※ 名前でてませんが露日♀です。
もう死ぬのか。
それは安堵である。それは、喜びである。
他の人間同様、死を恐ろしくないと感じているわけではない。けれど今の状態よりも、何万倍だって安らぎに満たされるように思えてならない。
雪に半身埋まりながら、ぼんやりと霞始める思考の中そう考えていると、不意に視界一杯少女の顔が現れた。淡く赤い頬に、真っ黒で売るんだ大きな瞳。まるで天使だ、と、死にゆく思考でそう思う。
天使のようだね。と囁くと、彼女はふわりと微笑んだ。
『冬の誓い』
秋が済んで冬となると、いくらにぎわっている街といえど、どこか寂しさを滲ませる。アーサーは小脇にバックを抱えたまま、遠くから駆けてくる主を見つけ、頬を緩める。
「ごめんなさい、出掛けに兄さんに捕まってしまって。」
「ん、あまり待っていないが……少し心配はしてた。」
家から持ってきた薔薇の花を一本差し出しながら笑いかけると、真に受けたらしい菊は、困った様に眉根を下げる。その表情にアーサーは苦笑を浮かべ、首を傾げた。
初めてあったのはアーサーが避暑でこの街に訪れた時の事。もう2年前になる、春の事であった。ひとつ年上であった彼女は、14歳、自身は13歳の頃である。
それからずっと手紙を出したり、ちょっと近くを通る度に顔を覗かせた。お互い家族には内密で育み続けた末、アーサーは終止符を打とうと覚悟していた。それは婚約、という形で。
「……指輪」
ポケットの中の小箱を握り締めているアーサーの眼に、ふと、菊の胸元で揺れるリングに気が付いた。ネックレスの様に鎖を通した指輪には、安物にはとても見えない細工が施され、真ん中には灰色の、それでもキラキラ輝く今まで一度も見たこと無い宝石が埋め込まれている。
菊は今でこそ資産家の娘であるが、養子である。本当の両親は、本人さえ知らない。あまり詳しい話を聞いたわけではないから、言い切る事は出来ないが、こんなに高い物を身につけているとは思えなかった。
不思議そうなアーサーに気が付いた菊は、そのリングを指先でつまんで目の高さにまで持ち上げる。
「ああ、これですか?ずっと昔に、天使様から頂いたのです。私が勝手にそう呼んでいるだけですが……
幼い頃、山の中で怪我をした男性を介抱したら、くれたのです。世界に一つしかない宝石だそうです。」
覚えているのは、この宝石をくれた男性の瞳も美しい灰色であった事。この世のものとは思えない、透き通る様な薄い金髪は、雪に埋もれて神秘的であった。
『これは結婚指輪だ。君が今の僕と同じ年齢になったら、迎えに行くよ。』
柔らかく微笑んだ青年の言葉は、十になったばかりの菊には当然冗談であると思えた。菊の兄は学校に寄宿していたし、幼い下の子達はみんなバラバラに預けられていたため、遠い親戚のおじいさん以外家には誰も居なかった。
彼は血縁関係であるかどうかさえ怪しい菊を、それは快く育ててくれた。菊が男を見つけたと言ったときも、嫌な顔一つしないで己のベッドを彼に譲ってくれたのだ。彼が死んだとき、兄とアーサーが居なければきっと悲しみで死んでいただろう。
「ふーん……ところでさ、菊……今日はいつまで大丈夫なんだ。」
ほんの浅く指の先で手を繋ぐと、お互い顔をパッと赤くして顔を反らす。菊は片頬を手の平で抑え、上がる熱をどうにか抑えようとする。
「えっと、出来たら晩ご飯をご一緒に、と……。」
「そ、そうか!」
それならば言える機会が増えると、アーサーはパッと顔を明るくした。菊も顔を持ち上げると、目を合わせてにっこりと微笑んだ。
明日は菊の誕生日である。そのお祝いと共に、この思いをたくそうと心の底で思っていた。
冷たい感触は菊に喜びを与えた。寂しい寝室に、アーサーから与えられたその指輪は、キラキラと美しくて菊をうっとりとさせる。
あまりにも身分が違う為、どうしていいのか解らないまま固まる菊に、アーサーは「応えは明日まで待つ」と言った。気持ち的には、勿論「よろしくお願いします。」の一言だけれど、彼だってまだまだ若い。
この気持ちが直ぐに変わるかも知れない。家族から当然反対を受けるだろう。それから……
