ひまわり
※ オランダさんは『ヴィンセント』でいきます。
初めて会った時は雨が降っていた。そして別れる時もやはり雨で、ずっしりと重い灰色の曇天からザラザラと冬口の冷たい雨が二人の体をぬらしていた。
雨に濡れた煙草からは煙は出ておらず、雨に濡れた黒髪はいつもよりもずっと重く見える。暫く無言が続く中、不意に男は口を開く。摘まんだ煙草を地面に投げ捨てると、火種も無いが靴底ですり潰す。
「……丁度、お前の暗い顔を見るのも、もう飽きたところじゃ」
街に人はおらず、ザアザアという雨音ばかりが鼓膜に張り付く。灯った街頭もその役割を果たさない程に闇は厚く、男からは俯いた女の顔を覗く事は出来なかった。ただ暗い影を落とし、無表情を浮かべているのだろうとしか、解らない。
もう一つ何かを言おうとしたけれど、言葉は何も出てこない。お互い無口な質だったから、それほど多くの会話を交わしていなかった。どれほどまで彼女が自分の感情を解し、自分がどれほど彼女を解したのかは解らない。
男は女を「菊」と呼び、愛した。菊はこんな雨の、別れの日も舞台に立つのだろう。一晩だけの快楽を求めてやって来た、安酒で酔っぱらって過去を夢見るだけの男達へ笑顔を浮かべ、ただ自身の安楽を夢見て肌を晒し気休め程度の金を手にするのだ。
「さようなら、ヴィンセントさん」
菊から零れた声色は予想以上に明るく、ヴィンセントを見上げた表情も満面の笑みだった。しかし雨が降っているため、頬を伝うものがなんであるのかは、解らなかった。
『クリュティエの視線 ・ 前』
都会の端っこ、コンクリートで造られた建造物はどれもこれもガタがきており、剥き出しのパイプは錆びてひび割れている。小雨は霧状で、しかし確実に浸透してくる。着こんだコートもマフラーも、全てがぐっしょりと濡れヴィンセントは立ちあがることも出来ずに空を見上げていた。
灰色一色だった空が不意に青くなったかと思うと、冷たい雨が不意に止む。空では無くそれが傘だと気がついたのは、覗きこんだ女性と目が合ったからだ。心配そうな様子で覗きこむと、鞄からハンカチを取り出してヴィンセントの頬をそっと拭いた。
いつの間に意識が途切れたのかも気がつかず、暖かな布団の中で目を覚ました。時計の音がいやに耳につく中起き上がりかけて、腹部に強烈な痛みが走って再び布団の中へと戻った。
天井は染みだらけで、部屋は布団一つで一杯になってしまう程に狭い。家具はほとんど無く、他に部屋があるようすも無い。コンロ一つが設置されているだけで、風呂もトイレも見当たらず、相当貧しい暮らしをしているのが解る。
夜であるらしく、カーテンの隙間から洩れて来る月光ばかりが頼りだ。ようやく慣れて来た目で主を探すけれど、寒くて寂しいばかりで人影は一つも見当たらない。
刺された腹部は探るとしっかりと包帯が巻かれ、縫合されているらしい。布団の脇には薬の入った袋や水差しなどが置かれ、誰かが自分を看病してくれていたのが解る。暫く部屋の中を眺めていると、不意に玄関から音が鳴った。
闇に溶け込むような黒い髪に地味な服、そして少々痩せすぎている程に細い体が姿を現す。両手に持った荷物を置くと、彼女は大きなため息を一つ吐き出してから電灯へと手を伸ばす。
パチン。弾けるような音が鳴って部屋が一気に明るくなると、思わず顔を顰めて何度も瞬きを繰り返す。痩せた顔で覗きこむ女とバッチリ目が合い、驚きに黒い瞳をまん丸にして女は小さく体を跳ねさせた。
「お、起きたのですね……具合は如何ですか?」
