La Campanella


 
 La Campanella  -ラ・カンパネラ-
 
 
 外でバッシュが菊の名前を呼ぶ声がやみ、暫く後、ふさがれていた口元がようやく解放される。
 噛んでも、または暴れてしまっても良かったのだけれども、菊の口を塞いでいる主に見覚えがあったし、また彼の掌が微かに震えていたから、菊はされるがままにしていた。
「なんで、なんで貴女がここにいらっしゃるのですか!」
「あなた方を追って来ました。……信じていただけないかも知れませんが、心配だったのです。」
 顔を真っ青にさせたトーリスは、菊に向き直り声を荒げると、実質的に菊をここまで導いてしまったライヴィスを一睨みする。けれど、小さな溜息を吐き出すと菊の手を引き、歩き始めた。
 室内は真っ暗で、時折置かれている蝋燭の炎ばかりが、足下を照らしてくれている。もしも蝋燭がなければ、今が昼間であることも忘れてしまうだろう。
 すえた匂いが漂い、菊は顔を微かに顰めながらも、トーリスが歩くままに付いていく。やがて短い階段を上り、重い音を立てて扉を開けた。
「……ずっと、会いたがっていました。」
 暗闇の中、諦めた様なトーリスの声色が聞こえてきて、菊は思わず顔を持ち上げる。けれども見えるのは漆黒ばかりで、自身の指先さえ見えない世界が続く。
 シュッと、擦れる音の直ぐ後、トーリスの手の中でオレンジ色の炎が姿形を変えながら、生まれた。そんな微かな光でさえ、今の菊にとったら眩しく、思わず目を細めて炎を見つめる。
「イワン様、菊様です。」
 トーリスの言葉にギョッとして、彼が投げ掛けた方向へと視線をやるけれど、そこにはただ闇が潜んでいて、何も見えない。
 トーリスに蝋燭が刺された燭台を手渡されて懸命に目の前を照らすと、ようやく誰かが呼吸しているのが聞こえてきて、菊はその呼吸音を追いかけ蝋燭の明かりを照らしていく。その明かりに、ぼんやりと姿が見え、菊は思わず目を細める。
「……あれ、本物だね。」
 ポツリと呟かれた言葉に、菊はしゃがみ込んでコチラを見ている瞳を見やる。冷たさが滲んでいたその瞳は、蝋燭の光に当てられ、キラキラと輝き優しく見えた。
「怪我を、なされたのですか?」
「そうそう、火傷しちゃってね。」
 手探りでテーブルを探し出すと、そこに蝋燭が灯った燭台を置くと、しゃがみ込んでイワンと対面出来る様にする。先程からする諸毒液と包帯の匂いに混じり、どこか腐敗したような匂いが漂っていた。
 イワンの声は掠れているけれど、それでも尚ふんわりと彼は穏やかそうに微笑んでいる。
「ところで君、何しに来たのかな?」
「あなたを探しに来たのですよ。」
 心底不思議そうな声色で訪ねられた問いの答えに、イワンは微かに目を大きくさせて菊を見やった。
「僕を?何で?」
 イワンの問いかけが、みんなが菊に投げ掛ける疑問と同じで、おもわず苦笑を浮かべてしまう。
「あなたが私を、一度助けてくださったからです。私、借りを作りたくないのです。」
 キッパリとそう言ってから、菊は立ち上がり扉口に居るだろうトーリスを振り返った。窓の一つも無く、コンクリートに囲まれた部屋は、本当に一つの光さえ無い。