菊の思考を破り、居間の時計が微かに鳴るのに気が付き顔を持ち上げると、窓の外で雪がチラチラと降っているのを見つけた。夜中の十二時……いい加減もう眠ろうと居住まいを整えようとした時、どこからノック音が聞こえる。
最初は風の悪戯だろうと思ったのだが、間断なく鳴るノック音に、菊は迷った挙げ句とうとう布団から抜け出した。少々乱れた着物を綺麗に着直すと、冷たい廊下を足早に駆けていく。こんなに夜分、きっと大事が起こったに違いない。
続くノックは、まるで感情が無いように強弱を感じない。淡々としたそのノック音が、続く時計の音にのっかった。居間は昼間の明るさなど微塵も無く、どこもかしこも真っ暗で、寂しい。
鍵を開けてそっと覗き込む。チェーン一杯開けて覗き込むと、一杯に薄い金髪が雪と交えてゆらゆら揺れるのが見える。そして、灰色の宝石の様な瞳が、やんわりと微笑んだ。
それは夢のような恍惚感と、大きな恐怖。これはいつの夢の続きだろうか。震えたきり立ち竦む菊に向かい、ゆるゆると彼の腕が伸ばされていく。そしてそっと、菊の頬に、氷のような冷たい指が触れた。
逃げるべきか、悲鳴を上げるべきか、それともそれは……
「迎えに来たよ、菊。16歳の誕生日、おめでとう。」
熱のない瞳を、そっと細める。そこでようやく己を取り返し逃げ出そうとする菊の腕を、素早く掴んだ。本当に人間なのだろうかと疑ってしまうほど、その手の平は冷たい。
「……なんで……」
戸惑ったまま瞳をせわしく動かす菊の口元にハンカチが押し当てられる。ツンとした臭いを感じたのと同時に、意識が遠のき、視界が乳白色の霧に包まれていく。
カツン、と、アーサーから貰った指輪が床に転がる音だけが響いた。
菊、菊、泣くんじゃねぇアル。我が卒業したら、ずっと一緒にいられるアル。
そう言って、泣く私をいつまでも優しい 手の平で撫でてくれた兄さん。寒い季節、長いコートを着込んで、寒そうに頬を朱くしているけれど、私を適当にあしらうことは無い。
一人はあまりにも寂しくて、おじいさんが街におりている時は、どうしようもなく家は真っ暗であった。だから、彼がきてくれた事がたまらなく嬉しかった。ずっとここに居てくれればいいとさえ、思っていた。
けれどそれは、もうずっと昔のこと。今になれば、うたた寝時にみたたわいもない夢の中。
「僕の可愛い菊……これからはずっと一緒だよ。」
甘い睦言にはあまりにもかけ離れた、冷たい感触を頬に感じるけれど、だるさに襲われた菊は起き上がる事もできず、そのまま暫くベッドの中に沈み込んでいた。
使用人達の騒がしい音で、王耀は目を覚ました。その喧噪があまりにも不穏だった為、王耀は起き上がると直ぐに部屋の扉を開け、近くを走っていたメイドを呼び止める。
「何事か?」
「それが、玄関のチェーンが壊されて扉が開けっ放しになっていたのです。」
使用人のその言葉が終わるか終わらないかの内に、二階から違う声が響き、王耀は顔を持ち上げ、眉間に皺を寄せた。直ぐに階段を駆け下りてきたのは、一番下の妹である。
「姉さんが!」
普段気性が荒い方であるというのに、そう言い終えると大きな目一杯に涙を溜め込み上階を指さした。
王耀は顔を顰めると、階段を駆け上がり、菊の部屋の前まで来ると、入り口で勇洙が既に立ち竦んでいる。そしてこちらを見やった顔は、どこか心許ないように見えた。
菊の部屋に、彼女は忽然と居なくなった。無くなっていた服はパジャマだけで、パジャマを着たまま外に出るとは考えられない。また鞄や財布もそのまま、部屋に残されている。
「……玄関にコレが……」
部屋の中に何か無いかと探す兄弟達の前に、使用人の一人が輝く一つの指輪を差し出した。受け取りよく見えるように上に翳すと、内側には何かが刻まれている。王耀は鋭い瞳をスルリと鋭くさせた。
「カークランドの家紋、あるか。」
二人が影で逢瀬を繰り返している事は知っていたけれど、どうせいつか飽きるだろうと高をくくっていた。
余所からみればその日のアーサーは非常に荒れていた。けれども本当はただ緊張が激しかっただけなのであった。
