La Vie en rose ※ 一度オフで出そうと思い、色々あって没にした小説。アーサーが差別主義者の嫌な奴です。
 
 
 
 『蠍の火』
 
 
 
 アーサーは入って来るなり後ろ手で乱暴に扉を閉め、客室に置いてあった花瓶をなぎ倒す。甲高い悲鳴をあげ陶器は瞬時に粉々になり、中近東で仕入れた高い絨毯は水を吸いはじめる。客室で待機していたフランシスは顔を青くし、恐る恐るアーサーを覗き見る。
「いくらなんでも、ありえねぇだろ」
 苛々とした様子とは裏腹に、アーサーの声は静かで低かった。
「なになに、どうしたの?」
 恐怖心以上に興味が勝り、フランシスはさっそく目を輝かせ、姿勢を正す。殺気が籠った翡翠の瞳を揺らし、アーサーは忌々しげに盛大な舌うちを一つした。
「オレの結婚の話だ」
 途端、フランシスは「あら」と不思議そうに首を傾げる。この世界、政略結婚はどこでも当たり前に行われ、アーサー本人も結婚相手に特別興味を抱いている様子は無かった。
 アーサーの名誉心は人一倍強く、どんなことをしてでも兄弟の中で一番に成りたがっていた。それは単に兄弟仲が昔から最悪ということ以上に、彼が在籍しているカークランド家が、今まで沢山の犠牲を糧に成り立ってきた家だからだ。
 彼はそれを誇りに思い、その一端を担おうと思っているのだ。
「なぁに?昨日までは『どんな不細工だろうが、年増だろうが良い』って、言ってたじゃない」
 一人、二人と兄が会社を譲り受ける中、アーサーの父親は本会社を「アーサーに譲ろう」と言ったのだ。条件は一つ、父親の言うとおりの女と結婚することだ。アーサーは勿論上機嫌で承諾した。例え結婚相手がどんなに醜い相手だろうが、彼にとっては高い所の物をとる台ぐらいの存在なのだから。
「オレが言ってたのは、あくまで『人間』だ!」
「人間……?」
 思わず笑いが浮かぶ口元を締め直し、首を傾げて問いかけると、暖をとるように、アーサーは己の腕をさする。ダトダトと、大粒の雨が窓を叩き、昼時だと言うのに未だ空は厚い雲に覆われている。
 ほの寒い気候以上に、今彼は現実に肝を冷やされているのだろう。
「そうだ。オレは猿と結婚する気はねぇ」
 吐き捨てられた言葉に、ようやくフランシスは片眉を持ち上げる。彼が“猿”と例えたのは、恐らく黄色人種の事だろう。それも、英国が最近仲良くしている御国の、顔も見たことの無い人間だ。
 フランシスの所の芸術家も、いくらか彼の国に憧れ、熱心に真似をしていた。確かに日本の絹は品質も高く、ありとあらゆるものに高値が付けられている。
 しかしそれが黄色人種の差別を無くしたかと言えば、全くとは言わずも、殆ど効力など無い。欧州ほど優れた技術も無ければ、文化も怪しいと、大抵の人間が信じているだろう。
「ご愁傷様。でも、あの国と手を結ぶのは、確かに有益だよ」
 貿易商を賄うカークランド家は、香辛料が今よりもずっと高値で取引されていた時代に、他よりも早く海へ出て大金を稼いだ。しかし時代は流れ、多くの人間が同じように稼ぐ遣り方を覚え、いまやその名も段々と下っている。
 新しい風が欲しい。そう思っていた最中、日本が開国し、そして十数年の年月をかけてカークランドは日本の貿易商を行っている人物と親交を深めた。
 日英同盟はもう更新されてもおらず、日本では陸軍青年が自国の天皇を崇め事件を起こしている。その上つい先月にはドイツがラインラントへ侵攻するなど、世界情勢は非常に不安定だ。
 だからこそ急いでいるのだろう。アーサーは腹立たしそうに舌打ちをすると、ようやく用意されていた紅茶に口を付けた。
「まぁまぁ、嫌だったら会わなきゃいいでしょ」
「……ガキをつくれって言うんだ。向こうが出した条件だとよ」
 恐らく向こう側に跡継ぎがいないため、正当な血を望んでいるのだろう。フランシスは思わずため息を吐きだすと、憐みを含んだ視線を送った。
「それで、どうするつもりなの?」
 勿論、長年の知り合いであるフランシスは答えを知っている。負けず嫌いで、出世欲が人よりもずっと強い彼が、否と言う筈無い。
「結婚式はこっちでやる。あのクソ親父、もう日取りまで決めてやがった」
 普段は本人を前にすると怯えてニコニコとしている癖に、フランシス相手には『クソ親父』と言ってしまうあたり、まだ19歳らしい。兄弟の前でも同様、反抗したことも無い、一見素直な少年であるから、余計に悪い。
「不細工で黄色くて目が糸みたいで、しかも生魚食うんだぜ?」
 食事の事は笑えないくせにと、ひっそりフランシスは笑みを浮かべる。なんせフランシスの故郷フランスでは、単に焼いた・煮たという単純すぎる作業を『イギリス風』なんて言うのだから。
 フランシスはそそくさと立ち上がると、扉へと向かう。
「……結婚式、楽しみにしてるよ」
 出て行く寸前にそんな言葉を残すと、背後から机をひっくり返すような音が聞こえ、思わず長い廊下を全速力で駆け抜けた。
 
 
 