「こんな所にいたら、治るものも治りません。どうか私に任せてくださいませんか?」
「……本気ですか?」
 真っ暗な中、存在するのかしないのかさえ分からないにもかかわらず、彼が驚いたのだと分かった。
 逆に尋ねられ、菊は先程とまるで変わらない、揺るぎない口調で「ええ。」と応じる。たった一言ではあったけれど、トーリスにも彼女が真剣なのだと理解出来た。
 けれど、敵側に居るはずの菊をどこまで信用できるのか、未だに半信半疑であるのも真実だ。
 真実、菊も菊で、これからどうしていいのか、確実な方法をはっきりと考えては居ない。ただ、こんな不衛生な所に居れば、いつかは死んでしまうという意識だけが、彼女にそう言わせた。
 菊の中にも、みんなが口を揃えて言うとおり『敵を助けてどうする』という考えも、当然存在していた。一体どうして、彼のためにここまで来てしまったのだろうか。
 だが、そう思う反面、言葉はしっかりと口から出てくる。
「本気です。このままでは北の国は西に統一されるでしょう。そうなれば、実質上植民地となります。それであなたたちは良いのですか。」
 それは今の東と西の関係と、さほど遠くない物だ。アーサーに連れられて行ったパーティーでも、東の人間となれば、ただそれだけで皆が白い目を向けてくる。
 蔑まされ、領土も人手も、不平等にとられ、戦争となれば一番に出向かなければならない。菊の兄のように。そして菊のように。
  「君は馬鹿なの?……それとも、自分の善に酔ってるとか?」
 イワンを匿えば、それ相応の痛手を負うのは菊である。けれど、菊は簡単にイワンを西に渡したりしないと言う。
 その腹の中を読み切れずに、思わずイワンが笑い声を含んだ声でそう尋ねると、炎に微かに映し出された菊は、真っ直ぐにイワンの瞳を見やる。それは、懸命に気丈な振りをしていた、掴まっていた時の彼女の瞳よりも、迫力があった。
「私は……自分が善だと思って等おりません。私は人を傷つけ、巻き込み、沢山の命を失わせてしまいました。」
 それは、今でも夢に見る光景で、まさか東の人間の命を巻き込むなど、微塵も思ってはいなかったのだ。誰かを護るつもりで走ってきたけれど、結果は沢山の犠牲が出た。
 菊は踏ん張っている足が微かに震えているのに気が付いたけれど、どうにか力を抜かないように懸命に意識を集中させる。ヘラクレスに抱えられながら聞いた怒声が、遠くで聞こえてくる気さえした。
「だけど。いえ、だからこそ、私は折れる訳にはいかないのです。自分で撒いた種、その実を私が摘むのは道理でしょう。」
 言ってしまってから、自分が一体何と戦っていたのか、ようやく合点がいった。自分は自分自身が敷いた運命のレールと戦っているのだろう。胸に溜まっていたわだかまりが解いていくのが、分かる。
「……いいね、やっぱり。いいよ、君、凄く、ぞくぞくする。」
 微かな間を入れてから、クスクスとイワンが笑う。その声には皮肉などが入って居らず、どちらかといえば、子供の様に無邪気なものであった。

