step step step ※ 昔書いていた普日♀の子育て小説、ちょっと続き書いてみました。
 
 
 『step step step』
 
 
 時計の針が十一時を迎えたころ、カーテンの隙間からは防いでも防ぎきらない明るい光が漏れ、ギルベルトは頭から布団をかぶりなおした。忙しないチャイム音を聞かなかった事にして、しばらく放置していたら、やがてそれは激しいノック音へと変わる。
「あーもう、うっせぇなぁ」
 ガシガシ頭を掻きながら扉から顔を出すと、いつにも増してキチッとスーツを着込んだ弟が顔を引き攣らせる。
「兄貴、なんて格好をしてるんだ!」
 パンツいっちょで無精ひげを撫でるギルベルトに吠えたてると、ギルは心底鬱陶しそうに片手を振った。数年医学界の一線で働いていたギルベルトには数年プーやってても余裕なほど、蓄えもある。毎日といっていいほど時間をパチンコでつぶしても、競馬で負けても、貯金額はまだなくなりそうにない。
「で、んだよルッツ。お前まだ働いてる時間じゃねぇの?」
 燦々と照りつける太陽を憎々しげに見上げるギルベルトに、ルートヴィッヒは思わず深いため息を吐きだした。
「ひとつ頼みごとがあるんだ。この子の面倒を見てほしい」
 この子、と言われてようやくルートヴィッヒの横に立っていた少女へと目がいった。ルートヴィッヒの膝ほどにしか身長もなく、押し黙った姿は小さい子には似つかわしくない。
「……お前の隠し子、じゃねぇみてぇだしなぁ……」
「クライアントの子だ。わけあって預かることになった」
 
 訳……。
 ルートヴィッヒが経営する精神科のクライアントの一人に、直ぐにカッとなって娘に手をあげる母親がいた。一昨年程から仕事がうまくいかなくなったため父親は酒びたりで、小さな子供を育てる環境に無いと、母親が泣きついてきたのだという。施設に入れるのも可哀そうだとルートヴィッヒが連れてきたらしい。
 もちろんギルベルトは拒絶をしたものの、ギルが面倒を見られないとなると施設に送ると脅され、結局家へと招き入れた。物の少ないギルベルトの家は閑散としており、生活感はあまりない。
 台どころでココアをいれながらリビングを見やると、やはり感情を見せずに少女は黙り込んでいる。年はまだ8歳だと聞かされていたけれど、雰囲気だけならばずっと大人びて気持ちが悪いほどだった。
「なぁ、名前なんてぇの?」
 ココアを手渡してしゃがみこみ尋ねると、少女は真っ黒な瞳を下にずらしてギルと視線があわないようにする。
「……菊」
 つぶやいた言葉は小さいけれど、静かな室内ではよく聞こえた。
「菊、か……あのな、俺今日ちょっと予定あんだよ。好きに過ごしてていいかんな。飯は冷蔵庫にあるから適当に食っとけよ」
 しわくちゃな服に袖を通し、ヒゲを剃りながら彼女にベッドがある部屋を案内する。客間としてずっとほったらかしていた部屋は多少埃が積っていたけれど、使えないほどではない。菊は小さな頭で数度うなずくだけで、表情の読めない顔でギルを見上げただけだ。
 
 色合いの良いカクテルを前に、フランシスはギルベルトの姿を見つけ右手を上げる。ギルベルトは両腕で抱えていた、パチンコの戦利品を机の上に置く。
 ルートヴィッヒが連れてきた子供は、ギルベルトが昔面倒を見ていた患者に雰囲気が似ていて、一緒にいたくなかった。火を使わないように言ったし、電子レンジでなんでも事足りるだろう。
「久しぶりだな。アントーニョは?」
「トーニョは今日仕事はいったってさ」
 アントーニョは小さなレストランを経営しており、フランシスは洋服のデザイナー。二人が多忙であるため、三人揃うのは非常に珍しい。
「ギルちゃん、まだプーなの?」
 くすくす笑うフランシスに表情をしかめ、胸ポケットから煙草を取り出して火をつける。
 
