※日日♀です。注意。姉弟です。
『あなた様へ』
二人は列車の中、固く手を繋いで窓の向こうの、そのさい果てを見つめていた。あまりにも濃い夜の闇を縫って進む列車は、時折街の光が差し込むだけで、あとはずっと灰色だ。
二人の前につるされた裸電球は前後に大きく揺らぎ、まるで何度も夜明けと夜更けを繰り返しているようだと、握る手に力を込めて菊は思った。
戦火はもうすぐそこまで来ているというのに、あまりにも世界は寂謬としていて、今の情勢が嘘のようである。このままどこにも止まらなければいいのにと、二人は同時に思う。
「なにゆえ、私は女なのでしょうか」
ポツリ、と滴のように洩らした言葉に、菊は顔を持ち上げて隣に座る女性を見やった。同じ顔の造りをしているけれど、菊より幾分も柔らかな線を持っている。
「私は、貴女が待っていて下さるから、行くのです。」
はっきりと述べられた言葉に、女も菊を見やった。列車の中には戦地に赴く人々が居るものの、誰も彼も己の中に入り込み、固く口を閉ざしている。
「菊さん、これを」
懐から桜が取り出したのは、着物の欠片から作り出された、一枚の手拭いだった。見覚えのある柄に思わずハッとするけれど、菊は笑みを浮かべて受け取る。
「どうぞ、それで貴方の汗を、血を、涙を拭いてください。私達は二人で一人でしょう?貴方の悲しみ苦しみ、全て受け止めさせて下さいな」
確かな笑みをもって、桜は力強くそう言った。菊は眉間にしわを寄せ、眉根を下げて、いっそ泣き出しそうな表情を浮かべる。そして手拭いに唇を寄せた。
「ああ、桜さん!私は勝ちたいのでは無いのです。貴女を守りたいのです。野蛮な欧州に、貴女を踏み荒らされたくないのです……!」
激白という程、それは腹の底からの言葉であったが、あまりにも静かだった。二人はいつもそうである。布団の中で抱き合っている時も、怒りをぶつける時も、本心を伝達するときは、いつも静かに、厳かに執り行われる。
しかし、今日程静かな咆哮は聞いたことが無いと、菊の手のひらを握りしめながら桜は思った。
「菊さん。女は、大切の人を守る権利さえ無いのですか。そんなの、嫌です」
列車は不意にスピードを落とす。桜の静かな嘆きをかき消し、別れの刻は無惨にも訪れた。
『
姉上へ
謹啓 その後、お加減はいかがでしょうか、ご案じ申し上げております。日本はさぞお寒いと思われますので、どうか暖かくして下さい。
私はお陰様で無事に過ごしております。私は貴女様に沢山手紙を送りましたが、届いていらっしゃるか、不安に想っております。
どうぞ、返事を下さい。
去ることながら十日、不吉な事を耳にしました。我が愛しい国土が、無惨にも焼かれたとの事。
貴女は私におっしゃって下さいましたね。私達は、二人で一人だと。しかし私の身体には醜い弾跡はあれど、どこにも火傷が在りません。
手紙でしか本心を言えない私を、どうか責めないでください。私は、一刻も早く貴女のもとに還りたい。
また二人で桜を、稲穂を、紅葉や梅を眺めましょう。四季を喜び、共に歳をとれることを、心から慕いましょう。
我が姉、我が半身。どうか、どうか再び会いしとき、貴女が笑顔でありますように。そして私を、笑顔で迎えいれて下さるのを何より楽しみにしております。
それでは、もうすぐ夜が明けますので、失礼します。貴女のご健勝を心から祈り申し上げている愚弟より。
謹白』
敗戦が決まったという報せを、菊は戦地で聞いた。身体は既にボロボロで、立っている事さえままならない。しかし、いまだ消滅はまぬがれている。
幾人の兵士と共に、治療のためその地に暫く留まっている時分、再び、不吉な事を耳にする。それは、対戦国が凄まじい威力の新兵器を国土に落とした、というもねだ。あっという間に国民は消し飛ばされ、国土は地形を変えた。
