『冬の誓い』
突然引っ越しの話があがり、ブラギンスキ家は上へ下への大騒ぎとなった。引っ越しといえど、主要な物を運び出すだけでその他は一式買いそろえるという。当然菊はこの街から出たくは無かったけれど、菊の意見は聞き届けられる筈が無い。
このままどこか知らない場所に連れて行かれ、あの愛した家には二度と戻れないのかと悲しくなる。
それよりも前に、香をどうにか家に帰してあげなければならない。その考えが頭の中をグルグル回るけれど、どうすればいいのか思い当たらなかった。
「菊さん……」
不意に名前を呼ばれ振り向くと、癖毛の少年がいつものようにポツリと立っていた。いつも震えていて小心らしいが、優しい少年だ。
「どうしました?」
首を傾げて尋ねると、彼は周りをグルリと見てから、そっと菊に近寄る。
「菊さん、これ……」
声を潜めて手渡されたものは、白い布にくるまれた何かだ。受け取るとズシリと重く、一瞬手が上下する。大きさは精々20p程度物だ。
「これは……?」
「誰も居ないところで見てください。絶対、ばれないように」
更に声を潜め、辺りを警戒しながら菊の手に乗ったそれを隠すように、己の手を乗せる。泣き出しそうな表情で菊を見上げたライヴィスの頭をそっと撫でた。この辺りで、ソレが一体なんであるのか大凡の予測がついていた。
「ありがとうございます。大事に使わせていただきます……しかし、あなたは大丈夫ですか?」
青ざめていたライヴィスは、コクコクと大きく頷く。目には一杯の涙が溜まっているが、いつも子供っぽい表情が引き締まって見える。
「これは、僕とトーリスからです。トーリスも貴女が心配だって。それで、護身用に……」
後ろでかすかな物音がし、反射的に菊はソレを布団の下に隠す。しかし足音はその部屋を通り過ぎ、廊下をゆったりとした動作で抜けていってしまう。その音を送ってから、ライヴィスはホッと深い溜息を吐き出した。
「お休みなさい。どうにか貴女が無事に出られるのを、祈ってます」
逃げ出すように部屋から出て行くライヴィスを見送り、蝋燭を近づけると入り口に背を向けてソッと布を解く。炎に照らされて、ギラギラと銀の鉄に反射して赤く燃え立つ。思わず息を深く吐き出し、一撫でした。冷たい。
それは小ぶりながら鋭利なナイフだ。ブラギンスキ家の家紋が宝石で描かれた、飾り刀の一種ではあったが、鞘の中のソレは肌を裂く事は出来る。
存在を確認すると、菊は手早く押し入れの奥に仕舞い込んだ。朝布団をかたすのはこの城の侍女であるし、着物も着替える際に見つかる可能性が高い。明日、着替えてから香り袋を仕舞い込むときに帯に隠す方が安全だろう。
ブラギンスキ家への来客は驚くほどに少ない。その呪われた血が怖がられているのか、それともイヴァンそのものが恐れられているのか……恐らくその両方であるのだろう。寒い客室に待たされながら、王は辺りを見回した。
「わぁ、君から来てくれるなんて、僕嬉しいな」
ブラギンスキ家の城は、今では時代遅れなゴシックタイプだ。夜に馬車から見上げれば、その影はまるでドラキュラが住んでいる古城の様な雰囲気を醸し出している。その城の主は、やはり浮世離れしていた様子で階段を駆け下りて来た。
「イヴァン、久しぶりアルな」
「うん。薬は検出出来なくてごめんね。ところで今日はどうしたの?」
嬉しそうに頬を上気させると、王に座るよう促した。思えば、東の貿易業で成り上がった王家と、こんなにも積極的に仲良くなりたがる貴族もそうそう居ないだろう。一度怪しいと思うと、疑心ばかりが成長していく。
王耀が下からイヴァンの様子を窺いながら、慎重に言葉を選んだ。
「お前、ここを出て行くらしいアルな。一応挨拶に来たアル」
出されたコップに口を付けながら、中身を飲むことなく机に戻す。イヴァンは訝しそうな様子で首を傾げ、先を促した。