 凍るほどに寒い海原を超え、ようやく解けるような暖かさが訪れた頃、目的の国にたどり着いた。港は非常に繁栄しており、着飾った人々や、そんな人々のための屋台がいくつも置かれている。
「菊、我の傍を離れるなよ」
 好奇心の強い菊は、気がつくと姿を消している事が多々ある。昔から菊と知り合いで、実の兄の様な耀は、まだ陸地に着く前に釘をさす。
 王耀は中国で貿易商を本職としており、イギリスへは仕事でやってきた。仕事の都合上菊について来られない菊の父親に代わり、自身の会社の船でここまで送り届けた。
 イギリスは発展した国であるが、発展が追い付かずに社会問題も非常に多い。特に労働者層の生活水準が低く、貧富の差が大きいことが、イギリスの治安を悪化させている。
 少なくとも欧州人はアジア人への差別が激しい。耀は帽子を目深にかぶり、菊の頭にも帽子を被せる。上陸と同時にイギリスの洋服に着替え、菊の黒くて長い髪は一つにまとめられた。
「本田様でいらっしゃいますか?」
 出て行く船の見送りで人々がごったかえす中、不意に背後から声を掛けられて振り向く。初老の、スーツをきっちりと着こんだ男性が一人、笑みをたたえて立っている。
「あ、はい……」
 緊張が体に走るが、直ぐに王耀が菊の腕をとり男性との間に割り入った。
「カークランドの使いの者アルか?」
「ええ、直ぐそこに迎えの車を待たせております」
 笑みを絶やさず、彼は慣れた物腰で二人を導く。自動車は道の脇に何台も泊められており、菊の嫁入り道具もすっかり運び出された。耀と別の車に案内された菊は、不安そうに、それでも瞳を輝かせて窓の外へ視線を投げた。
 高級車にパリと同じ程の規模で建てられたデパート、それからロンドンの巨大な銀行を隣に座る初老の男性によって案内された。しかし、菊が想像していた華やかな都では無く、眼の前の都市はどこか鬱々としている。
 道端には酔っぱらって眠る老人だとか、全身を汚して疲れ切り、とぼとぼと歩く少年の姿が見えた。ようやく終盤を迎え始めた世界恐慌は、それでも尚色濃く、この国に影響を与えているようだ。
「この地区は労働者が多いですからね。御屋敷の場所はもっと安全ですよ」
 菊の不安を読みとってか、執事だと名乗った男は笑みを浮かべて言った。
 
 
 新居は街から少し離れた土地に、大きく構えられていた。数階に及ぶ高さに、部屋数は想像できないほどどこまでも敷地は続く。
「ご立派なおうちですね」
 呆けて飛び出した言葉が、自分でもあまりに幼稚に思え、思わず口を塞ぐ。老人の笑みは変わらず、内心は読みとれない。
「旦那様は中で御待ちです」
 旦那様。今日会って、そのまま宿泊し、明後日には婚姻する。実感は勿論無く、不安ばかりが重くのしかかる。耀と連れだって屋敷に入ると、真っ先に赤い栄えた絨毯が見えた。
 続く階段の上には肖像画がズラリと並び、下品でない程度に高価な家具が置かれている。メイドたちはかしずき、その間を奥へと進んでいく。
「客間です」
 先頭を進んでいた執事がノックをすると、直ぐに声が返って来る。客間はそれまで以上に、調度品に凝っているのが入って一目で分かった。日に当たると解る程度に銀糸を織り込んだカーテンに、染みの一つも無い細かなレースが、木製の机に掛けられている。
 カーペットは中近東から特注したのか、ワインレッドに幾何学模様が編み込まれていた。それから薔薇を飾る花瓶は、どうやら伊万里焼らしい。色んな国の物が取り寄せられたようだが、綺麗に纏まっている。
「はじめまして、ようこそいらっしゃいました」
 キラキラとした真新しい調度品に目を奪われていた菊は、声を掛けられてから、ようやく人がいることに気がついた。輝く家具と同様、待っていた人は光を固めた様な、美しい色を持っている。
 金色の髪の毛に、母の形見に貰った翡翠と同じ色の、瞳。
 親だろう4、50歳の男性の後ろに、菊とほとんど同い年の青年が立っている。その方が自分の結婚相手だと思うと、頬にカッと血が上るのを覚えた。
「はじめまして、本田菊と申します」
 あまりにも眩しい光に、菊は腰を折って頭を低く下げ、彼らから目を反らした。黒い髪、黒い瞳、みすぼらしい体格が急に恥ずかしくなり、そのまま伏せ目がちに耀の後ろへそっと隠れる。
「我は王耀。訳あって菊の父の代理に来たアル」
 握手を求める姿は、流石いくつかの山場を乗り越えただけあり、非常に堂々としている。席を勧められ直ぐ、子供を置いて話し合いを始めた代表者達の言葉を、どこか他人事のように感じながら、菊はそっとティーカップに口を付けた。
 紅茶は何度も飲んでいるのだが、口内から胃の中にまで薫るダージリンに、思わずハッとさせられる。顔を持ち上げると、様子を伺っていたアーサーと丁度目があう。
 目があった瞬間、ふわりと彼はほほ笑んだ。柔らかな笑みは優しく、それが彼との初めてのコンタクトだった。
 
 
 通された部屋は、客間と変わらず丁寧に調度品を揃えられた、綺麗な部屋だった。窓からは庭の薔薇園が見え、一面を赤と緑に染め上げている。
「英吉利人にしては、中々良い奴だったアルな」
 菊自身は結婚相手であるアーサーと一言も会話を交わしていないが、優しそうな笑顔を思い出し、耀の言葉に頷いた。イギリスは晴れることが稀だと聞いていたが、うららかな青い空は幸せなこれからを暗示しているかのようだ。
 耀はそのまま菊の結婚式まで残り、アーサーは仕事で菊と会話する暇など一切なかった。
 
 
 日本では『ヤソ』なんて呼ばれ、軽視されている宗教がこの国では根付いていた。結婚式といえば白無垢しか知らなかったけれど、ヒラヒラなドレスに身を包んで、前日夜まで一生懸命勉強した通りに過ごした。
 いまだに慣れない英語を、必死に辿る。これから嫌でも聞き、話さなければならない言語だ。日本を出るまで深く根ざしていた不安は、先日見た夫となる人の笑みで幾分和らいでいた。
 式が終わり親族や関係者が全て帰宅し、通された寝室のベッドに腰掛け、もぞもぞと居心地の悪さに体を動かす。古来から契りを見せるというものがあったらしいが、お互い御断りをいれ、初めての二人きりとなった。
 扉が騒々しく開けられたかと思うと、天蓋の隙間から光る金髪が見える。思わず身を縮めると、ベッドの上に手をついて頭を深深と下げた。
「不束者ですが、これからよろしくお願いします」
 頭を深く下ろしたまま返事を待つと、足音が直ぐ傍まで聞こえ、そしてあからさまな溜息が吐き出された。
「部屋へ帰れ」
 出て来た言葉に驚き、弾かれるように顔をあげる。あげた先に、挨拶した時とはまるで違う、緑色の冷たい瞳が菊へ向けられていた。
「し、しかし……初夜ですし」
 前に見た姿とあまりに違うため、思考が混乱して菊は俯いた。心臓が冷え、舌が縺れて容易に英語が出てこない。
「だから、お前とはヤれねぇっつてんだよ。オレは、人間の女以外とは出来ねぇの」
 直接的な表現と、初めて受けたあからさまな差別に、恥ずかしさで顔が燃えるように熱くなるのを感じた。驚きで動かない足を叱咤し、肌着のまま部屋を飛び出すと、外で待機していたメイド達は一様に目を丸くしている。そのことがまた恥ずかしく、素足のまま自室へと駆けこむと、自身の顔を覆ってしゃがみ込んだ。
 喉元から嗚咽が漏れ、あまりにも単純に泣き出した己に驚きながら、真っ暗で寒い部屋の片隅で懸命に涙を拭う。あまりにも遠い地へ、あまりにも冷たい人の元へ嫁いだ事が恐ろしく、不安が渦巻き涙になって溢れだす。
 散々悩んだ後、もしかするとただ機嫌が悪かったのかも、などと思いこむことにし、眼を瞑った。今頃王耀は帰路、海の上で空でも眺めているのだろう。こんなにも早く故郷が恋しくなるのは思わず、冷たく凍える指先を擦り合わせた。
 
