La Campanella


 
 La Campanella  -ラ・カンパネラ-
 
 
 発砲音、爆発音は、あの日以来だと、菊は窓の外を眺めながら、ぼんやりと思っていた。
「菊、あまり身を乗り出さないで!危ないよ!」
 大丈夫、ここまで届くはずがありません。振り返ってそう笑おうとしたのだが、あまりに必死めいた様子でフェリシアーノが手を差しのばすから、菊は素直に頷き、部屋へと戻る。
「吾輩は情報を集めてくる。お前達はこの部屋を出るな。」
「私もっ……」
 身を乗り出しかけた菊の口に手を当て、バッシュはそのまま扉の向こうへと駆け出してしまった。
 窓の外では今でも銃声が鳴り響き、深夜だというのに、不穏な雰囲気が漂っている。フェリシアーノは慌てて窓に駆け寄り、カーテンを音を立てて引いた。
「菊、絶対に、絶対に部屋から出ちゃだめだよ。」

 
 イワンが居なくなったのにも関わらず、政府は相も変わらず存続されていた。それは、イワン直々ではなく、不在だからこそ、元から力を持っていた人間が権力を振りかざしていた。
 それまで政府に不満を持っていた人間は、今も尚中央政治を続けていこうとする国家に反発し、そして遂に結束を固め、討つ為に立ち上がったのだ。それが、今回のクーデターの概要である。
「あーもう、我は今から舟を出してくるある。お前等はヘタレらしく、大人しくここで待っているよろし。」
「ちょっと待てって、この、クーデターの代表者の名前、どこかで見たこと無いか?」
 ゆっくりと立ち上がった王耀を追いかけ、アーサーが声を掛けると、来い来いと手招く。王耀は不満そうに顔を顰め、仕方なさそうにアーサーの横に来る。
「……ルートヴィッヒ、あるか。」
 2人で情報が書かれた紙を見つめ、遠い向こうに行ってしまった過去を懸命に思い出す。けれど、その名前を聞いたのは随分前の事だから、思い出せずに顔を傾げた。
 
 
「ここを直ぐに出た方が良い。」
 帰って来るなり、バッシュは声を荒げた。2人で食事にしようと思っていた矢先の事なので、フォーク片手で、とても間抜けな画であったが、バッシュの真剣な様子に変わりない。
「クーデターが起こった。政府の人間がここに乗り込んでくるのも時間の問題だろう。」
 貴女がここにいてはダメだ。顔がわれている。 そう言い、バッシュが菊の腕を掴み立せる。立たされた菊は、眉根を下げてフェリシアーノの顔を見やった。
「オレは、兄ちゃんを待ってるよ。心配だから。菊はお願いするね。」
「ちょっと待って下さい。イワンさんはどうしたら……」
 兄に頼むことも出来ないし、かと言っておいていくわけにはいかない。
 思わず振り返り、イワンの部屋へと続く扉を見やる。と、音に驚いていたのか、トーリスが顔を覗かせていた。
「大丈夫です。貴女は安全な場所へ。」
 何が大丈夫なのかは、発したトーリス自身分からなかったけれど、これ以上菊を巻き込むつもりはもう無い。菊はそれでも尚何か言いたそうだったけれど、バッシュに腕を引かれ、有無を言う暇さえ無かった。
 外は既に騒がしく、誰も彼もが口々になにかを叫んでいるが、よく聞き取れない。どこの家も灯りを点け、遠くの炎を見やっている。
 バッシュは菊を半ば抱きかかえるように走り、街の外れにある、海岸線に出る。絶壁に波が打ち付けられ、その音が暗闇の中響いて聞こえてきた。
 絶壁の中にある小さな階段を探り当てると、強い風が吹き付けてくる中、ゆったりと降りていく。歩くだけでバランスを失いかけてしまい、何度も滑りそうになるのをバッシュが手を差しのばす。
「……無い。」
 菊が乗ってきた船は、隠していた筈の洞窟には無く、ただ大きな黒い穴がぽっかりと開いている。バッシュは絶望的な声を上げると、口内で舌打ちをした。
「どうしますか。」
 バッシュの服の裾をキュッと掴むと、菊は心配そうにそう尋ねる。けれど、2人とも舟があるとばかり思っていたから、それ以上の事は考えていない。
 満潮といえど、降り立てる場所があるから、そこに降り立つと、取り敢えず座り込む。頭の上の遠くで、大きな音が立て続けに鳴っていて、菊はそわそわと辺りを見回す。