「そういえばお前結婚したらしいが、社交界にも連れて行かねぇらしいアルな」
世間話のふりをして鎌を掛ければ、相手はそれに気が付いたのか小さく笑みを浮かべた。
「彼女は体が弱いからね」
「……随分と大事にしてるようアルな」
その言葉にイヴァンは喉を鳴らして小さく笑うだけだ。
「最近我の会社を重宝してくれてるようだったから、お前に手みやげ持ってきたアル」
それまで鋭い眼光を浮かべていた王耀は、途端ニッコリと微笑んで指を鳴らす。後ろで構えていた東の男が、大きな荷物を二人の前に出した。それは、薄桃色の布地に細かな鶴の刺繍が入った着物……菊に昔王がプレゼントした着物だった。
イヴァンはパッと顔を輝かせると、立ち上がり嬉しそうな笑顔を浮かべその着物に近寄る。指先で軽く撫でると満足げに頷いた。
「お前がそういうの好きだと思わなかったアル」
「妻が、ね」
はぐらかすように笑うイヴァンに、再び王は笑顔を消し眉間に皺を寄せる。
「ありがとう、有り難く受け取るよ。きっと喜ぶ。ごめんね、準備で忙しいからもう行くよ」
着物を持っていくように眼鏡を掛けた青年に指示すると、思わず立ち上がった王耀の制止を振り切り、イヴァンは歩き出す。扉の前で立ち上がった彼は、立ち上がってイヴァンを睨む王に笑いかける。
「それじゃあね、王君。……もう会えないなんて、寂しいな」
バタリ、と音を鳴らし、二人の間に厚い扉が閉ざされる。足早に歩き出したイヴァンに笑みはなく、慌てて付いてくるトーリスに「もう誰も通さないで。引っ越しを理由にね」と指示を出す。トーリスは一瞬息を飲み、小さな声で了解した。
いつものように抱きしめられていると、最近は嫌悪感も無くそのままにされる。どうせ犬か猫の様に自身にくっついてそのまま眠るのだろうから。イヴァンの腕の中でウトウトしていると、昔の夢をぼんやりと見る。
幼い頃もこうして、抱きしめられて寝入ったことが何度とも無くあったのだろう。二人だと寒すぎる山小屋で、抱きしめられていると暖かくて心地が良かった。抱きしめながら彼は妹の事を思い出す、と言っていた。まだ小さくて可愛い女の子で、本当ならば両親に愛されるべき子なんだと、言っていた。
「君にね、プレゼントがあるんだ」
もう寝入ってしまっていると思っていたのに、不意に声を掛けられてビクリと肩を震わせる。イヴァンは菊の首筋から顔を持ち上げると、のそりと起き上がる。まるで小山が動くような巨体を揺らし、彼はニッコリと笑う。
「本当はこのまま隠しちゃおうと思ったけど、君が喜ぶかなって思って」
そういって床に広げられた着物は、菊にとって見慣れた模様であった。ハッと息を呑み、ベッドから飛び降りて屈み込む。
「兄様……」
先程イヴァンがしたように指先で撫でると、その真っ黒な瞳を涙でウルウルと潤ませる。その頭を撫で、一緒になって着物を屈み込んで眺めた。
「ごめんね、菊」
食い付かんばかりに着物を覗き込んでいた菊の上から、想像も出来ない台詞が聞こえ、驚き顔を持ち上げた。と、菊の少しから眺めていた彼と目線が合い、イヴァンは眉根を下げて困ったように微笑む。
「あんなに一緒に住みたがってたお兄さんから、引き離したりして」
イヴァンがそんな事を言うと思っていなかった菊は、目を真ん丸にして彼を暫し見つめている。
「僕だって悪いなぁって思ってたんだよ。でも君、こうでもしないと一緒に居てくれないでしょ?」
しゃがみ着物を手に取りと、菊を見上げて再びニッコリと微笑んだ。その笑顔が、今までの物よりも悲しそうに見え、責める言葉は喉元で消えてしまう。着物を抱きしめると、菊が焚きしめた香の香りがフワリと感じられ、頬を緩める。
「兄様に変わりはありませんか?」
「……君がいなくて、落ち込んでるよ。君はいいね、愛されていて」
「あなただって愛されていらっしゃるじゃないですか……」
