そこにあるのにそこに無い。手を伸ばして得られる物など、たかが知れている。
イヴァンと作った雪兎が、暖炉の前で水溜まりになっていた。さめざめと泣き出す菊。
それを見て、どれほど強く思っただろうか。
僕が僕でなければ、どれほど良かっただろうか、って。
『冬の誓い』
お互い何も知らない振りをして、香も菊の世話をした。といっても食事を運んだり、彼女が好みそうな物を取り寄せるといった、非常に簡易な仕事だ。
いきなりビンゴッスね。心の中で兄と主にガッツポーズを送るが、部屋に戻ればそこは煉獄の様に鉄格子がはめられ、外には出られないようになっていた。空調、下水、裏口、全てチェックしてみても、出て行けるような所は一切無い。
相手もそうそう馬鹿では無い。東の出である香を警戒していないわけがない。思わず顔を顰めながら、兄へどう連絡をとろうかと思案に暮れる。姉はどうみても疲れ切って痩せており、早く出してやらないと益々衰弱していくだろう。
連絡が無ければ兄達も不審に思い、調査を入れるだろう。しかし、その時間も惜しい。手紙を広げながら、どう書けばイヴァンに読まれても気が付かれずに現状を伝えられるだろうかと悩んでいる香の肩に、パサリと白銀の長髪が落ちる。ギョッとして顔を上げれば、いつの間にか綺麗な顔をした美少女が立っていた。
「貴様の事、私も兄さんも信じていない。どうせ差し金だろ」
淡々とした口調に、香は眼を細めて彼女を見やる。そして口角を持ち上げ、肩を竦めた。
「What?何言ってんスか?」
「しらを切るな。その手紙、私が添削してやるから今ここで書け」
蒼い宝石の様な瞳が、香の手元に向けられる。思わず眉間に皺を寄せナターリヤを見返すと、無表情を返してきた。
「……お前はここが気に入る。だから、生きてる内は帰れない」
手紙はその日の内に書き上げさせられ、香が用意したものではない封筒に入れられ、彼女が持って行ってしまった。この手紙が本当に出されるのかも分からない。
初めから分かられていたのだろう。手元にあった着物のカタログを手に取り、思わず顔を顰めた。
「連絡は来たか?」
目の前のアーサーの言葉に、王耀は己の会社のカタログから顔を上げた。お互い好かない相手だったのにも関わらず、ここ最近は数日おきに顔を合わせている。
「いや、こねぇアル。あの家は元々家の情報が漏れることを嫌がってたから、当たり前かも知れないネ」
手紙のやりとりも嫌がろうだろうから、後は香が自力でどうにかするしかない。その事も踏まえ、身軽な彼に頼んだのだ。
「……だが、最近西の奴等に異様なほど我達の物が売れてるアル」
手元にあるカタログを捲り、彼女が好いていた紅の着物の項を開いた。その着物に始まり簪、帯、根付け、更には畳や障子なんかも取り寄せる人々が増えている。最初は東の文化がまたブームなのか、ぐらいに思っていたが、それだけでは無いと他社の売れ行きを調べると分かってきた。
「しかも全部、ブラギンスキの傘下である家ばかりアル……」
粗末に投げられたカタログにアーサーも手を伸ばし、端が折られたページを見て捲る。どれも彼女が身に纏っていた物のように見え、知らず眉間に皺がよった。
「しかし、菊とイヴァンの繋がりがわからんアル。イヴァンは街に出ることもねぇし、公の場に菊が赴く事もねぇ。どこで会ったか、皆目見当もつかん」
「……子供時代」
「あ?」
アーサーの言葉に王耀は驚き顔を持ち上げると、真剣な表情を浮かべていたアーサーの翡翠の双眼が見返す。
「子供時代なら、お前は殆ど干渉してないだろ?だったら可能性はあるだろ?」
「何言ってるか、お前。一体何年前だと……」
言葉の途中で黙り込み、王は瞳を大きくさせた。
