ラ・カンパネラ

 
 
 
  La Campanella  -ラ・カンパネラ-  
 
 
 
 何度連絡を取ろうとも無視され、手紙を運ばせたのだが手紙を運んだ主まで消息不明となった。これは立派な宣戦布告だと、あいつらは悪だと、アルフレッドはいつもの調子で声高に叫ぶ。
 会議場で二人、王耀とアーサーは黙り込み眉間に皺を寄せて座り込んでいる。イワンの国は資源に貧しい国であり、この国と戦う理由はその資源を手に入れるためのものだろう。そしてその土地へと追いやったのは、元々我々の先祖だ。
 アルフレッドの言う正義の観念をなんの疑問も無しに信じ込めたのなら、それほど有り難い事は無いだろう。
 
 ピンと背筋を伸ばして部屋の真ん中で正座をしていた菊は、廊下で名前を呼ばれてふと目を開け、黒いけれども美しい瞳を光らせる。
「兄様」
 菊は立ち上がると襖を開け、目の間に立っていた人物に泣き出しそうな顔で呼びかけた。が、王耀はそんな菊を前に顔色一つ変えずに、小さく目をすぼめるだけだ。
「我は明日、北へ向かうある。軍事の一端を任された。」
 王耀の平淡な物言いに、菊は小さく息を飲み込むと肩を戦慄かせてその胸に抱き付き声を震わせる。
「……ご無事で」
 小さく菊がそう言うと、王耀は何も言わずに一度頷くと菊の頭にそっと手を置き、宥めさせるように撫でた。サラサラと黒い髪が揺れ、幼き日にといてやったことを思い出してやっと頬を緩め表情を作る。
「帰ったら、また桜でも見ような。」
 菊が胸の中で頷くのを確認し、ふと窓の向こうの桜に目線をやり、切れ長のその目を微かに細ませた。それは最北の街が襲われてから、約二ヶ月しか経っていない早い開戦となる。
 
 兄が居なくなってしまってからまた部屋の真ん中に正座をし、そっと薄暗い空をバックにグイッと佇む存在感を醸し出す桜に目線をやり、手に持っていた短刀をギュッと握りしめた。そしてゆっくりと、柄から引き抜く。
 ギラリと露出した刃物が光り、その冷たさがモノクロの部屋では嫌に栄えた。と、菊は長い髪を左手で一束にし、それを右手に持っていた短刀でバサリと、なんの躊躇いもなしに切り落とす。
 切られた髪はサラリと揺れ酷く短くなり収まる。菊は手に持っていた切り落とした髪を、目の前に置いてあった漆塗りの箱に収め、そっと箱を閉じて床下に隠すように置く。そしてスルリと着物の帯を解き、一つ一つの布をゆったりと脱ぎ去った。
 