イヴァンは今夜、少しだけいつもとどこかが違う。不審そうな菊の視線を遮り、そのままベッドへと戻っていく。天蓋のせいで、位置的に彼の姿は見えない。
「僕には分からないよ。君が受けている様な物を、本当に受けているのかはね」
拗ねているのだろうか。まるで子供のような人だと、知らず菊は小さく笑う。そして笑った自分に驚いた。
「イヴァンさん、こんな風ではなく、もっとやり方があったとは思いませんか?」
菊に背を向けて寝っ転がっているのを見やり、ベッドに座り彼の顔を覗き込んだ。頬を膨らませた彼は、菊を見上げて藤色の瞳を細めた。鷲鼻が形良く、やはり彼女たちの兄妹だと心底感じた。
「だって君、僕を選んでくれやしないでしょ?」
腕を伸ばし、よしよしとイヴァンの掌が菊の頭を撫でる。今日ばかりは、子供の体温の様に彼の掌は熱い。
「君が小さかった頃、僕だって本気で結婚したかったんじゃないよ。……ただ、君の事が忘れられなかったんだ。
僕たちはあの後も会ったことがあるんだよ?覚えてないでしょ。君のお兄さんのパーティーに呼ばれたんだ」
王が菊はそういった会合には出ないようにしているため、あまり出席したことは無い。片手の指の数で事足りてしまうほどだろう。……その数少ない思い出を探ってみても、そこにイヴァンの姿は見出せない。幼い頃一緒に住んだ人でも、あまりに時間が経っていると忘れてしまうものなのだろうか。
「……でも君は分からなかった。ちいさかったもんね」
まるで思考を読まれたようで、思わず菊は肩を震わせ過去から戻る。
「けれど、姿形以外なら貴方のことは覚えていました」
「そうだね、そこまで忘れられたら、立ち直れないよ」
腰を引き寄せられ、されるがままに膝枕をしてやる。今夜のイヴァンは穏やかで、普段感じる恐怖心を覚えることは無い。
もっと言ってしまえば、家に残してきた弟との既視感さえ覚えた。二人きりの時だけは、彼も子供に戻ってしまうらしい。やがて膝元から心地よさそうな寝息が聞こえてくる。
いつもどおりの朝、しかし今朝はこのまま大移動が始まる。先に荷物は送ってしまったため、部屋は半ばがらんどうとして、寂しさに拍車をかけていた。菊は兄から貰った着物に身を包み、ぼんやりと天窓の外を眺めていたが、やがて控えめなノック音が聞こえ振り返った。
扉の所で頭を下げていた彼が顔を持ち上げると、菊はビクリと驚きに震え、思わず立ち上がる。
「その傷は……?」
口の端にバンドエイドが貼られ、左目が腫れている。駆け寄り恐る恐る指先で触れると、表情を出さない弟、香は目を窄めて痛そうにその指先から逃れようと体を捩る。
「屋敷から出ようとしたら、見つかりました」
fuck、と小さく呟くと、彼女に抱きしめられるままにされる。よしよしと頭を撫でられ、耳元で何度も「ごめんなさい」と謝られる。
「香くん、私が絶対にどうにかしてみせます」
キュッと手を握って決意をその瞳現す姉を見やって、香はなんだか嫌な予感を感じて目を細めた。そうやって姉が何かを決意する時は大抵、何かとんでもない事を起こす時だからだ。
「Be Coolッス。何かあったらオレが殺されます」
香が潜めながらそう言うと、扉が開き二人はハッとしてそちらを見やった。そこには不気味な笑顔を浮かべているイヴァンが立っている。
「さぁ、姉弟の会話は終わった?もうそろそろ出るよ」
ニッコリと笑うイヴァンに、二人は立ち上がった。
「……私達が姉弟だと、知っていたのですね」
帯の置くに潜めていたのに手を伸ばす菊に、香は思わず手を伸ばす。彼女が何を捜しているのかは分からないが、何かをしでかそうとしているのは、その表情を見れば分かる。
しかし香の制止も聞かず、菊は隠していた剣を取り出す。宝石が散りばめられた鞘を引き抜くと、銀色の刃が露わになった。部屋の灯りが反映され、白い光がヒラリと刃の上を滑る。
