La Campanella -ラ・カンパネラ-
ぼんやりと出された朝食を眺めていた菊は、名前を呼ばれてようやく顔を持ち上げ、真っ正面に座っていた人物と目が合い、慌てて視線をまた朝食に戻した。その顔が、耳まで真っ赤なものだから、王耀は疑り深い目線をアーサーに向ける。
ココで風呂を頂き、それまで着ていた薄汚れた服のかわりに新しい服を与えられ、菊は益々遠い国の異人になった様な気がして、アーサーはそっと目の端で彼女を追いかけた。
あの後、アーサーの告白の後、菊は慌てて夜の挨拶すると、無情にも窓を閉めてしまっていたのだ。一人残されたアーサーに当たる海風の、なんと冷たいことか。今思い出しても涙が滲む思いだ。
「情報を集めやしたぜィ。」
そんな余所余所しい雰囲気を破り、食堂に颯爽とサディクが入ってくると、空いていた菊の横の空間に腰を下ろす。相変わらず仮面を被って素顔を見えない様にしている。
「今北の国は統治者のイワンが行方不明で、混乱していて簡単には近づけません。
それでも中に入るとなると、それなりの武器と隠れ場所が必要ですぜィ。」
サディクは林檎を一つ掴むと、軽快な音を立てて齧り付く。そうしながらも懐から一枚の大きな地図を取り出し、林檎やら梨やらを重しに広げて見せた。それがどこかなど説明されずとも、北の国であることは分かる。
「入るなら海からですが、向かう都市さえ決まってねぇんなら、まずそこからさがさねぇと。」
北の国は資源に乏しい寒いくにであるのだが、国土だけは大きいので、勿論都市は多い。地図を見ただけでは、一体どこに行けばいいのか当然分からなかった。
「……隠れるなら、ソドニだよ。」
不意に上げられた声を上げた方を見やると、フェリシアーノが真剣な面差しでじっと地図を見やっていた。彼の指が伸びているのは北の国の歓楽街で、悪名高きスラムの街、ソドニだ。
自身の兄もそこに居るだろうし、例えそこに隠れていなくとも、情報が確実に手に入る街である。
ソドニはその昔巨大な炭坑都市であった。けれども近年資源を取り尽くしてしまい、いくら掘っても山から出てくるのは岩ばかりとなってしまった。人々の多くはその土地から離れ、後に残ったのはがらんどうとした、無設計に立てられたビルの群れだ。それは人が縦長の棒に寄生しているかの様であった。
その街に流れ込んできたのが、行き場を無くした犯罪者や住む場所の無い貧困者である。ビルの内部は複雑であり、独自に井戸や病院、学校、そして店や賭博地がはびこり、小さな都市国家を成していた。その為、警察も簡易に手が出せず、犯罪都市と成り得てしまったのだ。
「大丈夫、菊。オレが先に上陸して、一杯情報集めてくるよ。」
不安そうな表情を浮かべる一同に、フェリシアーノは慌てて笑顔を向け、そう頷く。「でも……」と口ごもる菊を抑え、フェリシアーノは尚も笑顔を崩さない。
「オレが育った場所だもん、心配なんていらないよ。」
そう言い切ってしまってからふと思い出す。そうだ、兄の嘘かも知れないけれど、フェリシアーノは今マフィアに狙われているのだ……瞬時、花が飛び散る程の笑顔を曇らせた。
「やっぱりごめん……」と切り返そうとするも、心配そうな様子でコチラを見上げていた菊に気が付き、口をモゴモゴさせただけで押し黙ってしまう。仕方がない、変装をしてでも……
取り敢えず帽子と眼鏡で変装をし、フェリシアーノは地に足を付けた。取り敢えずソドニで隠れられるような場所を探し、情報を集めればいいだけなのだが、もしも兄の言うことが本当だったら、それさえ恐ろしい任務だ。
最後まで「一緒に行く」と言ってきかない菊に良い格好をしてみせたけれど、一人で行動するのは不安であった。仕方がないと項垂れながら歩き出し、遠目に見える黒い塊の様なソドニの街を見上げ、溜息を吐く。
不意に背中を叩かれて振り返ると、目深にローブを被った小柄の人物を見つけ、思わずギョッとする。それは、確かめなくても誰か分かってしまう。