「……気になるのか。」
「あ、はい……政府側の人間って、一体何をしてるのですか?」
 表情を曇らせる菊に、バッシュも微かに眉を顰めながら、胸ポケットからライターを取り出し、落ちていた木片に火を灯す。直ぐにバッシュの端正な顔が浮かび上がる。
「今まで軍部を勤めていた人々によるクーデターである。仲間が隠れ潜んでいる可能性がある、貴女や国王の様に。」
 バッシュの言葉に、菊は顔を持ち上げた。軍部の人間と政府の人間が争っているのなら、今隠れているイワンと、まだ見つけていないルートヴィッヒに危険が及ぶ心配がある。
 いや、あれほど探しても見つからなかったのだから、あの界隈には潜んでいないかも知れない。
 大きな爆発音が響き、洞窟内さえもビリビリと揺れる。微かな砂塵が舞、バッシュは驚いた様子で上を見上げると、その顔を顰めさせた。
「出た方が良いかも知れぬな。」
 ここが見つかれば、逃げ場所はどこにも無いし、捕らえられればどう扱われるのか分からない。国王と結婚式直前まで行ったのを破棄したのだ、国王側と政府側、どちらも彼女を欲しがるだろう。
 バッシュは菊の腕を掴むと、立たせる。逃げる場所はまだ見つかっていないし、安全な場所がどこかも見つけることは出来ていない。が、乗り込まれる事を考えると、ココにいるよりは幾分もましだ。
「あの、私……やはりフェリシアーノ君とイワンさんが心配です。」
「……だめだ。貴女は直ぐに暴走するようである。」
 どこか決心した様子を見せた菊に、バッシュは一瞥することさえせずにそう告げた。菊はバッシュの言葉を掴めきれずに、訝しそうに眉を歪めてみせる。
「取り敢えず都市部から離れれば……否、逆に隠れる場所が減るか。」
 バッシュは一人ごちて、懸命に思考を回す。港に逃げ隠れ通せる自信はあまりないし、だからといって港から離れてしまうと、依頼者との連絡の術が完全にたたれてしまう。それだけは避けなければ。
 バッシュに引っ張られて、取り敢えず二人は港へと向かう道を再び上っていた。夜だというのに、空はオレンジ色の光が散り、爆発音が鳴り響く。その爆音に驚きを覚えるが、まだ遠くである事は分かった。
 港の淵にまで来ると、バッシュは逃げまどう人に紛れて走り出す。菊もその腕に縋って走り出したが、街の出入り口に立っている人々を見つけ、思わず足を止めた。彼等は火を燃やし、辺りを明るいオレンジ色に照らし出している。
 菊の目線の先に、バッシュも目線を遣ると、そこには制服を着たらしい人物が数人、逃げまどう人間達に視線を送っている。どうやら、何かを探している様子だ。
「……あれは、政府の人間ではありません。」
 張り詰めた声色でそう言う菊に、バッシュも眉間に皺を寄せて顔を顰めさせる。
「あの制服は軍服です!」
 それは、イワンの城に居る間、菊の周りを固めていた彼等であった。政府に便乗し、火の手がこちらに回る前に、イワンを探そうとしているのだろう。
 もしも彼等より先にイワンを政府側が見つけてしまっては、長い間探していた甲斐が無くなってしまう。それで急いでやってきた為、姿を隠す暇さえ無かったのかも知れない。否、革命家は概して自己主張をしたがるものなのであろうか。
「このままでは、イワンさんが見つかってしまう。」
 このクーデターが成功してしまったなら、国は軍事国家へと変わってしまう可能性もある。それだけはどうにかして避けたいと、己の育った環境を思い出して菊はそう考えていた。
 バッシュに掴まれた腕の力が増すのを覚え顔を持ち上げると、バッシュはフルフルと首を振る。が、既に菊は走り出すつもりで居た。
「後のことも考えられないのは、ただの馬鹿である。」
 キツイ色を宿したコバルトグリーンの瞳を受け、菊はソレまでの柔らかい表情ではなく、強い色をそのオニキスの瞳に宿してバッシュを見つめていた。
「……私が捕まったら、貴方が助けに来て下さるのでしょう?それがお仕事なのでしょう。」
 風が吹き、彼女の短い黒髪がフワリと揺らぐ。そしてゆったりと笑みを浮かべたその様子に、思わずゾクリと寒気を覚える。
