La Campanella


 
 La Campanella  -ラ・カンパネラ-
 
 
 バッシュに王耀は何と言ったのか、彼は頑としてフェリシアーノを菊に近づけまいとする。自宅だというのに、仕方が無くフェリシアーノは彼女から離れた寒いソファーで造った臨時ベッドに潜り込んだ。
 いや、我慢が出来なくなって菊に嫌われてしまうよりも、こちらの方がましなのかもしれないと、どうにか自分を慰める。
 それにしても王耀は流石というべきか、ソドニでもそれはそれは有名であるバッシュを、良く選び抜いたものだ。思わず感心さえ抱きながら、寝室へと続く扉を見やった。
 
「あ、あの……どこでお眠りになるのですか?」
 酷く困った様子で、毛布を片手に、扉の前で既に座り込んでいるバッシュに向かい、菊はオロオロとそう呼びかける。バッシュはそんな菊を見やると、不可解そうに微かに顔を顰めて見せた。
「ここで十分である。」
「ええっ!お風邪を召してしまわれますよ。」
 そう大層に驚いた菊に対し、バッシュは彼女よりも更に驚いた。この場所に住み、こんな仕事をおっているバッシュにとって、こんな場所で眠るなど、書いて字のごとく屁でもない。
 初めて目にしたときから感じていたことなのだが、やはり彼女は良いところの出なのだろうと、バッシュはオロオロとする菊を見やり思う。
「せめて布団を使ってください。私はこれで十分暖かいので。」
 そう言いながら菊は、手に持っていた毛布を抱きしめるとそう精一杯の笑顔を、キョトンとしたバッシュに向かい浮かべてみせる。
「ああ、それならばフェリシアーノ君も寒い思いをしていらっしゃるでしょうに。」
 慌てて扉を振り返る菊に、バッシュは益々怪訝な顔をする。布団も毛布も手渡したら、あの簡易なベッドのどこで彼女は暖を取ろうというのだ。
 部屋はソドニ一般と同様に狭く、ベッドは酷く簡易な木製の造りになっており、全ての布団らしきものは使い込んで平らになっている。当然ながら、外に干すことなどするはずもない。
「吾輩は男である。女の貴様に心配される必要など無い。」
 そうバッシュが言い切ると、彼が予想したのとは反対に、菊は眉間に皺を寄せながら、睨むようにバッシュを振り返った。
 いきなりの変化に、思わず菊の顔を目を瞠って見やると、彼女は微かに頬を膨らませたままバッシュに布団を寄越す。グイと伸ばされた腕にもたれた布団を、バッシュは見やったまま何も言わずに菊を下から見やる。
「そういう、男だとか女だとかいうの、私は嫌いです。結局私達は同じ生物です。」
 先程までオロオロとしていたのが嘘の様に、菊はハッキリとした口調でそう言うと、扉を開けてフェリシアーノに声を掛けた。
「……どうしたの、菊?」
 直ぐに、闇の中から不思議そうな声が返ってきて、体を起こす音が聞こえてくる。もしかしてバッシュに何かされた?なんて聞こうとしたけれど、気が付いたら眉間に穴が開いてそうなのでやめておく。
「寒くはありませんか?毛布を一枚、お返ししようと思いまして。」
「ヴェー!いいよ、菊、寒いでしょ?オレ寒く無いよ。」
 慌てて返されたフェリシアーノの言葉は、節々がどこか震えていて、菊は思わず苦笑を漏らした。
「ここは元々あなたのお家ですよ、フェリシアーノ君。あなたが遠慮するなんておかしいじゃないですか。」
「……うーん、じゃぁさ、菊、一緒に寝る?」
 あまりの寒さに、流石のフェリシアーノもまだ服を脱いでいなかった。ぴょん、と臨時ベッドから飛び降りると、嬉しそうな顔をして菊が立っている扉へと走る。
 けれど目の前に刃物が翳されているのに気が付き、浮かべて居た笑顔を瞬時に凍らせ、「ヴェー!」と甲高い鳴き声を上げる。
「バッシュさんそんなもの人に向けたら危ないです。」
 完璧に怒りを露わにしている主の腕を、菊は慌てて掴むとその刃物を降ろす様に促した。バッシュは類を見ない程に美しい顔を怒りで燃え上がらせたまま、信じられない者を見るように菊を見やる。
 一緒に寝よう。など言われた独身の、それも幼い少女を護って、どこが悪い。それともそんな事に悪意を見いださない程に彼女は純粋、もしくは鈍感だとでも言うのだろうか。
 菊としてみれば、同じ布団では無いけれど、一緒の部屋で寝たことは既にあったものだから、フェリシアーノに対してのそういった信頼は意外にも厚い。
「そうですねぇ……」
 うーん。と一瞬悩んでいたのだが、分かりました。とにっこりと微笑むものだから、バッシュはギョッとして菊を見やる。
「バッシュさんも……」
「吾輩は遠慮しておく!」
 顔を赤くさせてバッシュはそう叫ぶと、再びナイフをフェリシアーノの首もとに向け、ギリギリと奥歯を噛みしめて睨んだ。
「彼女は一応吾輩の客である。手を出したら即刻、貴様の眉間に穴を開けてやる。」
 顔を真っ青にさせ、菊にしがみつくフェリシアーノと、ようやくこの会話に慣れ始めた菊は苦笑を浮かべる。
 結局一つの寝台に、顔を合わせない様に、頭をお互い他方に向けて眠りに就いた。フェリシアーノは横を向くと見えるだろう菊の爪先に、ちょっとばかりガッカリしながらも、人が同じ布団に入っているだろう暖かさを感る。
 ソドニの夜は想像しく、どこでも何かしらの声が聞こえてくる。それは叫び声だったり、下品な笑い声であったりと、フェリシアーノにとったら、菊には聞かせたくない物音であった。
 