床に膝を付けて顔を覗きこむと、恐々した手つきでヴィンセントの額に触れる。女の掌は荒れており、女の柔肌に慣れていたヴィンセントは微かに目を細めた。怪我の所為で発熱していた体も若干静まり、伝わって来る熱もさほどでは無いのを確認し、女は直ぐに手を引いた。
「お前ぇ誰じゃ」
「菊、本田菊です」
手足は細く、体には厚みも殆ど無い。顔の造りは基本的に綺麗なのだが、化粧っけも無くパッと見ただけでは見逃してしまいそうだ。
「うら、どんだけ寝とったか?」
「二晩ほど。御名前は?」
菊は立ち上がりコンロといくつかの細々した食器が少し並んだだけの台所へ行くと、用意していたオジヤに火を通す。質素な部屋に、芳ばしい薫りが一気に充満する。
「……ヴィンセントや」
体を起こそうとしたが、思った以上に重くほとんど動かなかった。木製の食器にオジヤを盛った菊が、起き上がろうとするヴィンセントに慌てて駆け寄る。
「まだ起きないで下さい。傷にひびいてしまいますよ」
ヴィンセントの頭を、割れ物の陶器を扱うようにそっと持ち上げ自身の膝上に乗せると、オジヤをスプーンですくって口元に寄せられた。何かを食べさせられること事態、生まれてこの方一度もされた事が無かったため、むず痒くて仕方が無い。
一人で食べられる、とスプーンを取り上げようとしたが、右腕さえも思うように持ちあがらなかった。自由の利かない体に驚いているヴィンセントが口を開いたのをいいことに、スプーンが口内に侵入する。
「熱くないですか?」
子供に尋ねる様にきかれ、ヴィンセントは眉間に深い深い皺を寄せた。さっさと済ましてしまおうと、差しだされるままに全てを平らげる。菊は嬉しそうに笑い、鼻歌を歌いながら食器を水に浸けた。
食器を洗う音と共に、窓を叩く雨音が響き始める。随分粒が大きいらしく、段々とその音は大きくなっていく。
「なんでうらを拾った?」
観察するまでも無く、菊の生活は一般よりも貧しい。物も無く、自分が食べていくのでも苦労している。それは彼女だけでなく、ヴィンセントが倒れていた界隈では当たり前のことであり、他人に施しをするような御人よしはいない。
菊は洗っていた食器を置くと、ヴィンセントに顔を戻すことなく呟いた。
「先日、飼い猫が死んでしまったんです」
タンタンと雨粒が聞こえる中、暫しの沈黙が二人の間に流れる。ヴィンセントは導かれる答えに、はたと目を大きくさせた。
「なんじゃ、ウラは猫の代わりけ?」
「まさか!そんな理由で男の人を家になんて入れませんよ」
くるくると喉を鳴らしてそう言ったけれど、それ以上なにも言葉を発しない。鼻歌と雨音の間に、再び食器を洗うカチャカチャという音が聞こえてくる。
食器を洗い終え、洗濯物を取り込み終えた頃には、薄いカーテンからぼんやりと仄明るく明かりが漏れて来た。どうやら雨空の中でも、朝が訪れたようだ。そこでようやく、菊は仕事を終えて部屋の脇に置いてあった毛布を引っ張り、それ一枚にくるまって目を瞑る。
「布団、無いんけ?」
「一人住まいなのですから、必要ありません」
毛布一枚ではさぞや寒かろう……布団を譲ろうとした矢先、彼女の小さな寝息が聞こえてくる。大きな毛布にすっぽりと包まると、なんとも幸せそうな表情を浮かべていた。
変なものに拾われてしまった。次の日にでも抜け出そうと思うが、鈍くしか動かない手で包帯の上をさすると、熱と同時に鈍い痛みを覚える。それは、今日明日に立ち上がれるほど回復するものではない。次第に明るくなる視界を閉ざすと、直ぐにヴィンセントにも眠気が襲う。