 先程まであれ程自信が無さそうであり、また礼儀で出来たような人物であったのにも関わらず、それほどまでにも飄々と言ってのける彼女に一瞬呆気を覚えた。が、そんな口車じみた言葉に乗るバッシュでは無い。
「馬鹿を言うな。捕まらなければ助けるも何も無いだろう。」
 言い聞かせる様にそう言えば、菊は微かに笑みを浮かべた。
「出来ないのですか?」
「そんな事を言っている訳では無い。」
 菊はスルリとバッシュの隣を抜け出して、一心に、まるで小動物の様に駆け出す。それは、バッシュが声を上げるよりも早かった。
 皆が慌ただしく駆け抜けていく街に、逆に菊は駆け入っていく。人がごった返しているが、軍部の人間も菊に気が付いているのか、「あっ」と声を上げるか、菊を掴まえることは叶わない。
 バッシュは一つ舌打ちをすると、彼女の後追い書けて走り抜けていく。当然捕まらないが、逃げまどう人々、に揉まれ、また、酷い轟音で声は届かない。
 奥では政府が、そしてココでは軍部が。恐らく政府側がここに責めてくるよりも早く撤退するだろうが、それよりも早くにイワンが見つかる可能性の方が高い。
 既に人々は火の手を恐れて海の方へと逃げ出したのか、道はガランとしていて、動けない人間しかココには居ない。まだまだ火の手は遠くに見えるけれど、発砲音が聞こえてくるのだから、ここに政府の人間が立ち入るのも時間の問題だ。
 彼等はいっそ、このスラム街を無くすつもりなのだろうか。
「フェリシアーノ君!いらっしゃいませんか?」
 声を上げるが、既にそこには居ない。ならば逃げたのだろうと直ぐに理解し、菊は最も心配しているイワンの部屋へと駆け込む。と、そこには目を丸くしたトーリスが立っていた。
「逃げたのでは無いのですか?!」
「私がここに導いたのです、やはり私が逃げる訳には行きません。」
 自分の性分に嫌気が差す。否、差すのは自分の周りにいる人々なのだろう。けれど、ここで逃げ出す訳にはいかない。
「今逃げるわけにはいきません。外では軍部の人間が待ちかまえています。」
 イワンは手負いを受けていて、先程の菊ほど機敏では無い。それに、今闘えるほどの体力も持ち合わせてはない。
 トーリスの表情がかげるのを見やりながら、菊は一心に逃げ道を考える。けれど中々思いつかずに地団駄を踏んでいたところ、後ろから声が聞こえ振り返る。
「菊!?逃げたんじゃないの?」
 そう言いながらも、フェリシアーノは菊に走り寄り、何かから庇うようにその小さな体に自信の体を寄せる。外では不穏な音が鳴り響き、やがて戦火がここに来るだろう事が分かった。
「どうしましょう、フェリシアーノ君!」前方は支配権を手に入れた貴族達、後方はイワンを捉えようとする軍部。どうやって逃げれば分からずにオロオロする菊を落ち着かせる様に、フェリシアーノはその肩に手を置いた。
「……君は、どう思うの?」
 急に、どこか笑いを含んだ声が掛かりそちらを見やると、イワンがベッドに座って軽く微笑んでいた。いつもどおり余裕のある笑みは、知らず菊を落ち着かせた。
「あなたは逃げてください。ああ、けれどどうしましょう……前も後ろも囲まれているのに。」
「……あ、地下があるよ!」
 両頬を抑えた菊に対して、ふと思い出したようにフェリシアーノは声を上げた。
「もう使われていない下水道があって、いつも兄ちゃんと使ってた。地図は兄ちゃんが持ってるけど、俺、どうにか案内出来ると思う。」
 笑うフェリシアーノに、菊もパッと顔を明るくする。けれど今はホワホワと花を飛ばしている時間は無い。何せ轟音は直ぐそこまで聞こえてくるし、軍事の人間がここにくるまでそう時間も、無い。
 フェリシアーノは菊の腕を掴むと、下へと続く階段へと案内した。複雑な建物であるから、フェリシアーノ無しとそう簡単に降りていく事も出来ないだろう。
 フェリシアーノによって案内されたのは、とっくに潰れてしまった様子の歯医者であり、椅子には埃が積もっている。暗闇の中の人間の歯の模型は、少々不気味で知らず菊は眉間に皺を寄せた。
「みなさんとフェリシアーノ君は先におりていて下さい。私は最後に付いていきます。」
