルトだ。ビクリと背を揺らすと、鋭い瞳を更に鋭くさせてアーサーの顔を一心に、睨むように見やっていた。
 アントーニョとアルセーヌはそれなり動揺はしたものの、食って掛かるような事はない。「誰にだ」と、語調を強めたのは寧ろ、陛下への忠誠など無くなったと思っていたギルベルトだ。
「殺されている所を見つけたのは給仕だ。そいつ以外は誰も見ていないんだが、給仕は……王耀と、言っていた。」
「そんな筈は……!」
 今度の言葉に反応したのは菊で、思わずギルベルトの腕を振り解きアーサーのもとに駆け寄る。
「だって兄様は、もう」
 言いかけた言葉を、我に戻り慌てて呑み込み、そのままアーサーから視線をずらして俯いた。かたく下唇を噛みしめると、震えて冷たくなった指先を絡めて少しでも暖をとろうとする。
「分かってる。こちらでもちゃんと調べるつもりだ。兎に角、今はまだ動かない方が良い。見つかったら更に大事になる」
 アーサーは菊の肩に手を置き、そのまま横に抜け、座ったままのアントーニョと突っ立っているアルセーヌ、ギルベルトに目を向けた。
「人員が足りない。まだ出てこられる奴は今すぐ出勤しろ」
 仁王立ちで言い放ち、そのまま踵を返すアーサーの後ろ姿に向かい、アントーニョは心底つまらなさそうに唇を尖らせる。挨拶も無しに出て行った主を、そのまま冷たい視線で送り出す。
「悲しいんか、ギル。こうなるのは、分かっとったんやないんか?オレは、アイツがお前を裏切った時、もう忠誠なんて尽きてしもうたわ」
 鼻先で溜息を吐き出し、アントーニョは椅子を鳴らして立ち上がる。「あー、めんどいわぁ」と呟き、大きく伸びをした。そのアントーニョの後ろにアルセーヌがつくと、ギルベルトと菊を振り返りにっこりと笑う。
「一応俺達は出向くから。夜にロヴィーノが来るから、それまで誰も入れないように言っておくよ。好きに部屋を使いな」
 少々心配そうな表情を浮かべながらも、アルセーヌはそのまま扉を閉めた。遠のく足音を聞き終えたと同時に、ギルベルトは立ち竦んだままの菊の腕を引く。
「……王耀は、どこに居るんだ?」
「それは……」
 赤と黒の瞳が真っ向から絡む。菊は、直ぐには視線を反らさずにジッとギルベルトの目を見返した。
「それは、言えません。でも……でも、兄様はそんな事……」
「何で言えねーんだよ!」
 ギュッと肩を掴まれ、瞬時に菊の顔に恐怖が陰って、そこでやっとギルベルトはハッとして手の力を緩める。が、その時には既に、菊の視線はギルベルトから外れ、他方へ向けられていた。
「兄は……兄はもう、亡命しました……」
 微かに震えたその言葉を聞くと、ギルベルトは掴んでいた肩を離して小声で「わりぃ」と呟いた。その後数秒沈黙が流れた後、ようやく菊が口を開く。
「あの子は、私が勝手に生みたくて生んだのです。だから、あなたが無理に責任をとろうなどと思わないでくださいね。もとより、そんな卑しい希望など持ってはおりませんでした。今まで、私一人でやってきたのです、無理をなさらないで下さいね」
 ゆるゆると笑った口角は、上がりきらず微かに歪む。見上げた黒い瞳が揺れながら、そっとギルベルトを見上げた。
 いつの日か、夕日が綺麗だと言った姿が確かに重なる。見えない目の向こうで見ていた彼女の姿は、一切間違っていなかった。すれ違っても分からないのでは無いかと思ったけれど、傍で笑っていた彼女そのままだ。
 戸惑う間もなく抱き寄せると、やはり一回りも小さくなった体が、腕の中で驚き小さく跳ねた。
「……俺様が待ってろ、って言ったのに、勝手にどっかへ行ってんじゃねぇよ。捜したじゃねーか」
 細い首筋に顔を埋めると、菊はくすぐったそうな、それでもどこか戸惑った笑い声を上げる。笑い声を上げた直ぐ後に、すん、と鼻を鳴らす。
「なんで俺んとこに直ぐに来なかったんだよ。そしたらお互い苦労もなかったのによ」
「あなたに……あなたと、あなたが大切にしていらっしゃる方が嫌な顔をされたらと、怖かったのです」
 たかだか1年間を共に過ごした(それも仕方なく)東の女が、子供一人を連れて突然訪れたら、ギルベルトはまだしも、彼の家族や親戚がいい顔をするはずが無い。所詮は行きずりだったのだと、諦めた方がまだ心地が楽だった。