 
 
 否が応でも朝食で顔を合わせなければならない。寝不足で腫れぼったい顔で俯き、相変わらず綺麗な顔を輝かせるアーサーから眼を反らす。
「よう、よく眠れたか、猿」
 喉を鳴らして笑う彼は、随分とご機嫌なようだ。菊は小さな溜息を吐きだすと、手元のパンをちぎってスープに浸す。
「眠れたように見えますか?」
 菊が応えたことに、そして応えが怯えを滲ませていない事に、アーサーは微かに眉を寄せた。
「そういう口きけんだな」
 大人しく人形の様に頷く姿しか見ていなかったため、少々意外だが皮肉っぽくも無いから大して腹は立たない。
「【人間】ですから」
 途中で食べるのをやめて、逃げ出すように菊は椅子を引いて立ちあがる。追いかけてくる翡翠の瞳に背を向けて、空腹に微かに鳴る腹を抱えて自室に戻った。
 食事大好きな筈なのに、あまり食事はおいしくないし、アーサーに見られていると箸が進まない。くすん、と小さく鼻を鳴らすと、本国から持ってきた大切に食べている金平糖を一つ摘まむ。
 
 
 昨夜眠れなかったせいか、いつの間にかうとうとしていたらしい。玄関が勢いよく開く音で、菊は眼を覚ました。
『誰か来た……』
 もそもそベッドの中から起き上がると、窓から庭に留めてある馬車を見下ろす。見かけない紋章に首をかしげていると、不意に部屋の扉が破裂音がするほど激しく開かれた。
「ハロー!なんだい君が奥さんか!結構可愛いじゃないか」
 眼鏡を掛けた若い青年が、ノックも無く菊の部屋へと駆けこんでくる。慌てて髪の毛を正す菊を完全に無視し、彼はぎゅっと抱きつく。
「俺はアルフレッド、結婚式の時は冒険中で、立ち寄れなかったんだぞ」
 楽しげに笑うアルフレッドを余所に、ポカンと口を開けたまま立ち竦む。
「おいこらフレッド。ソレと遊んでる暇はねぇだろ」
 扉口で不機嫌な表情をしたアーサーが声をあげる。
「……ソレ、だってさ」
 アルフレッドは軽く肩を竦めると、人懐っこい笑みを再度浮かべた。
「オレはアーサーとはいとこなんだ。後で一緒に遊ぶんだぞ」
 菊の返事を聞く間もなく、そのままアルフレッドはアーサーを追いかけて出て行ってしまう。しばしぼんやりとしてから、ようやく我に返って髪を慌てて整えた。
 
 
 夕暮れ時の庭先に出た時、不意に頭上からアルフレッドの声が聞こえて来た。 「きーくー」  頭をあげると、子供の様に笑顔を浮かべた彼が、木の上から大きく手を振っている。眼を真ん丸にさせた菊が慌てて根元に駆けより、アルの名前を呼ぶと、更に瞳を輝かせた。
「かっこいいだろ!」
「危ないですよ、アルフレッドさん」
 木の根もとでもう一度名前を呼ぶと、彼は楽しそうな笑い声をたて、木の上から飛び降り、華麗に着地する。眼の前で大きく手を挙げて笑う義弟に、目を丸くしてから思わず小さく笑う。
「こんな所窮屈だろ?だからオレは家から出ていったんだ。この間行ったのはね、エジプトさ。知ってる?」
 菊が笑ったことに満足したのか、アルフレッドは菊の手をとって屋敷の中に入っていく。客間のソファーに座ると、彼は肩にかけていたリュックから、次から次へと、ガラクタなのかなんなのか、菊にはよく分からないものが出てくる。
 しかし物珍しいそれらに、途端目を輝かせて手にとる。ガラス細工の香水瓶をランプに掲げると、キラキラといくつもの色が踊った。
「それあげるよ。ガラスは直ぐに壊れちゃうだろ。だからオレには合わないのさ」
 アーサーのために買ってきた茶葉もテーブルの上にのせる。
「そんな、高いものじゃないんですか?」
「こっちと物価が全然違うからね。何個だって買えるさ」
 世界中を飛び回っている耀からも貰ったことのないような、綺麗な香水瓶に菊は内心飛び上がるほど嬉しかった。閉鎖的なアーサーと打って変わって、アルフレッドは随分と開放的で菊に対する差別心も少なくても表面上は無いらしい。
「おい、飯だぞ。手を洗ってこい」
 不機嫌を丸出しに、アーサーが二人に声を掛ける。アルフレッドは唇を尖らせて食堂に向かい、菊は鋭い瞳にたじろぎ部屋に立ち竦んだ。
「……あんまりアルフレッドに話しかけるな。色目使ってんじゃねぇよ、気持ちわりぃな」
 そう吐き捨てて踵を返した。冷たい後ろ姿に、思わず拳を固く握りしめる。
「……あなたの、御親戚だからに、決まってるじゃないか」
 目が合わないように余所を睨みながら言葉にすると、アーサーは何も言わずにそのまま部屋を出ていった。
 
 
 
