ラ・カンパネラ

 
 
 
  La Campanella  -ラ・カンパネラ-  
 
 
 
「え?」と、笛の音に掻き消されて聞こえなかったのか、アーサーと顔を見合わせていた彼女は、目を少しだけ大きくさせ、聞き返す。小さな窓から差し込んだ夕日が、彼女の白い肌を綺麗に栄えさせていた。
「だから・・・」
 とアーサーが菊の肩に手を置こうとした瞬間、彼女は笛が鳴り、足音が響き渡る方へと顔を向け、眉尻を下げた顔をまたアーサーに寄越して口を開く。
「私・・・もう行かなければ・・・」
 許しを請う様に菊はそう言うが、アーサーは思わず彼女の細い腕を掴み、菊が走り出してしまうのを阻止した。菊は驚き、抗議の視線をアーサーに向けるが、アーサーが酷く辛そうな顔をしているから、思わず口を噤んでジッと彼の顔を見やる。
 外は酷く騒がしいのだが、夕日に光りキラキラと輝く彼の髪の毛を見ていると、世界は平穏な気さえしてしまうから、不思議だ。もし今こんな状況では無かったら、もっと世界は変わっていただろうか?
 菊が彼の名前を呼ぼうとした瞬間、誰かがその代わりとでも言うかのように、菊の兄の名前を呼んだ。ハッと黒い髪を揺らして菊は顔を持ち上げると、掴まれていたアーサーの手を瞬時に振り解いて走り出した。アーサーが彼女の名前を呼びかける間さえ与えず、菊は俊敏にその体を跳ねさせアーサーの視界から消え去ってしまう。
 
 菊は適当な所に転がっていた、やはり自分には幾分も大きなサイズの鎧を被り、重さに首が曲がりそうなのを懸命に耐えながら走る。山の向こうにイワンの隊が姿を見せたらしいが、もうすぐ沈んでしまう太陽から逆行となりその姿をハッキリと見ることは出来ない。
 あまりにも不可解な時間に奇襲をかけたものだと思ったのだが、逆行を狙っていたのだと思えば納得も行く。けれどももうすぐ日没で互いにやりづらくもなるが、まだ光りがある分こちらも対応出来る。
 取り敢えず今は、出来るだけ兄の傍に寄って彼を守らなければならない。といっても、自分は一介の兵士であるから、兄にあまり近付く事も叶わないけれど。
 
「アーサー!こんな所に居たのか!」
 向こうから走ってきた主、アルフレッドは眼鏡の奥の目を真ん丸にして、立ち竦んでいるアーサーに声を掛けた。ぼんやりと小窓の傍で立っていたアーサーは、一度アルフレッドに視線をやってから眉間に皺を寄せる。
「ここは危険だよ。オレは裏から出る。君も帰った方が良い。」
 元々俺達の任務じゃないからね、と、アルフレッドは若干不服そうに唇を尖らせた後、何でも無さそうにケロリとそう言った。
「それは、ココは見捨てろという事か?」
 アーサーが眉間に皺を寄せて返すと、アルフレッドはあからさまに顔を顰めると、腹立たしさをその顔全面に出して、また口を開く。アーサーの苛立ちに呼応するかの様に、アルフレッドの目が殺気立った。
「ここは王耀に任せたらいいって事だよ。・・・なんか君、最近変だよ。」
 確かに、少なくともちょっと前までは東の人間に肩入れなどしようなどと、微塵も考えていなかった。あの黒い髪も、色の付いた肌も、小さな背もネズミの様で嫌だったし、考え方も気に入らない。
 それなのに、今はどうにかしなければと、そればかり考えている。
「・・・お前一人だけで行ってくれ。オレはもう少しここに残る。」
 結局ここに残ったって何にもならないというのに、そう言わずには居られない。アルフレッドは眉間の皺を益々深くし、何かを言おうと口を開けるが一旦閉じ、「好きにしなよ」と一言言い置いて踵を返した。
 
