冬の誓い


 
 
 
 ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ。いつつ……
 ハデスに攫われたペルセポネは、惜しくも我慢が出来ずに石榴を五粒口にしてしまった。それが故、彼女は残念、大好きな母親の元には今まで通りに帰れなくなってしまったのです。
 そう言って彼は両手を広げるものだから、菊は悲しくなって持っていたパンをキュウッと握り締めた。イヴァンは毎日毎日楽しい話をしてくれるけれど、時にはこうして、幼い菊には少々悲しすぎる話をするものだから、そんなときは可愛いほどにしょぼんと崩れる。
 そんな顔をすると、イヴァンはニコニコしたまま菊を招き寄せ、己の懐にポンッと包み込んだ。外は酷く吹雪き、菊の祖父は街へと降りている為、家は炎の爆ぜる音しかしない。
「だけどハデスは本当にペルセポネを愛してたんだよ。ハデスはなりたくもない冥王で、みんなに怖がられていた。そんな彼が誰かを愛したのに……
 きっとハデスは、ペルセポネになら殺されたって構わないんだ」
 そううっすら微笑んだイヴァンを、菊はそっと下から覗き込む。囲炉裏の中で蠢く炎が、彼の瞳の中でユラユラと揺れた。
 
 
 
 『冬の誓い』
 
 
 
 五つの石榴。目が覚めたばかりの菊は、口に含んだ五つの石榴を思い浮かべながら、天井をジッと見つめた。そして起き上がろうとして、肢体がピクリとも動かないのに気が付く。
 動くのは瞼だけで、それ以外はピクリとも動かない。サッと血の気が引きどうにか起き上がろうとしたのだが、体はピクリとも動かずに心臓だけがドクドクと早まった。
「目が覚めたんだね。おはよう。とても良く似合っているよ。」
 にっこりと笑う主が突然視界に入ったかと思うと、彼は菊の脇の下に手を差し込み、上半身を持ち上げてみせた。目の前に置かれている鏡の中には、真っ白なウエディングに身を包み、無表情でコチラを見やる己の顔だ。
 なぜこんな格好を……!そう声を上げようと思ったのにもかかわらず、表情の筋肉さえピクリとも動かない。イヴァンは心底嬉しそうに笑うと腕を伸ばし、鏡の上を指で撫でた。キュウ、と高い音が鳴る。
「綺麗だね。今日は結婚式だよ」
 僕のペルセポネ。そう囁くと、彼は菊の上げた髪に鼻先を当てる。鏡の中の自身は、まるで人形そのものだ。家にいる兄は、心配しているだろうか。
 