「なんで付いてきたのさ、菊!」
フェリシアーノが眉毛をハの字にしてそう訴えると、被っていたローブを下ろして、眉間に小さな皺を寄せた菊は顔を出す。
「だって、私の我が儘ですもの。」
意を決した菊に、何と言っても言うことを聞いてくれないだろう事を理解しながら、フェリシアーノはその場で暫く地団駄を踏んだ。確かに一人で行動するのは辛いけれど、スラム街に彼女を連れ込むのは嫌だ。
「でも君の兄さんが心配するよ。」と返すも、菊は首を振ってフェリシアーノの言葉に頷いてはくれない。もう完璧に付いていく気なのは見て取れる。
この国はスラムだけではなく、どこもかしこも危険だというのに、まさかココに置いていくわけにもいないだろう。が、連れて行ったら連れて行ったで、帰った時王耀にどやされるに決まっている。
これはチャンスなのか、のっていいのか……仕方がないので、フェリシアーノは菊の腕を掴み歩き出す事にした。
「取り敢えず、オレの傍を絶対に離れないでね。」
手を握ると暖かく、引っ張っていくと軽く彼女は付いてくる。もしも今がこんな状況で無かったのなら、非常に嬉しい事だったのだろう。そう思うと、悔しくてならない。
今頃、菊が抜け出した事に気が付いた船内は、今頃もの凄い騒ぎになっているのだろう。
「おい王耀!菊が居ないぞ、菊が!」
波にさらされて自然に出来たのだろう岩の洞窟に船を隠し、その中でフェリシアーノからの連絡を待つことにした一団の王耀の部屋に、アーサーが転がり込むようにやってきた。
この間の話をしようと思ったのだが、部屋には菊が居らず、それで慌てて王耀の部屋へとやって来たのだ。彼は薄暗い洞窟の中、ランプを付けて本に目を通していた。
「あー……そうだろうあるな。てかお前、菊を呼び捨てにするな。」
「そうだろうなって、お前……。」
本から目を離そうとしない王耀に、アーサーは言葉を失い立ち尽くすしか無かった。このシスコンだったなら、もっと取り乱してもよさそうなものなのに。
「菊が大人しくしてる訳がねぇある。まぁ今回は土地について詳しいヤツも一緒だし、どうにかなるだろう。」
スラムではよそ者に関しては厳しいが、一種の集合体であるからか、ヘタな事さえしなければ危険な目に遭うこともあまり無いだろう。寧ろ、フェリシアーノと一緒に居る事の方が危ない気がする。
勿論放っておくつもりも無いし、追いかけるには追いかけるつもりだ。有名なスラム街であるならば、それなり東の人間も住んでいるのだろう。紛れ込む事もまだ出来る。
隣を歩いていた菊が、フェリシアーノの腕に体をすり寄せ、キョロキョロと辺りを見回して猫かなんかの様に警戒している。
可愛らしいけれど、無闇に顔を出させると危険が及ぶ可能性があるから、ローブを目深に被らせたままにしておく。目を付けられたら、どこかに売られていく可能性だってあるのだ。
「取り敢えずオレの部屋に行こう。兄ちゃんが居るかも。」
そうだ、兄が居るかもしれないのだ。一瞬で目の前が明るくなった気がして、心なしかフェリシアーノの足取りは軽くなる。
もしも兄が居たのなら動きやすくなるし、自分自身と根本が似ててこういうのもなんだけれど、可愛い女の子には滅法弱いから、菊が相手だったら簡単に言うことを聞いてしまうだろう。
鼻の下を伸ばしている兄の姿を思い浮かべ、フェリシアーノは苦笑を浮かべて菊の手を握った。けれど、予想を反してフェリシアーノの家には誰もおらず、人が住んでいる様子も無い。
「居ない、ですね。」
菊がそう呟くのを聞きながら、一番ガッカリしている筈のフェリシアーノは笑顔を取り繕い、菊にソファーに座るように促す。もう革も剥がれ、ボロボロなソファーが情けないけれど、菊が座るとなれば良い物に見えるから不思議だ。