 相変わらず脂っこい食事を、ナイフとフォークで粗食しながら、楽しげに喋るアルフレッドの言葉をぼんやりと聞いていた。食事中に会話をするのはアルフレッドだけで、菊は内心、アーサーに嫌味を言われないことにホッとした。
「ところでアル、いい加減オレの仕事を手伝う気になったか?」
 不意にアーサーが口をきくものだから、アルも菊も一瞬肩を揺らして驚く。
「何度も言うけど、そのつもりは無いよ。こんな堅苦しい生活が嫌で出ていったのに、どうして君を手伝わないといけないわけ?」
「馬鹿言うな。いつまでふらふら遊んでるつもりなんだよ」
 机を叩き声を荒げると、アルフレッドは心底嫌そうに顔を顰め、ナイフとスプーンを机に置いて立ち上がる。そのまま部屋を出ていく彼を追いかけることも無く、口を拭うと自室へ繋がる扉から出ていく。
 一人残された菊は、ナイフとフォークを握りしめたまま固まっていた。
 
 
 次の日、アーサーが再び書類に没頭する中、アルフレッドはぼんやりと湖を眺めていた。暫くその後ろ姿を見やっていたが、そっと隣に座る。
「カークランドなんて……所詮先代が家柄を金で買っただけじゃないか。貴族なんて、自由が無いだけなのにさ」
 貴族の最も恥ずべきことは、お金を稼いで成り上がる事。そんなことを信条とする内に、イギリスの貴族達はたちまち衰退していき、遂には家柄を売ることも辞さなくなってしまった。
 カークランドは最も忌むべき行為である、両替商で成り上がり、今は貿易商でどんどん財をなしていった。その結果、カークランドに自由は無くなり、好きでもない人間と家族になり子供を成すようになる。
 お金で成り立つ家とあれば、仕事も生まれた時から決まっていた。ただ決められた道を歩くのは、アルフレッドの性とは真反対で、逃げ出すのに十分な要素だ。
 日本で同じように育った菊には、アルフレッドの気持ちは痛いほど解る。
「次はどこへ行くんですか?」
「次は、日本にでもいこうかな」
 にんまりと笑うアルフレッドにつられ、菊も頬を緩めた。アルフレッドは立ち上がると、服についていた埃を叩く。
「……菊、君も来るかい」
 冗談めいた様子の呟きに驚き顔を上げて笑うが、空色の瞳は予想よりもずっと真剣さを帯びている。思わず目を大きくさせてから、ふるふると首を振った。
「そう。きっとそれが正しいよ。君、本は読む?」
「ええ、好きです」
 たった一つの、旅が出来る方法。アルフレッドは鞄から本を一冊取り出すと、菊に手渡す。本だと思ったそれは、よく見るとボロボロな日記帳だ。
「俺が旅を始めた時から、ずっとつけてるんだ」
 開けば案外綺麗な文字で、しかも食事に関することまで細かく書かれている。時折描かれたイラストも、何だか可愛らしい絵で、思わず小さく笑ってしまった。
「君が持ってなよ。俺は新しいのを持っていくからね」
「いいんですか?」
 きっと大切な、世界で一冊限りの日記だ。そう易々人に貸したりする物では無い。
「うん、いいんだ。読んだら感想をくれよ。いつかそれ、本にするから」
 軽やかな笑い声を立てると、アルフレッドは駆けていく。大きな体に似合わず軽やかな足取りの後ろ姿を、いっそ憧憬の念を込めて見つめた。鳥を「羨ましい」と呟くだけで、どうにかしようという努力もしない。
 一ページ目を開けると、彼の名前がまだ拙い様子で書かれていた。顔を寄せると革の香りと共に、彼が今まで旅してきた所の香りが漂う。
 アルフレッドはそれから十日間前後は一緒に暮らしていたけれど、ある日突然姿を消した。アーサーは朝から怒りと呆れと諦めをごちゃまぜにし、それは大層機嫌が悪くなる。いくらかの被害を被りながら、それでも菊はアルフレッドが旅立ったと聞き、嬉しかった。まるで自分が旅立つような高揚感さえ覚えた。
 暫く文句を言っていたアーサーも、窓の外を眺めながらどこか羨ましそうである。
「あいつ、兄さんと父さんが来るまで待ってろって言っておいたのに」
 苛々と呟くアーサーに、菊は「あんなクレイジーな家族になんて、構ってられないんだぞ」と喚くアルフレッドをそっと思い出す。本家とのご対面は、元来しなければならない事だが、確かに『嫌なこと』ではある。
 その身軽さが羨ましい……菊はこれから、アーサーの父と兄をもてなし、笑顔でアーサーと仲好ごっこをしなければならない。胃が少し痛むのを覚え、思わずため息を吐き出した。
「お前もうまくやれよ。ていうか、何も言うな」
 そわそわとタイを直すアーサーは、本日十数回目のセリフを聞きながら、苦笑を洩らして「はいはい」と返す。
「旦那様、奥様、いらっしゃいましたよ」
 メイドに声を掛けられ、がちがちに緊張したままアーサーは立ち上がった。
「お久しぶりです」
 入ってきた人物にギョッとする程の笑顔で迎えるアーサー。白けながらも菊はペコリと深く腰を折って出迎えた。
 最近カークランドは東の貿易港を持った事で益々力を増しているらしい。今回は恐らく、企業の要となっている菊と、それをうまい具合に繋ぎ合わせているアーサーの様子を伺いに来たのだろう。
 握手を交わしお茶の席につくと、さほど実にならない会話が繰り広げられる。その中で笑顔を浮かべたまま、菊は何も言わずに座り続けていた。多少の苦痛は感じるけれど、アーサーに苛められている時程ではない。
 
 
 いくらか時間が経って、父親が所用で席を立ったのを見計らい、彼の兄は煙草に火を灯し、甘い煙を吐き出した。先ほど以上に体を堅くする夫に、菊は不思議そうに眉間に小さな皺を寄せる。
「ようアーティ、元気だったか」
「はい、お陰さまで」
 彼らしくない笑顔に心の中で眉間に皺をよせつつ、表面上は穏やかに紅茶を一口、口に含む。
「お前のおかげで仕事が進んで助かる」
 クルクル喉を鳴らして笑い、もう一度煙を吐き出す。部屋一杯に甘い匂いが満ち、菊はそっと窓の方へと目線をやるが、勿論開けることも出来ずにジッと耐える。
「お前は昔からそうだったもんな」
 用意されていた灰皿に煙草を押し付け、火を揉み消す。
「とても便利だ」
 いつもアーサーが菊をいびるのと同じような皮肉に、思わずちらりと夫を見やれば、彼は綺麗な金色の睫毛を伏せがちに紅茶の中身を見やっている。ああ、なんていつもと違うのだろう、なんて、思わず下唇を噛みしめた。
「これからも頼む」
 口元に笑みをたたえて、彼はもう一本煙草に火を付ける。
 