「ルートヴィッヒはお前に会いたがってたぞ」
 ようやく菊の首筋から顔を持ち上げたギルベルトは、ケセセと豪快に笑って肩を竦めた。
 
 
 
 夜になっても家の主は帰ってこない。街中が騒がしくないところから見ても、陛下が死んだことは未だ伝わっては居ないのだろう。
 これからの事を話し終えた二人は、ソファの上でくっつきながらこれからの話をしていた。そんな中、控えめなノック音が聞こえ、ギルベルトは菊を背後に立ち上がる。
「よう、連れてきたぜ」
 執事に連れられて顔を出したのはロヴィーノで、彼は小さな少女を大事そうに抱えている。対応に出たギルベルトが覗き込むと、安らかそうな寝息を立てていた。
「菊は?」
 ロヴィーノの後ろから突然フェリシアーノが顔をだし、開口一番にその名前を呼び、部屋の中に飛び込む。普段弟と同様に可愛がっているせいか、反応が遅れて滑り込みを許してしまった。
「フェリシアーノくん!」
 驚いた様子の菊を見つけると、そのままハグを受け入れる。ヴェ〜と泣き声を上げながらギュウと抱きしめてくる主の頭をよしよしと撫でた。
「俺すっごい心配したんだよ。だっていつもは月に数回来てくれるのに、ぱったり見えなくなるし……家は焼けちゃってるし……」
「おいおい、ガキより先にマンマに抱き付くなよ、お前は」
 腕の中で寝入っている少女の背中を、それは優しくポンポン叩きながらロヴィーノは眉間に盛大な皺を寄せた。王耀の妹であれば、友人の多い彼等兄弟が知っていても当然だろう。
 後ろで久々の会合を喜ぶフェリシアーノと菊を見やった後、未だ眠る少女を覗き込んだ。暫くの間を開けて、その赤い瞳がゆったりと姿を現す。
「よう、お早う御姫さん」
 嬉しそうに子供をあやすロヴィーノを、ぼんやりとした様子で桜は眺めた後、覗き込んでいたギルベルトにも視線を動かす。そして目を少しだけ大きくさせて、小さな手の平を伸ばす。ギルベルトは素直に抱き上げると、ゆったりと床に足をおろしてやる。
「ほら、お前の母ちゃんが向こうに居るぞ」
 フェリシアーノの相手をしていた菊も気が付き顔を上げると、眉根を下げて柔らかく微笑む。その姿を見つけた瞬間、パッと顔を輝かせた桜は、とてとてと覚束ない足で懸命に駆け出す。
 母様、と小さく呼ぶと、抱き上げられたときにはポロポロと我慢できなかった涙が頬を伝う。抱き上げられてひっついた桜の頬を拭いながら、菊は嬉しそうに柔らかな髪に頬ずりをした。
「フェリシアーノ君達が面倒を見てくださっていらして下さっていたのですね。ありがとうございます」
 桜をあやしながらの言葉に、兄弟は顔を見合わせた。
「ふん、お前なんてどっちかガキだか分かったもんじゃ無かったけどな」
「ええー、兄ちゃんだって振られて泣いてたら、桜ちゃんにお菓子貰ってたじゃんか!」
「ば!あれは元々俺がやったんだからいいんだよ!」
 ギャアギャア言いあいたいだけ言い合うと、フェリシアーノはふと顔を真面目に引き締め、菊へと視線をやった。
「菊、陛下が殺されたし、逃げないとまた捕まっちゃうよ!街の西の関所は俺達の管轄だから、どうにか出来るかも知れない」
 きゅっと菊の手を取るフェリシアーノは、眉間に精一杯皺を寄せる。桜をあやしていた菊は、思慮を含めて微かに俯く。
「しかし、私ばかりそうしていては……」
「でもでも、王耀の義妹なんて、また捕まっちゃうよ!」
 いやだいやだ、と首を振るフェリシアーノの後ろでギルベルトが小さく頷いた。
「フェリちゃん、出来るだけ早く出たいから、色々お願いしちまってもいいか?」
「うん、勿論!」
 フェリシアーノとロヴィーノは力強く頷くと、互いに視線を合わせた。先程まで口争いをしていたのだが、今ははっきり意志を疎通させている。
「でも、きっと関所は強化してるから、俺達だけだと大変かもしれない」
 眉根を下ろして心配そうな表情を浮かべるフェリシアーノに、菊は心配そうな視線を下から向けた。項垂れたフェリシアーノのアホ毛が悲しそうに揺れる。
「そこは多分、大丈夫だ。こっちには濃い奴等が居るからな」