ゴミやらカビやらで荒んだ匂いのするこのスラム街に彼女は似合わないけれど、自身の家に座っている所を見やると、このままずっとココに留めておいてしまいたくなる。て、そんな事考えている場合では無い。
「ご飯とか買いに行かなくちゃね。腹が空いては戦も出来ないしね。」ああ、同棲中みたいだ。
噛みしめながら笑いかけるフェリシアーノに、菊も小さく首を傾げて見せた。部屋中、家具と言わず全てがボロボロだというのに、台所だけは調味料やら何やらが揃っている。
部屋には勿論食材など無く、近くのマーケット街で買い物を済ませ、部屋で作った料理を頬張りながら、これからの作戦会議をし始めた。結果、取り敢えず知り合いに声を掛けてみるしかないのだろう、という答えが出てくる。
スラム内は複雑になっていて、幾つものビルが立ち、行き来するのも土地勘が無いものでは無くては無理だろう。暫く来ていなかったにもかかわらず、フェリシアーノの覚えていた通りで、どうにか菊を、道的な意味で危ない目に遭わせる事はなさそうだ。
ただ歩いていると悪臭が時折鼻を掠め、それが気になって仕方がない。貧しい所の出身だとか何だとか、菊は気にしないだろうけれど……
「あー!なんや、生きとったんか、良かったぁ。めっちゃ心配したでぇ。」
角を曲がった瞬間、パァッと顔を輝かせた黒髪の男がフェリシアーノを見やるなり、嬉しそうな声を上げた。フェリシアーノは返信用の眼鏡の奥で、「あっ!」と目を大きくさせ、嬉しそうな表情を浮かべる。
「アントーニョ兄ちゃん!良かったぁ〜……兄ちゃんは?」
ここで言うフェリシアーノの「良かった」は、勿論多義的な意味合いを含んでのことである。いくらフェリシアーノが憎かろうと、マフィアのボスであるアントーニョと一緒に居れば、命を狙われる事も無いだろう。
「それが、隣国の王子を発見したとか言うてなぁ。」
ボリボリと頭を掻くアントーニョに、フェリシアーノは少々首を傾げて見せた。アホ毛がその動作によって揺れる。
「そっかぁ、ヘラクレスが見つかったんだね。」
そういえば自分の任務をすっかり忘れていた、とフェリシアーノが唇を尖らせた。と、その数秒後にフェリシアーノの後ろに隠れていた菊が体を乗り出し、フェリシアーノの肩に手を置く。
菊はフェリシアーノの言葉にすっかり興奮していて、思わず大きな声で、そしてそれまで被っていたローブを脱ぎ捨てる。
「ヘラクレス……ヘラクレスってもしかして、ヘラクレス・カルプシさんですか?」
必死な形相でフェリシアーノに縋り付く菊を一目見やり、アントーニョは嬉しそうに笑った。
「なんや、随分かわええ子連れてるやん。」
嬉しそうな様子でアントーニョがフェリシアーノにちょっかいを出すと、何故か恥ずかしそうな様子でフェリシアーノは笑う。が、菊はそれどころではない。
「うーん、確かそんな名前だったかなぁ。」
「そんな、じゃあ……生きてるんですか?」
一つ息を吐き出して、菊は力が抜けたのか、そのまま地面に座り込みそうになるから、慌ててフェリシアーノが彼女を支えてやった。驚いてフェリシアーノが声を掛けるが、菊は思わず力のない笑みを浮かべるしかできない。
フェリシアーノ自身菊とヘラクレスの繋がりを知らないし、ましてやアントーニョは菊を見たことも無かったのだから、2人で不思議そうに視線を交わす。
アントーニョが仲間になれば、ソドニでの行動はグッと簡単になる。それどころか、入ってくる情報量は多くなり、外との連絡もより簡易になるのだろう。
菊は菊で、開始してその日の内に心配していた人物の安否がハッキリし、嬉しそうにしていた。その丁度同じ時刻、他の船で他国に接触し情報を仕入れていたサディクが王耀の元へと行って「なんでお菊さんがいねぇんでぇ!」と叫んでいたけれど、これはまぁ後々の話とする。
アントーニョからどうにかロヴィーノに連絡を入れて欲しいと頼み込み、フェリシアーノと可愛い子のお願いは断れない彼は、笑顔で軽く「ええよー」っと笑ってくれた。