 アーサーは憂鬱そうに顔をもたげ、庭に植えた桜に視線をやった。現地に向かったのは結局王耀とアルフレッドで、王耀は勿論願っての出陣では無いし、兵士の殆ど東の人間であった。
 アーサーはずっと菊に会いに行かなければ、と思っては居たものの、中々実行出来ずにいた。兄が出陣した今、のうのうと自分が彼女の元を訪れることは彼女にとって嫌味と捉えられかねないだろう。そんなことばかりが頭を巡り、とうとうもうずっと顔を出せずにいる。
「おいアーサー、知ってるか?東の人間なんだが、戦地に行きそびれた奴が数人居るだろ?だから今度出陣する西の軍に入りたいらしいぞ。」
 いつのまに我が邸宅に入っていたのか、アルセーヌはアーサーの仕事用の机の前で楽しそうに話しをしているのを横目に、桜から目線を外して再び書類を見やった。
「そん中で一人がさぁ、すっげぇ顔が可愛いんだ。見に行こうぜーな!な?」
 酷く楽しそうなアルセーヌに顔を顰めさせて、アーサーは重い溜息を吐き出し頬杖をする。と、アルセーヌは更に身を乗り出しニコニコと笑った。
「お前最近くれぇ顔してんだろ?ちょっと息抜きでさ。」
 ほぼ強制的にそうアルセーヌに連れ出され、気が向かないままアーサーは兵士達が訓練しているだろう場所を目指して歩き出す。普段は軍事的な事も見なければならないのだが、王耀の様な東の人間ならともかく、アーサーやアルセーヌなどの西の人間はあまり軍事力を重視してはいない。
 練習場の人間は、いつもだったら全員何かしらしているのにその日は何故か人の束が真ん中に出来ていて、アーサーもアルセーヌも不思議そうな顔をさせてその人々の群れに歩み寄る。
「何してるんだ?」
 ふとそう声を掛けると、束になっていた人垣はアーサーとアルセーヌの姿に驚きギョッと目を剥き慌ててその壁を崩し、真ん中で戦っていた二人の姿だけが見えた。
 一人は巨体で太い刀を使っているのだが、もう一人は驚くほど小柄で、銀色の鉄製カブトがぶかぶかで顔はよく見えない。が、その肌の色から東の人間だという事はすぐに分かる。その二人が戦っているだけでも驚きなのだが、更に驚いたことに巨体の男は剣だが、小柄の男はなんと、素手で戦っていた。
「止めろっ!」
 そうアーサーが叫ぼうとした瞬間、振り下ろされた剣を身を屈めて避けた東の男は、剣を振り降ろし伸びきった腕を片手で押さえると、もう片方の手をグイッと伸ばして手の平の付け根でパンッと西の男の顎先を弾く。たったそれだけだったのだが、顎先を捉えられ脳震盪を起こしたらしき男はグラリと上体を揺らめかせ、倒れた。
 わぁっ、と人垣が歓声を上げると、東の男は巨体の男が地に落ちる前にその体を支えて頭を打たないようにしている。相変わらず小柄の男の顔はカブトでまるで見えない。
「真剣を使って何してたんだ!」
 アーサーがそう怒鳴り走り寄ろうとするとすると、小柄の男は口を開きかけ、アーサーの姿を捉えて直ぐに口を噤んだ。が、アーサーはツカツカと小柄の男に歩み寄り、そのカブトに手を伸ばす。と、慌てて小柄の男はそのカブトを掴み、取られない様に力を入れた。
「……手を離せ」
 そのあまり予想していなかった反応に、思わず呆れ気味にアーサーがそう言うと、東の男はフルフルと小さく頭を振る。その攻防は数秒で決着がつくわけだが、その後の沈黙の方が攻防戦の倍以上に長かった。
 泣き出しそうな菊の顔の前で、アーサーは固まり、アルセーヌは(´Д`*)しはじめ、周りの人間はその沈黙の長さにどよめく。
「き……菊。」
 肩を落としてアーサーがそう呟くと、菊はフルフルと首を振る。
「私はそんな名前じゃありません」
 菊はキュッと眉を上げ、出来るだけ低い声を出しているらしいのだが、知っている者から見ればばれない方がおかしいだろう。
「……髪はどうしたんだ?」
 そうアーサーが尋ねるとすんなり「切りました」と言ってから慌てて「何のことだか分かりません」と頬を膨らませて腕を組み、横をふいっと向く。
「なんだ?お前ら知り合いか?オレの事も紹介してくれよ。」
 ゆるーい笑顔を浮かべながらアルセーヌはまたアーサーの肩に腕を回すと、アーサーの額に青筋が走る。が、アルセーヌの頬をぶん殴ったりしたりはせずに丁寧にアルセーヌの腕を自身の肩から外すと、菊の腕を掴んで引っ張った。
「取り敢えず話は家で聞く。」
 
