ひまわり
※ オランダさんは『ヴィンセント』でいきます。
『クリュティエの視線 ・ 後』
塗装が所々剥げた小さな鍵を眼前に持ち上げ、表面に大量の汗を掻き始めたコップを掴んだ。舌の上で蒸発するほどにアルコール分の強いお酒を口に含むと、胃の底が微かに燃え上がる。
さっぱり全ておいてこようと思っていたのに、知らず知らず菊のアパートの鍵を一つポケットにいれたままにしていたらしい。今更返しに行くことも出来ず、なんとなくいつもポケットに入れて持ち歩いてしまっていた。指先でクルクルまわすと、剥げているにも関わらず蛍光灯を反射させ光る。
「昼っぱらからお酒、あんま飲まんようにしてや」
妹の小言を聞きながらソファに深く身を沈ませると、目の前のテレビに見慣れた街並みが映り、はたりと目を大きくさせた。それは菊の住んでいる商店街、ボロアパートの目と鼻の先である。
緊迫した表情を浮かべた女性のアナウンサーが、日中に起こった発砲事件を伝えている。暴力団同士の争いでの流れ弾が、たまたま近場を歩いていた女性に当たり、女性は病院に運ばれるも即死だったと伝えていた。
掌で弄んでいた鍵をポケットに入れると、手にしていたグラスを机に置いて立ち上がった。
「兄ちゃん、どこ行くん?」
「……ちょっとその辺や」
右のポケットの底に鍵、左にいくらかの小銭を入れて玄関を開けた。嫌味なほどに綺麗な大理石の廊下を抜け、高級住宅地の合間を抜けて行く。大きな道路の脇にポツンと立った公衆電話に入り、受話器をとって小銭を入れていった。
出る前に二人で決めた(フィンセントはただ相槌をうっていただけだが)電話番号を思い出しながら押していくと、数回のコールの後に彼女の声がする。安堵を覚えながら暫く声を聞いていた後受話器を戻そうと思った矢先、彼女の声が自身の名前を呼んだ。
『フィンセントさん、ですよね?……あまり、煙草吸っちゃだめですよ』
いつも通りの声色に、思わず受話器を置くのを躊躇いを覚えながらも、そのまま振りほどく様に切った。殆ど物の無い部屋の中に座りこんでいる小さな姿を思い返し、ヴィンセントが嫌っている感傷が胸をついて知らず顔を顰める。
公衆電話から出ると小雨程度の雨が降っているのに気が点き、くわえかけた煙草を胸ポケットに戻す。家に帰るのも傘を買うのも億劫で、そのままふらふらと小雨の中を抜けて行く。
暫く切れた受話器に耳を当てたままでいたが、炊飯器の合図にそっと受話器を降ろして立ち上がる。元来食べるのは大好きであったから、お金に余裕が保てるようになると、ヴィンセントの言った通り食事を良く摂るようにしていた。
お茶碗にお米を盛っている最中チャイム音が聞こえ、ちゃぶ台にお茶碗をおいて慌てて玄関口に走る。扉を開けると銀色の髪に水滴をキラキラ光らせ、ギルベルトはニッと笑い片手を挙げた。
「悪い、飯だったか」
ちゃぶ台に並んだ遅めの昼食を見やり、ギルベルトは小さく肩をすくめた。しかし菊は首を振ってギルベルトを部屋の中へと招き入れる。
「今日はどういたしました」
台所でお茶を煎れている菊を見やりながら、ちゃぶ台の前に置かれていた座布団に座った。こうも小さい部屋に、よくあの大男と二人で住んでいたよな、と変な感嘆さえ覚える。
「いや……どうというわけじゃねぇんだけどさ。お前友達とか少ねぇし、様子見に来ただけだ」
「……ギルベルトさん、私ね、引っ越そうかと思っているんです」
ちゃぶ台に放置された昼食をそのままに、菊がポツリと漏らした。すりガラスで出来た窓ガラスに、音を立てて雨粒がいくつも当たっていく。
「どこに行くんだ」
「さぁ、ここ以外ならば」
柔らかな笑みを浮かべる主に、ギルベルトは再び気の無い返事をした。微かな沈黙の中、ただ窓ガラスを叩く雨粒の音だけが響く。
