ひまわり  ※ オランダさんは『ヴィンセント』でいきます。
 
 
 
 『クリュティエの視線 ・ 中』
 
 
 
 暮れかけた街中を抜け、菊のアパートの前に辿りつくと、ヴィンセントは常に上がっている眉毛の合間に深い皺を寄せた。
 菊は駅前の定食屋で働き始め、夜は家に帰って来るようになり、この日もヴィンセントの夕食を作って待っている筈である。二人に知り合いらしい知り合いはおらず、静かな生活を毎日繰り返しているだけで、それが乱れる方が珍しい。
 しかし、部屋の前には見知らぬ男が二人。その上身なりはどう考えても普通に暮らしている人間では無く、少し前のヴィンセントがしていたような仕事をこなしている……つまり借金取りだ。ヴィンセントは思わずため息を吐きだしてから、階段を上っていく。
「ウラの家に用け」
 軽く睨めば少しひるみ、彼らはお互いに目を合わせた。
「ここのお嬢さんに、ちょいとお金を貸しててね」
「ほうか。伝えておくから今日は帰ってくんねぇか」
 穏やかな口ぶりだが、眼光鋭く睨まれて彼らは微かに怯んだ。基本的に菊はそれほど滞納する客でも無いし、今まで誠実に返済もしてきた。
 今回はストリップ劇場を急に辞めたため、一応訪れたにすぎない。男が出来たとあれば、風俗店を辞めたのにも納得が行く。彼らは態度こそ悪いものの、そのままアパートをあとにした。
「ただいま」
 合鍵で扉を開けると、いつもならば上機嫌に夕食を作っている彼女は、部屋に座りこんで掌で顔を覆っていた。いるのがばれないようにしっかりとカーテンも閉じ、もとより薄暗い部屋は余計陰気に見える。
「菊」
 ヴィンセントが声を掛けるとようやく顔を持ち上げ、黒い怯えた瞳でジッと見上げる。
「なんや、飯作っとらんのけ」
 頭をガシガシと撫でると、菊はようやく安堵の色を見せてから立ち上がった。細い体をふらつかせながら台所へ向かう。菊は食事をあまり摂らず、ヴィンセントが買い与えない限り甘いものも買って帰ろうとも思わないらしい。
 魚に塩を振る後ろ姿を抱きしめると、菊は驚いて振り返るが、ヴィンセントはいつもどおりの飄々とした様子でいるため、怒るのも馬鹿らしくなり「危ないですよ」と声をかけただけで、作業に戻った。
「……ご飯食べたら、銭湯にでもいきましょうか」
 二人とも働いた直ぐ後であるため、確かに汗で洋服が濡れている。ヴィンセントは思わず唇を尖らせ、菊から離れた後服の襟もとを掴んで鼻を近づけた。そんなヴィンセントを振り返り、菊は喉を鳴らして笑う。
「今夜、ちょっと出かけてくる」
 近所で煙草を買うぐらいしか家から出ない筈のヴィンセントの言葉に、菊は眼を丸くして振り返った。
「どこへ行かれるのですか?」
「知り合いんトコじゃ。すぐ帰る」
 今は何ともないけれど、つい最近まで酷い怪我を負っていたヴィンセントだ。菊は心配げに眉根を下し、少しばかり口ごもる。しかし引き留める程の事も言えず、そのまま肩を落としながら料理へと戻った。
 菊はヴィンセントがいつかどこかへ帰ってしまうのを恐れている。自分が引き留めるほどの力を持っていないと、本気で思いこんでいるのだ。それを分かっていながら、ヴィンセントは彼女にそれを否定することはできない。
 窓を開けて灰皿を引き寄せると、くわえ煙草に火を灯した。大きく吸い込んで吐き出すと、夕焼けの空に白い煙がのぼっていく。
 
 
「なんや、やっぱり風呂ぐらいあった方がええの。セックスの後シャワー浴びれんのは、ちょっと気持ち悪いわ」
 煙を窓から逃がしながら呟いたヴィンセントの言葉に、菊は眉間に皺を寄せ布団にもぐりこんだ。
「知りません。寒いから程ほどになさってくださいね」
 機嫌を損ねた菊に苦笑を洩らすと、短くなっていた煙草を灰皿に押しつぶし、建てつけの悪い窓を音を立てながら閉める。布団の脇に転がっていたしわくちゃな自身の服に袖を通し、ズボンを履いていると、ようやく菊が布団から顔を覗かせた。
 不安そうな様子で見上げてくるものだから、額を軽く叩くと小さく驚きの声をあげる。
「すぐ帰ってくるから、チェーンかけんなや」
 菊は大きな黒い瞳を三日月型に揺らすと、嬉しそうに頷く。よく懐いた犬の様で愛らしく、思わず笑い声を立てると今度は頬を膨らませた。
 
 
 馴染みの酒場に入ると、カウンター席にいつもとまるで変わらない様子で彼は笑顔を浮かべ坐っていた。ヴィンセントが声を掛けるよりも早く、右手をあげて白い歯を見せて笑う。
「ヴィンセントやん!むっちゃ心配したんやで。いままでどこにおったん?」
 相変わらずのテンションにヴィンセントは心底嫌そうな様子で眉間に皺を寄せると、仕方なさそうに隣へ腰を下ろす。アントーニョは聞く事も無くヴィンセント分のビールを頼むと、勝手に近状を語り始める。
「ほんで?誰に何されたん?言ってみ?」
 にっこりと口元には笑みを浮かべているけれど、その眼はてんで笑っていない。その笑顔に背筋が微かに寒くさせながら、益々顔を顰めた。
「金を工面してくれんかの」
「ええよ」
 彼の質問には応えずに呟くと、案外あっけなくアントーニョはそう答えた。思わず目を剥くヴィンセントに、アントーニョはにっこりと笑顔を浮かべる。
「そんかわり、解ってるやろ?」
 カウンターの上にビールが置かれるが、ヴィンセントは煙草をくわえ、そのビールには口を付けずに一服した。白い煙が薄暗い店内に舞い上がり、そのまま掠れて消えて行く。菊が「あんまり吸っちゃ、体に悪いですよ」なんていいながら灰皿を持ってきてくれるのを思い出す。
 