 ニッと笑ったギルベルトは、まるで悪戯小僧そのままだった。
 
 
 
 朝方陛下の死が伝わり、街は騒然となる。陛下を殺したのが東の人間だと知った人々は、それまで以上に厳しい目線を送るようになった。そして当然、王耀の義妹とギルベルトの話題も国民の間に飛び交うようになる。
 ギルベルトに関しては国民間で人気があったので、陛下が彼にした事を所行を知っているため、同情的な事を言う人も居た。が、結局は東の人間の肩を持ったという事で、批判をしている人間の方が遙かに多い。
 午前も過ぎ、そろそろ昼も半ばに差し掛かる刻になっても、街はピリピリとし、人々は目を鋭くさせている。ルートヴィッヒも当然尋問にあっているのだが、軍を動かせる人間が彼しか居ないことと、随分兄と離れて暮らしていた事を知り、すぐに釈放された。
 まだギルベルトが本当に王耀と繋がりがあるのか、それもハッキリとしていなかった。陛下に一度裏切られた事を根に持っているとしても、三年間忠誠をみせて(表向きは)いたのが、良い方向に向けられていたには居たが、突然姿を消したのも真実だ。
 結局今のところは、情に流されたのではないかと言われている。ギルベルトが弟以外に話していなかったため、誰もギルベルトと菊の関係を知らなかった。それ故、知られている二人の関係は、囚人とそれの監視人でしかなかった。
 
 ブランド店を立ち上げているボヌフォア家のクローゼットは、まるで不思議の国の様に入り組んでいた。ドレスの海に、危うく菊は目を回してしまいそうになる。
 ヒラヒラしたドレスは、ずっと昔に着て以来、一度も袖に腕を通しては居ない。憧れはあるものの、どうせ似合いはしないと思い、手に取るのさえおそろしかった。
 
 街中は皆が皆訝しそうな目をして辺りを見回していた。アントーニョとアルセーヌは再び出勤し、ロヴィーノとフェリシアーノも一度家に帰っていた。
 ギルベルトは帽子を更に深く被ると、襟巻きに出来るだけ顔を埋める。体の線が出来るだけ分からない服を、じゃまくさそうな様子でズンズン進んでいた。菊は桜を抱え、街中の視線を振り切って歩く。
「ちょっといいですか?」
 呼び止められて振り返ると、数人の兵士が訝しそうに見やっている。菊は目を微かに細めると「何か」と手短に聞き返した。長かった髪はバッサリと切られ、アルセーヌによって施された化粧で、火傷の跡はすっかり分からなくなっている。
 男物で姿を固めている菊は短髪となって、中性的な容姿となっていた。ただ東の人間であり、その隣を歩くのが黒髪の女性であったから呼び止めたのだ。が、振り返った菊の隣に立って居た女性の肌を見やり「あ」と声を上げた。それは西の人間の肌色だったのだ。
「もう良いですか?」
 焦りからなのだが、冷徹な声色でそう言い放つと、菊はブーツを鳴らして歩き出す。コートを着込んでどうにか体つきを隠しながらも、背の高さは誤魔化せない。ギルベルトは背を丸めて菊の後ろを付いていく。
「くそ、アルセーヌの奴……なんで俺様がこんな格好を……」
 後ろでブツブツ文句を言っているギルベルトに苦笑を送り、関所の近くに立っているフェリシアーノに笑顔を送った。直ぐさま笑顔を返すと、フェリシアーノは関所の人に何やら話しかける。上で見張っている人々はロヴィーノがそうしているのか、視線が一瞬周りからそらされる。
 初めからそれなり話を付けていたのかも知れない。容易に一番の難所である筈の関所を抜けると、直ぐに隣町へと抜けた。農業を主とした田舎町は、急に草の匂いがする。
「お!抜けられたんか!それにしてもえらいべっぴんやな」
 業務を抜け出していたアントーニョは、ギルベルトを一目見るなりゲラゲラと笑い声を上げて腹を抱える。化粧を施した主であるアルセーヌまで笑いを必死で堪えている。
「うるせえ!仕方ないだろ、こうしなきゃなんねーんだからな」
 男物の服が入っている鞄を受け取りながら、いっそ目に涙さえ溜めて咆えたてた。
「取り敢えず化粧落としておいで」
 アルセーヌが指さした先は、小さな宿屋で、既にカリエド家の息が掛かっているので、今日一日は誰一人として居ない。その裏手にある水道に屈み込むと、ギルベルトは濃い口紅を擦るように落とし始める。