「邪魔したみてぇだから、そろそろ行くわ。引っ越す日取り決まったら電話しろよ。数少ない友人として送り出してやる」
ケセセセ、と甲高く笑うと立ち上がり菊が差し出した傘を受け取った。扉口で小さくなるギルベルトの背中を見送った後、寂しい部屋の中に戻ると小さく溜息を吐く。冷め始めた味噌汁に口を付けると、侘しくて思わずもう一度溜息を吐きだした。
まとめる程の荷物も無く、またギルベルトが引っ越し屋にあてがあるという事で、大した準備もせずに引っ越し前夜を迎えた。少ない荷物もまとめたせいか、より部屋は寂しく見えて居心地が悪い。数日降りづついている雨は勢いを失うこともなく、未だに窓を勢いよく叩いている。
布団を出そうかと立ち上がった時、不意に扉が激しくノックされるのに驚き、小さく跳ね上がった。
「ギルベルトさん……?」
取り立ての男を思い出しオドオドと扉に語り掛けるが、返事は無い。戸惑いがちに覗き窓へを覗こうと背伸びした瞬間、思いっきり扉が開き額に鈍い音を鳴らして鉄の扉がぶつかり、そのままぐらりと意識が遠のきかける。が、見知った大きな体に遠のきかけた意識が一気に返って来る。
彼はキョトンとしてから再び引っ込もうとしたため、菊は腕を伸ばしてヴィンセントの服の裾を掴んだ。
「ま、待って下さい。……どうしてっ」
振りほどくことも出来ず眉間に皺をよせたまま黒い瞳を見やり、観念して小さく肩を竦め、菊の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「騙されただけや、帰る」
どこからどうやって調べたのか、ギルベルトの元から連絡を受けた。菊が怪我を受けたから直ぐに来てくれといわれ、深く考えることも無く慌てて駆け付けた自分が馬鹿らしく、説明をするのも憚って踵を返そうとする。
しかしきゅうっと菊がくっついているため帰るに帰れず、溜息を吐きだして進むことも退く事もせずに立ち止まった。
「のくてぇのぅ。あんな格好つけといて、のこのこ来るってぇのも……」
胸の中にぎゅうっと抱きつく菊を抱き上げると、取りあえず部屋の中へと入っていく。少ないながらの荷物がまとめられているのを見やり、ヴィンセントは眉間に小さな皺を寄せた。
「越すんけ」
「……はい」
菊は埋めていた顔を持ち上げ、ヴィンセントを上目づかいに見上げた。
「ほか、行くんか」
両頬を掌に包まれたまま、菊の瞳が微かに潤みだす。しかし涙は零れず、ただ眼の下に小さな涙が盛り上がっただけだった。
「……どもならんな。ウラはお前の事ばっか考えとる」
大きな体を折るというほどに屈めると、懐かしいその顔に唇を落とす。
段々と明るくなってきた空の光が差し込み、たくましい背中が露わになる。菊は布団にくるまりながら、ぼんやりとヴィンセントの背中を見つめた。
「なんですか、それ」
行為の最中は気がつかなかったが、ヴィンセントの背中から左肩にかけて鮮やかな刺青が入っているのに驚き、菊は思わず呆れた声色を出す。別れてからまだそれほど時間も経っていないというのに、随分と立派な刺青をいれたものだ。
「まだ葉の色は入れてねぇやざ」
鮮やかな菊の刺青を指先でなぞると、急に気恥ずかしくなり頬を染める。人一倍大きな掌に頬を撫でられ、思わず俯く。
「どうするんですか、銭湯に行きづらくなりますよ」
「もう行かんと思っとったからな」
いつもの癖で煙草を取り出すが、しげしげと煙草を眺めた後再び懐へと戻す。灰皿を差し出してた菊は不思議そうに首を傾げ、ヴィンセントの顔を覗きこむ。その菊の頭をわしゃわしゃと撫でると、布団の上で横になる。
「煙草は辞めたんじゃ」
「あら、いつです?」
菊は枕の脇へ灰皿を押しやり、ヴィンセントの昼間とは違い柔らかい頭髪を撫でた。ヴィンセントは苦笑を浮かべると、彼女のされるがままにされる。