 奇襲を掛けてきたとばかり思っていたのに、結局その日は矢が飛んできただけで数人の怪我人しか出なかった。一息吐くにはあまりにも呆気なく、けれども死ぬ覚悟までした物にとっては一息吐かずにはいられない。
 そうなるとやはり夜来るのかもしれないが、夜などお互い上手く行きはしないだろう。そう、夜の空を眺めながらアーサーは微かに首を傾げると、不意にいつの間に近付いたのか後ろから声を掛けられ肩を跳ねさせる。
「お前、なんでまだココに残るか。」
 振り向くと訝しそうな顔をした王耀が立っていて、アーサーは窓際から離れずに、やはり眉間に皺を寄せたまま何も言わない。
「我は命令でここに来たし、死ぬ覚悟もしてるある。お前とは違う。」
 王耀の言葉にアーサーは何も返せずに、ただジッと王耀の顔を見やった。ゆらゆらと机の上に置かれた燭台の蝋燭が燃え、小さな部屋を彩っている。
「いつまでもお前にウロウロされていると、迷惑ある。」
 感情を露わにして王耀がそう声を荒げるが、アーサーは酷く冷静な声色で一言だけ「帰らない」とだけ呟き、足音を響かせながらさっさと部屋を横切り、そのまま部屋を出て行ってしまった。
 
 そのまま夜が明けるかという時に、不意にこの要塞が大きく震えて爆音が響き、堅いベッドの上でうとうととしていたアーサーは驚き、体を起こす。真っ先に見張りに立っている彼女の事を思い出し、服装を整える間もなく部屋を飛び出した。
「どうした?!」
 廊下で一番に見つけた東の人間に話しかけると、彼は目を大きくさせてから急いで「砲弾を受けました!」と声を張り上げる。アーサーは眉間に皺を寄せ、「砲弾だと?」と声を荒げた。
 イワン側がどれ程の武器を持っているのか全く未知だった為、多少なりの驚きがあったけれども、戦争をしかけただけあってそのぐらい持っていても当然だろう。
 慌てて状況を訪ねると、要塞の少し手前に砲弾が落ち、大きな衝撃がこの要塞を襲ったらしい。まさか夜一晩またいで朝仕掛けてくるとは思っていなかったのだが、それでも東の人間は全員しっかりと配置についていた。
 互いにもっと距離を縮めない事には攻撃は当たらないのだが、それでもイワン側は威嚇射撃をしておいて近付いてこようとはしない。苛々とした沈黙が随分続き、睨み合いが暫く長引いた。
 早く帰るように促されたものの中々帰ろうとしないアーサーに痺れを切らしたのか、もう誰も無理に帰らせようとはしない。アーサーは自室として与えられた部屋から向こうに見えるイワンの一群を見つめていた。
 軍団の中からたった一人だけ抜け出て、誰かが近付いてくる。思わず身を乗り出しその馬に乗った人影を見つめると、砦の途中でその人影は止まり、何かをジッと待つ。
 こちらも別段攻撃を仕掛ける様子は無い。と、砦の石で出来た扉が重々しい音をたてて開け放たれ、東の人間が一人出てきて、何やら物を受け取る。そして二,三言話を交わして別れた。
 
 息を弾ませて王耀の元に走ると、彼は何やら手紙らしき物を持ち読んでいた。そしてアーサーの姿を一目見て、細い目を更に細める。
「お前は、まだ居たあるか。」
 忌々しげにそう呟くと、東の民に囲まれた王耀はその手紙を机の上に投げやり、まるで感情の無い表情で人垣を割って無言で自室の扉を開けた。バタリと扉が閉められると、シン、と静まりかえった部屋の中の東の連中は誰もが口を閉ざし、アーサーから視線を反らした。
 アーサーは一瞬躊躇してから歩き出すと、人波を掻き分けて王耀の部屋のドアノブに手を当て、一つ大きく息を吐き出すとゆっくりとその扉を開ける。
 窓際のさんに座っていた王耀は眩しそうにアーサーの顔を見ると、つまらなそうな顔をして微かにその肩を竦める。
「イワンが我に国に来るよう手紙で言ってきたある。」
 アーサーはその言葉に思わず顔を顰めると、扉の前で立ち竦んだ。戦争中というこの状況で王耀がかの国家に呼ばれるというのは、謂わば人質としてとられるというのと一緒だろう。
「……行くのか?」
「行かない以外にどうすればいいあるか。」
 アーサーを睨み付けながら王耀が声を荒げた時、扉が叩かれ戸惑いがちに王耀の名前を呼ぶ声がする。王耀が眼光鋭く開けるよう声を掛けると、東の人間が一人、顔を出した。
「あの……王耀様の代わりを立ててイワンの元へ行きたい、と志願した者がおります。」
 王耀は窓の桟から思わず立ち上がると、扉から入ってきた男に目線をやる。振り返ったアーサーはその男を見やってから、微かに目を大きくさせてフト息を小さく飲み込んだ。

