冬の誓い


 
 
 
 舌っ足らずの口調で、菊は夢物語をイヴァンに語った。外では牡丹雪がしんしんと降り注ぎ、何もかもを真っ白に染め上げている。それは音もない、淡々としながら泣き出しそうな程美しい光景だ。
 菊は、夏になると向日葵が咲くのだという。夏に窓から見下ろした、一輪の花を思い出してイヴァンは頬を緩める。しかし菊のいう向日葵は、もっともっと広範囲に咲き乱れる一面山吹色の世界を作り上げるのだという。
 
 ……僕も見てみたいな
 呟けば、イヴァンを見上げて菊は顔一杯に微笑んだ。
 
「ええ、ならば一緒に見に行きましょうね」
 
 
 
 
 『冬の誓い』
 
 
 
 
 
 
 倒れて直ぐに目を覚ましたのは、そこが激しく揺れている場所であったからだ。いつの間にか首には包帯が巻かれ、イヴァンに抱きかかえられている。
 馬の蹄、そして時折いななきが聞こえてくる。馬車の小さな窓から覗く世界は白銀であり、漏れる息は真っ白に染まり指先は冷たい。
「起きたみたいだね」
 菊を抱き上げていた主、イヴァンはにっこりと微笑み、菊へと顔を近づける。頬に己の頬をくっつける彼は、なんだか泣き出しそうな表情を浮かべている。流石に怒るか、最悪菊自身が殺されるとばかり思っていたが、どうやらそのつもりは無いらしい。
「引っ越しをするんですね」
「……ああ、そうだね」
 それは菊が目を覚ます十数分前、香が逃げだした後、イヴァンは妹のナターリヤと向き合っていた。
 
「王君が乗り込んでくるだろうね……僕はもう行くよ。この家は君にあげる……欲しかったでしょ?」
 抱き上げた菊の首にハンカチをあてて、イヴァンはゆったりとした動作で歩き出した。突然の幕引きに、ナターリヤは納得仕切れない様子で、縋り付くように兄を見上げた。
「兄さん、家なんて欲しくない!私も付いていく」
 イヴァンにとっては意外な返事だったのだろう、菊を見やっていた藤色の双眼が、ゆったりと妹へ向けられる。今の自分と同じように、泣き出しそうな表情を浮かべていた。
 まだ幼かった頃、姉や妹と一緒に暮らしていた。霞がかる程に遠い記憶でも、それが唯一家にいて幸せだった刻だろう。
 しかしそれはあまりにも遠い時代で、それを引きずり人を愛せるとは思えない。ナターリヤは自分にとって大切な人物であるのは違い無いが、二人の思考には差がある。まるで自分と菊の様に。
「ナターリヤ……君を信じてるから預けるんだ。また、帰ってくるよ」
 嘘だ。きっと帰ってくる事など叶わないし、どこまで逃げ切れるかも分からない。相手は王だけではなく、無駄に顔が広いカークランドも一緒なのだ。
「……嫌だ、兄さん。また離ればなれは……そんな奴、帰してやればいい」
 イヴァンの腕の中を睨むナターリヤに苦笑を浮かべ、イヴァンは首を振った。
「だめだよ。この子は僕の、君で言う僕だ。……ごめんね、ナターリヤ」
 一度抱えなおし、イヴァンは踵を返すとブーツの音を鳴らして歩き出した。後ろではナターリヤがしゃがみ込んだ気配を覚えるが、振り返らずに足早に馬車置き場に向かう。トーリスはナターリヤに駆け寄り、ライヴィスは後ろでおどおどとこちらを伺っていた。
 途中で包帯をとり、そのまま馬車に乗り込んだ。外は牡丹雪が舞っており、一面が真っ白な世界である。何もかもを覆い隠し、掻き消してしまう白い世界。
 