 桜はすっかりアントーニョに懐いた物だから、今はこっそり頼んできている。菊もギルベルトの隣にしゃがみ込むと、タオルをそっと手渡した。
「ほら、お前もさっさと化粧落とせ。そんでその服も着替えろ。男と逃避行みたいで、気味わりぃんだよ」
 顔を顰めるギルベルトに向かい、菊はクルクル喉を鳴らして微笑んだ。
「いいえ、私は暫くこの格好で居ます。その方が動きやすいんですもの」
 すっかり化粧を落とし、黒髪のカツラもとり、すっかり服を脱ぎ捨てたギルベルトに男物の服を渡し、立ち上がる。ギルベルトがその動きにあわせ、下から見上げた。
「ギルベルトさん……本当に、いいんですよ?貴方は貴方の思うままに進んでください」
 じっと見つめてくる赤い眼に己の子を重ねつつ、菊は銀髪をそっと撫でた。一緒に暮らしていた時はよくそうやったけれど、なんだかこそばゆい。
「そんなに顔見られんのが嫌なら、俺の目でもなんでも潰せよ」
 ジッと見つめたままギルベルトは目を細め、ぼんやりと言った。ギョッとして菊は見返すと、ギルベルトは「してやったり」という表情を浮かべ、にんまりと笑った。銀髪の髪が、夕日に当たりキラキラと輝くのを見て、懐かしき彼と暮らした日々をありありと思い出す。
「そしたらまた、お前が俺を引っ張るんだろ?」
 伸ばされた手を握り締めると、懐かしい手の大きさに菊はドギマギとした。昔は当たり前の様に繋いでいた手の平が、今はなんだか懐かしさ故に恥ずかしい。ギルベルトは手を繋いだまま立ち上がり、ぐーっと背を伸ばす。
「ちいせぇ手だな」
 握り締め返された手の平を見やり、ギルベルトは感慨深そうに呟いた。
 よくもまぁ、こんな小さい手で子供を生んで、今まで育てたものだ、と。東の人間で、子持ち。それも明らかに西の人間との子供を抱え、仕事さえままならなかっただろう。
「そんなに見ないでください。あかぎれていて、恥ずかしいです」
 引っ込めようとする菊の手を無理矢理掴み、アントーニョ達が待っている場所に向かい歩き出す。二人を見つけた桜が嬉しそうな表情を浮かべ、走り寄ってくる。それをそのままギルベルトが抱き上げた。
「でも、寂しゅうなるなぁ、ギルが行ってまうなんて」
 泣き笑いながらわざとらしくハンカチを振るアントーニョを睨み付け、ギルベルトは盛大に顔を顰めた。
「しかし行くあてあるのか?」
「ええ、兄様が会いに来いと仰って下さっているので、顔を出そうかと思っております」
 穏やかに笑う菊に、二人は頷いた。昨日ギルベルトと話し合った時、この話をして既に納得してもらっているけれど、それでもどこか嫌そうな表情を浮かべていた。
「じゃあな、精々馬鹿になって暮らしてろ」
「さようなら、ありがとうございました」
 ペコリと盛大にお辞儀する菊と対照的に、ギルベルトは仁王立ちのまま片手を上げた。これから列車に乗らなければならないのだから、グズグズしている暇はないけれど、そんな言い方は駄目ですと、菊は頬を膨らませた。
「ほななぁ、桜ちゃん。いつかお兄さんトコにお嫁においでなぁー」
 大きく手を振るアントーニョに「誰がやるか」と悪態を吐き、ギルベルトは都市部に出るため足を速めた。それに反して急に菊は足を止めるものだから、文句を言うつもりでギルベルトは振り返る。
 けれど菊は嬉しそうに笑い、ギルベルトの手の平を握り返す。
「夕日が真っ赤で、あなたの瞳と同じ色ですね」
 ありありと甦る記憶の端を手の平に握り締め、そして片腕に抱き上げたまま、菊を引っ張り歩かせる。
「夕日なんか眺めなくても、今は四つもあるじゃねぇか。な、桜」
 抱き上げていた主を見やると、既にうつらうつらと眠たそうな瞳をギルベルトに返した。そしてふにゃりと笑うその表情は、菊と瓜二つだ。
「ああ、綺麗ですね」
 スッと寄り掛かるその気配を覚えながら、ギルベルトは横にある夕日を見やった。思い出の中でも、きっと変わらずこの色を宿していたのだろう。
「そうだな、綺麗だな」
 小さな手の平を握る手に力を込め、ここに居るだろう事を体温を通して知る。綺麗だ、綺麗なんだろうな。と、昔呟いたその言葉を心の中で繰り返した。