 
 
 
 ガチャリとノックも無しに扉が開けられて、中に座っていた菊はアーサーの顔を一目見るなり慌てて立ち上がり小さくお辞儀する。が、アーサーはまるで気にする様子も無くツカツカと菊の傍に歩き、その腕を掴んだ。
 菊は驚いた様子でアーサーの険しい顔を見上げ、眉間に小さな皺を寄せ、不安そうな顔をする。
「……今からでも王耀に言って、無理矢理でも家に送り返す。」
 アーサーがそう一言だけ言って菊を引っ張ろうとしたのだが、数歩歩いただけで菊は上手く腕を回し、アーサーから離れるとアーサーが掴んでいた部分を、もう片方の手の平でそっと包んだ。
 振り返り顔を顰めたアーサーの事を、眉を持ち上げた菊はフルフルと首を振る。
「やっと兄様のお役にたてるんです……あなたには迷惑かけません。私の好きにさせてください。」
 泣き出しそうな顔をしていた菊は、眉を持ち上げたままそう言うと、キュッと奥歯を噛みしめて声を荒げた。アーサーはその菊の様子に引くこともなく彼女の肩を掴むと、グイと顔を寄せて己の唇を彼女のソレに重ね合わせる。
 窓から焦げ付くような夕日が二人の姿を捉え、質素で土埃で汚い床に、一つの黒い影を作り上げた。ビクリと瞬時に菊は驚いて肩を震わせたのだが、逆に動転し過ぎたのか微動だにせず、黒い瞳をただ真ん丸にして立ち竦む。
 そしてようやく離れた時、キョトンとしていた菊の顔に瞬時朱が混じり、泣き出しそうに瞳を潤ませながら眉はキツク持ち上げ、そしてピシャリと音をたててアーサーの頬を打つ。
「なんの真似ですか?」
 微かに語尾を震わせて菊がそう言うが、アーサーは打たれたまま斜め下を見つめたまま、顔を持ち上げもしない。そしてそのまま呟く。
「お前を、イワンに渡したくない。」
 ゆったりと金の柔らかな糸の様な髪の隙間からアーサーは翡翠色の瞳を覗かせ、夕日で染まり戸惑った様子の菊をその宝石色の双眼で映し出す。どこか怒っている様なアーサーの表情に、自身腹を立てていた筈の菊は何も言えずにただその姿を見つめた。
「行ったら、生きて帰ってくる保証なんか無いんだぞ?」
 挑戦的なアーサーの口調に、思わず菊も身を乗り出し口を開いた。
「それでも私は兄様に、少しでもいいから恩返しがしたいんです……!」
「恩返し恩返しって、それで王耀が本当に喜ぶと思ってるのか!?」
 アーサーの怒鳴り声に押されるように、菊は先程までの表情を崩し、また泣き出しそうな顔をすると口を真一文字に閉じて黒く揺れる瞳でジッとアーサーを見つめる。そして微かに目線を下にずらした。
「兄様が喜ぶとか、そういう問題では無いんです……これは、私の問題です。私が、どうすべきかという問題なんです。」
 強く握られた彼女の拳が震え、黒い細かく繊細な髪は風が吹く度にゆらゆらと揺れ、こんな状況だというのに綺麗だと思えてしまう。それも、正しいと思ったら意志を頑なにでも曲げようしない所為でもあるのかもしれない。
「例えアーサー様が兄様に言ったって、私は行きます!」
 菊がそう言い放つと、アーサーは下唇を強く噛みしめてから顔を持ち上げ、菊のその険しいながらも決心を秘めた顔を見上げ、そして眉間の皺を深くさせた。
「……桜も、もう見られなくなるんだぞ。」
 折角自身の庭に埋めた桜の蕾みさえ、まだ膨らんでさえいないといないというのに、何一つ始まってさえいないというのに、こんな形で急に終止符など打ちたくはない。
 けれども彼女の意志を尊重せずに無理矢理押し切っていいものか、そう思わずにはいられないほどに彼女の瞳は真剣だった。こんなに突然割り込んできた自分が、東のことさえ良く理解していない自分が、彼女の意志を折り曲げるなど、やはり許されない気がした。
 始めここに連れてくる時だって結局は自分が折れたわけだし、自分がどれほど押したところで他人である自分にはなんら関係が無い事なのだろう。
「桜なんて……」
 言葉を無くして立ち竦み、俯いた菊にアーサーは手を伸ばしかけて、やはり開いた手の平をキュッと結び手を下に降ろした。
「本当に行くのか?」
 ぽつりと呟けば菊はコクリと頷き、黒い瞳を真っ直ぐに、自分に向ける。何も伝える事も出来ずに全てがここで終わってしまうのか……アーサーは顔を俯いた菊から視線を反らすと、「そうか」と唸るように呟いた。
「そうか……」
 伝えたかった事を今この場で伝えてしまおうかと一瞬過ぎったのだが、やはり言葉が出てこずに口を噤んだ。静まりかえった部屋の中で、どんどん沈んでいく太陽が遠くに見える。
 扉に向かうアーサーを追いかけ菊は口を開き掛け、そして慌てて噤んでから下を向く。軋んだ音をたてて扉が開き、輝く金髪が扉の向こうに消える姿をまた顔を持ち上げ見やり、眉を歪めてまるで泣き出しそうな顔をした。
「……有り難う御座いました。」
 言おうとした言葉はやはり出てこず、ただそんな御礼を述べて菊はペコリと深く、頭を下げる。微かな間があってから、パタリと扉が完全に閉まったのをどこか遠くで聞いた。
 