「ん、さっきや。……明日ウラは一旦帰るが、待ってられるけ」
頭を撫でていた手を止めると、小さな間を開けて菊は頷く。ヴィンセントは菊の腕を掴み引き寄せると、布団の中へと招き入れる。小動物と思えるほどに小さな体を抱き枕がわりに抱え込むと、口寂しさを誤魔化すように目を閉じた。
「危ないことしちゃ、ダメですからね」
「……ん」
歓喜に興奮を覚えているけれど、それ以上に懐かしく厚い胸板に安堵をおぼえ、菊はそのままトロトロと眠りに滑り落ちるのを覚えた。
「のくてぇな。女々しいやっちゃ」
ポツリと声を漏らすものの、声色は朝のぼんやりとした明るさに蕩けて霞む。朝の仕入れのためか、忙しげな車の音やら人間の声が聞こえてくる。久しぶりなその感覚に、ヴィンセントもようやく眠気を覚えた。
チャイムの音に菊は眠い目を擦って起き上がると、ぼんやりとした頭のまま扉を開ける。見慣れた銀色の異様にキラキラした頭の後、赤い瞳を見つけて朗らかに頭を下げた。
「なに寝ぼけてんだ。……ヴィンセントは?」
「……帰ってしまいました」
いっそ明るくクルクルと喉を鳴らして笑ってから、重い溜息を吐きだす。ギルベルトはけたたましい笑い声を挙げると、いつものように菊の頭をグシャグシャと撫でる。
「で、引っ越すのか?」
菊はふるふると頭を振ると、ギルベルトは満足した様子で再び笑い声をたてた。思わずつられ、菊も頬を緩めてギルベルトを見上げる。
部屋には既にアントーニョが椅子に座り、まるでヴィンセントに興味など無さそうな様子で書類へ視線を落としていた。
「組抜けるって、簡単にはでけへんよ。オトシマエつけな、あかんやろ」
「左の薬指以外なら持ってってええ」
仁王立ちするヴィンセントにそこでようやくアントーニョは視線をやると、彼らしく無く呆れた様子の笑顔を浮かべる。
いくつかのチャイムで扉を開くと、目の前に電柱の様な身体がある。昨日の今日でこんなに早く帰って来るとは思わず、目を白黒させていると、そのまま部屋へと入ってきた。
「明日の朝までに荷物を……いや、もうまとめとるな」
「な、なんの話でしょう」
ヴィンセントの右腕には大きいとは言えないボストンバッグが一つぶら下がっている。キョトンとしたままの菊の腕をとり、外へと連れ出すとタクシーに向かって腕を挙げた。
「後でギルベルトにでも送ってもらったらええ」
頭の上にクエスチョンマークを浮かべる菊を隣に押し込み、取りあえずとっておいた隣町のホテルの名前を告げる。発進するタクシーが見慣れた街並みを追い越し、小さな町では直ぐに見慣れない景色へと変わってしまった。
「……何が何やら」
前に働いていた劇場の屋根も小さくなり居住まいを正してから呟くと、クルクルと隣のヴィンセントは喉を鳴らして笑う。口にくわえているのが禁煙パイプで無ければ、随分決まっていただろう。
「どうせ引っ越すつもりやったんやから、別にええやろ」
「お仕事は」
小首を傾げて恐る恐るヴィンセントの指を見やるものだから、苦笑を浮かべて十本揃った指を掲げて見せてやる。
「大概、身内には甘ちゃんで助かったわ」
指なんていらん、と苦笑するアントーニョの姿をはっきりと思いだす。「でも親分身内だけに甘いなんて示しつかんやろぉ」と提案してきたのが街から出て行くことと、月に一回はアントーニョが遊びに行っても文句を言わない事だった。後者の申し出は限りなくうざくはあったけれど、その程度で許されるのならば易いものだ。
「何やオレ、いっつも損な役回りちゃう?」
溜息を吐きだし項垂れる姿を思い出し笑うと、不思議そうな黒い瞳が下から覗きこむので、そのまま腰に腕を回して抱き寄せる。
終わり。
ちょっと出かけるので取り急ぎ書いたのでラスト眠くてよく解らないまま書いてしまった……
帰ってからチェックします。眠い……