冬の誓い


 
 
 
 寂しい。虚しい。
 幼い頃は良かったのに、いつの間にか周りの人間を引き剥がされ、笑う時間さえ与えられず、毎日毎日冷たい部屋で勉強ばかり。
 己は世界で一人きりだから、この咆吼しそうな寂しさを知っている人間なんて、どこにも居ない。街で愛だ恋だと騒がしい女を引っ掛けては容易に捨てるのを繰り返す。
 低い体温をあげてくれるのは他人のそれだけ。人間は暇さえあれば汚いことばかりを考える。子供の頃から何度となく巻き込まれた事柄は、今でも嘆息が出てしまう。
 教会で母と見た天使が懐かしい。神など信じなくなって久しくなったというのに、冷たいばかりだった人生から引き上げ、こんなに暖かいベッドを与えてくれたのは、一体誰であっただろうか。
 暖炉の中で炎が絶えず爆ぜて、ぼんやりと意識は覚醒していく。そんな中で、一人の少女がジッとコチラを見つめたいた。黒曜石のような大きな瞳に、その色と同じ髪の毛。見掛けない綺麗な服装は、本当に死後の世界に居るのかと想わせるほど神秘的だった。
 ああ、なんて綺麗なんだろう。
 
 その瞬間覚えたのは、恐らく小説なんかで見つける『愛』とか『恋』とか、そんなものの筈が無かった。
 
 
 
 
 
 『冬の誓い』
 
 
 
 
 数日同じ部屋に監禁されていると、この部屋は完全な作り物であることが解る。洋館の一室に、わざわざ広い和室を作り上げたのだと、彼が出入りする扉のムコウ側を見れば一目瞭然であった。
 非常に巨大な屋敷の一角であり、彼が資産家であり、その服装や菊の世話にやってくる数人の使いは綺麗な格好ばかりしていた。一体自分が何者に気に入られたのか、菊は己の左手の薬指を見やり溜息を吐き出す。
 彼はイヴァンと名乗り、キスは要求されるものの、それ以上はまだ何もされていない。彼はあの、眼だけが笑っていない笑顔を浮かべながら、沢山の着物やら髪飾りなどを持ってくる。出される食事も菊が好いているものばかりで、それが逆に恐ろしかった。
 何も食さない菊を気にして、癖毛の少年は菊に一つの石榴を持ってきた。真っ白な紙に包まれた石榴は、真ん中が十字に割れて中から半透明の紅色の実が零れている。瑞々しく、思わずつまんでしまいそうなのを暫く耐えていた。
 そんな菊の扉を、急にガラリと音を立てて一人の少年が入ってきた。それがいつも食事の用意をしてくれている、巻き毛の綺麗な顔をした少年であった。
「食べて、無いんですか?」
 そのままになった石榴を見ると、眉根を下ろしていつも震えている少年が怖々と声をかけてくる。菊は顔を持ち上げて彼を見やった。
「……食欲がありません。」
 ふい、と顔を背ける菊に対し、彼は困った表情を浮かべながらも、鍵を取り出し障子を開け放つ。部屋は二方障子があり、彼等が入ってくる方は暗い洋風の廊下に繋がり、今少年が開けた方はなんと縁側があり、和風の庭があった。
 けれど庭は四方高いコンクリートに囲まれ、日が最も高い時にしか光が入ってこないらしく、苔の中から聳える松は少々元気が無い。
「ここはどこなのですか?」
 高いコンクリートを見やりながら、ポツリと菊が漏らすと、少年は苦笑を浮かべただけで何もこたえようとしなかった。彼は最も日が高い頃、こうして庭に通じる縁側を開放しにくる。庭に降りることもでき、日が陰るまで菊を自由にしてくれた。
 庭には小さいながら池があり、橋が造られ鯉が優雅に泳いでいる。そしてコンクリートの手前に竹が植えられた、中庭というには大きい。
「何か食べていただかないと、僕が怒られてしまいます。」
 冷気が入ってくるものだから、彼は菊の肩に上掛けを掛けながら情けのない声で呟いた。けれど菊はうんともすんとも言わない。
「石榴、すごくおいしいので是非食べてくださいね。」
 立ち上がり出て行くのを見送り、菊はそっと石榴を盗み見た。そういえば今日は、水さえ一口も飲んでいない。喉の奥が張り付いているのを感じ、菊は暫く迷った後そっと腕を伸ばし一粒つまむ。
 昔兄が持ってきたことを不意に思い出し、胸がいっぱいになる。甘酸っぱいその匂いが、溜まらなく懐かしくなって、目頭がカッと熱くなった。
 庭に設置されている池の水面に、太陽が絶えず反射して、キラキラとした光が薄暗い部屋に差し込んできている。菊は微かに眼を細めると、意を決したように一粒口の中に入れた。