 
 本当は自ら出向くと言ったのに結局部下達に止められ、結局己から志願した人間が影武者として連れて行かれる事になった。そんな事したところでどのぐらい持つかたかが知れている。
 その上気が付かれた時に向こうが逆上するだろうことは考えずるまでも無いだろう。
 そう、朝太陽に照らされて遠ざかる一向を見やりながらぼんやりと王耀がそう考えていると、いつの間にそこに居たのか、隣りに座っていたアーサーが何やら酷く暗い顔をしてその一向が遠ざかっているのを言葉も無く見つめている。
「一度国に帰ってさっさと報告しなければならねぇあるな。」
 ほんの少し首を傾げてそう言い、その場を去ろうと離れゆく一向から目線を反らした瞬間、王耀がその場を去ろうとしているにも関わらず微動だにしなかったアーサーが掠れた声色で呟く。
「……菊だ」
 小さな声で言われたのにも関わらず、歩き去ろうとしていた王耀はバッと顔をアーサーの方へ向けた。教えたことも無かった妹の名前を、前後の会話にまるで関係性が無かったのに呟かれて酷く驚いたのか、その細長い瞳を思いっきり見開く。
「連れて行かれるのは、お前の妹だ。」
 振り返らずにそう言うアーサーの背中姿を見つめたまま、王耀は何も言えずに立ち竦む。朝日に照らされたアーサーの髪がキラキラと風に揺られて輝いている。
「……今、なんて言ったか?」
 思わず眉間の皺を深くさせて王耀が、アーサーのその後ろ姿を見つめたまま低い声色でそう問うと、アーサーは翡翠色の瞳をゆったりと王耀に向ける。
「お前の身代わりに連れて行かれたのは菊だ。」
「そんな訳ないある……だって菊は……」
 険しい顔をしてそう言ってから俯くと、語尾を詰まらせて言葉を失ってから直ぐさま踵を返して走りだそうとするのを、その腕を掴んでアーサーが引き留める。
「離せっ!」
 噛み付かんばかりな顔をして王耀は声を上げるが、アーサーも眉間に深い皺を寄せて王耀を睨み付けた。
「今お前が出向いてどうにかなる問題じゃないだろ!?」
 今まで見たこともない程に険しい顔をした王耀は、その細い目を光らせて掴まれていない方の手でアーサーの襟首を掴み上げる。グッと声を詰まらせアーサーは仰け反るが、それでもアーサーは退こうともしない。
「お前に我達の事で口出しされる云われはねぇある!」
 締め上げる力を段々に強めていくが、それでもアーサーは掴んだ腕の力を外そうとはしない。
「今お前が出て行ったら、菊がした決心の事も、東の国がどうなるかももっと考えろ。」
 荒げることもなくアーサーがそう言うと、王耀は暫くギリギリと音が鳴るほど歯を食いしばってアーサーを睨んでいたが、やがて舌打ちを一つすると怒りの表情を崩して黒い瞳を歪め、俯く。彼女と同じ色の髪が揺れ、彼の顔を隠した。
 アーサーの首もとを締めていた王耀の手が震え、力なくアーサーから離れて自身の顔を覆う。
「……我は、部屋に帰る。」
 王耀は掠れ途切れた声色でそういうと、その顔色を見せずに踵を返して与えられた自室に向かった。