 既にカークランドまで情報が回っていることを考え、イヴァンは山の中を目指した。まだ在るのか分からないが、目指していたのは幼い頃の菊が住んでいた小屋である。忘れがたい全てが始まった場所だ。
 雪はしんしんと降り注ぎ、そのせいで馬車の速度もいつもより遅い気がする。山の入り口、民家もまばらで人は誰も居ない。夕方でまだ太陽は高いはずだが、厚く薄灰色の雲のがその光を全て遮っている。
 馬車を帰して歩き出すが、雪に足を取られうまく進めない。その上菊を抱き上げているのだから、一歩一歩の速度は遅い。
「歩きます」
 最初は寝ぼけていたのか、今はイヴァンが逃走しようとしているのを気付いた居るのだろう、菊は「どこへいく」のかは聞かなかった。それどころか、山の中に入ると率先して足を降ろす。
「逃げないの?」
「……可哀想な貴方」
 菊は一言、たった一言そう呟いただけだった。伏せられた瞼では、その瞳を真っ直ぐに見つめることも叶わない。
 黙々と歩き出すが、急いでいたために菊の服が随分薄手だったのに気が付く。着込んでいたコートを脱ぎその肩に掛けると、菊は悲しそうな笑顔でイヴァンを振り返って御礼を言った。
「寒いね」
「ええ、とても」
 指先も鼻先も真っ赤にさせ、菊は呟く。抱き寄せるとカタカタと震え、その体温が徐々に奪われているのが分かった。
 山の中腹まで来た頃には表面の体温がすっかり奪われ、心臓だけが熱く燃えたぎっている。それに対し菊は、顔色も真っ青で繋ぐ指も雪のように冷たかった。体力も極限まで落ちてきたのか、雪に足が取られ何度も転んだ。
「おぶさって」
 しゃがみこんだ菊に呼びかけると、彼女は一つ頷き素直に負ぶさった。しかし中々進まず、背中の体温が更に冷たくなっていく。
 焦りは消え、白い世界は掠れイヴァンは意識が飛びかけているのにやっと気が付く。それは、彼女と初めて出会ったときにタイムスリップしたような感覚を呼び起こした。
 何もかも終わりかと思ったとき、自身を助けてくれて介抱してくれて、無邪気に笑いかけてくれた。そこに潜むのはどんな尊い愛でも恋でも無く、忘れがたい物語さえ飛び越えた真実だった。自分が存在する、その真実そのもののように感じた。
 視界を横切る牡丹雪が、あの日とまるで同じだ。足は思うように動かず、やがて膝をつく。心残りは今負ぶさっている菊の事ばかりだが、彼女ももう、意識が飛んでいるのか何も言わない。
 寒さも感じないほどに手足は凍り、目指すべき小屋は白く彩られた世界には見えない。運動をしている筈なのに呼吸が緩慢になり、眠気に襲われる。頬にあたった雪は、もはや暖かみさえあった。
 
 眠り掛けたイヴァンの意識を覚醒させたのは、直ぐ下から聞こえてきた足音だった。恐らく沢山の人数が居るのだろう、足音はいくつも重なって聞こえてくる。
「君のお兄さんが来たみたいだよ」
 負ぶっていた人物の肩を揺すると、菊はぼんやりとだが覚醒をした。ホッと息を吐き出すと、その手をとって再び立ち上がる。
 菊も下の足音に気が付き振り返るが、必死にイヴァンの足跡を追いかけ始めた。体力が奪われ立ち上がることさえ困難なのか、懸命にイヴァンの腕に縋り付いている。
 
 
 香が王の屋敷に着き、真実を聞いた後の展開は早かった。イヴァンの元へ向かうと、彼の家には妹の姿しか無い。捜したければ好きにすれば良い。と彼女は言ったけれど、香を逃がしたイヴァンがそのまま家に居続けるというのは考えにくい。
 そこへ屋根に雪を乗せた馬車が帰ってくる。イヴァンの家紋を描いたその馬車に駆け寄り運転手に話を聞けば、彼等は街の外れの山の麓で降りたのだと言う。そこは、幼い頃菊を預けていた小屋がある付近だった。
「やはり、幼い頃に接触があったんだろうな」
 皮手袋をはめながら、雪で真っ白に染まっている山を見上げアーサーは呟いた。枯れ木に雪が積もり、視界は完全にふさがれている。
 王がイヴァンの事を報告すると、アーサーは何もかもを置いて飛んできた。人員も王の倍以上を引き連れていたために、山の探索は簡単だろう。第一、それほど大きな山でも無い。
 山、と聞いていたためにブーツを履いてきたため、歩きにくいがそれほど困難でも無い。二人の足跡は後から降ってきた雪に掻き消され、その軌跡は分からない。
 部下は追っているのがイヴァンだと知り、いくらかは狼狽していた。毒もそうだが、射撃の腕も随分上だと噂が流れていたためだ。
 
