ストリップー  お前の背中に怪我の痕あったよな。不意に背後から声をかけられ振り向けば、こちらを熱心に見やる緋色の瞳と視線が真っすぐにあった。不吉なものは人を寄せ付け、離さないカリスマ性があるのだと、ギルベルトの顔を見ながら心の底で感じる。
 それは義理の兄が昔、菊の背中の傷を見ながら言った言葉だ。燃えさかる炎にも似たかの痕は、不吉と例えるにはあまりにも当てはまり、菊にとっては有難過ぎるほどに自身を定めた言葉だった。
 自身の精神だとか、心だとか、そんなものがどれ程大きく存在したところで、目に見え触れられるものばかりを愛するこの世界の人間たちには無意味である。両手を広げて脚光を浴びながら、他の誰も持ち合わせていない、世界でひとつっきりの背中に刻まれた生を示すだけでずっと遠くに行ける気がした。
「見たい。傷跡、見せろよ」
 この傷を負った時は、コンクリートの道路と破損し鉄塊となった車にはさまれ、菊以外は誰も残っていなかった。
「いいですよ。あなたの目の色と同じぐらい、不吉ですけどね」
 ピクリとギルベルトの眉が動くけれど、彼もさほど動揺はしていない。台所で手を拭うと近づき、眉上程に親指が置かれるように掌をあて、上から覗き込む。先ほどまで水を扱っていた手はさぞや冷たかっただろうが、彼は何も言わずに菊の瞳の奥を見やる。
「なんならストリップしましょうか」
「いや、いらねぇよ」
 にっこり笑って手を離すと、ギルベルトの隣に座りなおし、するすると着ていたハイネックを脱ぎ去る。舞台ではなく白々しいほどの蛍光灯にあてられると、体はより貧相にみすぼらしく、そして普遍のものである気がした。
 背中を見せて座ると、彼の顔が近付く気配を感じ、微かに背が反らされる。指先が背中を撫ぜ、ゆったりと首筋へと向かっていく。
 幾人かの女性と付き合ったことがある。背中の傷を見せると彼女たちは驚き、しかし直ぐになんでもない振りをしてみせた。誰もその傷を褒めることなど当然せず、できものにでも触れるように無かったことのようにする。それが不快だったわけではなく、ただ違和感を覚えた。
「いま誰かきたら、ぜってぇ怪しまれるな」
 小さく喉を鳴らして笑う声を聞き、振り返って下からジッと彼の瞳を見上げる。寝不足に多少充血しているけれど、くり抜いてネックレスにしてしまいたいほど、チラチラと光を集めるそれは美しかった。
「……部屋行こうぜ」
「まだ見たいんですか」
 立ちあがって腕を引っ張られ、ため息混じりに言うと彼は表情を変えることなく頷く。
 初めて入ったギルベルトの部屋は簡素を極めたような様相だった。無駄なもの……それどころか私物も殆どなく、夜に働く者たちにとっては大事なカーテンさえ、薄くそして汚れている。彼がお金に困っているのが容易に解った。
 カーテンの向こうにあるだろう真っ暗の世界すら透かす部屋は、唯一の肉親である弟とも離れて暮らす若者の孤独を映し出しているようだ。
「わりぃな、この部屋椅子ねぇんだ。だからその辺に……」
 不意に言葉をとぎり、菊を振り返った目が徐々に大きくなっていく。後ろで扉が閉じる音を聞きながら、魚のようにパクパクと数度口を動かすだけのギルベルトを見上げる。
「え……え、なんでお前泣いてんだよっ」
 ギョッと目をむき、慌てて近場にあったタオルを手にとって菊の顔を拭う。
「さぁ、なぜでしょう」
 受け取ったタオルで頬を拭いながら、自分自身でも問いかける。全て拭ってギルベルトへ返し、真っすぐベッドに腰掛けた。
「お前も泣いたりするんだな」
「……あまりないです」
 ギルベルトが隣に座ると、ベッドは更に悲鳴を上げる。
