冬の誓い


 
 
 
 春なんて来なければいいのに
 寂しげに笑うハデス。昨夜聞いた物語を思い起こしながら、菊は下からイヴァンを見上げる。幼い菊にとっては青年のイヴァンは、まるで街灯のように大きい。
 春が来ると、暖かいですよ
 返した菊に、イヴァンはこれまでで一番悲しそうな目をした。なんだか苛めている気分になって、思わず菊は口を閉ざす。
 だって菊。僕は春に入れないんだ。暖かい場所には、いけないんだよ
 じゃあどうなるのですか?
 僕はおいてけぼりだ。また冬まで待たなければいけない。君において行かれてしまうよ
 僕は凍えそうに震えながら、ずっとずっと君を追いかけるんだ……
 
 
 
 『冬の誓い』
 
 
 
 浅い眠りを繰り返し、菊は億劫そうに朝を迎えた。独り寝の寝所は寒いけれど、彼と一緒に寝るよりはマシだと、内心で毒づいた。
 今まではすっかり忘れていた様な、幼い記憶ばかりを最近夢に見る。それらは大抵彼との暮らしの一部であり、どこかほの暗く、切なく、寂しい雰囲気が流れている。まさに冬の一角を切り取ったような、そんな思い出ばかりだ。
「起きたか」
 ノックも無しに入ってきたのは、今まで夢に見ていた彼の妹である。いつもどおり手荒く髪を梳かされ、洋服を飾り付けて行く。できあがりはいつも可愛らしく仕上げていくから、なんだか妙に感動してしまう。
 昨日『カークランドに会いに行く』といってから、イヴァンは少なくとも菊のもとへはやってきていない。不安で眠りはより浅くなるけれど、日々の疲れでいつの間にか寝入ってしまっていたようだ。
「飯を食え、飯を」
 日々細くなっていく首筋をペチンと叩き、ナターリヤは眉間に皺を寄せて吐き捨てるように呟く。
 思わず振り返ってその姿をみやると、兄と同様に美しい目鼻立ちをしていて、思わず一歩退く。こんなにも美しい人に、あれほど熱烈に好かれているのにも関わらず、どうして自分になどそう興味をもつのだろうかと、菊は溜息を吐き出した。
 幼い頃の出会いに因果が深いのだろうことは理解できるけれど、何がそれほどの思いを抱かせているのか、分からない。彼が16の時、まだ自身は何も分からない子供だった。
「ただいま」
 またもやノックも無く開かれた扉に、菊は弾かれたように顔を持ち上げた。黒曜石の様な瞳を見開き、不安を深く宿したままイヴァンを見つめる。
「そんな顔をして……」
 苦笑するイヴァンがそう菊の頬をつつくと、菊は眉間に深い皺を寄せて彼を下から睨んだ。
「カークランドは君がいようがいまいが、特に変わりはなかったよ。そりゃあそうだよね、東との関係が持ちたくてたくて君と接触してたんじゃないの?」
 菊の睨んだその眼光に微塵も恐れることなく、逆に顎先を掴み無理矢理目線を合わせる。イヴァンの行動にか、それとも言葉にか一瞬狼狽えた菊の瞳が揺れた。
 その動揺に満足感を覚えたイヴァンは、思わず鼻先で笑うと指を離し、そのかわりと菊の頭を愛おしげに撫でた。
「だからいいじゃない、ここに居れば。このまま僕の家が権力を持てるようになって、王家が逆らえない程になれば、君をお兄ちゃんに会わせてあげてもいいよ」
 クルリと踵を返したイヴァンを見送り、菊は悔しそうに下唇を噛みしめた。西の人間が東の人間を軽視しているのは真実であるし、カークランドほどの家の人間が、菊を好いているなど世間からしたらとんだ笑い事だと知っている。
 それでもアーサーは菊を好いている、と言ってくれたのだ。結婚しよう、と。それが嘘であったのなんて、信じたくは無い。
「……ぶさいくな面だ」
 隣に立っていたナターリヤが菊の顔をチラリと見やると、鼻先でフンッと笑いそう呟いた。菊は恨めしげな様子でそちらを見やると、「それは貴女に比べれば不細工ですよ」と唇を尖らせた。
 