 
 相変わらずの皮肉に耐えつつ、この後菊が何かを言ってくるのか、そればかりが気がかりだった。が、不意に隣の菊が立ち上がり、真っ直ぐに背筋を伸ばす。
「それ以上の侮辱は許しません」
 不意に声を挙げたのは菊だった。怒りといった感情を見たこと無く、当然のように感情の欠如が生じているのだと思い込んでいた彼女は、優しげな眉を逆立てて兄に詰めよった。
 傍観者であるのだろうと思われた人物が声を荒げたことに驚いたのか、兄も呆然とするばかりだ。
「私はアーサー様の妻ですから、アーサー様への侮辱は、私に向けてのものとお受け取り致します」
 一歩前に進み出ると、慌ててアーサーが止めに入る。しかし睨んだ目は怯むことは無く、キョトンとしてから兄は声を立てて笑った。
「結構御似合いじゃねぇか」
 軽い皮肉を言って、彼は父親と一緒に車へと乗り込む。玄関先で二人を見送ってから、二人は憔悴しきって家へと入っていく。
 終始無言のアーサーの後ろに付いて、心配と怒りを少々覚えながら彼の言葉を待った。深い深い溜息の後、彼はようやく呟く。
「なんであんなこと言ったんだよ」
 見えない表情を想い胃を痛めながら、静まり返った廊下をゆったりと歩きながら、床に向かって囁いた。
「……確かに私にとって貴方は、意地悪だし優しくないし、子供っぽいです。でも、家族ならそこも愛するものでしょう」
「愛なんて別に興味ねぇよ」
 もっと怒鳴られたり、最悪殴られたりまで想像していたけれど、アーサーはそれ以上何も言わずに黙々と歩くだけだ。途中で自室に辿りついた菊は、背中に向かって声をかけるが、彼は返事をしなかった。
 
 
 イギリスにもやがて嵐がやってきた。台風ばかりの故郷を思い出しながら、しなる木々を窓から見下ろす。窓を激しく叩く雨粒を硝子越しに触れ、溜息を吐きだした。一年子供が出来なければ日本に帰れる、その期限はそろそろやってくるのだが、そうなると今度は菊の妹がやってくることになる。
 今のままでは妹も苛められ、弱い彼女は折れてしまうかもしれない。
「おい」
 不意に荒っぽい声が聞こえ、驚きと共に振り返るとアーサーが仏頂面で立っていた。彼が菊の部屋にやってきたこと自体が初めてで、どう対応していいのか解らずに、ただ返事をして首を傾げる。
「今から温室に植物の様子を見に行くんだが、お前も日本からいくつか持ってきてただろ」
「……はぁ」
 確かにいくつかの鉢植えを持ってきて、年中寒いイギリスの気候を誤魔化すために温室で育てていたのだ。しかしアーサーの意図が解らず、その場から動かない。
「はぁ、じゃねぇよ。ほら、行くぞ」
 なぜか怒っている彼に腕を引っ張られ、温室へと向かう。思えばその時初めて直に肌が触れたのだが、気が付いたのは温室に付くまじかだった。
 桜は早々と枯れてしまい、一生懸命手を尽くしたけれど、結局だめにしてしまった。後は自身の名前と同じ菊をいくつかと、梅の苗がどうにかもっている。
 アーサーは自分自身で品種改良を施している沢山の薔薇の苗を満足そうに眺め、テキパキと移動の準備を始めている。
「でも、鉢の移動でしたらメイドの方に頼めばよろしかったのに」
 菊の鉢植えを抱きしめながら問いかけると、相変わらずの不機嫌顔が持ち上げられ、翠の瞳が訝しげに菊をにらんだ。
「他人に触らせられるか」
 私は別にやってもらってよかったのに。なんて言葉を飲み込んで、全て鉢を室内に移動し、中央の椅子に座ってアーサーをぼんやりと眺めていた。
「なんだよ、手伝え」
「他人が触ったらだめなのでしょう」
 舌うち一つすると、菊に背を向けて作業に戻る。暫くその様子を眺めていたが、立ち上がって鉢を抱きかかえた。
「……落とすなよ」
 つかれた悪態にはリアクションを返さず、ようやく最後の一つを抱え上げる。
 先ほどから雨粒が温室のガラス屋根や壁にぶつかり、騒がしい音をたてていた。ガタガタ揺らす程に風は激しく、小さな温室は今にも倒れてしまいそうだ。
「……あのな、明日写真撮らないか?」
 不意に働く手をとめて、アーサーが呟いた。小さな声だったため、雨音で掻き消されてしまいそうだった。
「写真?二人で、ですか?」
 菊の瞳が真っ直ぐ向けられているのに気が付きながら、薔薇の鉢に向けられたままの視線を戻せそうにない。「嫌ならいい」と子供っぽい事を言い、肩を落とす。
「アーサー様っ!」
 バタバタと雨が鳴る中、つんざくような菊の声が走る。次いでガシャンと菊の手の中にあった鉢が割れる音が響き、直ぐ更に大きな硝子が割れる音が響いた。
 吹き込んできた雨風でランプは吹き消され、薄暗さに拍車がかけられ、目が慣れない内には辺りも見えなくなったまま、何も解らず床に叩きつけられる。温室のガラスが破られたのか、激しい雨と風が吹きこんではアーサーを濡らす。
「いってぇ……なんだよ」
 後頭部の痛みに朦朧としてから、微かに見える胸の上に乗っかっている真っ黒の頭に手を乗せる。折れた木の枝でもつっこんできたらしく、そこらじゅうに硝子が散っているらしく、床についた掌に痛みが走った。
「おい、菊」
 肩を揺するが反応が無く、薄暗くて周りも見えない。手探りで恐る恐る彼女の頬に掌を当てると、驚くほどに冷たく呼吸も荒い。
「どうした」
 抱き寄せ問えば、震える声色がようやく聞こえてくる。
「足が」
 足……暗い中言われた通り彼女の足を探ると、生温かくぬめった感触が掌にべっとりと張り付く。瞬時に鉄の臭いが鼻に付き、抱き寄せた腕が固まる。
 そこでようやく物音に気が付いたメイド達が扉をノックした。ようやくランプに火を入れられ、温室の中をぼんやりと見渡せるようになる。
 硝子の屋根は破られ、先ほどまでアーサーが立っていた場所には大きな木の幹が転がっていた。そして先ほどまで綺麗なタイルが敷き詰められていた床には、土や硝子、そして血だまりが出来ている。
 自身の手にひらや額にもいくらかの切り傷が出来、血が滲んでいたけれど、それどころでは無かった。震える掌を握りしめると、どうしていいのか解らずに、ただ名前を呼んだ。
 