それから建物内を歩く際はアントーニョが一緒に居てくれるという。そして話を聞けばロヴィーノの話は嘘だったらしく、別段フェリシアーノは狙われてはいないらしい。
「あとはルートヴィッヒさんと、それからイワンさんですね。」
菊の『イワン』という言葉を聞きフェリシアーノは思わず少しばかり飛び上がり、「ギャッ」と悲鳴さえ上げた。フェリシアーノがそんな態度をとるのも納得が言っていた菊は、思わず苦笑を浮かべる。
「菊、イワンも助けるっていうの?」
「借りがありますので。」
それはもう随分酷い目にあったけれど、彼に借りを作ったままにするのは絶対にごめんだ。あの燃えさかる屋敷の中、確かに彼は菊を抱き上げて安全な場所へと運んでくれた。
フェリシアーノはそれでも納得仕切れない様子で唇を尖らせたりなんかするが、菊が「一人でも」と言い出す前に納得する振りをする。彼女を一人にさせたら、危なっかしくてならない。
もう随分前から乗りかかった船だ。この際ドカリと腰を落ち着かせるのが筋っていうものだろう。何より、彼女を見ているだけでしあわせなのだから仕方がない。
「明日はどこに行こうか、菊。」
夕飯を終えてそう問いかけると、菊は眠たそうな目を擦りながらフェリシアーノを見上げた。これは良いチャンスだ、と、心の中にいるもう一人のフェリシアーノが囁くのを、ハッキリと聞く。
その瞬間、扉のノック音が聞こえ、驚き二人は顔を持ち上げ、そちらを見やった。その間もノックの音は途切れず、不安と良い報せなのではないかという期待が心に混じる。
「はぁーい、だぁれ?」
フェリシアーノは明るくそう言いつつも、その瞳は酷く警戒の色を灯していた。
「……ルートヴィッヒの事についての話が。」
そう声が聞こえたものだから、2人は同時に色めき、菊は椅子の上から瞬時に立ち上がり、フェリシアーノは急いで扉に手を掛ける。アントーニョの部下か何かだろう。
扉を開けて直ぐに見えたのは、帽子を目深に被った男の姿であった。金髪に、白い肌をしていて、どうやら細身の様である。
が、フェリシアーノが何かを言うよりも早くに、その男はフェリシアーノの腕を掴み自身の方へと引き寄せると、頭に何やら堅いモノを押し当てる。
既に何度か押し当てられたことのある感触にフェリシアーノはギョッとし、直ぐにソレが拳銃であることに気が付いた。いつの間にか捉えられ、そして拳銃を押し当てられ、脅されている。
「どうしましたか?」
位置的に見えない場所に居た菊が、不思議そうな様子でそう声を掛け歩き出すその音が聞こえてくる。
「な、何でもないよ、菊!お願いだからそこを動かないで!」
菊が動かない様にとそう声を掛けたのだが、最後の懇願で彼女が動き出さない筈が無い。フェリシアーノはただ慌てて、どうすれば菊が巻き込まれないかについて考え出すが、状況は最悪だ。
もういっそ暴れて撃たれてしまおうかと思ったのと、フェリシアーノと男の前に菊がやってきたのとほぼ同時に、男はフェリシアーノから手を離し、彼に自由を与えた。
「え」と驚きフェリシアーノが目を大きくさせて男を振り向いて見やると、彼はその目深に被っていた帽子を取る。と、細い金髪がサラサラと揺れ、細く鋭い緑色の瞳を光らせて菊を見やった。
「初めてお目に掛かる。吾輩の名はバッシュ・ツヴィンクリ。東の頭領の妹君の護衛を頼まれた。」
ポイッと、どうやら自身の護り人に危害を加えるつもりの無いだろうフェリシアーノを脇に投げ捨てて、菊と向き合った。菊は菊で、ポカンとしたままバッシュと向き合う。
フェリシアーノはフェリシアーノで、ソドニで名を馳せているバッシュの事を、名を聞いていたけれど実物は初めて観たと、思わずギョッとした。
「これから全身全霊をかけ、貴女を守らせてもらう。」
そう、凜とした声で宣言された言葉を聞きながら、菊は尚もキョトンとした様子でバッシュを見やり、「はぁ……」と頷くしかなかった。