 
 
 一人残されたフェリシアーノは、暫くその場で二人を待っていたのだけれど、どれ程待っても帰ってこず、まさかと思い自宅へと帰っていた。が、当然そこには誰も居ない。
 ひんやりとした空気を覚え、玄関口で佇み、呆然と人気のない自室を見つめていた。
 その時、後ろから足音が聞こえ、慌てて後ろを振り返れば、バッシュが一人で立っている。てっきりその隣には彼女が居ると思ったのに、誰も彼の横には居ない。
「……菊、は?」
 いつもの笑顔を浮かべる余裕など当然無く、フェリシアーノにしたらあまり見ることの出来ない、無表情の顔を持ち上げてバッシュに問いかける。が、バッシュは渋い顔をするが、フェリシアーノの問いには答えない。
 太陽は傾き、やがて夜が来る。この界隈で夜や昼など関係ない程、一歩足を踏み入れれば常闇のスラムであるが、やはり夜の方が危険は増す。それは、ここで生まれ育ったフェリシアーノでもあまり好ましくは無い時間帯である。
 暫く立ち竦んでいた2人は、ほぼ同時に外へ飛び出したその時、ポツンと立った菊を見つけ同時に2人で足を止めて彼女を見つめる。菊は、走ってきたらしく、肩で息をし、その白い頬を朱く染めていた。
「何してたのさ、菊!」
 直ぐに声を上げたのはフェリシアーノであり、彼は初めて声を荒げ、怒りを露わにしたフェリシアーノに驚き、戸惑い、菊は目を丸くして彼を見つめた。
 フェリシアーノは、そんな菊を前にしても穏やかになるつもりは無いらしく、菊に詰め寄り眉間に深い皺を寄せる。菊は菊で立ち竦み、いつもより大きく見えるフェリシアーノを見上げた。
「オレがどんなに心配したと思ってるの?なんでいつも、一人でどこかに行っちゃうの?そんなにおれが、頼りない?」
 矢継ぎ早に捲し立てるフェリシアーノの瞳が潤んでいるのに気が付いて、呆気にとられていた菊は、己を取り戻し、眉根を下げた。そして腕を伸ばすと、フェリシアーノの頭をゆったり撫でる。
「……ごめんなさい、フェリシアーノ君。バッシュさんも。」
 フェリシアーノに向けられていた目線を、不意にバッシュに寄越してそう言った菊の言葉と瞳に、バッシュは思わず目を盛大に反らす。
「謝られる覚えなど無い。」と言ったけれど、自身を頼ってこなかったことが、やはり非常に腹立たしかった。険しい顔をしているバッシュを、菊は戸惑いながらも見上げる。
「あの……実は、イワンさんにお会いしたのです。」
 眉根を下ろした菊が、戸惑いながらそう声を上げると、フェリシアーノとバッシュはギョッとして菊を見やった。
「……それで、王耀とかに報告したの?」
 フェリシアーノの言葉に、菊は驚き、フルフルと首を大きく振る。
「いいえ、ダメです。兄様が北の王を匿ったなど、そんな事がばれてしまったら、きっと困ります。」
 困惑した様子でそう言う菊に、フェリシアーノはムッとしながら「また自分でしょいこむの?」と言おうとしたのだが、それよりも早く、菊は戸惑いの表情を一切取り去り、顔を持ち上げる。
 眉をキュッと持ち上げ、先程までの幼さを一切かいま見せない。それは、フェリシアーノも何度か見たことのある表情だった。
「だから、フェリシアーノ君、バッシュさん、少しの間ながらも私に力を貸してくださいませんか?ばれたとき、迷惑はかけません。」
 どこにそんな確証があるのか解らないし、菊にさえ解っていない。けれど、背筋をピンと伸ばしてそう言い放ったその言葉に、戸惑いも、そして嘘である様子も見受けられない。
 彼女は本気であり、またそれを完遂するつもりなのだ。今までのように。
「……分かったよ、菊、オレ頑張るよ。」
 まだ何をしろ。と言われてさえいないのに、フェリシアーノは感激に目を潤ませながら、彼なりの精一杯力強い頷きを含み、菊の手をとる。
「吾輩は雇われているのだ。命令されれば何だってする。」
 対してバッシュは、腕を組み仁王立ちし、先程の菊に負けず劣らずの強い声色でそう言い放った。
 2人に思わず菊は安堵の笑みを漏らすと、小さく首を傾げて「ありがとうございます。」と柔らかい口調で礼を述べる。
 