 夜の九時を回る頃、程よく酔っ払った二人はツマミをつつきながら下世話な話に花を咲かせていた。しかし空がぐずつき、雷が鳴り響いたのにハッとギルベルトが顔を上げる。
「そういえば今日、ルッツがガキを連れてきたんだ」
「え!隠し子?」
 ニヨニヨと笑うフランシスに手を振って笑い声を立てた。
「ちげぇって。なんかクライアントのガキらしくって、俺が引き取ることになったんだってよ」
 大きく煙草を吸って煙を吐き出すと、フランシスの表情がかすかにこわばる。
「え、ちょっと待って。ていうことは、今ギルん家にいるってこと?」
「ああ、でも大丈夫だろ?ルッツは大人しくて賢いって……」
 ギルベルトの言葉を遮って、破裂音に似た雷が聞こえる。思わずビクリと二人肩を揺らすと、叩きつけると言っていいほどの大粒の雨が窓を激しく叩き始めた。先程ジッとギルベルトを見上げた真っ黒な瞳を思い出し、黒い世界を窓から覗き込む。
「何やってんだよ!今日は払ってやるから早く帰りなって!」
 窓を見上げていたギルベルトの尻を叩き、フランシスが珍しく声を荒げた。
 
 家の電気はついておらず、机の上に荷物を置くとすぐに客間へ顔をだす。そこにも菊の姿は見つからず、家のすべての電気のスイッチを点けて回った。電気のスイッチは子供の背では押せない場所にあるとようやく気が付き、またルートヴィッヒにどやされるとため息を吐く。
「菊ー?……たく、めんどくせぇな」
 このままベッドへ行って寝てしまおうかと思うが、さすがにそれは憚れて戸棚も一つずつ開けていく。再び雷が鳴り響き、ビリビリと衝撃に窓ガラスが震えた。
 客間のクローゼットを開けた時、衣服の奥で小さく丸まった少女を見つける。ただ丸々ばかりでうんともすんとも言わない。
「菊、怖かったのか?」
 衣服をどかして小さな頭を撫でるが、彼女は小さくなったまま動かない。
「ご、ごめんなさい……」
 ようやく呟かれた言葉は半分埋もれていたけれど、ギルベルトの耳にはハッキリと届く。クローゼットから引きずりだして抱き上げ、落ち着かせるように背中を優しく叩いた。ココアを渡した時には気がつかなかったけれど、彼女の右手の甲にはハッキリと青あざが付いている。『虐待を受けていて』という弟の声をハッキリと思い出し、指先でそっと撫でた。
 俯く黒い瞳は怯えと諦めで揺れて沈んでいるけれど、決して潤んではいない。ギルベルトの弟である、今こそ無骨なルートヴィッヒの幼い頃を思い出すが、彼も泣かないもののいくらかはその頬を濡らしもした。しかし彼女は出会ったときからずっと、泣く事どころか笑うこともせず、ただひたすらギルベルトの顔色ばかりを見つめている。
 冷蔵庫の中身には一切手を付けられていなかったので、冷凍庫に保管してあったグラタンを温め、手早く生野菜を切ってサラダを作る。菊は未だに鳴っている雷が怖いのか、黙りこくって体を小さく縮ませていた。
「ほら、飯だ。ゆっくり食えよ」
 サラダにドレッシングをかけ、出来るだけ小さいスプーンとフォークを捜しだして手渡す。小さな掌はいくらか戸惑った後、しっかりと掴んで食前の「いただきます」もしっかりと済ませた。基本的な、しっかりとした教育はどうやら受けてきたようだ。小さな掌、口、で懸命に食事をしている姿が可愛らしく、思わず笑みをこぼす。
 時折心配そうにギルベルトを盗み見る姿さえなければ、道路を走っている小さな子供達とさして変わらない。ゆったりと続けられる食事を見守るのは彼女にとってもプレッシャーだろうと思い、ルートヴィッヒが菊と一緒にもってきた鞄を開く。パジャマと下着を取り出し、一緒に入れられている物を物色する。
 子供ならばいくらでも持っていそうな……例えばぬいぐるみだとか、絵本だとか……そういう類が一切入っておらず思わず眉間に皺を寄せた。そのままの足で物置の中に入り、奥底に放置されていた段ボールを引っ張り出すと、ガムテープをひっぺがえす。綺麗に整頓されたルートヴィッヒの遊び道具を一つずつ摘まみあげ、思わず懐かしさで笑みを溢した。
 