「一度行き倒れになってる男を助けた言うてたアル」
パッと顔を持ち上げた王耀がアーサーを見返し、喋りながら思い出を辿るように眼を細める。
「……イヴァンは一度、失踪していた時期があった筈だ」
釣られてアーサーが言葉を発すると、王耀は真っ直ぐに彼と向き合い一つ頷く。
「だが、証拠もなくイヴァンの家に乗り込み事は出来ねぇアル」
投げられた言葉には暗に『調べろ』という意味が含まれている。カークランド家も随分多くの家と交流を持っており、その中には昔からブラギンスキ家を知っている家も多い。アーサー自身はまだ幼く詳しくしらない、イヴァンの過去も一時話題になっている。噂好きの彼等は喜んで話してくれるだろう。
「我は引き続き貿易経路を調べるアルから、情報を出来るだけ集めてくるよろし」
机の上投げ出していたカタログを手早く集めると、半ば駆けるように王は部屋を後にする。一歩近づけた喜びの反面、何を考えているのか分からないイヴァンの笑みを思い出し、身を小さく震わせた。
ブラギンスキ家は暗殺を生業にのし上がってきた、出来るだけ敵にはまわしたくない一家だ。その殆どが謎に包まれており、はっきりとした家族構成さえ分からない。今はイヴァンの手によって一掃されたのだが、過去には家の中で争いが多発し、そのせいでイヴァン自身も死にかけている。
そこまで考え、とあることを思い出す。それはイヴァンが最近結婚した事だ。
愛おしそうに菊がネックレスとしていた指輪。あれはもしや、結婚指輪であったのでは無いだろうか……?
昼はダメだ。昼は姉の閉じ込められている部屋の周囲には幾人もの人が張り付いている。今日はイヴァンは珍しく社交界に呼ばれいないし、妹のナターリヤも一緒に出掛けていった。姉とちゃんと会話が出来る機会といえば、今夜ばかりだ。
鍵は持っていないが、針金の一本でもあればほとんど全ての扉は開けられる。その腕が買われ、今はスパイとして雇われているようなものだ。
他の部屋に比べれば複雑な鍵であったけれど、廊下では人に見られることも無く扉を開け放つ。
初めてこの部屋にやって来たのとほぼ同じように、障子には一つの影が座っていた。窓の外に浮かんでいる満月が、銀色の光線でそのシルエットを照らし出している。深夜だというのに、眠れないのだろうか。
「姉さん」
障子を開けるのとほぼ同時に呼べば、月を見上げていた彼女は弾かれるように振り返る。
「香君っ」
自身と同じ真っ黒な瞳が歪み、初めて泣き出しそうな表情を見た。差しのばされた腕に導かれてそのまま抱きしめると、こんなに小さいのかと驚いた。大抵抱きしめられたのは、幼い頃の自分だったから知らなかったのだろう。
「もう少し我慢してください。みんな貴女を捜してるッス」
しがみつく黒い髪の毛を指で梳かしながら言うと、香の胸に顔を埋めていた菊は数度頷いた。
「だからちゃんと食べて、寝て下さい」
痩せた背を叩くと、菊はゆったりとした動作で顔を持ち上げて香を見やる。近くで見ると、寒い月光のせいもあるのか、やはりとてもやつれて見える。思わず眼を固く瞑り、その肩に頭を預けた。
「香君、みんなに危害は及んでいませんか?」
今度は姉に髪を梳かされながら尋ねられ、香は暫く心地よさに黙ってから口を開く。
「大丈夫っす。ただ兄貴と湾と、カークランドさんは憔悴してるッス」
元気なのはヨンスばかりだ。ヨンスさえもいつも通りという程ではなく、彼は彼なりに行方を捜しているようではあった。
菊はアーモンド型の瞳を一度瞬くと、小さく首を傾げて「アーサー様も?」と囁く。その言葉にすかさず香は頷いた。
「多分、ここもきっと見つけるんで」