 
 フェリシアーノとその兄、ロヴィーノの本拠地であった場所を借り、イワンを暗い場所から移した。明るいところで見ると、背中から肩、首筋までのイワンの火傷は、思った以上に酷い。
 取り敢えず火傷の薬を新しい物に変えて、出来るだけ清潔な場所を保つようにした。元々目立たない場所の部屋であった為、いくら探されているイワンであろうとも、見つからない。
 日中はイワンについている菊のかわりに、フェリシアーノとバッシュがルートヴィッヒを探していた。けれども中々見つからず、もうここにはいないのではないか、という話になりつつあった。
 そんな菊達を、勿論知らない王耀並びにアーサー、サディクはそわそわし始めたのは当たり前だろう。連絡も一つとして入らないし、いつまで待っても帰ってこない。
「うあぁぁぁぁ菊ー!どこに居るあるかぁぁ……」
 それまで余裕をぶっこいていたのだが、耀が雇ったバッシュまでも連絡が途絶え、遂に咆え始めた。
 物資があまり無かった為に、王耀が乗っていたサディクの舟は、一旦サディクの港へと戻っていった。ほんの二晩で着くのだが、主に三名残ると言い張るものだから、総動員で連れて帰ったのだ。
 急いで物資を詰め込むと、そのまま急いで向かおうとしたのだが、それよりも早くにとある情報が入ってきた。それは、サディクの隣国であり、ライバル国の第一王継承者が帰ってきた、という事だった。
 しかもそいつ帰ってきて、傷だらけのままサディクの所へ訪問している、らしい。彼に呼ばれたのは、海域を収めているサディクであった。
 それ故、舟が再び沖へと出るまでの期間が非常に延びて、未だに王耀とアーサーは港の宮殿に居るはめとなったのだ。今度こそ乗り込んでやろうと思っていたのだが……
 勿論サディクも不機嫌なまま、廊下を大股に進んでいた。謁見の間は、豪勢なあつらえがなされていて、何重ものシャンデリアと加工がなされた幾何学模様のシルクの絨毯、そして噴水までが室内に置かれている。
「なんの用だィ。おれぁ、お前と違って、忙しいんだ。」
 舌打ちをひとつすると、サディクは真っ青な顔をして座っていた人物に声をかける。怪我をしているのか、近づいただけで消毒液の匂いが香ってきて、知らずサディクは顔を顰めた。
「怪我してんのかぃ。」
「返して。」
 サディクの言葉を遮り、彼が声を上げた。思わず眉間に皺を寄せ、サディクは目の前の人物、ヘラクレスを睨んだが、ヘラクレスはまるで気後れする様子も見せない。
「菊を、返して。」
 言葉は、息苦しそうな音を響かせているが、それでも尚、少年は眉間の皺を解こうとはしない。
 思っても見なかった名前が挙がり、サディクは一瞬驚くが、仮面の奥で自嘲気味に笑った。ヘラクレスが行方不明になっていた事と、どうやら関係があるのだろう。
「返してってお前、まるで自分のもんみたいに言うんじゃねぇ。」
 そう笑ったサディクを、ヘラクレスは奥歯を噛みしめて睨み付けた。
 
 
 んー。と、アーサーが一つ大きく伸びをすると、扉口が騒がしくなるのに気が付き、微かに首を傾げた。
 この、サディクという男が育った国は、どこに行っても騒がしく、警官らしき人物までもが、人懐っこくアーサー達に話しかけてくる。そのほとんどが、どうでも良い話であったが。
 ようやく重い腰を上げてアーサーがそちらに向かうと、その騒いでいる主が、自身も良く知っている人物だと気が付き、思いっきり顔を顰める。
「ああ、居た居た、アーサー!」
 アルフレッドは大きく右手を挙げ、左手には怪しげな人形が握られていた。どうやら、露店に騙されて購入したらしい。
「何やってんだ、お前。」
「それはこっちのセリフさ!」
 自国が気になり、連絡はとっていたが、まさかここまで彼がやってくるとは思っても居なかった。嬉しいような、ウザイような……
「知らないのかい、君。北の国が大変な事になってるんだ。」
 アルフレッドは手に持っていた人形をグイとアーサーに向ける物だから、アーサーは顔を顰めて思わず一歩退く。
「大変って……」
 北の国には、今まだ菊が居る。つい最近告白だってしてしまった、こうなったらどこまでも追いかけようなんて、そう思っていた人物だ。
 アルフレッドは呆れた様な表情を浮かべ、まるでアーサーを小馬鹿にしているように肩を竦めて見せた。
「クーデターさ。内戦だよ。軍が政府に反旗を翻したんだ。もうすぐ北は火の海だよ!」
 まるで他人事の様にそう言ったアルフレッドに対して、アーサーは立ち竦み、ぼんやりとアルフレッドの顔を見つめる。
 
 
 いつの間に眠ってしまったのか、菊は建物が揺れるその動きで目を醒まし、ぼんやりと辺りに目線を彷徨わせた。
 夜の闇の中、空が一部分、煌々と赤く染まっているのが見える。何が起きているのか分からないが、先程まで静かだった夜の空を、人々の悲鳴が彷徨いだした。