街はいつのまにやら動き出しており、目を覚ます頃には沢山の物音が行かっている。隣を見ると既に毛布だけとなり、彼女は再び台所で鼻歌交じりに何かを作っていた。体に力を入れるが、やはり体は起き上がる前に強烈な痛みが走る。
「まるで介護されてる老人じゃ」
オジヤを与えられた時と同様、膝に頭を乗っけられスープを飲まされる隙間に呟くと、菊は大きな黒い瞳を揺らして笑う。
「あと少し我慢すれば、起きられるようになれるそうですよ」
彼女がそう言うのとほぼ同時に、チャイムの音が聞こえる。食器を脇に置くと、軽やかな足取りで玄関口へと向かった。
入ってきたのは透き通る様な白髪に、赤い瞳の三白眼。薄めの唇の端から尖がりすぎたほどの犬歯が覗く。正直、御世辞にも柄が良いとは言えない風貌の男が、よれよれのTシャツにデニムのダメージジーンズを履き、手には大きな鞄をぶら下げていた。
「おう、目が覚めたのか」
男はヴィンセントと目が合うと、いかにもつまらなそうな様子で、ばりばり頭を掻きながら吐き捨てるように言った。
「ギルベルトくんのお陰です」
菊は男の後ろをついて歩きながら、ニコニコと笑顔を浮かべて頷く。ギルベルトという男は、謙遜することもなく大口開けて自分を褒め称えると、ヴィンセントの枕元に腰を下ろす。
「誰じゃ」
「医者だよ、医者」
汚れた包帯を取り去り、慣れた様子で新しいガーゼと包帯を取り出す。外見は非常に胡散臭いが、どうやら腕は確かなようだ。
「抜糸はまだだが、順調だな。菊は仕事が繊細だからな。看護婦が向いてんじゃねぇの」
けせせせ、と聞いたことも無い笑い声をあげると、ギルベルトは隣で神妙そうな様子で経過を見つめていた菊の頭をがしがしと撫でる。少し抵抗してみるものの、彼女は直ぐに諦めて頭を差しだした。
絹糸の髪がぼさぼさになるまで撫で、そのことに満足したのか、やがてギルベルトは菊の頭から手をどけると、黒い鞄を開く。中にしまってある物を手あらく探り、抗生剤や鎮痛剤といったいくつかの薬を取り出し、メモ帳にペンを走らせて菊に手渡す。
「いいか菊、男の弱点は局部だ。元気になって襲われそうになったら、迷わず狙えよ」
立ち上がり玄関先まで行くと、悪戯っぽい笑顔を浮かべたギルベルトがそう笑う。鞄と傘を手渡そうとしていた菊は、顔を真っ赤にさせてから頬を大きく膨らます。
「こんなちんちくりん……」
ヴィンセントがため息混じりに布団の中から呟くと、ギルベルト「ちげぇねぇ」と声を挙げて笑った。そのことで腹を立てたのか、菊はギルベルトが帰った後も暫く頬を膨らませたままだ。
雨の音と時計の音が交る中、薬のせいで意識がぼんやりと浮かび上がる。怪我をする前の事が鮮明に浮き上がり、いくつかの心配事が胸をよぎった。一番は妹であるが、それはアントーニョが護ってくれるだろう。それよりも、今自分を探しているであろう者達の事だ。
いずれここが見つかれば、菊までもを巻き込んでしまう。一般人を巻き込むのは、ヴィンセントの信条から少々外れていた。しかしこれだけ小さな空間であれば、そうそう直ぐにばれることも無いだろう。
「お仕事に行ってきますね」
不意に考えを遮断し、菊が独りごとのように呟いた。見上げれば時計は夕方を指し、電気が灯っている。
出勤時間と帰宅時間を考えれば、彼女が風俗系の仕事に就いているのは分かる。この界隈に住んでいるほとんどの人間が、全うな人生を歩んでいるとは言い難い。菊は憂鬱な様子を顔全体に浮かべ、重い腰を無理に浮かせた。
細い体が遠のいていくのを見ながら、ヴィンセントは菊が食事を摂っている姿をあまり見ないことに気がついた。お洒落などすることも出来ず、細い体で相手にしたくも無い人間を相手に、彼女は毎晩どこかで戦っているらしい。