 
 
 机に肘を付けたままの体勢で、王はガクリと崩れた事により己が寝かけていた事に気が付き面をあげる。寝不足で霞む視界をゴシゴシと擦ると、机一杯に広げられた資料を見やった。
 王の一家、カークランドで手分けして消えた一人の少女を捜している。カークランドほど大きな家であれば、人員も相当数いるだろうに、未だに影さえつかめない。
「兄さん、お客様が……」
 いつの間にそこに居たのか、扉口で不安そうな顔色をした梅が立っていた。王耀は一瞬怪訝そうな表情を浮かべた後、思い当たる節があるのか頷く。
 
 客人は客間で大人しく出されたお茶を飲んでいた。そしてやってきた王耀を見やるが、表情を一切変えずにニコニコとしていた。
「ひさしぶりだね、王君。顔色が悪いよ」
 小さな音をたててカップを元に戻すと、イヴァンは一際眼を細めて笑う。
「……出来れば我もお前には会いたくなかったアル。だがお前なら、何か解ると思ったアル」
 イヴァンは貴族で、昔から王族の一番近くに居た一家であった。それは、彼等が毒物に滅法詳しく、歴史の影には大抵彼等の姿が見つけられる。
 一度、現・王継承者の親戚が地位を狙った事件があり、ブラギンスキ家が真っ先に標的にされた事があった。彼は冬の山奥で致命的な傷を受けたのにも関わらず、飄々と戻ってきて、犯人を糾弾した。
 それからは己の地位を確立させるが為に、どんな事でも冷徹にこなし、今や薄暗い歴史を持つ一族とは思えないほどの地位と名誉を抱き、町外れに大きな屋敷を構えていた。
 イヴァンと王とは、彼が山奥から舞い戻ってきた直ぐ後から始まった。元々は良い出である王の兄弟達を今の地位に戻したのも、イヴァンが一枚噛んでいたからであったのだろう。けれど、王は今でもイヴァンを一つも信用してはいなかった。
「……自分から出掛けた跡は無かったの?」
 毒物に明るいイヴァンは、時折このような不可解な事件の時呼ばれた。イヴァンは案内された部屋を見回しながら尋ねると、王はフルフルと首を振る。
「あの子が寝間着で出歩くとは思えないアル。それに、カークランドから結婚を申し込まれていたアル。好いていた人間に返事もせず、一人でどっかに行くとはおもえねーアルよ。」
 机に置かれていた化粧品などを見やっていたイヴァンは、王のその一言で顔を持ち上げ、ふと笑顔を消す。
「カークランドって……アーサー君かな?」
 笑みをたたえないイヴァンを、一瞬ギョッとした様子で見やるが、直ぐにイヴァンはいつもどおりの笑みを浮かべた。王は内心動揺しながらも、平静を装い答える。
 小さな間を開け、イヴァンは再び部屋へと視線を送ると、首を傾げる。
「部屋には特に変わったことは無いみたいだよ。出来れば、彼女が歩いただろう場所を見たいな。」
「ああ、解ったある。」
 踵を返し廊下を歩き出す王の後を追いかける。いつもなら光が一杯入ってくる明るい廊下であるのだが、今日はどこか薄暗く、そして不気味な雰囲気さえ感じられ、王は身震いした。
「そういえばお前、結婚するんだってな」
「うん!君も結婚式、来るかい?」
 不意に思い出した王がそう声を掛けると、一瞬にパッと顔を明るくしたイヴァンが、それは楽しそうな声を上げる。
「いや、我はいいアル。」
「ふふ、そう言うと思った。……身内だけの式に、特別に呼んであげようと思ったのに」
 楽しそうに笑うイヴァンを、気味悪そうに一瞥すると、チェーンが壊された扉の前に彼を案内した。切れ味鋭く断ち切られた鎖は、いまだ取り外されることもなくぶらさがっている。
 イヴァンは巨体を屈めてその鎖を見やり、首を傾げた。
「なんだか、僕の専門外みたいだね。泥棒でも入って、君の妹君が見ちゃったとかじゃない?」
 にっこりと笑うイヴァンと対照的に、最後の手段として彼を選んでいた王耀は項垂れる。些細な物音にも起きる体質だというのに、菊が居なくなる前夜はまるで眼をまわす様に寝入ってしまっていた。
 思考に埋もれかけている王耀に別れを告げたイヴァンは、そのままコートを羽織り、外に待たせていた馬車へと乗り込む。外はチラチラと雪が降り始め、イヴァンの息も真っ白に染まって空中に散らばっていく。手の中に先程とってきた華の髪飾りを包み、うっすらと微笑む。
 