「……でも、香君、身に危険を感じたらすぐに逃げてくださいね」
ふんわりとなじみ深い笑みを浮かべると、菊は溜息を漏らした。そして素早く体を離す。
「もうすぐ夜会から帰ってくるでしょう。そろそろお部屋に戻っていなければ」
「……また来ます」
素直に引き下がり、扉の外を確認するように耳を付けた。今夜はイヴァンも夜遅くに帰ってくるとあり、屋敷は静まりかえっていて気配はどこにも感じられない。この警備の薄さをどこかおかしいと思いながらも、このチャンスしか無いだろうと香をこの部屋まで駆り立てた。
扉を出る前に振り返れば、菊は嬉しそうな笑顔で手を振っていた。明日からもう少し食べてくれるようになるだろうか、と胸の中で小さく問いかける。
菊ならば、後で中から鍵をかけるだろう。廊下は真っ暗で灯りは窓から差し込む月光ばかりだ。大理石で出来た廊下には暖かみは微塵もなく、凍えそうな冷気で満ちていた。音もなにもない、寂しい雪の中のような屋敷だ。
「へぇ、まさか姉弟だとは思わなかったよ。お義兄さんって呼んでいいよ」
その無音の廊下に響いたのは、楽しげなイヴァンの声だった。驚きそちらに視線をやれば、いつの間にそこにいたのか、影に溶け込んでいたイヴァンを見つける。銀に近い透き通った金髪は、今夜空に浮かんでいる月と同じ色をしていた。
驚く香をよそに、イヴァンは楽しそうに喉の奥をクツクツと鳴らす。
「姉弟そろって檻の中。僕ね、遠くにもっと大きな屋敷を造っていたんだ。ヒマワリ畑があるんだよ。君も来るでしょ」
そう、氷の塊の様な瞳が笑う。
それはイヴァンが社交界に居た、姉弟再会の数時間前。
彼等の姿は、非常に美しいながらも正しく異端者だった。カークランドが催している社交界に訪れたイヴァンとナターリヤを見やり、周りは訝しそうに顔を顰めている。
ブラギンスキの家系は呪われている家系、忌み嫌われながらも噂話の中心にいる人物だ。
「呼んでくれて有り難う」
その当主であるイヴァンがアーサーを見つけ、ニッコリと笑い片手を持ち上げた。一応ながらみんなが彼等を呼ぶはずだが、当の彼等は何だかんだと理由を付けて辞退していた。それが当然の流れであり、今ここに居るのが不自然なのだ。
「来たんだな」
「君が、呼んだんじゃない」
クツクツと喉をならすイヴァンに聞こえぬよう舌打ちすると、後ろに控えていた妹のナターリヤの視線が更に鋭くなる。アーサーはつい最近にブラギンスキ家を調べるまで、家族構成さえ知らなかった。イヴァンの上に姉が一人いるらしいが、彼女は既に家を出ている。
家族の中に何か掴める物があればと思ったが、カークランドの家以上に殺伐としていて、既に血縁は希薄である。
「最近誰かが僕達の周りをかぎまわってるんだ。僕、蝿は嫌いだな」
やはり気付かれていたか、と眉間に皺を寄せて睨むと、相手は怯むことなくアーサーを見やっていた。小さな沈黙の後、彼は先程までの笑顔を崩し影をたたえて微笑んだ。
「俺達に何か隠してないか?」
本人にいきなり核心を突くことを尋ねると思っていなかったため、言い放った時自分でも驚いた。巨体の圧迫感に負け口の中が渇いているのに気が付き、手に持っていたシャンパンを呑み込む。
「そんなのあるに決まってるじゃない。僕は生まれてきたときから呪われた家の当主だ。
君は栄光のもとに生まれたから、分からないかもね?君は太陽の下に住んでるけれど、僕はいつでも日陰に居る。君はきっと大切な物がいくつもあるでしょ?
でも僕には一つだ。たった一つ」
イヴァンの手の中にあったシャンパングラスに、音もなく蔦の様なヒビが入った。周りでは楽しげな音楽が奏でられているというのに、イヴァンの周辺ばかりは寒くて暗い。彼の住む世界のように。