 アーサーと王の息が上がり始めた頃だった。全ての音を雪が吸収していた真っ白の世界の中、パーン……と甲高い銃声が鳴り響いた。みるみる目を見開いたのは耀で、彼は走り出す。真っ白な雪の上に点々と付いた血は容易に想像出来、あらゆる可能性が王耀の脳裏に走った。それは、王耀が愛しているあの子から流れ出るソレの可能性だってあり得る。
 幼い頃の菊に会いに、何度も通った道のりだ。雪に足を取られながらも進むと、先頭が見えたのは直ぐだった。
 顔を持ち上げれば豆粒ほどの小ささだが、風に吹かれる雪に遮られながら確かに捜していた二人が居た。しかし、部下は戸惑い中々近付こうとはしない。
「お前等発砲したアルか!?あそこには菊も居るのに!」
 顔色を変えて怒鳴る王に、部下は口ごもる。
「銃を、取り出そうとしていたため……」
 相手は菊という人質をとっている。彼女の命を考えると、自棄になったイヴァンによって殺される可能性もあった。豆粒の様な彼等に声を上げると、イヴァンは徐に懐に手を差し込んだため、反射的に銃口を向けた。
 弾があたったのかもいまいち分からないために、不用意に近付くことも叶わずにいる。菊の姿はイヴァンの下にあり、見つけられなかった。
 
 
 後ろからの足音がどんどん近付いてくる。このままでは捕まるのは時間の問題だ。
 イヴァンは振り返り、白い世界を踏みにじりながら黒い集団が自分達を目指して進んでいた。沢山の足音に息づかい、それはこの清らかな世界には、あまりにも異端な集団だ。
 小さな呻きを漏らすと、菊はまた転んだ。可哀想にスカートだった為、足は赤く切れ血が滲んでいる。もしもここに吹きすさぶ風を具現化したのならば、刃を持っているだろう。僕らを切り刻む刃を持った風だ。
 もう捕まってしまうだろうと思い、懐へ手を差し入れた。指先がポッと暖まるのを覚える寸前、彼等が持つ銃口がハッキリと自分達に焦点をあてているのに気が付く。考えるよりも先に、グイと菊の体を引っ張って胸の中に抱え込んだ。
 パーン……、と渇いた音が辺りに鳴り響き、イヴァンは己の左肩に炎が灯ったような熱さを覚えた。懐かしい痛みに意識が揺らぎ、再び雪の中に倒れ込む。抱きかかえられていた菊は、不穏さに気が付き反対の意も唱えない。
「イ、イヴァンさん……?」
 呼吸は短くなり、苦痛に顔を歪めながらも彼は身を捩った。そして懐に差し込んでいた手を引き抜くと、菊の手をとって無理矢理掌を開かせた。そこにコロンと、暖かな『何か』をそっと置く。それは、菊の指輪と対になるイヴァンの結婚指輪だった。
「君を、春に帰すよ」
 ヒュウヒュウと、抜けていく悲しげな風の声に掠れながら、イヴァンは小さく囁く。音もなくコートの端から垂れた血が、真っ赤なドットになって雪を染め上げ始めていた。
「……好きだよ、菊……僕を、愛して」
 言葉は途切れ始め、藤色の瞳は伏せられた瞼によって見ることは出来ない。ただその目尻に、透明な雫が滲む。雪が落ちて溶けたのか、それとも可哀想に、泣いてしまったのか。
「さようなら」
 全身の力がすっかり抜け落ち、菊の肩口にもたれ掛かりそのまま目を瞑る。菊は腕を伸ばすと、冷たくなっていくイヴァンの頭を抱え込んだ数秒後、どうにかイヴァンを除けて這い出た。
「兄さん!」
 消えていく最後の意識の中、菊の声がイヴァンの耳に届いた。彼女がまだ幼かった頃、どれほど幸せだっただろうか。何の疑いも無い笑顔を向けてくれて、ブラギンスキ家がどんな家かもイヴァンの噂も知らない少女が、イヴァンを等身大だけで見てくれる。
 駆けて離れていく菊の足音を聞きながら、あの日雪の中を近寄ってきたサクサクという小さな足音を思い出す。
 君だけだった。君だけだった。投げ出された裸の左薬指を霞む視界でみやり、ゆったりと目を瞑った。全ては黒い世界に覆われ、思い出以外は何もなくなった。それは、何とも幸せな世界だ。
 