「気を付けて行きねま」
特に考えも無くそう言うと、玄関先からこちらを見ていた菊の表情がパッと、花が綻ぶように輝いた。「はぁい」と元気よく返事をしたかと思うと、軋む階段を弾むように降りて行く。
数日経って一人で御手洗いに行けるようになり、抜糸も行われた。もうじき身の置き場を考えなければと、白ばむ光を見やりながら思っていると眠っていたと思い込んでいた彼女の方から、鼻をすする音がする。泣いていることに気がつかないふりか、暫く噛み殺した泣き声を聞いていた。
自由に動くようになった腕を伸ばし、毛布に包まり小さくなっている彼女の、頭があるだろう場所を優しく叩く。
「嫌な客でもおったか?」
毛布越しにゴシゴシ撫でながら問うと、彼女は鼻をすすりながら首を振る。
「顔、出しね」
暫く待って、ようやく毛布の隙間から菊が顔を覗かせた。幼い子供の様に頬を涙でぐしゅぐしゅに濡らし、形の良い眉を歪め、瞳に一杯の涙を溜めてヴィンセントを見つめる。
頬を掌で拭うと、すべてをすっぽり包み込んでしまう程に小さな存在だと気づかされる。残してきた妹の幼い頃を思い出し、いっそ親身な程に胸が小さく痛み、妹を慰めるように頭を撫でた。
「昔を、思い出しました……家に、家族がいて、毎日楽しくて」
小学校へ向かう子供達が、楽しげに道路ではしゃぐ声が聞こえる。外が光の世界ならば、ここは光の世界に出来る薄暗い影だ。菊の瞳からは際限なく、透明な涙がボロボロと零れていくのを見ながら、自分は生まれた頃からそこで生きているのだと実感した。
彼女がヴィンセントを拾ったのは、恐らく単純に寂しかったのだ。物も殆どない小さな部屋で、毎日嬉しくも無い風俗店に出向き、おいしいものをお腹いっぱい食することさえままならない。そこで見かけたヴィンセントは、雨に塗られる捨て猫のように見えたのだろう。
「……ウラも動けるようになったら、医者にかかった分返さないといかんの」
指先で涙の粒を拭うと、水滴を付けたまつ毛をしばたたかせ、菊は首を振った。それから笑みを唇に浮かべ、細めた瞳から再び涙が落ちる。
菊の家は商店街から徒歩で三分程度の位置にあり、少々騒がしいながら暮らすのには丁度良い。しかし一歩路地へ入ると昼にはなりをひそめる如何わしい店が、所狭しと軒を連ねている。
「あいつ、どこで働いとるんけ?」
菊が夕飯の買い出し中にギルベルトが訪れる中、煎餅を食みながらなんとなく聞いた。ギルベルトは赤い目を意外そうにちょっとばかり大きくさせると、勝手に読んでいた週刊誌から顔をあげる。
「なんだ、しらねぇの?あいつ、あんなんでストリップで働いてるんだぜ」
ギルベルトから貰った煙草を落としかけ、慌ててくわえ直す。一瞬逡巡してから噴き出すと、ギルベルトもつられて笑いだす。それからギルベルトは大きく煙草を吸い込むと、薄めの唇から煙を吐き出した。細められた赤い瞳が、一体何を見ているか分からない。
「本当に似合わねぇよ、なぁ」
そういってギルベルトが煙草を灰皿で押し消すのと同時に、菊が明るい声で帰宅を告げた。細い腕には大きな買い物袋が一ずつつぶら下がり、ねぎが間抜けに伸びている。二人の視線に気が付き、少し驚いた様子で目をしばたたかせてから、小さく首を傾げた。
「じゃ、おれそろそろ帰るわ。もう体動かして大丈夫だからな」
大きな欠伸をし帰路に就くギルベルトに、菊は丁寧に深深とお辞儀をして玄関先まで彼を送る。