 浅い付き合いではあるが、その間には決してみたことのない、眉をキュッと持ち上げて凛々しい顔をした菊は不服そうにアーサーの前に仁王立ちしたまま頬を膨らませる。そしてアーサーも眉間に皺を寄せ、顔を顰めたまま重い溜息を吐き出した。
「なぁ、そろそろどういう関係か教えてくれよぉ。」
 延々と続きそうだった沈黙を破り声を上げたのはアルセーヌで、それに押されるようにもう一度アーサーは溜息を吐く。
「菊は王耀の」
「弟です!」
 アーサーの言葉を遮りそういう菊のチラリと目線をやってから、アーサーは眉間に皺を寄せたまま訂正すべきか否か、少々迷って口を噤んだ。相手がアルセーヌなのだから、結局男だろうが女だろうが関係なさそうな所が悲しい。
「おっ!やっぱりそーか。王耀も可愛い顔してるもんなぁー」
 というアルセーヌの軽口に、菊は更に表情を険しくしたかと思うと、その腰に付けていた長細い剣…らしきものを抜く。不思議なその刃物らしきものは、妙にヌメリとしていて神秘的な光りを放つ。その刃先をついとアルセーヌにむけた。
「それは兄様と私への侮辱ですか?それならば止めてください。」
 大きく黒い筈の瞳がギラリと光り殺気立ち、アーサーは驚いて思わず立ち上がる。が、それよりも早く菊はその刃をアーサーの喉元の方へと向けた。
「あなたも!私は、兄様の所へ行かなければならないんです。だから……」
 瞬時、殺気立っていた彼女の顔が一瞬泣き出しそうになった後、少しだけ項垂れる様に小さく俯き剣をスルリと柄に戻す。カチン、と音を立てて刃は綺麗に柄にはまった。
「……刃を向けてしまい、すみません。」
 項垂れる彼女は小さくそう謝罪すると、その黒い瞳をキュッと強く締めてから、また顔を上げてアーサーを見やった。短い髪が揺れ、その黒い瞳が微かに細められる。
「でも私、行かなければならないんです。兄様の所に。だから、見逃してください……」
 泣き出しそうなその声色に、アーサーは何と答えて良いのか戸惑い口を噤み、後ろで固まってしまっていたアルセーヌをチラリと見やった。彼は完全に現状況を理解出来ずにいるらしく、困ったように目を真ん丸にしている。
「分かった……」
 苦しげにそう呟くと、菊は顔を上げてパッと輝かせて笑う。
「本当ですか?」
 声を弾ませてそう言うと、菊は「失礼します」と一声掛けて扉の向こうへと姿を消した。残されたアーサーとアルセーヌは目を合わせると、同時に表情を崩す。
 
 結局菊は戦地に赴く事となるだろう一員に入れられ、その出発は明日に控えることになった。アーサーはいつもの自宅の椅子に座って項垂れると、グルグルと悩みに埋もれそうだ。そして顔を持ち上げ、庭に生えている桜の木を見つけ、ふと頬を緩めた。
 そこまでする事じゃない、とどこかで自分でも思うのだが、そうしなかったらきっと後悔するだろうと、そうも思う。だからなのか、アーサーはやっと重い腰を持ち上げた。
 
 目的の街までたどり着くまでに約一週間の時間が掛かる。アーサーは馬の上で懐中時計を開いて現時間を確認すると、カチリと音を立ててそれを閉じ、胸ポケットに仕舞い込み、隊の一番後ろでコチラをふと菊が振り返るのに気が付く。
 結局第二陣にアーサーは付いていくことになり、誰もがそれを不思議がって首を傾げていたが、何と言われようとアーサーは付いていくことに決めてしまった。それ故、第二陣と同時にアーサーの護衛として沢山の人間が付いていくことになり、大人数の移動となる。
「アーサー様、なぜあなたまでっ……」
 途中の野宿の時、食糧庫の横で誰も居ないのを見計らい声を詰まらせて、そう菊が声を掛けてきた。久しぶりに聞いた無理に低くしてない素の声に、思わず少しだけ目を瞠り彼女を見やってしまう。
「……アルフレッドが馬鹿な事してないのか、心配なんだ。」
 まだ軍同士ぶつかり合っては居ないらしいが、睨み合っている状況らしいからいつ衝突が起こるとも分からない。そしてその戦地に赴くのは、アーサーはともかく兵士なら生死の保証など当然出来ないだろう。
「それにしても……よくばれないな。」
 思わずそう笑って言うと、菊は心配そうな表情は崩さずに、小さく「2,3度寝所は襲われました」とケロッと言ってのけるから、アーサーは思わず方頬がひくついてしまう。が、直ぐに「勿論事前に我が刀の錆にさせて貰いました。峰打ちですが。」と、可愛い顔して恐ろしい事を言ってのけるから、安心していいのか震えて良いのか分からずにアーサーは苦笑を浮かべた。
「……兄様と私は、血が繋がっていると言っても凄く遠いんです。いいえ、もう赤の他人といっても過言では無いほど。私の両親が殺されたとき、遊郭に売られるはずだった私を兄様が買い取って、書類上にも妹としてくれたんです。」
 独り言の様に繰り出されたその言葉に、アーサーは目を瞠って菊を見やると、彼女も顔を上げてアーサーの瞳を見やり泣き出しそうな顔をする。
「だから私、兄様に恩返しをしなければならないんです。一度死ぬはずだった命、兄様の為にならどうでもいいです。」
 そんな事……漏らしかけた言葉を飲み込み、アーサーは彼女から視線を外し、空の上に浮かび上がった大きな星を見やった。自分の知っていた世界の狭さと、どうしていいのか分からないもどかしさが苦しくてならない。
「兎に角……帰ってまた桜を見ような。」
 アーサーのそのセリフにクスリと菊は喉を鳴らすと、「それ兄様も言っていました」と笑った。
 