 
 ふつふつと沸き立つ感情に、ナターリヤは眉間に皺を寄せた。突然夜中遅くに出掛けたと思っていた兄は、見たこともない一人の少女を横抱きにして帰ってきた。
 黒い髪に黒い瞳、そして黄色い肌。あまりに華奢で小さな体は、彼女がまだ幼い事を物語っている。兄は彼女のために前々から大きな部屋を一つ作っていて、なんとも大切そうに囲っていた。
 そして結婚までするつもりらしいが、イヴァンが恐ろしいのか、誰も口を出すことは出来ない。
 誰もがイヴァンを恐れている中、長く見知ってきたナターリヤが口を挟まないのは、恐ろしいからではない。イヴァンが最近非常に幸せそうだからである。
 どんな手段をしてでも地位を上げてきたイヴァンが、冷徹であったわけではないと彼女は知っていた。そんな素振りを見せることは無いけれど、彼が落ち込んだり内心悲しんでいることは、本人がその感情を認識しているしていないに関わらず、知っていた。
 イヴァンが今幸せであるのは解る。けれど、それでも見守り続けていたというのに、突然やってきた少女が彼を理解しきり、守ってくれるとは思いがたい。
 玄関口で音がしたのに気が付き、ナターリヤが立ち上がると、いつもどおりニッコリと微笑んでいる兄は彼女の頭に手を置く。「おやすみ」と笑った彼の体温は、いつにも増して冷たい。
 兄は優しい。こんなにも優しい人が、一体どこに居るのだろうか。ナターリヤは立ち竦んだまま、少女の元へ向かうだろう兄の背中を見送る。
 
 
 
 これは、天使様が……
 菊が微笑んで己の胸に掛かったペンダントを手にとってみせた。それは指輪に鎖を通しているもので、どこかで見たことがあるのだとその時思ったものだ。けれどそれがどこであったのか解らず、アーサーは寝不足の眼を細めた。
 自分自身が彼女を追い詰めたのかと、最初はそう考えもしたけれど、玄関のチェーンが壊されていた事を考えるとそれは有り得ないだろう。
 それに……あの夜家で食事をとらなかったのは、彼女だけだ。何か特別なことをされていなければ、些細な物音でも王耀は目を覚ましたに違いない……
 最終的に行き着いたのは、睡眠薬の類である。といっても、そう易々手に入り、そしてその薬物を食べ物に混入することなど、普通の人が出来るはずもない。
 記憶の奥で、微かに蘇る一人の貴族。巨体に鷲鼻、そして長い長い間指にいつもはめられ続けていた婚約指輪。相手の女性は誰も知らないけれど、誰もが脅威に覚えている彼がそうまでして想っているとなると、興味深い。
 眠たいせいか、埋もれる思考にアーサーは首を振った。取り敢えずイヴァンに何か助言を貰おうと思い返し、立ち上がった。