「……僕を刺すの?」
剣を構えた菊に、イヴァンは心底楽しそうな笑顔を浮かべる。眉間に皺を寄せたナターリヤと部下を押しとどめ、菊の前に一歩踏み出す。切っ先は真っ直ぐイヴァンに向けられているが、微かに震えてもいる。
「香君を帰してあげてください」
眉を吊り上げる菊と対峙し、イヴァンは楽しそうな様子でもう一歩踏み出す。イヴァンと刃との距離が近付けば近付くほどに菊は自身の呼吸と心臓が早まり、舌の付け根が渇いていくのを感じる。顔が熱くなるのと同時に、極度の緊張感のせいか、指先は冷たい。
「そうか、君が僕を殺すのか。それは思いつかなかったなぁ……でも、いいね」
腕を伸ばすイヴァンにそのまま手首を掴まれた。ゆっくりとした動作だったから、逃れようと思えば逃げられたのに、イヴァンの言葉に意識を捕られていたため、反応が一瞬遅れてしまう。
圧倒的な力に反抗することも出来ず、そのままイヴァンは刃を己の喉元に押し当てた。扉口にはナターリヤとトーリスが立っていたのだが、二人は慌てて部屋に飛び込む。が、それはイヴァンが挙げた手によって遮られる。
「頸動脈を狙えば、女の力でも殺せるかも。……刺すのは君だからね。そしたらきっと、もう僕の事忘れないでしょう?」
空いた手の方で菊の前髪を上げると、菊は顔を真っ青にさせ、額を撫でるその掌にも彼女の動悸の速さが伝わってくる程だ。
暫くそのままの体勢でいた後、イヴァンはニッコリと微笑んだまま菊の手首を離す。切っ先は震えたままイヴァンから離れ、よろめくように菊は数歩退いた。
イヴァンは心底残念そうな様子で目を細めると、小さく首を傾げる。
「菊?」
小さく名前を呼んだ時、彼女は手の持っていた刃を己の首筋に当て直す。イヴァンと同時に香もギョッとして声を上げたが、真剣な視線を菊から受け口を閉じる。
「香くんを帰してください!」
声は微かに上擦るが、その声色は揺らがない意志が見て取れて、誰もその行為を虚勢だとは思えない。
押し当てられた刃が顎下に強く押し当てられ、白い柔肌を破る。切っ先に一瞬溜まった黒を入れた赤の血は、やがて彼女の首をツツ…と零れ、白い襟に赤い模様を染み付けた。
手の震えは一切なくなり、押し当てられた刃は少しずつ奥へと潜っていく。
「ナターリヤ、窓の鍵を」
黙っていたが、やがてイヴァンは後ろで待機しているだろうナターリヤに、振り向くこともせずに命じた。呼ばれた彼女はたじろぐこともなく、腰に掛かっていた鍵を香へと投げて寄越す。
「逃げましょう」
普段一切の感情を見せない香が、焦りと懇願を混ぜた声色をだし、菊の袖を引っ張る。けれど菊は目線を一瞬そちらにやっただけだ。
「私は見送ります。早く行きなさい」
NO、と言わせない強い語調に暫く戸惑っていた香は、一つ頷き窓の鍵を開ける。飛び出した彼を確認するため、菊も窓の傍に寄った。
「ナターリヤ、外には彼を出すように言っておいで」
「……はい」
香が出て直ぐにナターリヤも姿を消す。窓から香が門をくぐるのを見送り、イヴァンへ向き直る。身が軽い彼ならば、もう再び捕まることは無いだろう。
「行った?なら早くソレをこっちに渡して」
手を伸ばし声色低く言えば、菊の視線がようやくイヴァンへと戻ってきた。極度の緊張が不意に解けたせいか、意識が妙なほど散漫となってしまう。握り締めていた掌が固まり、中々開くことが出来ない。
ようやく開いたと思ったら、カシャンという音と共にパッと意識が遠のいた。カクンと膝が折れるのを感じるが、直ぐに誰かに抱き留められる。
「……イヴァンさん」
遠のく意識の中、トーリスが困惑した声を上げた。菊を抱き留めていた主は、そっと優しく菊の頭を撫でる。
「ずるい、ずるいよ……」
ポツリと漏らした彼の声は泣き出しそうで、深く息を吐き出しながら少しばかり後悔した。