 昨日に会ったカークランドが異様なほどイヴァンを気にしていたのを、その話を聞き思い出す。それは、王家に菊失踪の一ヶ月前ほどから働いていたメイドが、菊の失踪と同時に居なくなったという事であり、それが東の人間では無かった、ということだ。
 今は東西の境目もあやふやになり、召使いには西の人間も何人かとっているが、そのメイドは非常に美しくあったけれど、人を近づかせない雰囲気を持っていたという。そのため少し目立っていたらしい。
 何にしても、菊の失踪と同時に姿を消すというのは、あまりにも不可解だ。長い白銀の髪に雪のような肌、そして空を反射させたような、瞳。外見を聞けば聞くほどに、イヴァンの姿を思い出してしまう。
「……そこにいるな?」
 煙管の灰をコツンと落とすと、襖の奥に声を掛ける。小さな間を開けて、耀の声に青年の応えが来る。
「お前なら西にも東にも通じてるアル。お前が適任ネ」
 コツン、と再び煙管の音が鳴るのとほぼ同時に、相手の返事がもう一つ聞こえ、直ぐに気配が消えた。
 
 菊にとって、人生の中でも特に至福の時である食事も、いまや居たたまれない時間になってしまっている。一応結婚してからは、大きな食卓机に通されイヴァンとその家族と共に食事を摂っていた。
 しかし食卓に並んでいるのは、いつものようにあまり見慣れない物ではなく、そして少々味付けが違う和風なものではない。それは、確実に菊が幼い頃から食べてきた味付けと同じであった。
「気に入った?東の人間を雇ったんだ。君は少し、食が細すぎるからね」
 固形物を呑み込むのが困難なほどであったというのに、その日の食事は異様に箸が進んでしまう。なんだか敗北感を覚えながらも、菊は久しぶりの極上な食事に舌鼓を盛大に打った。
 無言ながら嬉しそうに食事を摂る菊を、イヴァンも嬉しそうに見やりながら慣れない食事を口にする。ナターリヤばかりが終始顰めっ面であった。
「そうそう、君の世話係にも東の人間をいれておいたんだ。……変な事、言わないようにね」
 途中まで笑みを絶やさずにいたイヴァンは、ラストでその声色を更に落とした。菊を覗いたイヴァンの瞳に、冷たい色を見つけて菊は思わず顔を背ける。
 真っ正面から見つめられると、未だに体の芯がカチカチと震え上がってしまい、返事は全て迷子になってしまう。
「それじゃあ僕はもう部屋に戻るから……菊、後で僕の部屋においでね」
 寒々しい部屋、イヴァンが動くだけでその部屋内の空気まで動く気がする。ポツリと漏らされたイヴァンの言葉に、菊は再び体の奥が震え上がるのを覚えた。部屋に行くよう指示されたのは初めてで、それが一体どんな意味を持つのかも、分かる。
 震え上がっている菊を見やり、心底楽しそうにイヴァンは口角を持ち上げた。すれ違いざま顔を寄せて菊の米神にキスを一つ落とすと、振り返りもせずにそのまま自室へと続く廊下へと出て行った。ソレを見計らい、直ぐにナターリヤは立ち上がり菊の腕を掴んで立ち上がらせる。
「……震えすぎだ」
 手の感触に驚くナターリヤをよそに、菊は力一杯下唇を噛みしめて顔を持ち上げる。その表情は悔しさと同時に、苦しげな気配も見受けられ、思わずナターリヤが首を傾げて見せた。
「あなたはあの人を好いているのでしょう?」
「好きだ。だから兄さんが望んでいる事は全て叶えてみせる」
 眉間に皺をよせ、菊の問いかけの真意が分からずにナターリヤは淡々と返す。瞬時、菊の顔が強張り悲しそうに眉根が下げられるのを見やり、ナターリヤは憎々しげに顔に影を落とした。
「なんだ、何が言いたい」
「兄妹揃って、可哀想な方々」
 吐き捨てられた言葉にナターリヤはギリッと奥歯を噛みしめ拳を振るわせる。そこに思わず飛び出したトーリスがその腕を掴み、悲鳴じみた声で「菊さん!」と名前を呼んだ。思わず一歩退いた菊はナターリヤの腕から逃れ、距離をとった。
 一触即発の雰囲気に、誰もが行動を起こせずに成り行きを見やっている中、ナターリヤは握り締めていた腕をそっと降ろした。
「兄さんが望まないから、お前は傷つけられない」
 それまで菊の前では平静を保っていたナターリヤの声色が震え、足下を見やった瞳が揺れ動く。呆然と立ち尽くした菊のもとに駆け寄ったライヴィスが、その手の平をとって引っ張る。その引っ張られるままに、菊はフラフラとした足取りで自室に戻ると、直ぐさまお茶が一杯差し出された。
 湯飲みを手の平で包み込むと、その暖かさに指先がジン、とほどけていくのを感じた。
「菊さん……」
 心配そうにかけられた声に、菊は声の主であるライヴィスを見上げ、ニッコリと微笑んで見せた。ただ、ちゃんと微笑めたかは分からない。
「悪いことを、言ってしまいましたね……」
 矜持もあるだろうに、つい思考が熱くなって言葉が漏れてしまった。菊もそれだけ、動転していたのだろう。ナターリヤに震えていることを指摘されたのが辛かったのもある。
「いいえ、気に病むことはありません」
 しゃがみ込んで首を傾げ、ライヴィスが心配そうな様子で菊の顔を覗き込む。今はもう遠い場所に居る愛犬とその姿が重なり、思わず菊は頬を緩ませ、柔らかそうな金髪をそっと指先でといた。
 瞬時に顔が真っ赤に染まったのに気が付き、菊も慌ててその手を引く。
「部屋着を持ってきますね!」
 逃げ出すように駆け出す小さな後ろ姿を目の先で追いかけた後、再び先程の寒さが体を襲う。それは真冬の吹雪のような、幼い頃から感じていたイヴァンへのほの暗いイメージと重なる。
 