 明らかに寝不足なフェリシアーノを、朝食として出されたパンを口にしながら、菊は不思議そうに首を傾げて見せた。
 なにせ、昨日布団の中は暖かくてグッスリと眠れたものだから、当然フェリシアーノもそうであるのだと思ってしまっていたのだ。
「昨晩は良く眠れましたか?」
 ふわふわと微笑んだ菊は、フェリシアーノとバッシュに紅茶を差し出すと、バッシュは眉間に深い皺を寄せたまま「吾輩が寝る訳ないだろう。」と憮然として言ってのけた。
 バッシュの言葉に驚き菊は顔を顰めると、眉根を下げた。夜寝ず、昼も菊につくといえば、一体いつ寝るというのだろうか。
「今日はアントーニョ兄ちゃんの所、もう一度行ってみようか。」
 フェリシアーノは寝不足だというのに、明るい嬉しそうな声色でそう声を上げるのを見やり、菊はやはりフワフワと微笑んで、フェリシアーノを見やっていた。
 まるで弟でも見やる様な優しさを含めている菊の瞳に、バッシュはいっそうんざりする。
 
 うわぁなんやかわいこちゃんが三人もおるなんて、今日は祭りなんか? と豪勢に笑ったアントーニョの口内に、バッシュは瞬きをする暇も与えず銃口を突っ込み、怒りにフルフルと震えた。
 そんなバッシュを菊とフェリシアーノでどうにか宥め、アントーニョによって誘われた室内の椅子に座り、お茶を口にする。
「あんね、俺達ルートヴィッヒとイワンを探してるんだ。何か情報ある?」
 アントーニョは『イワン』という言葉を聞いた瞬間、思わず笑顔のまま眉間に深い皺を寄せ、かたまった。そんな反応を予想していたフェリシアーノは、勿論苦笑を浮かべる。
「いやぁ、分からんなぁ。ごめんな。情報が回ってきたら、直ぐに回すから。」
 暫くかたまっていたけれど、ようやくその固まりを解いてから、本当に申し訳なさそうにそう返す。仕方ないからその日はアントーニョにお昼を貰い、そのまま市場で買い物をして家路についた。
 終始両隣にピッタリとフェリシアーノ、バッシュをつけている為か、こんなにも治安が悪い地区だというのに、何事も無い。どちらかといえば、バッシュの暴走の方が恐い。
 家に帰ると、フェリシアーノは一人で情報を集めに行くと言って出て行き、菊はバッシュと2人きりとなった。最初は付いていくと言ったけれど、こういう時は知らない人を連れて行くと怪しまれるらしい。
 