ヴィンセントが来てから出来るだけ普通の生活にするためか、朝・昼・晩の食事をしっかりと作ってくれた。そのために睡眠時間が短くなり、目の下には隈が出来、更に細くなった気さえする。
「直ぐに作りますからね。食べる時、温め直してくださいね」
「明日からウラ、工事現場で働くわ。ほしたら、一緒に家出るやざ」
袋から野菜を次々と取り出していた菊は、驚いた様子で振り返る。眉根を下げて困った様子で数度瞬きすると、濡れた手をエプロンで拭いヴィンセントの目の前に歩み、しゃがみ込む。
「あの……昨日は変なことを申してしまい、ごめんなさい。でも、あなたを引き留めたくて言ったんじゃんじゃないんです」
「出て行ってほしいんけ?」
「いえ、そんなんじゃ……」
慌てて首を振ると、困った表情のまま俯いた。小さな唇を暫くもごもごとさせてる内に、随分白んだ畳を見つめていた黒い瞳の下に、大きな水たまりが溜まる。泣く理由が解らず、ヴィンセントは心臓が跳ね上がるのを感じた。
伸びた腕が思わず菊の頭を抱えると、己の左肩に押し当てた。驚く声をあげた後に、少しだけ笑って、後は声を殺して泣き出す。自分の胸の中で泣いていた妹を思い出し、乱暴に頭を撫でる。
あまりにも静かな泣き声を聞きながら暫く待っていると、いつの間にか窓の外は黄金色に染まり、夕焼けのチャイムが響いてくる。この音楽は、彼女が出かける準備を始める合図であり、抱いていた小さな体は立ち上がろうと動く。
「ヴィンセントさん?」
立ち上がろうとした動きを、腕に力をいれて抑え込むと、菊は戸惑いながらそっと問いかけた。しかし腕の力は弱まることも無い。
「ウラも働くけ、おめぇは変なとこで働かんでええ」
そこまで言ってようやく腕の力を緩め、持ち上げた彼女の頬を包むように掌を当てる。湿る頬、赤く染まる眼もとと鼻先に、ヴィンセントは思わず笑みをこぼすと、身を乗り出して半分開いたままの唇にキスを送った。
「ひってぇ顔やの」
顔を離しても呆然としたままの菊に、ヴィンセントは喉を鳴らして笑った。ストリップで働いている癖に、一瞬でみるみる菊は首から耳の先まで真っ赤に染まる。
「布団もう一枚買わんで良くなったわ」
ニヤリと笑うヴィンセントの胸を強めに叩くと、頬を膨らませて視線をずらした。再びヴィンセントの右肩に顔をひっ付けると、大きくヴィンセントの腹が鳴ったものだから、まだ涙を付けたままの瞳を細めて笑う。
「私の家は大家族で、兄も弟も妹もいて、毎日賑やかで楽しかったんです。でも母はいなくて、父はアルコール中毒で、借金ばかり一杯あったんです」
夜になると住宅街は静まり返り、時折酔っぱらいの下品な笑い声が聞こえるだけになる。薄いカーテンは月の光を洩らし、裸電球が寂しげな影を天井に伸ばしているばかりだ。
菊は顔半分ばかりを布団から出し、ポツリポツリと身の上を告げて行く。それはありきたりで安い小説の設定のような人生だったが、この界隈に住む人間にはあまりにもリアルな物語だ。
「借金がね、あるんです。兄弟には学校に行って欲しいし……だから私、あそこは辞められないんですよ」
今日はサボってしまいましたけど……いっそ楽しげに喉を鳴らして言った言葉は、少しだけ震える。ヴィンセントが上半身を持ち上げて菊の顔を覗きこむと、戸惑う黒い瞳と出会う。鼻をつまめば、再び眉根が大きく下がった。
「なんとかしたる。惚れた女ぁ、いつまでも風俗で働かすわけにはいかんやろ」
そう笑うと、再び菊は首から耳の先まで真っ赤に染め、顔半分かかっていた布団を上にあげ、完全に隠れてしまった。
黄色いヘルメット被って土木作業してる蘭さんに、菊がメッキみたいな古い弁当箱届けるのが見たかった……