 
「君はどうして僕が嫌いになってしまったんだろうね。昔約束したのに……」
 部屋に置かれたベッドの上に座りながら、菊はイヴァンの言葉に釣られて顔をそちらに向けた。かれは水差しの中身をコップに注ぎ終え、菊に差し出しながらニッコリと笑っている。けれどもその顔には、拭えない寂しげな感情が差し込み、思わず菊は顔を下げた。
「子供の戯言です。いいえ、夢の中の事とさえ思っていました」
 いつまで待っても手のとろうとしないコップを、イヴァンは眉根を下げて微かに笑みを零し、机の上に置いた。中に入っていたのは水ではなく、微かに色が付いた紅茶であるらしい。
「君は本当に……小さかったからね」
 笑い含んだ声色のまま、イヴァンは菊の隣に座る。ギシリと揺らいでベッドが鳴り、菊は怯えた目線でその姿を追いかけた。
 二人の視線が交差した時、イヴァンが手を伸ばして菊の頬に触れる。大きな彼の掌では、菊の頬はスッポリ全てを包み込み、菊は逃れることも出来ずに体を硬直させた。
「でも、約束は約束だよ。今更逃げるなんて、許さない」
 身を乗り出し唇を額に押し当てると、逃げかける菊の腰を押さえつける。そしてそのままベッドに押し倒し、鼻の頭と頭がくっつく程に顔同士を近づけ、普段は見せない瞳の奥の奥まで覗き込んだ。
「ねぇ、好きだよ。君のためだったら、何でもしてあげる」
 ゆるゆると唇をあわせ、そのまま菊の胸に頭をのせて目を閉じる。あまりにも重い猫のようだと、菊は息苦しさを覚えて身を捩るが、ガッチリと体を押さえられていて動けない。その内本当に寝息が聞こえてきた。
 どうしていいのか分からずに固まっている菊をよそに、イヴァンはスヤスヤと非常に気持ちよさげに寝入ってしまった。重くて朝までには押し花のようになってしまうのではないか。と心配な反面、今夜も何事もなく終わりそうだと、小さく溜息を吐き出す。
 
 
 身元が分かるものは全て排除し、新しい経歴を勝手に作り上げた。こういった裏工作が非常に得意な兄と、現在仕えている家の人間の底力は心底敵にまわしたくない。イヴァンの家にやってきた商人の相手をしながら、香は溜息を吐き出した。
 ブラギンスキ家とは極力関わり合いを持ちたくなかったのだが、姉の失踪事件と本当に関与しているとなれば、話は別だ。
 ……しかし、屋敷に侵入してから三日、未だに何も掴めずにいる。出入りする商人の相手をするしか仕事を与えられてはいない。ようやく人が全て帰ったのを見計らい、誰も居ない召使いの部屋で煙草を一服、肺の奥まで吸い込んだ。
「お前に任せたい仕事がある」
 ノック音も、開く音さえせずに他人の声が聞こえ、驚き振り返るとドア口で一人の女が立っており、思わず体を強張らせた。長髪で顔立ちが非常に整っているが、どこか冷たい目をした女である。
 そのまま有無を言わせずに引っ張ってこられた先の扉を開けると、この屋敷には似つかわしくない障子が見え、ポーカーフェイスに隠れて驚いた。障子の向こうには太陽の光があたり、中央に小さな人影が見える。ゆったりと動くその影に、知らず胸中ざわついた。
「お前の新しい世話係を連れてきた」
 ツカツカと大股で近寄った女が障子を開け放てば、そこに座り込んでいた主は真っ黒な瞳を瞠目させる。
 真っ赤な着物と、お気に入りでいつも頭に刺していた簪が揺れた。白い肌が差し込む光に照らされ、眩しい。ああ、少しばかり痩せたかも知れないと、香は知らず唇を噛みしめる。勿論、ここにいる女には分からないように、だ。
「よろしくッス」
 簡易に頭を下げると、つられる様に菊も頭を下げた。