 フェリシアーノという青年が帰ってくるまでの間であれば、ほんの少しばかり仮眠をとっても問題は無いだろうと、バッシュは椅子に座りながらそう考えていた。
 けれど、いつの間にかぐっすりと寝入ってしまっていたらしく、小さな窓から差し込む光は夕焼けになりかけていた。驚き立ち上がろうとした時、右肩に重さを覚えそちらを見やると、現主が同じソファーに座りバッシュに寄り掛かっている。
 まさか死…んでいる筈は、無いか。菊は微かな寝息を立て、睫も時折、揺れ動いていた。バッシュの肩には毛布が掛かっているけれど、彼女には暖を取る術が施されておらず、微かに体を震わせている。
 バッシュの右肩に寄り掛かっていたから、自身の左肩から毛布を除けそのまま菊の肩に掛けてやる。一瞬寒さに身震いしたけれど、慣れ親しんでいる程度なので、取り立てて言うほどでもない。
「ただいま、菊!ってうわぁぁ!?」
 威勢良く扉から飛び込んできたフェリシアーノは、そのまま驚き肩を跳ね上げた。それから、恐る恐る2人に近寄る。
「……ね、寝てるの?」
 微かに顔を傾げ、寝入っている菊の顔をそっと覗き込んで、小さく問いかける。
「見れば分かるであろう。」
 照れ隠しなのか、自分でも驚く程に語調が強くなり、起こしてしまったかと思わず菊に視線をやるが、彼女は瞳を開けることは無い。穏やかな寝息に、胸は上下している。
 知らず安堵の溜息を双方吐き出したとき、バッシュは自分の安堵の溜息に、再び驚く。
「何か情報は見つかったか?」
 取り敢えず誤魔化す様にバッシュがそう訪ねると、フェリシアーノは一瞬キョトンとした顔をしてから、苦笑を浮かべて首を振った。
「オレ、ご飯作るよ。何か嫌いな物とかある?」
「好き嫌いを言っていたら、ここでは生きてはいけない。」
 バッシュのごもっともな言い分に、フェリシアーノはクスクスと喉元で笑い声を上げて、持ち帰った食材を抱え、小さな台所に入っていく。
 フェリシアーノとロヴィーノ兄弟は、美味しい物しか口にしないから、この街では異端者に属するのだろうと、食材を並べながらどこかでそう思っていた。
 
 食事の準備が整い、やっと起こされた菊は、酷く慌てて何度も謝罪を述べた。そんな謝罪は良いからさっさと食せ!とバッシュに促され、半ば慌てる様に食材を口に運ぶ。
「……貴女はどこの出身なのだ?」
 慌てて食べ物を口に運んだ菊は、そのおいしさに目を細める。そんな様子に、前々から気になっていた事を、つい口に出してしまう。
 極東の出であることは知っていたけれど、それにしては身のこなしが深窓の令嬢だけでは無いような気がしたのだ。
 客の身分は、それこそ他人が口を挟めない事であるのにも関わらず、あまりにも不思議なものだから……。場合によっては失礼極まりない質問だったのだが、菊は口の中の物を呑み込むと嬉しそうに微笑んだ。
「私が生まれた場所は、極東も極東、日本という小さな島国です。」
 愛おしげに言われた言葉に、フェリシアーノも興味深そうに食物から顔を持ち上げ、微笑みながら喋る菊を見やった。
「春には桜という美しい花が咲き、夏になると清流が湧き、秋は見渡す限りの稲穂、そして冬になるとあらゆるものが白に覆われます。」
「……美しいのだな。」
 バッシュはこの街から、必要以上に出ることは無い。出たとしても、この国より他は知らないし、肥沃な大地というのも見たことが無かった。
 菊はバッシュに目を向けると、一瞬キョトンとしてから、再びふんわりと微笑んだ。柔らかなその笑顔に、見たこともない『桜』を彷彿してしまい、思わず目を反らしてしまった。
「どうぞ、いつかいらっしゃって下さい。兄様が私に統治を任せてくれると仰っていましたもの、その時に来て下さったら、沢山ご案内します。」
 それは建前では無く、彼女が心の底から言っているだろう事なのだと分かる。こんな街の、昨日出会ったばかりの人間を信じているのだろうか。
 そう訪ねれば、菊は不思議そうな様子で「だってバッシュさんは、お優しいじゃないですか。」と言う。そんな甘い人間が、この世の中生き抜いていくことなど出来るかと、いつもならばそう口走るだろうに、その時ばかりはバッシュも口を噤んだ。
 どうしてなのかさえ分かったのならば、彼に行方の分からない苛立ちなど抱かせる要素もなかったのだろうけれど、生憎彼にはそれがどうしてなのかは分からない。
「菊、オレもね!絶対だよ。」
「ええ、勿論です。」
 嬉しそうに割り込んできたフェリシアーノに、菊はやはり笑顔を彼に向けて頷く。
 