 執り行われた結婚式は、厳かながらにあまりにも不自然であった。新郎の隣に座る新婦は、真っ白なドレスに身を包みながら、笑う新郎に反してどこまでも無表情だ。寝ているように見えて、虚ろな黒い瞳が虚構を眺めている。
 もしや悪趣味な新郎は、人形か死体と結婚するのではないだろうかと、人々の合間でそう陰口を叩かれている。しかしながら幸せの骨頂にいる新郎にとっては、そんなもの蝿の羽音と一緒であった。
 式も終わり、夜も更け人々は夜通し広間で食事やダンスを楽しむ。新婚夫婦は早々と彼等から背を向け、用意された寝室へと足を踏み入れた。イヴァンは菊を抱き上げベッドの上へ丁寧に置いた。
「……満足、ですか?」
 ようやく指先と口元が動くようになった菊は、堅苦しいスーツを脱ぎ始めているイヴァンを睨み付けた。
「うん、満足だよ。でもまだまだ足りないかなぁ」
 ギシリ、と音を立てて身を乗り出し菊にのし掛かる。体は思うとおりにならず、押しのける事さえ出来ない。首筋に顔を埋め菊の香りを胸一杯に吸い込みながら、片方の手で菊の太ももをさすった。
 菊は悲鳴を上げて、その手と唇から逃れようとしたけれど、がっちりと固められて逃れられない。
 ああ……助けを求めて菊は思わず口を開き、そして「アーサーさん」と小さな悲鳴を上げた。彼の顔が思い浮かんだ事に自分でも吃驚しながら、動きを止めたイヴァンの顔をそっと覗いた。
 背後の灯りがギラギラと輝き、逆光のためにその表情はまるで見えない。それでも恐ろしさを覚え、知らず己の唇を手の平で抑え、それ以上の言葉を懸命に呑み込む。
「……アーサーって、カークランド君かな?」
 笑いを含んだイヴァンの声色に、背筋が冷えるのを覚え、菊は体の奥が震えてくる心地を覚える。
「カークランド君が、忘れられない?……どうしてかなぁ……居なくなれば良いのかな」
 クルクルと喉を鳴らしてそう笑うイヴァンに、菊は思わず縋り付く。指先が冷たくなり、慌てて首を振った。
「違います違います!アーサーさんは関係ありません。今、思いついたお名前だったから……!」
 絶望と後悔で声が上擦り、語尾が震える。笑顔でコチラに大きく手を振る、アーサーの姿を不意に思い出し、その姿だけは消してはいけないと震え上がった。
 イヴァンの体に縋り付き、涙を浮かべて首を振る菊に、イヴァンはにっこりと微笑んでその頭を撫でる。幼子の時そうして貰ったのをありありと思い出すが、今や暖かい思い出とは思えない。
「大丈夫、そんなに焦らなくても、君が嫌がるのならしないよ」
 ね。そう笑うイヴァンに、菊は恐る恐る下から見上げた。イヴァンは菊から手を離すと、ベッドの横に置いてあった靴を履く。菊は体を起こして、心配そうな様子で彼の動向を見やっていた。
「今日は一人でお眠り。……明日は、カークランド君と会わなくちゃいけないからね。僕と話しがあるんだってさ」
 ひどく楽しそうに笑うイヴァンに、菊は顔を真っ青にさせ走り寄ろうとするのだが、体にはまだ力が入らず、崩れ落ちるようにベッドに腰を下ろす。冷たくなった指先で顔を覆うと、奥歯がカチカチ鳴るのを聞く。
 今すぐにでも彼に伝えなくてはならいないというのに、自分は篭の中。別れる直前、指輪を渡した後照れくさそうに笑う彼の顔がリアルに思い出され、震える身体を抱く。
 そうして菊は、夜が明けるまで一睡も出来ずに、ただ自分が思う人々に平穏だけが流れている事を切に願った。
 
 
 元々寝付きは良くない。その上、結婚初夜であるはずだというのに客間で寝たため、イヴァンは酷く寝不足で不機嫌だった。
 アーサーから連絡が入り、今日午前中に一度会う約束を入れている。イヴァンよりいくつも年下であるというのに、カークランド家の力は絶大で、イヴァンが断ることも出来ない。
 本当は会いたくなかったのだが、自身妻が思いを寄せる人物となれば、一度しっかりと会話をしておいても良いだろうと、そう思ったのだ。また、後から菊に報告できるというのも、また楽しい。
「寒い中、悪かったな」
 悪かった、という癖に、アーサーは屋敷の前で腕を組み、仁王立ちして居た。イヴァンは本心を塗り固めた笑顔でアーサーに片手を上げると、招かれるまま屋敷に足を踏み入れる。
 自分の屋敷とは違い、薄ら寒さを覚えない屋敷の中では、絶えず暖炉から炎が爆ぜる音が聞こえてくる。午後になれば雪が降るというのが、嘘の様だ。
「それで?君が僕の事を呼ぶなんて、珍しいね」
 出された紅茶には手を付けずに、イヴァンは挨拶など無視して本題を聞き出す。一瞬面食らったアーサーも、大きく足を組むと目を細める。
「毒……睡眠薬の検出は出来るか?」
 そう言いながら、アーサーは一つの硝子瓶を取り出した。固く蓋を閉ざされたその中身、何やら濁り始めた液体が入っている。
「……何、これ」
「中身は知らなくて良い」
 憮然とした口調に、イヴァンは誰にも分からないように、一瞬影を落としてアーサーを睨んだ。今目の前にいるのは自分とは違い、生まれたときから恵まれたカークランド。何でも欲しい物を手に入れることが出来る、憎い相手。
 有無を言わせない様子のアーサーに、イヴァンは素直に硝子瓶を受け取った。
「検出出来ない可能性が高いよ。難しいからね」
 ふんわりと微笑むイヴァンがそう言った時、ノック音が聞こえ、躊躇いがちな執事の声が聞こえてくる。
「アーサー様、王耀様です」
「……中にご案内しろ」
 一瞬考えてからアーサーが答えると、直ぐに扉は開いた。いつもと違い細身の服に身を包んだ主は、先客を見やってギョッとしながらも、ツカツカと部屋の中に入ってきた。
「何かわかったか?」
「当日、屋敷に新人のメイドが入っていたある。それが、今は行方知れずだ」
 壁により掛かり、王耀は眉間に皺を寄せた。イヴァンは二人に視線をやった後、硝子瓶を無造作にポケットにつっこんだ。
「僕はもう良いよね。雪が降る前に帰りたいんだ」
「ああ、そうだな。悪かった。頼む」
 イヴァンのコートを持ってくるように言いながら、アーサーは頷き扉の傍に立っている執事に視線を送る。足早に部屋をあとにしようとしたイヴァンの背後から、鋭い王耀の声が呼び止める。
「お前、菊の簪(かんざし)知らねーか?お前が帰ってから、一本足りねぇある」
 振り返ったイヴァンの目の前に立った王耀は、訝しそうな、そしてどこか試すような顔持ちをしていた。その表情を裏切るように、イヴァンはクスクスと喉を鳴らす。
「なんで僕がそんな物を?大体君たちが捜している人と、僕は全く面識無いんだから、これ以上巻き込まないでね」
 喉を鳴らしながら立ち去る巨体を見送り、残された男二人は口を噤んだ。
 