「食い終わったか?なら次は風呂だな」
 リビングに戻ると、台所へ食器を運んでいる菊が驚きの表情でギルベルトを見上げた。感情が読めない表情に苦笑を浮かべると、抱え上げていた食器を取り上げ流し台に置く。
 パジャマと下着を持たせて風呂場まで案内すると、シャンプーやらリンスの場所を案内していく。一緒に入るか?と笑いかけると、円やかな白い頬を真っ赤に染めてフルフルと首を振る。ようやく人間らしい表情を見せたため、思わず頬を緩めて絹糸のような頭をガシガシと撫でた。
「タオルはここに置いておくからな。オレはリビングでテレビ観てるから、あがったらドライヤーかけてやるよ」
 菊をお風呂場に入れてから、アルコールで涸れていた口内を潤すためにコップに水を溜める。鞄の中に菊の私物と一緒に入れられていた、ルートヴィッヒから預かった菊の母親からのノートを捲った。分厚いノートに文字が書かれているのはほんの数ページ、好きな食べ物程度の事が書かれている。
 大した情報も得られずに溜息を吐きだすと、仕方なしに次のページに今日の日付を書き込み「雷が嫌い」と一言だけ書き加えた。ペンを置くのとほぼ同時に、扉の隙間から髪を濡らしたままの菊が戸惑いがちに顔を覗かせる。
 
 サラサラの長い髪を乾かしきると、小学生が起きている様な時間ではとっくになくなっていた。浸かっていない部屋は一つあったけれど、ベッドが置いてあるのはギルベルトの物だけである。ウトウトとし始めていた菊を抱き上げると寝室の扉を開け、ナイトテーブルのライトだけを点けキングベッドの端っこにおろす。
「ベッドは一つしかねぇから、先に寝てろな」
 不安そうな様子でジッと見上げる菊の頭を再び撫でてから、背中に隠していたルートヴィッヒのものであるテディベアを手渡すと、今日初めて眼をキラキラと輝かせ恐る恐るテディベアの頭を撫でる。初めて見る子供らしい姿に頬を緩めると、ナイトテーブルを残して部屋を出た。
 リビングに出るとルートヴィッヒに電話をかけ、取りあえず文句と共にこれからの事を聞いていく。菊は今学校を休学しているけれど、あと一週間ほどで復帰する予定だという。養育費はちゃんと相手から振り込まれるものの、いつ引き取ることが出来るのかは解らない、とのことだ。重い溜息を吐きだして電話を切ると、ようやくシャワーを浴びに向かう。
 正直同居人を煩わしいと思うのと同時に、幼いルートヴィッヒを育てていた頃を思い出し、どこか心が浮き上がる。そんなことを想うのは、ここ最近、ほとんどの時間を一人で過ごしていたからであっただろうか。
 全てを済ませて寝床へ行くと、菊は先ほど与えたテディベアをしっかりと抱きかかえて寝息をたてていた。ベッドに座ってその顔を覗きこむと、その頬に涙の跡がついている。指先で涙跡を拭うと、ナイトテーブルの電気を落としてベッドの中へと潜り込んだ。