 
 それから三日経った頃、情報は未だに何もなく、そろそろ一旦舟に引き上げた方が良いのではないだろうかという話題が持ち上がった時だ。
 その日も菊とバッシュ、フェリシアーノの三人で市場を歩いている時、不意に菊は動きを止めて混雑した人の合間に視線をやる。不思議そうにフェリシアーノが声を掛けると、菊は抱えていた荷物をフェリシアーノに投げるように渡す。
「すみません、ちょっと持っていてくださいますか。」
 フェリシアーノの顔さえ見ずにそう言うと、やにわに菊は駆け出した。一瞬出遅れてから、バッシュは手に持っていた荷物を投げ捨て、菊の後ろ姿を追いかける。
 小さな体を駆使し、機敏に人混みを避けながら、菊は一目散に駆けていく為、バッシュにとっては訓練していても中々辛い。どうしてこんなに早いのか・・・まさか、東方に棲息しているという噂のニンジャとやらなのか。
 菊の視線の先には、一人の見覚えのある少年がうつっていた。鮮やかな金髪に、大きな、女の子のような瞳をした、菊とどっこいほどの身長の少年である。
 彼は、かのイワンの付き人三人組の一人である。その証拠といえるのか、菊と目があった瞬間、菊と反対側に、逃げ出すようにかけ始めたのだ。
「待て、一人では危ない!」
 バッシュは届きそうで届かない彼女に精一杯手を伸ばしながら、掴めないことに苛立ちを感じ、懸命に呼びかけるけれど、菊は走るのを止めようとはしない。後ろから見ても、既に息は上がり辛そうなのに、どうして追いつけないのだろうか。
 人通りの少ない路地に張り込んでも、彼女は走る速度を落とそうとはしない。あまり人が居なく、直ぐに「しめた」と思うのだが、バッシュが菊に追いつくよりも早くに菊は角を曲がる。
 バッシュも続けてその角を曲がる。が、そこには菊の姿が無く、瞬時血の気が足先へと引いていく心地がした。この一体は街の中でも危険地帯で、今昼間であるからそれなり光はあるが、夕暮れになれば灯りはほぼ無く、住んでいるのも薬物中毒者だけである。
 天井は金網で、住民によって投げ込まれたゴミが溜まり、鼻が曲がりそうなほどの異臭がそこら中に漂っている。今、そのゴミの隙間から明かりが漏れているだけで、辺りは薄暗い。
 上の住民はまだ良い暮らしをしている為、上方に設置されている、換気の為の巨大な風車がグルグルと回る音がする。
 一歩踏み出し、彼女の名前を、初めて呼んだ。けれど応えは返ってこずに、道ばたで倒れていた廃人の汚れた目玉がバッシュに向けられただけであった。
 ヴヴン……ヴヴン……音に誘われて上を見上げると、ゴミの隙間から風車が回っているのが見えた。