 オーナーや「お前」といつもは呼ばれるのに、珍しく名前を呼ばれて顔を上げる。自身より5近く若い青年が、興奮を隠しきれずに頬をいくらか色づけていた。それをどこか冷静に見ながら、噛みつくようなキスを受ける。
 
 予備知識も道具もない同性同士の性交は、性交と名付けられるものとは程遠いものだった。ただ、いつも舞台で見ているしっかりとした体に興奮した自身は、元からそっちの気があったのかと、やはり冷静に思いながら煙草に火をつける。
 独特な疲れを覚え、朝日を背中に浴び、椅子に座ったまま暫く煙草を吹かしていた。暫くして布が擦れる音がし、目線を真っすぐ向けられているのを感じ、まんじりともせずそのままメンソールの匂いが強い煙草を吸い続ける。
 勿論二人は恋人に。なんてことは無く、言葉による約束も甘い言葉なんてものも無い(あったらあったで気持ちが悪い)。ただあからさまにくっついたり、帰り車を出していた菊が突然ギルベルトのバイクの後ろに乗るようになれば気がつかないわけがない。
 しかしアパートも歓楽街の界隈に建てられているため、さほど珍しいことでもなく、住人達は特に気にしていないようだ。ただ、ストリップ劇場でウェイターのフェリシアーノが「働きたいという友人を連れてきた」と連れてきた金髪の青年を即決採用にしてしまい、その後引っ越しの段になってようやくギルベルトの弟だと気が付き二人して青くなった。
 実兄がストリップ劇場のNO1だなんて勿論知らなかったルートヴィッヒは、話し合いだとギルベルトと暫く部屋にこもり、出てきたころには流石に戸惑いを隠せてはいなかった。
「大丈夫なんですか?」
「だいじょーぶだ。お前との関係も説明しといたし」
 いつも通り肩に回された腕を見やりながら、ぼんやりと「まだ続けるのか」と、考えてからどこかで安堵する自分に驚く。
 元々『兄のために金を稼ぎたい』と言っていたルートヴィッヒは、ふっきれたように劇場で働き、かなり無理をしていたギルベルトも「試験に落ちなきゃいーが」と苦々しい顔をしながらも働くのを認めた。
 ルートヴィヒ初めての舞台を終えた後、徐々に埋まっていくアパートの部屋に満足さえ覚え、静まり返った朝方の大部屋の台所でみんなが喜ぶようなレシピを広げる。ここに住み、菊の劇場で働くような子たちは大抵訳ありで、菊と同様肉親がいない子も大勢いた。
 まるでアリの巣のようだと感じた。一人ひとりに大きく長い物語がつき、別れと出会いを繰り返し、時には物理的に精神的に深い傷を負いながら、それでも人肌を求めてもがく。しかし全員、出会ったときから誰しもが別れなければならないことを知っているため、深入りすることを嫌う。
「菊、もう寝ろよ」
 目の下に濃い隈を作ってギルベルトが顔を出すのを笑って出迎え、出来たてのパンケーキを勧めるが首を横に振る。昼ごろに誰かが腹をすかせた時に食べられるよう、少し冷ましてからサランラップにくるんで冷凍庫に詰め込む。
 エプロンを解き自室へ向かうと、当然のようにギルベルトも後についてくる。扉を開けていつも通りジッポに火を灯したところで、上から手が伸びてきた。
「お前さ、少し煙草減らせよ」
 懐から取り出した煙草を奪うと、柔和な黒い瞳が好戦的に光る。だが一年も一緒に過ごしてるとなれば、彼の怒りの度合いなど手に取るように解り、直ぐにギルベルトは手が届かないような場所へ煙草を投げやった。
「あなたに言われる筋合いはありませんよ。煙草ぐらい吸わせてください」
「これが原因で体壊したらどうすんだよ。残される奴のこととかちょっとは考えろ」
 生真面目兄弟らしい口ぶりに肩を竦め、意地悪く笑いながら布団へ潜り込む。
「なんですか、あなた。私が死ぬ時傍にでもいるつもりで?」