確かに、その時深い深い悲しみに襲われたものの、菊の身体には全く異変は無かった。小さな火傷の一つさえ、つかなかったのだ。
嗚呼、桜さん!叫び声はやはり静かであったが、そこに居た人全てを黙らせる悲痛さが籠められていた。国の悲嘆は、彼を少なからず思う人々の心に差し込み、悲哀を覚えさせる。
御国。菊の隣で囁くように呼んだ男の手のなかには、桜が作った手拭いが握られている。ここに居る全ての男が、残してきた大切な人を、その腕のなかに、胸に抱いていた。
彼等だけではなく、望郷の念にかられながら悲願報わず死んでいった全ての人々は、いつも愛すべき人を抱いていた。だからこそ、尚深く菊の哀しみが胸に刺さったのかもしれない。
ジーワジーワとひっきりなしに泣き叫ぶ蝉の声を聞きながら、菊は懐かしい扉の前に立っていた。傷が癒えるには長い時間がかかり、今も尚長時間歩くのは辛い。
いつもなら数度のノックで開く扉は、何度叩いても開かない。遂に扉に手をかければ、容易に開いた。
「桜さん、帰って参りました。菊です」
足早に廊下を抜ける。台所、風呂場、客間を覗いても、探している主は見つからない。そして最後の寝室の襖の前で、初めてためらった。
一段暗い部屋の前、蝉の声や太陽の光さえ遠退いているかのように感じる。夏の一幕だというのに指先は凍え、心臓が異様にゆっくりと鳴り、今にも心臓が止まりそうだった。
本当は、彼女がどうなったかなど、承知していた。彼女が言ったように、二人は一人であった。だからこそ、菊は現実を見ることをためらっている。
そうしてようやく、スルリと襖は開かれた。
菊の悲痛な想いは、国中を一瞬黙らせた。腹を空かせ、身体中、心にまで傷をつけた人々は、得てして同一の哀しみに染め上げられ、天を仰いだ。菊の想いは、今や国民の想いと同調され、蝉の泣き声のように夏の近い空から降り注がれた。
「……桜さん、姉さん!何故です、どうしてこの菊にも苦しみを分けて下さらないのですか」
菊の前の人物は、全身といっても過言でないほど至るところに包帯を巻き、両目もまた隠されている。長く艶を持った黒髪は、今や短く切られ、無造作に散らばっていた。目が痛くなるほど白い世界に、黒髪が縺れ零れている。
見ただけでは、それが本当に姉かさえ分からない。しかし、菊には肉体が無くても彼女と分かる自信があった。
傷つき回復しきらない傷口の腐臭が、うすら寒く暗い部屋に漂う。戦場で何度も何度も嗅いだ死の匂いだと、桜の傍らに蹲り、両手に額を押しつけて冷静に思う。
彼女も、戦っていたのだ。『二人で一人』と言った言葉の通り、彼女も戦っていた。守る、そう言ったけれど、結局は彼女を守るのと同時に、これほどまでに守られていたのだ。
「……菊さん、帰っていらしたのですね」
ヒュウヒュウと、風が通り抜ける様に彼女が囁いた。蹲っていた菊は、勢い良く顔を持ち上げ、眉根を下げて桜を覗き込んだ。
「ええ、只今戻りました。これからは、菊がお世話申し上げます」
辛うじて包帯の巻かれていない右手を掬い上げると、無理に笑って言った。まるで母親に縋り付く幼児のようだと、頭の隅で思う。
「ああ、大層恐ろしい目に遇ったでしょうね。怪我はあるのですか?」
身体中が傷だらけでありながら、菊は声を詰め、桜の右手に縋り「いいえ」と囁く。と、「そう」と、笑いと安堵を含んだ、懐かしいながらも寂しげな声が聞こえる。
「……これからは、傍らにて貴女を護りましょう」
吐露された言葉に、桜はゆるゆると頷く。それきり、日が落ちるまで菊は彼女の手の平を離さなかった。