 大分北に来たらしく、雪がチラチラと降り、歩きで移動をしていた兵士達は手を摺り合わせてその寒さに耐えている。やはり視線は彼女の方へと向かい、その小さな姿を目で追ってしまう。
 やがて目的地の街が見えてきて、その惨状に隊の人々から声が漏れる。家は焼き尽くされ元々そこに街が合ったことさえ分からない状況になっていた。先の隊はその街の少々外れたところに建てられた関所の一つで、巨大な壁が建てられた砦に籠もっている。
 まだ世の中戦乱だった頃に建てられた為、戦争の道具も非常食も豊富であったし、何より少々手を加えればイワンがその砦を乗り越えるのは難儀な事になるだろう。
 あまりにもその石造の砦が寒々しくて、アーサーは白い息を吐き出して遠くを見やり、顔を顰めた。こんなにも寒い世界が存在したのなんて、思いもしなかった。と、石の大きな門から中に入ると、真っ先に軍の前にアルフレッドが飛び出す。
「アーサー!なんだ君も来たのかい!」
 嬉しそうにそう笑うアルフレッドを一瞥し、アーサーはこの戦場にはあるまじき彼のテンションとは対照的な溜息を吐き出す。
「お前が馬鹿なことをしてないか、心配になったんだ。」
 そうアーサーが言った瞬間、アルフレッドは詰まらなさそうな顔をして唇を尖らせ、肩を竦ませる。そして取り敢えず付いてこいと手招いた。
 兵士は元々決められていた大きな部屋に通され、取り敢えず長旅の疲れを癒やすように言われ、そして食事を出される。やっと建物内に入った事に、今までの疲れがドッシリ肩にのし掛かりみなが口数も少なくその場に座り込んだ。
 先に来ていた東の人間は外で監視をしているらしいし、兄もそちらに行っているから兎に角今は気が抜けるだろうと、菊も溜息を吐き出して部屋の中に設置させられた、不自然な程小さな小窓からそっと外を見やる。恐らく、戦時に外の様子を伺う為の小窓なのだろうが、そこからは焼かれた街と延々向こうに続く山が見えた。
 写真で見せられていた世界や、想像してきた世界からあまりにもかけ離れ大きな大きな、どこにも終わりにが存在しない本当の世界を眼前にし、思わず小さく息を飲み込み呆然としてしまう。青い空に伸びた雲は知っているものの筈なのに、それすら見たことも無い気がして、随分長い間菊はその景色の虜にされてしまっていた。山間を吹き抜ける冷たい風を顔に浴び、やっと小窓から顔を離す。
 
 アーサー、アルフレッド、王耀と、あまり向かい合う事は無さそうな三人組が集まり机を前にしながら、アルフレッド以外は眉間に深い皺を寄せている。
「砦に居る訳だから、先に攻め込むには向いてない。けれども仕掛けられるのを待つには、これしかない訳なんだよ。」
 アルフレッドは肩を竦めてそう言うのを、胸くそ悪そうに王耀は首を傾け、外に視線をやったまま聞いていた。それは、砦の外に見張りの者を立て、外の変化に気が付いた者が何かしらの合図を送るというもので、当然の様にその人間は東の者が選ばれる事になるだろう。
「だがそれだと、見張りの者は……」
 アーサーが思わずそう声を漏らすと、アルフレッドは眉尻を下げて肩を竦めた。
「仕方ないだろ。沢山の人間が死ぬのと、数人の誰かが犠牲になるのではどちらが有効か考えるべきだ。」
 確かにアルフレッドの言うとおりだし、自分が指揮官で最も犠牲が少ない方法をとるなら勿論その通りにする、のだが、そんな事務的に物事を考える事は、今は出来そうもない。正しいのはアルフレッドだと、確かに頭では理解出来ているのだが。
「東の人間ばかりが犠牲になるのはおかしいだろ?」
 そうアーサーが言った瞬間、目の前に座っていたアルフレッドと王耀は同時に目を瞠り、瞬時言葉を失った。が、次に口を開いたのはアルフレッドで、彼は驚いたままの表情で固まっている。
「……確かに、そうだね。でも君からそう言われるとは思わなかったよ。」
 ふと眼鏡の奥の目を細めた彼は、少々満悦そうにそう言い立ち上がるのを、やはり固まった表情のまま王耀とアーサーが見上げた。
「分かった。じゃあ西の人間も配置しよう。」
 カタリと音を立ててアルフレッドは立ち上がると、片手を持ち上げ二人に合図を送り、扉の向こうへとあっさり去っていって仕舞う。残された二人は幾分かの沈黙の後、お互い目線だけで目を合わせた。
「お前等、頭でも打ったあるか…?」
 ポツリと王耀が漏らした言葉に、思わずアーサーは眉間に皺を寄せて苦笑した。
 