 
 ジンジンと左肩に鈍痛を覚え、ぼんやりとイヴァンは目を覚ました。目の前に現れた天井は木目がハッキリ木製のものであり、見覚えのある物だった。一瞬記憶が昔と混同されながら、イヴァンは体を動かそうとして力が入らずそのまま左横へと頭を動かす。
 そこにあった左手にはしっかりと指輪がはめられており、思わず目の前に翳してしげしげと見つめた。
「起きたのですね」
 不意に扉が開かれ、現れた菊はふんわりと微笑んだ。これもまた夢かなにかだろうかとぼんやり見つめていると、ベッドの隣の椅子を引いて座り、手に持っていた水差しをナイトテーブルに置く。
「まだ小屋が残っていたんだね」
 グルリと辺りを見渡すと、そこは昔イヴァンに与えられた部屋である事が分かる。本当の事をいえば、小屋が残っているとは本気で思っていなかった。
「ええ、残っているとは思いませんでした」
 それも状態が良いことから、兄が管理していた事が分かる。イヴァンの応急処置をするため小屋に運び、医師を呼んだところだった。
「ああ、僕、生きてるんだね」
 左肩に鈍痛を覚え、頭が血不足で重い。すっかり死んだと思っていたというのに、痛みを感じるほどに生きていた。隣に座っていた菊は再び「ええ」と呟き、悲しそうに顔を歪める。
「あの時、どうして僕に付いてきてくれたの?」
 吹きすさぶ山の中、負ぶさっていた彼女を降ろして歩き出すと、菊はそのまま懸命に付いてこようとした。鼻も頬も足も真っ赤にし、そのまま簡単に死んでしまいそうだった。
「貴方と死のうと思っていたのです。だってあなた、可哀想なんですもの」
 淡々とした口調は感情を孕んでいないかのように聞こえるが、向けられた黒曜石の瞳は真剣味を帯びている。
「あなただって十分ずるい。自分が死ぬのはよくて、私が死ぬのはいけないなんて、我が儘すぎます」
 怒気を露わにする菊をベッドの中から見上げ、自嘲気味に笑った。
「だって、君がいなければ意味ないじゃん」
 喉を鳴らし笑いながらの言葉に、菊は緩やかに首を傾げる。そして左手をイヴァンの目の前に翳して見せた。その薬指にはめられていたのは、よく見慣れた物である。
「そんなの、目覚めが悪くて仕方ありません」
「……いいの?」
 信じられないものでも見るかのような目に、今度は菊がクスリと喉を鳴らして笑った。
「あなた本当、仕方の無いひと。人を攫って閉じ込めていたくせに」
「うん……ごめんね。ああ、雪止んだみたいだね」
 窓の外はまだ一面の銀世界であったけれど、空にははっきりと月が浮かんでおり、雲は一つも浮かんでいない。鬱蒼とした木々の合間から、その銀色のライトが辺りを照らし出している。
「そうですね、後は暖かくなるだけですね」
 ふんわりと微笑んだその横顔に見惚れて、イヴァンはうっとりとつられて笑う。笑った隙に何故かホロホロと涙が零れてきて、驚き自身の頬を拭った。しかし、拭えど拭えど零れてきて自分でも不思議に思う。
 不意に伸びてきた細い指先が、イヴァンの頬をなぞった。伏せられた瞼では、彼女の感情を読み取ることは難しい。
「この小屋に来ると、幼いころの事ばかり思い出しますね。もうすっかり忘れ去ってしまったと思っていたのに……」
 窓から見える影になった木々が、怖いと愚図ってイヴァンに抱き上げられた。いつまでも眠らない菊にも、痺れを切らすことなく、優しく背中をさすった。髪は雪を照らす銀色そのまま、肌はその銀にてらわれる白い雪そのまま。
 イヴァンと菊が暮らしたのは、たかだか一つの冬が終わるまでの間だった。もう行くよ、そう言った意味さえ分からずに菊は笑顔で頷き、イヴァンは寂しげに笑ったのだ。そして、一番大切なものと、菊の小さな掌に指輪を握らせた。
「ナターリヤさんも、いえ、みんな心配してます。貴方みたいな人が傷つくなんて、驚くでしょうね」
「酷いな」
 クスクスと無防備に笑う姿を初めて目にして、心の奥が踊り出す。しかし体は重く、起き上がることも出来ない。
「さぁ、もう少し眠ってください」
 立ち上がった彼女はナイトテーブルのランプを消すと、部屋の中には月光ばかりが差し込んだ。血液が足りないのか、直ぐにイヴァンは眠気を覚えて目を閉じる。
「……夢みたいだ」
 閉じた瞼が熱くなり、再び涙が滲んだ。返事を望まず呟いた声に、菊は優しい声で返事をする。
 
「おやすみなさい」
 
 
 
 
 完
 
 
 
何という投げやりオチ
皆さんの感性に任せます。わざと二通りの意味がとれるように書きました。
 
1個目、まじで菊さんはイヴァンさんと結婚する
2個目、本当に夢だ。ていうか死んだ(ちゃらーん)
 
 
 
私は1個目だと思います(・∀・)b
この後呪われたお屋敷を抜けて、あらゆる反対を受けながら小屋のような所で暮らすんだと思います。
もしも二個目だとしても、きっと菊さんはイヴァンが忘れられない(良い方向で)と思います。
 
物語としては、ラストはイヴァンの希望であり、死んじゃったんだよーっていう方が綺麗なので、どうしてもそう締めたかっただけです。