メイドはピリピリした雰囲気に震え、執事は困った様子で顔を顰めている。朝から仕事が沢山入っていたのにもかかわらず、何も手に付かずに震える手で紅茶を飲んでいた。
菊から返事が来るのは今日の夕飯、また一緒に食べようと約束した時である。菊は知らないだろうけれど、その為に四方へ睨みをきかせているし、両親を黙らせるための策も練った。更にはドレスも式場だって考え始めている。
「アーサー様、お客様です。」
アーサーの桃色の思考を打ち破ったのは、執事の呼びかけで不意に打ち砕かれる。アーサーは不機嫌そうに思いっきり顔を顰め、執事を睨め付けた。
「……んだよ、めんどくせーな。」
吐き捨ててようやく立ち上がると、普通ならば客間で待っている筈の客人の足音が、カツカツと廊下を大股で歩いてくる。数人止めようとする人間の声がしたが、その間もなくバタンと扉が押し開けられた。
微かに眼を大きくさせるアーサーの前に、菊の兄である王耀は仁王立ちをして眼を吊り上げてたっている。真っ黒に正装した彼は、尚もアーサーを睨み付け、グイと顔を近寄せた。
「我の可愛い子を返せ」
「ああ?なんの話だよ。」
鼻と鼻が擦り合う程近くで、王耀はどす黒い声色を出した。それに負けじと、柄の悪い様子でアーサーは返事をする。二人の背景だけ、何やら黒雲が立ち込め、雷が鳴り響いている。
「とぼけんじゃねぇアル。これが玄関に落ちていたアル。」
無造作にポケットに入れておいた指輪を取り出すと、王耀はアーサーの前に放る。慌ててそれを受け取ったアーサーの顔色が変わった。
「これは……」
「菊をどこにやったか。変なことしてたら、てめぇを去勢してやるある。」
そこにきてようやくアーサーに焦りの色が走る。王耀を見上げたその双眼に、先程までの威圧的な様子は見えない。
「悪いが、話が読めない……菊、いないのか?」
アーサーが本当に動揺しているのだと気が付いた王耀は、一瞬呆気にとられた後、ここに来たときとは対照的に、足早に踵を返した。が、それよりも早くにアーサーがその腕を掴んだ。
「ちょっと待て!菊が居ない、のか……?」
痛いほどに掴んでいるアーサーの手の力が増すが、微かに震えているのを感じた。王耀は小さく舌打ちをし、その手を振り落とした。
「今朝、急に姿が見えなくなったアル」
「……何だよ、それ」
ふ、と笑ったアーサーの顔はあまりにもぎこちない。
頭の奥に痛みを感じて菊は目を覚ました。記憶は曖昧で、ゆったりと目を開けた先に畳の目をみつけ、しばらくぼんやりとそのまま動かずにいると、誰かが己の髪を梳いているのに気が付き、急に覚醒する。
「……な!」
ガバリと体を起こすと、にこにこと笑う主と目が合う。その懐かしい灰色の瞳が、今は冷たい氷の塊のようである。
「おはよう、菊。」
伸びる腕から逃れる為に、菊は立ち上がり部屋を障子に向かい駆ける。設えられた和室は広く、燭台から飾りまで、全てが菊の慣れ親しんでいる和風で作られていた。
しかし、障子だというのにびくともしない。焦って震える菊を、後ろから彼がスッポリと包み込む。あまりにも大きな背丈と腕は、やはり体温があまり感じられない。
「どうしたの?僕のこと、忘れちゃった?」
冷たい吐息が耳に掛かり、菊は振り返り動揺した眼を彼に向けた。
「だってもう、ずっと昔の事……」
「僕は毎日、君が大人になるのを数えていたのに。」
ニィッ、と笑った男は、抱きすくめた菊をそのまま畳の上に横たえる。男が浮かべる優しい笑顔とは反対に、ギリギリと締め上げられる手首が痛く、菊は顔を顰めた。
左手で顎に手を当てられ、そのまま強く唇を重ね、そして上からペロリと舐められた。どうしていいのか解らずに泣き出しそうな菊に、ふと男は胸元から指輪が転げ出たのに気が付く。
途端嬉しそうに微笑むと、鎖を千切って指輪を手に取る。そして抑え付けた左手の薬指にそっとはめ込んだ。
「愛してるよ、菊」
うっとりとした男の下で、歯の奥がカチカチ鳴るのを、他人事の様に感じた。
イヴァンさんはストーカーぐらいがちょうどいい。