 
 結局アントーニョに中々返してもらえず、空が白ばんでくるころようやく帰路についた。今日はヴィンセントに仕事の予定も入っておらず、帰ってさっさと寝てしまいたい。
 眠っているだろうと思い、音を立てないように慎重に扉を開けるが、敷かれた布団の上にちょこんと座った菊を見つけた。彼女はヴィンセントの顔を見るなり、少し驚いてみせてから駆けよる。きゅ、と抱きついた主を控えめに抱き返す。
「なんや、起きとったんけ。今日は店ん方あるんやろ?」
 見えない表情を浮かべる菊の頬を撫でると、彼女はこくりと一つ頷く。幼い頃の妹がむくれた姿を思い出し、微かに頬を緩めた。
「菊、次に借金取りの兄ちゃん等がきたら、この鞄渡すんやざ。それまで見つからんように大切に持っとき」
 アントーニョから渡された紙幣が詰まったボストンを手渡すと、一瞬考えてから菊は首を振る。そこでようやく、黒い瞳がヴィンセントを見上げた。
「……いただけません」
「ウラの治療代も含まれとる。貸しつくりっぱなしはいややからな」
 押し返そうとするボストンを握りこませ、敷かれている布団の上に仰向けにねっ転がる。ヴィンセントに背中を向けながら立っていた菊を呼ぶが、彼女は俯いたままただ立ち竦んでいた。
「私……あなたにずっと貸していたいのに」
 ポツリと漏らされた言葉が、小さく震える。カーテンから差し込んだ光は白く、街中を車がいきかうエンジン音が聞こえて来た。
「菊、そん金はな、綺麗な金やない。ウラどうやって今まで生計建ててきたんかは、少しは解っとるやろ」
 床に置かれていた灰皿を引き寄せ、懐から煙草を一本取り出してくわえる。軽い音をたてて、先に赤い色が灯った。
 そもそも、刺されたのはアントーニョが発展させた島争いからくるいざこざに巻き込まれての事。もしもヴィンセントを菊が助けたことがばれたならば、彼女にまで被害が及ぶだろう。
「お前はええ女や。そん金で借金なくしたら、もっと食って肉つけねま。ほんなら……」
 ボストンバックが床に落ちる音は、ヴィンセントの言葉を遮って静かな室内に響いた。掌で己の顔を覆い、菊はしゃがみこんでしまう。
「お願い、一人にしないで」
 漏れた言葉はくぐもっている。布団から抜け出すと、後ろから抱き寄せ、菊の肩に顎を乗せ腹に腕を回して抱きしめた。
「解らんやっちゃのぉ。ウラがお前を捨てるんやない、お前がウラを捨てるんや」
 すんすん鼻を鳴らしている菊の耳を食むと、両目に涙を一杯溜めたまま、阿呆面で振り返る。喉で笑うと、涙でぐしゃぐしゃになった頬を掌で拭い、塩っ辛い眼の端を舌先で舐め取った。
「おら、ちょっと眠っとき。今日も働くんやろ」
「ヴィンセントさん、お酒臭い」
 心配をしてやったのに、顔を反らして小さく笑う菊に、ヴィンセントは眉間に皺を寄せて有無を言わせず布団の中に引きずり込んだ。布団に潜り込んでからコートとズボンを脱ぎ、小柄な菊を両腕で抱きこんで眼を閉じる。
「急にいなくなっちゃ、嫌ですよ」
 厚い胸板に頬を寄せ、ポツリと菊が漏らす。ヴィンセントが帰ってきて安堵したのか、菊は直ぐに寝息を立て始めるが、返って神経が冴えて中々寝付けなかった。枕元に置かれた目覚まし時計をセットし、寝入った菊の髪に鼻先を埋める。
 
 借金を返したのは、それからほんの数日後。心配だったためヴィンセントも同席すると、彼らは大金に目を白黒させながらも素直に出て行った。手元にいくらか残ったため、それも全て菊の手に握らせる。
 ザアザアと降る雨音が五月蠅く、酷く蒸した日だった。移り変わっている季節に似合わない、厚手のコートを着て扉口に向かう。
「傘を……」
「いらん、何も持って行きたくないやざ」
 初夏に向けての激しい雨に濡れ、錆びついた鉄の階段を下りて行く。真っ暗の空の中、雨も激しく風景もまともに見ることが出来ない。
 後ろから走って来る菊の足音が聞こえ、振り返ること無く咥えていた煙草を投げ捨て、靴の底ですり潰す。見ることも無く、菊が泣き出しそうな様子で立ち竦んでいるのが、容易に想像することが出来る。
「……丁度、お前の暗い顔を見るのも、もう飽きたところじゃ」
 吐き出した言葉にも、腹の底は軽くならない。染みいって来る雨水は生温かく、酷く心地が悪い。
「さようなら、ヴィンセントさん」
 声は明るく、恐らく顔には笑顔を浮かべているだろう。しかし今、振り返れば全てがひっくり返ってしまいそうで、ヴィンセントはそのまま振り切るように歩き出す。
 
 
 
 
蘭さんがあっちの業界の人だという妄執が抜けなくてこまりおる……