 
 
 ガラスで切れた足から発熱し、菊は数日間意識を失っていた。顔を真っ赤にさせ、アーサーの声かけにただ潤んだ瞳を向けるばかり。呼んだ医者の指示に従い、誰よりも積極的に介抱するアーサーに、誰もが不思議そうな顔をしていた。
 つい昨日までは、アーサーの言葉を懸命に考え、どれほどキツク当たっても決して見捨てたりしなかった彼女が、今は生死の境をさ迷っている。その事実は驚くほどにアーサーを動揺させた。
 タントンと、忙しなく雨が窓にぶつかる音を聞きながら、ランプ一つの危なげな光の下、菊の額に浮かぶ汗を拭う。
 環境の変化から、体には大分前から負担があった筈……もしも大きなストレスがあったのならば……高熱があまりに長く続く様だったら……医者の言葉を聞いても実感なく、朝になれば今まで通りの生活が始まるかと思えてしまった。
 ランプの灯りは生き物のように揺れ、あらゆる物質の影がその灯りにつられ、ゆらゆらと静かな室内に踊る。
「アーサー様」
 不意に名前を呼ばれ、眠っていたかと思っていた彼女が瞳を開け、ジッとアーサーを見上げていた。返事の代わりに頬に手を当てると、ぬるくなっていた額の上のタオルをとり、氷水に浸して堅く絞る。
「妹が、いるんです。私と違って、優しくて器量もよくて……」
 アーサーを見つめていた瞳は、遠く日本を見つめるかのように天井に向けられた。
「良い子なんです、とても。だから、私のかわりに来ても、苛めないであげてください」
 天井を見つめていた瞳から、ポロリと涙が零れ落ちる。今も窓を叩く雨粒のように、つるりと頬を滑ってシーツに溶けだした。
「……菊。大丈夫、熱は下がる」
 服の裾で涙の跡を拭うと、そのままほてった頬に掌を当てる。数日前と変わらない熱さと、呟かれたうわ言に顔を顰める。
 少し前の自分だったら、彼女が衰弱することを喜んだだろうか。いや、少し前では同じだったかもしれない。恐らく徐々に、少ないながらの触れ合いから、彼女にいつの間にか惹かれていたのだろう。
「カークランド卿、奥様のお怪我についてお話したいことが……」
扉口に立っていた医師に声をかけられ、再び瞼が閉ざされたのを確認してから席を立った。廊下の肌寒さに身震いしながら、影も出来ない暗がりに立つ。
「奥様の体調は安定してきています。しかし丁度健の部分を切ってしまったようで……縫いはしたのですが、どこまで回復できるか」
「つまり、後遺症が?」
 口調は非常に冷静だったのに、足元から徐々に震えが伝わって来る。医者が黙り込み、それが肯定だと気がつく。
 
 
 目を覚ますと体は重く、カーテンから漏れてくる光は眼が痛いほどに眩しいものだった。怪我をした右足にはジクジクと痛みが燻ぶっているものの、大した痛みでも無い。
 どれほど眠っていたのだろう……瞼を擦って起き上がろうとした所で、ベッドにしがみついている主を見つけて目を大きくさせた。アーサーが布団を握りしめ、寝息を立てていたのだ。
 どうしてここで寝ているか解らないが、起こさないようにそっと布団を抜け出す。しかし、一歩踏み出そうとした瞬間力が抜け、ナイトテーブルに思いっきりぶつかった。
 盛大な音を立て、ナイトテーブルの上の水差しが床にぶつかり、カーペット一面に水をぶちまける。
「……菊?」
 音の大きさに驚き目を覚ますと、切に待ち望んでいた通り、自分の妻の黒い瞳がアーサーに向けられた。散らばったガラスの破片も水もどうでもよく、アーサーも立ち上がり菊へ腕を伸ばす。
「ああ……私の、足が……」
 伸ばされた腕に、縋るようにしがみ付く。震えた声と視線は、アーサーへの恐怖よりも己の体の一部へ向けられた。
 彼女はその事実を聞かされては、勿論いない。
「足が……」
 しがみ付く手が震え、瞠られた瞳が徐々に潤みだす。喉の奥が詰まり、恐怖で頭が更に混乱していく。
「……菊、大丈夫。大丈夫だ」
 助けを求めてしがみ付いた腕を引き寄せ、思いっきり抱きしめた。驚きに縮こまるのが悔しく、落ち着かせるため、ゆったりと背中を撫でる。
「お願いだから、泣かないでくれ」
 きゅうっと抱きしめ、幼子をあやすように頬に唇を寄せると、彼女は怯えで萎縮する。慰める事さえ出来ないことに驚き、震える体を抱きしめたまま世界が滲むのを覚えた。
 
 ようやく落ち着いた菊をベッドで寝かすと、アーサーもゆっくりとした睡眠をするために、自身の寝室へ帰って行った。遠くで街から楽しげな音楽が響くのを聞きながら、久しぶりの睡眠は中々訪れない。思考はグルグルとめぐり、カーテンから漏れる昼時の灯りが逆に痛々しく胸に差し込んだ。
 いまだ、真正面から見たことも無い、無邪気な菊の笑顔を思い出した。特定の人にしか向けない、少女のような無垢を顕わす笑顔だ。手の甲を目頭に押し当てると、じんわりと瞳が熱を持つのを感じる。
 