 本当ならばアルフレッドは、状況を確かめたら直ぐにでも帰るはずだったのだが、いつまで経っても砦に居座り毎日状況を記した手紙を鳥に括り付け自宅に宛てていた。
 誰もが相手国の力を見るだけの負け戦であり、東の若い人間はもう二度と帰ってくる事は出来ないと思われていたのだが、まさかアーサーまで出向いてしまったとなれば状況は良く分からなくなってしまう。その上、まだ正式に開戦はしていない。
 直ぐにでも仕掛けてくると思われていたのにも関わらず、いつまで経っても仕掛けられる事はないのに、山の合間にイワンの軍が滞在しているのは目に見えていた。長期戦となると断然砦が不利なのを狙っているのだろう。
 そうこうしている内に、見張りに彼女が立てられる番となり、アーサーは傾く太陽を眺めながら頭を痛める事となる。
 よく考えれば直ぐに分かることじゃないかと、理性は確かにそう言うのだが、体は結局ここまで来てしまった。もし今回彼女が見張り番になったからといって、死ぬとは限らないし、ましてやそうなったとしてもまだ会ってそんなに日が経っていないのだから、きっと、すぐに忘れられる……そこまで考え、思わず息を飲んだ。
 そんな事を考えた自分が嫌であるのと同時に、果たしてそれで本当に良いのか全く分からなかったからだ。これで彼女が居なくなったとしたら、あの桜は一体どうなるんだ。彼女の庭に生えた、まるでモンスターの様に畏怖の念を抱いてしまう巨木が脳裏にハッキリと浮かび、あの幻想的な花弁を辺りに舞い散らしていた。
 その桜の木の下で、彼女は自身の民族衣装に身を包み、立っている。切ってしまった黒く長い髪が風に吹かれ、美しい波を作って揺れた。そして大きな瞳がコチラを向き、酷くゆったりとした動作で、微かに細まる。
 
「菊」
 名前を呼ぶと、彼女は驚き弾かれた様に顔を持ち上げ、先程思い浮かべた黒い瞳がアーサーに向けられる。夕日で浮かび上がった菊の顔は、いつもよりもまだ生命感を感じられた。
「アーサー様、どうしてここに?」
 見張り番に出るにはまだ少し時間がある頃、彼女はいつもそこから夕日を眺めている場所で、その日もいつもどおり立って夕日を眺めていた。前にたまたま見かけたとき声をかけたのだが、誰も寄りつかないが一番夕日が綺麗な場所だと、そう言っていた。確かに物見の為には少々大きな窓からは直に風が吹き込んでくるし、山に沈む夕日を遠くまで見渡すことが出来る。
「まだ間に合う……オレが口利きしてやるから、今ならまだ帰れるから帰ろう。」
 アーサーのその言葉に、菊は少々目を見開くと、驚き言葉を見失った様に小さくアーサーから視線を外して考え出す。
「もしお前が帰らないというなら、お前の事を王耀に言ってでも帰らせるつもりだ。」
 言葉を探し俯いていた菊は、アーサーのその言葉で弾かれたように彼を見上げ、眉間に皺を寄せて眉を上げた。そして少しだけ泣き出しそうな顔をする。
「なぜ……なぜあなたは前々から私にそんなに構うんですか?私が女だから?私だって死ぬのは怖いです。だけど……」
 菊がそれ以上何かを言う前にその腕を取り、抱き寄せた。驚いたのか微かに震えたのを感じるが、力は緩めない。横から当たる夕日を感じる。
「お前が死ぬのが、怖いからだ。……お前の事が……」
 菊の耳元で囁かれた言葉を、彼女のみにしか聞こえない程に巨大な笛の音が、まるで場違いに鳴り響く。菊は目を大きくさせ、その二つの音を遠くに聞いた。