 
「あーあ、時間の無駄だったな」
 心底つまらなそうな声を上げ、場所の中からイヴァンはカークランドの屋敷を振り返った。また何かをくすねて菊のお土産にしようと思ったのに、使用人は案外使えるらしく、イヴァンが居る間中目を光らせていた。
 ポケットの中を探り、先程アーサーから手渡された硝子瓶を取り出す。振ってから日に透かし、忌々しそうに顔を顰めた。王耀が言っていた事から想像するに、これは自身が盛った睡眠薬入りのスープか何かだろう。
 窓から硝子瓶を投げ飛ばすと、軽い音を立てて木の幹に当たり破裂した。横目でその光景を見やり、運転手に繋がる小窓を開き、街へ出るように言いつける。
 
 
 攫われてきたには、あまりビクビクしていないな。そう初めて言われたとき、菊は不本意だと思い、言った主であるナターリヤをポカンと見上げた。
 ナターリヤは、直ぐにグズグズと泣き出さない所だけは菊の事を認めていた。それだけは、流石兄様が連れてきただけはある、と思っていたのにもかかわらずに、その日は始終震えている。
「体調が悪いのか?」
 尋ねても、菊は首を振れど何も言おうとはしない。イヴァンに重々言われているものだから、ここで投げ出すわけにもいかずに、徐々にナターリヤは苛々し出す。
「いい加減にしろ」
 眉間に皺を寄せるナターリヤに、菊は落ち着かない視線を向けた。しゃがみ込んだ菊に対して、仁王立ちしたナターリヤはとても大きい。
「……私にも、大切な兄さんが居ます。弟も、妹も居ます。あなたの様に、私も彼等を守りたい……」
 それが怯えではなく、悔しさなのだろう。暫く睨むように見やっていた視線を外し、ナターリヤは時計を見上げた。
「兄さんが帰ってくる」
 それまでの冷徹さは一変して、彼女は嬉しそうな声色で呟く。対して菊は、ビクリと肩を震わせて恐る恐る時計を見上げる。そのまま、振り返ったナターリヤと視線が合う。
「……私はお前など嫌いだ。だが、お前は兄さんが連れてきた。逃がすわけにはいかない」
 凍えるような瞳は菊を一睨みした後、スッパリと切り捨てるようにナターリヤは駆け出した。窓の向こうには雪が降り始めていて、きっと濡れてしまっているだろう。
 床に座り込んでいた菊は、扉に背を向けたまま彼を迎え入れる。しかしながら、非常に楽しそうな声色でイヴァンは「ただいま」と囁く。ずっと彼女に言いたかった言葉だ。
 
 引き留められて不満そうな顔をする耀を前に、アーサーは目を細めて思案し肘を突いて、指先に唇を寄せる。眉間に深く刻まれた皺を伸ばすでもなく、独り言の様に呟いた。
「本当に、イヴァンは菊と面識が無いのか?」
 アーサーの言葉に、耀は不機嫌そうな顔のままそちらを見やった。
「そのはずある。もし、子供の頃に会ってなければ……否、菊は幼少時代田舎奥深くで育ったある。二人が会ってる筈ねぇ」
「……そうか」
 硝子瓶を受け取った後、マフラーを直したイヴァンの指先にはめられた指輪。青く輝く宝石は、やはり見覚えのある物だった。
 それは偶然なのか、はたまた必然なのか分からない。しかし、アーサーはイヴァンの事が気になって仕方がなかった。