 今までも十分自分を主張しなかったのに、彼女は更に引き篭もるようになった。一日に数度部屋を訪れても、大抵は書物に向かっているし、最悪ベッドの中で布団にくるまっている。
 庭が綺麗だとか、薔薇が咲いたとか、ボートを取り寄せたとか、アーサーが思いつく限りの事で外に出るよう促したけれど、ほんの少しだってアーサーの眼を見てくれなかった。そんなのでは笑顔に辿りつく事など到底無理ではないかと、アーサーを追い詰めていく。
 ぐしゃぐしゃの髪と、寝不足で隈を作ったアーサーを見やり、取りあえずフランシスは笑い声を立てた。笑われたことにアーサーは不満を露わにし、机に積み重ねられた手つかずの書類をつつく。
「何をそんなに悩んでるか知らないけど、菊ちゃんだって別にお前を責めたい訳じゃないだろ。責任感じるなんて、お前らしくないな」
 フランシスの相変わらずな軽い物言いに、アーサーは軽く顔を顰めた。
「責任とか、そういうんじゃねぇよ」
 片肘をつき溜息を吐くアーサーに、ようやくフランシスも笑顔を消した。
「お兄さん、お金持ちでしょ?」
「はぁ?」
 意味のわからない言葉に、ようやくアーサーもいつも通りフランシスを睨んだ。しかしフランシスもそんな眼光に怯むことなく笑う。
「だから、女の子には物以上に言葉をあげるんだ。物だけだと、冷たい男に見られちゃったりするだろ」
 片目を瞑って見せたフランシスに背中を押され、アーサーは薔薇の花束を自分で作り、彼女の部屋の扉をノックした。珍しく帰って来た声に、胸の奥が弾む。
「手紙書いてたのか?」
 風が舞い込み、レースのカーテンがふわりふわりと動いている。この部屋だけ切り取ったように、脂臭く汚らしいロンドンとは思えない。そんな中で、菊は机に向かって何かを書いている。
「……ええ、お父様に」
「そ、そうか。あのさ、これ、間引きしていらなくなったから、持ってきてやったんだけど……」
 喋りながら、どうして素直に言葉が出ないのだと、冷たい汗が滲むのを感じた。ぶっきらぼうに花束をテーブルに置き、菊の背後から手紙を覗きこむと、一面日本語で何も解らない。
「菊、紅茶を飲みに行かないか?」
「……アーサー様。私は、日本へ帰ろうと思っているのです」
 不意に手を止めると、真っ直ぐアーサーを見つめる。久しぶりに見る黒い瞳は、疲労と確固たる意志を滲ませていた。
「足もこんなことになってしまっていますし、それに、一年子供が出来なかったらって、御約束でしたし……
 前にも申しましたが、器量も性格もずっと出来の良い私の妹が来ると思います。この国で離縁は難しいと聞きましたが、私が生殖能力欠如していたとすれば、大丈夫でしょう」
 一息に言いきった後、笑いかけて瞼を伏せ唇を噛みしめた表情は、今にも涙を零してしまいそうだった。言葉に驚き体内が冷めていくのと同時に、泣いてくれるのかと喜ぶ自分が存在し、自身を驚かす。
 机の上に置かれた手紙をつまみあげると、軽い音を立てて二つに引き裂いた。驚きに目を丸くさせた菊の前で、細かく千切ってか紙吹雪をカーペットの上に降らす。
「向こうへの手紙はオレが書く。お前の結婚も、離婚も、オレが決める。お前の意見だけでどうにか出来ると思うか」
 そこまで言い、菊が尚更小さくなっているのに気が付き、目を泳がせる。
「……もうじきフェリシアーノが来るから、準備しとけよ」
「フェリシアーノ君?フェリシアーノ君がいらっしゃるんですか?」
 仲の良い友人の名前で、途端菊は瞳を輝かせる。女友達だったらまだしも、それが男というのが気に食わない。
「ああ、見舞いたいらしい」
 丁度ノックの音が聞こえ顔を出すと執事が、呼んでおいたフランシスが来ていることを耳打ちする。
「オレはフランシスと話してる。お前は玄関付近にいろよ」
 菊の返事を聞く間もなく、アーサーは部屋を後にし、客間へと急いだ。あんなに直そうと堅く誓った口調も、態度も、微塵も直せず、いつも通りに接してしまった悔しさと、日本へ帰ると彼女が言ったショックがないまぜになり、思わず立ち止まって顔を両手で覆った。
 取りあえず彼女の故郷には頼み込んで、子供の約束の期限を伸ばしてもらうしかないだろう。伸ばしたところで、彼女に受け入れられる日が来るかは怪しいけれど……
 本当は嫌なのを押さえつけ、思いを完遂するのは簡単だろう。そうしたいと思わないけれど、いつかしてしまいそうな自分も恐い。
 
 
 窓の外で歓声が聞こえ、身を乗り出してみると、イタリア産の車から見慣れた男性が三人降りてくる。イタリアとドイツの貴族、フランシスとも面識のあるフェリシアーノとルートヴィッヒ、そしてギルベルトだ。彼らは昔から菊と知り合いだったらしく、時折こうして会いに来るという。
 普段見掛けない嬉しそうな表情で、菊は彼らを手招き、そのまま建物内へ入っていく。見送ってから視線を前に戻すと、この家の主は顔を顰めていた。
「この間さ、菊ちゃんに相談されたんだよね。『最近アーサー様がやけに優しくて恐い。何か知りませんか?』だってさ。あんまり苛めないであげなよ」
 彼女からの言葉は、本当はもっと遠まわしだった。しかし泣き出しそうな表情は、相当参ってしまっているらしい。
「苛めてなんてねぇよ」
 苦々しく呟くアーサーを、疑わしそうにフランシスが覗きこむ。
 頬を赤くする姿は初恋を知った少年の様で、つい先日まで花街で札束をばら撒いていた男と同一人物と思い難い。はっきりいって、非常に気持ち悪い。
「どうせ菊ちゃんの前では仏頂面してんでしょ?」
 図星の言葉を溜息と共に吐き出した後、フランシスは悪戯っぽく笑って見せた。
 