 菊のセリフが終わるか終らないかで、ギルベルトの顔が歪むのが解り、浮かべていた挑発的な笑みを消す。てっきり怒りだすと思っていた彼は黙り込み、同じベッドへと入ってくる。低体温症の菊とは違い、少し触れるだけで暖かくなるほどの高い体温が心地よく、目をつむる直ぐに眠りが訪れた。
 次の日急に煙草を吸い始めたのを見て問いかけると、「菊がうまそうに吸うから」とだけ答えた。相変わらず解りやすい人だと、同じ種類の煙草を吸う横顔を見ながら、ぼんやりと思う。
 
 
 別れを告げられてから、毎晩のようにやってきていたギルベルトの足があからさまに遠のいた。そんな事をせずともいいのにと、その若さに苦々しい思いを抱きながら、冷蔵庫に作り置きの料理がどんどん増えていく。
 閉店とバイルシュミット兄弟との別れのためのパーティーは、店のほぼ全員が集まった。菊が作った料理を大量にテーブルに並べ、近場のスーパーで買ってきたアルコール類も並べる。
 贈り物として用意していたものを渡すと、ルートヴィッヒは全員分にお菓子を持ってきていたが、当然ギルベルトは何も用意していなかった。仕方なく手持ちのものを適当に配り、菊には吸いかけの煙草を押しつけた。
 バイルシュミット兄弟を送り出した帰り道、忘れ物があるといって劇場へ立ち寄った。殆ど物の無い劇場の中は閑散としており、つい先日まで熱気で満ち溢れていたとは思えない。
 ライトを一つ付けて舞台へあがると、既にうっすらと埃が重なり、菊の磨き上げた黒い革の靴を汚した。頭上で爛々と輝くライトに背を向けゆったりと両腕を開くと、耳の奥で拍手と喝采を浴びながら、客席からこちらを見つめる赤紫の瞳を感じる。
 自身の精神だとか、心だとか、そんなものがどれ程大きく存在したところで、目に見え触れられるものばかりを愛するこの世界の人間たちには無意味である。そして、確信的な生を持ち合わせない者たちにとっては、肉体こそが全てだった。大袈裟な精神論を朗々と述べられたところで、自分を生かしてなどくれない。
「ずるいひと」
 振り返ってあるのはただガランとした空間。一瞬の間も与えず消えてしまった恋人は、恐らく菊の応えを聞くのが恐かったのだ。行く末の無い未来も、恐ろしかったに違いない。
 しゃがみこんでギルベルトから貰った煙草に火をつけると、深くまで吸いこんでゆったりと吐き出した。
 
 
 ギルベルトが熱を出した時は、アパートの住人が同じ目にあったときと同様、菊が彼の看病をした。ルートヴィッヒも残りたいといったのだが、人気者を両方とってしまうわけにはいかない。
 そろそろみんなが帰ってくるだろうと、時計を見上げたのと同時に彼がかすれた声で菊を呼んだ。緋色の瞳は熱で潤み、菊を見上げるその視線はいつもよりずっと熱心である。
 伸びてきた掌は頬にあてられ、いつも熱いのに更にほてって、冬場には心地が良い。上から菊の手を当てながら、ギルベルトの額に浮かんでいる汗をぬぐい、氷枕を確認する。
「何か食べますか?お粥を作ってあげましたよ」
 問いかけると、彼はすこしばかり考えてから小さく首を横に振る。何かを喋っているがかすれていて聞き取りにくく、身をかがめその声を拾い上げていく。
「……お前が死ぬ時、傍にいてやるよ」
 一生懸命紡いでいたのはそんな言葉かと、思わず苦笑を洩らす。
「私は独りで死ぬ方が性に合ってるんです」
 菊の軽口に彼は潤んだ目を益々大きくさせる。まるで、母親のちょっとした意地悪に傷つく子供のようで、菊も思わず笑顔を打ち消す。
「愛してる、菊」
 初めての愛の言葉は、熱に浮かされて心もとなかったのか、突然に飛び出した。恐らく、明日になって熱が下がっていれば彼はすっかり忘れてしまうだろう。
「私もですよ」
 慈しみ額を撫でれば、彼はようやく宝石の目を閉じた。頬に触れている掌は熱く、燃えているようだ。