 菊のその言葉に、フェリシアーノは若干訝しそうな様子を見せるけれど、揉めてもどうせ引き下がらない菊である。仕方なく一つ頷くと、設置されている椅子を動かし始めた。巨大な椅子であったけれど、どうにか動かしきると下に一つの小さなドアが姿を現す。
 そのドアを持ち上げると、微かなカビの臭いが漂う。どうやらどこかへ抜けているらしく、風が通っている。フェリシアーノは灯りで持っていたランプを菊に手渡すと、スルリとそのまま穴の中に姿を消す。そしてイワンとその臣下が入ったのを見届けたとき、後ろから足音が聞こえ、菊は動きを止める。
「フェリシアーノ君、蓋をしますから先に行っていてください。後から追いかけます。」
「えっ、ちょ、菊……!」
 フェリシアーノの言葉を聞き終えるよりも早く、菊は蓋を閉めてしまった。そして丁度その時、扉の先で人の気配を覚え、菊は顔を持ち上げる。
「ここは危ないわよ。」
 それは軍服に身を包んだ美しい女性だった。菊は微かな驚きを覚えながらも、眼を真ん丸にして、その金髪が綺麗な女性を見やる。
「は、はい……」
「もしも行く場所が無いなら、私達と一緒においで。ご両親は?」
 幼い子供だと思っているのだろう、女性は菊に近寄るとにっこりと微笑み、座り込んだままの菊に手を差しのばしてくれる。一瞬その手を取りかけ、菊は首をフルフル振った。
 取り敢えずまたバッシュと接触しなければ、と思い、「大丈夫です。」と笑った。そしてそのまま足早に部屋から出ようとしたのだが、その間際で背の高い男とすれ違う。帽子を深く被っていて、顔は分からなかった。
 が、男は通り過ぎていく菊を見やりながら、すれ違う間際にその腕を掴んだ。驚き丸い菊の黒い瞳と、鋭い赤い瞳が対峙する。訝しそうな彼のその瞳に、菊は狼狽し怯える。
「お前……東の頭領の妹じゃねぇか。なんでこんな所に居るんだよ。」
 伸びた腕に顎先を掴まれ、無理矢理対峙させられる。軍事の関係者であれば、イワンの城内であっている可能性は大いにある。じんわりと冷たい汗を掻くのを覚え、菊は微かに身を震わせる。
「何言ってんのよ、そんな訳ないでしょ。」
 女性が近寄ってきて、眉間に皺を寄せそう言うが、男は「いいやこいつだ。」と首を振り菊の顎先を捉えて離そうとしない。
「背中に刺青してる筈だ。服ひっぺ返せばすぐ分かるぜ。」
 ケケケ、と笑う男に対して菊は顔を真っ青にさせた。まさやそこまでこの情報が出回っているとは思っていなかった。
 青い菊に対し、向こうから足早に近寄ってきた女性、は怒った様子で一度男の頭を叩く。パシン、といういい音が聞こえたかと思うと、男の指先に入っていた力が抜けた。
「何馬鹿な事言ってるのよ。それだから……あら?あの扉何かしら。椅子を引きずった跡があるわね。」
 ふと、女性はあの地下へと続く扉に気が付いたらしく、男のもとから離れたかと思うと、簡単にその扉を開けてしまう。金色の柔らかな髪が、ふわりと風に煽られて浮き上がる。菊は驚き眼を大きくさせると、ハッと顔を強張らせる。
「……フ、フェリシアーノ君!早く行って下さい!早く!」
 恐らく彼はまだ付近で待っているだろう。入れば出られなくなるような迷路だ、菊を一人で歩かせるはずがない。
 女性は驚いた様子で一度菊に視線を遣った後、慌てて旧・地下水道に目線をやった時、足音が微かに眼を細めた。
「ギルベルト!あんたランプとか持ってないの?」
 腰に下げた銃を抜きながらそう呼びかける女性の声を聞き、男の手が緩む。その隙を狙い菊は駆け出し、床に置かれたままになっていたランプを蹴り上げた。
 ガシャン、と音が響き、そのランプは簡単に割れてしまった。暗くなった室内で、男が声を荒げるけれど、菊はそのまま部屋の外へと駆け出した。
「おい!誰かそいつを掴まえろ!」
 追いかけてきた声に驚き菊が一度振り返った瞬間、いつの間に来たのか、扉の影に一人男が立っていたらしく、飛び出した菊の体をグイと引っ張る。驚き見上げると、やはり驚いた瞳がコチラを見やっていた。
「……君は、逃げたんじゃないのか?」
 苦い表情を浮かべるルートヴィッヒを見上げながら、菊は小さく彼の名前を呼んだ。