 イギリスにしては珍しく晴天で、馴染みの面子で日向ぼっこをするにはうってつけの日だ。彼らは日光にふやけた猫のように、心地よさそうに庭でお茶をしている。
「こんにちは、菊ちゃん。それに久しぶり、みんな」
「あ、フランシス兄ちゃん、来てたんだね」
 真っ先に駆けて来たのはフェリシアーノだが、フランシスの背後にアーサーがいるのに気が付き、直ぐに菊のもとへ駆けもどる。相変わらず嫌われ者っぷりに、フランシスは何だか笑いさえ滲みそうになった。
「オレ達は仕事帰りに寄っただけだ。いつ行き来出来なくなるか、わかんねぇからな」
 菊の正面に座ったギルベルトが、変わらない笑い声をたてた。彼らの祖国ドイツは、第一次世界大戦を敗戦で終えてから国債で傾き、最近貧困から脱出するために怪しい動きを見せている。
 ギルベルトもルートヴィッヒも軍隊の上層部に属しており、軽そうに見え中々腹の底が見えない。アーサーは眉間に皺を寄せ、ギルベルトの紅い瞳を真っ向から見据えた。
 お互い敵意を剥き出しにしたため、一気に周囲の温度が下がる。菊の横に逃げていたフェリシアーノは、涙目で彼女にくっつく。
「ちょ、ちょっと!二人とも空気を悪くするのはやめてよ。あ、これ菊ちゃん作ったの?」
 慌てて場を取り持とうと、フランシスが声を挙げ、用意されていた椅子に座り机の上のマフィンを指さした。
「はい、教えてもらって作ってみました」
 雰囲気にドキドキしていた菊は、和めようとするフランシスの言葉にホッと息を吐きだした。
「ほら、アーサーも食えば?」
「あ、アーサー様は……食べられませんよね」
 前に籠ごとひっくり返された思いでが蘇り、菊はマフィンが入った籠を引っ込め、胸の中で抱え込んだ。菊の右にフェリシアーノ、左にルートヴィッヒが座っていたため、アーサーは仕方なくフランシスの横に座る。
「一つとってくれ」
 メイドによって直ぐに二人分の紅茶が用意されると、アーサーは菊に向かって手を伸ばす。暫く躊躇してから一つ手渡すと、崩して口に放る。
「何見てんだ」
 全員の視線が集まっているのに気が付き不機嫌な声を出すと、菊とフェリシアーノは思わず俯く。
「菊、庭を案内してくれ」
 不意にギルベルトは立ちあがり、立てかけてあった菊の杖を手にする。立ちあがり掛けたアーサーの服の裾をフランシスが摘まみ、坐り直させた。
「とりあえず、呼んでいただいてありがとう。まさかカークランド卿直々手紙が来るとは思っていなかった」
 ルートヴィッヒが探るようにアーサーを見やる。会話らしい会話さえしたことも無く、菊との繋がりでようやく挨拶を交わす程度である筈だ。
 正直、お互い菊を挟んであまり良く思っていない。菊の気が落ちてさえいなければ、呼ぶことも無かった。
「あ、あのね。あんまり菊を苛めちゃ、ダメなの」
 震えあがっている癖に、隠れながらもフェリシアーノが声をあげる。
「苛めたいんなら、お前らを呼んだりしねぇよ」
「そ、それは、そうだよね……」
 再び訪れる沈黙に耐えかねたのは、意外にもアーサーだ。ゴホン、と一つ咳払いをすると、偉そうに反らしていた背を真っ直ぐに伸ばす。
「あのな、えっと……」
 咳払いをした手をそのままに、耳の先まで真っ赤にし、アーサーはドンドンと机を叩く。隣に座っていたフランシスが、仕方なさそうに苦笑を浮かべて居住まいを正す。
「なんだかこの御坊ちゃんがさ、どうしても菊ちゃんと仲良くなりたいんだって。散々酷いことしたのにねぇ」
 明るい声で笑うフランシスの頭を小気味良く殴ると、頭から湯気が出そうになりながら顔を覆った。
「えっと……つまり、菊のこと好きなの?夫婦なのに、今更」
 フェリシアーノの横でルートヴィッヒが声を殺し、小さく噴き出す。
 
   足を引きずる菊を支えながら見事としか言えない、真っ赤なバラの園を抜けていく。ギルベルトは軍隊に入る前、幼いルートヴィッヒを連れて良く日本に出向いていた。その際、本田家に長い時は一季節滞在することもあった。
 フェリシアーノは彼らの知り合いであり、中国で行われたパーティーで出会った。
「その足、あいつにやられた訳じゃねぇよな?」
「これは、自分の不注意です」
「……ならいい」
 目深にかぶった帽子の裾から、赤い瞳が疑わしげに菊を見やる。
「これからオレとルッツはイギリスに来られなくなる。フェリちゃんもそうなるだろ。暴力は冗談になんねぇから、言えよ」
「は、はい」
 思わず潤みかける目に喝をいれ笑うと、荒く頭を撫でられた。
 
 庭をグルリと一周し戻って来ると、友人と夫は仏頂面を浮かべ、無言で向かい合っている。その雰囲気の悪さに慌てて近寄ると、先ほどまでギルベルトが座っていた、アーサーの隣の椅子を引く。
「あのねーオレ達今話してたんだけど、今度フランス兄ちゃんの所で万博があるんだって。ね、夫婦でおいでよ。オレもルーイも行くよ」
「ばんぱく……」
 新しい物が大好きな彼女らしく、眼をキラキラ輝かせて昨今騒がれている催しの名を繰り返す。ちらり、と眼の端だけでアーサーを見やると、興味無さそうにそっぽを向いて紅茶を飲んでいる。
「あの、大変嬉しい申し出なのですが、アーサー様のお仕事もありますし……」
 目に見えてしょんぼりとする菊に、ようやくアーサーもティーカップを置く。
「お前が行きたいなら、別に行ってもいいぞ」
『お前が連れていきたいっていったんだろ!』と胸中で突っ込みをいれる中、菊だけが顔を輝かせて「いいんですか」と声を弾ませる。
「じゃあお兄さんのおうちに泊まりなね」
「オレ達もお邪魔するからね」
 嬉しそうに抱きつくフェリシアーノに菊は頬を緩め、アーサーは顔を強張らせる。
 夜通し楽しげに会話をしている人らを尻目に、アーサーは残っていた書類を涙目に端から片付けていく。フランスに渡ったら本場の百貨店に連れて行って、おいしい物を腹いっぱい食わせてやるんだ……
 笑い声が響く中、泣き出しそうな己の下唇を噛みしめ、ペンを忙しく紙の上に走らせた。
 
 
 
 
 
うひー続きはまたすぐ(言うだけただ)作ります〜〜内容はコピー本とこれから大きく異なります。