La Campanella


 
 La Campanella  -ラ・カンパネラ-
 
 
 あまりにも静かで寒々しい王の椅子の前で、菊は一心に目の前に座っているイワンを見つめる。彼は、その長身をどっしりと椅子の中に収め、一見柔和そうな笑顔を浮かべて菊を見やっていた。
「……君が東の統領?そんな風には見えないけど。」
 クツリ、と喉を鳴らしたイワンの瞳が、微かながら殺気立つ。その迫力が凄まじく、じっと彼の瞳を見つめていた菊は思わず息を飲み込み、震えそうになる足に力を込めた。
「私は王耀の妹、菊です。今兄さま居なくなっては東に大きな打撃を与える事になるので、私が代わりに来ました。」
 キュッと勇ましく眉を持ち上げ菊はイワンに目線をやると、彼はひどく楽しそうにその目を細める。灰色の瞳は完全に素を隠していて、馬鹿にしているのか楽しんでいるのか、一見ではまるで分からない。
「君が王耀の妹である証拠は?」
 イワンにそう言われ、菊は一瞬間をあけてからイワンについと、背中を向けた。それからおもむろに小汚くなっていた自身の服に手を掛ける。ガシャン、と音をたて鎧を取り去ると、中性的だったその姿にハッキリと女の線が浮き出た。
 上半身の布を全て脱ぎ去ると、その小さな背中一杯に薄桃色の花が散っている。あまりにも綺麗に色が付いているからか、思わず、といっても小さくだがイワンは目を開いた。
「私が幼い頃に彫り込んだものです。我が民族の王の系統である証拠です。」
 目の前に立ったくせ毛の少年の顔が赤くなるのを見ながら、菊は相変わらず険しい表情のままを保ってそう言った。肌全部が寒さであわ立つ程待った後、イワンが鼻を鳴らし笑うのを背後で聞く。
「分かった。君が王耀の妹だっていうこと、信じるよ。」
 菊はイワンの言葉を聞くと、微かに震える膝に手をギュッと握り締めてから、衣服を胸元に手繰り寄せるとイワンに向き直る。
「君に部屋を与えるよ。役目を言い渡すから、それまでそこに居てね。」
 イワンがにっこり笑ってそう言うと、イワンの横に立っていた女顔の青年がスッと菊に近寄る。彼は菊の腰に触れるか触れない程のところに手を当て、誰にも聞こえないほど小さな声で「大丈夫です。」と声を掛けると、ゆっくりと歩き始めた。
 
 牢屋の様な所に入れられるのだろうと、そう当然の様に思っていたのだが、菊が通されたのは綺麗な、そして大きな部屋だった。窓が完全開ききり、白いレースのカーテンが気持ちよさそうに揺れているし、壁紙も綺麗な草の模様を描いている。
 逃げるつもるは毛頭なかったのだが、こうまで警備が薄いと馬鹿にされた気さえする。
 パタリと扉が閉まる音を聞いてからそっと室内へと踏み出すと、柔らかな絨毯を、泥で汚れた靴の下に感じた。菊は微かに顔をしかめると、その場で自分の家に居るときの様に靴を脱ぎ去り、きちんと並べる。
 仕方なしに部屋の中央に置かれたベッドに腰をおろし、乱れたままになっていた衣服を綺麗に整えた時、控えめなノックの音が一つ、聞こえた。
「……服、これに着替えて下さい。あと夜ここに戻ってさえくれば、部屋は出入り自由です。」
 扉から顔をだしたくせ毛の少年は、戸惑いがちに菊に真新しい洋服を差出しながらそう言うと、まるで逃げ出す様に部屋から駆け出してしまった。立ちすくんだ菊はぼんやりと手元の服を広げ、今まであまり着たことの無い形状のレースが広がるのを、微かに顔を顰めて見やる。
 人質な筈の自分に綺麗な部屋、服、そして自由な時間まで与えるなど、一体イワンが何を考えているのか、まるで分からない。もしかしたら別に人質としてとられた訳では無いのかも知れない……
 暫くそうして服を見つめていたのだが、やがて考えても今答えは出ない事だと割り切ると、その服をベッドの上に広げ、もう一度自身の服に手を掛けた。
 
 あまりウロチョロしてはいけないのだろう、そう分かってはいるものの元来性分として好奇心が旺盛なものだから、菊は重たい豪勢なドレスの裾を持ち上げながら長い廊下をゆっくりと歩いた。
 時折設置してある窓からは午後の柔らかな光が差し込み、花が咲き蝶が飛び交うガーデンがのぞめる。これが貧しい土地なのかと、思わずそう疑ってしまう程に穏やかな光景にそっと息を飲み込む。
 見たこともない花、果物、東の人間には派手だと思えてしまう立派な噴水がガーデンには設置してあり、ゆったりとした足取りでその庭に入っていくと、柔らかな薫りが辺りに充満していた。
 花の香りに誘われる蝶の様に、まさしくフラフラと庭園内をゆったりと進んでいく。
「……どこから来たの……?」
 庭の噴水の手前でふと声を掛けられ、菊は驚き弾かれる様に声がした方に顔を向け、思わず動きを止める。声がしたのは、菊の立っている前にある部屋からで、鉄格子がはめられた窓から彼は微かにその顔をのぞかせていた。
 黒い髪と黒い双眼は自身と同じなのだが、髪は兄や自分と違い癖がつき、柔らかにウェーブしている。肌は浅黒く、褐色と表現するのが正しいだろう。
「……東の国です。」
 菊は彼の綺麗に整ったその顔を見つめたままぼんやりと返すと、彼は自分から聞いてきた癖に一度「そう……」と、まるで気がない素振りで頷く。
「オレね、ヘラクレス。名前は……?」
 微かに首を傾げて彼がそう問う。柔らかな日差しがその顔に縦縞の明かりを当て、どこか幻想的に浮き上がらせる。
「私の名前は菊です。……ヘラクレスさんはどうしてその様な所に……?」
 自身とは違い、まるで自由が無い場所に入っている彼を、菊は不思議に思いそう尋ねると、ヘラクレスは眠たそうな表情を一切崩さずに、白黒の色合いに染まったまま一度瞬きをした。
「オレも、よくわかんない……」
 まるで他人事の様な物言いに、思わず菊は苦笑を浮かべると警戒心を若干緩めてヘラクレスが入っている部屋へと近付いていく。東の人間以外はあまり見たことさえ無かったから、彼の見慣れぬ風貌が酷く彼女の興味をそそった。
 菊が近付いてくるのをヘラクレスは口元に笑みを浮かべて見やり、まるで子供のように顔を綻ばせて喜んでみせる。どこか人懐っこい動物の様だと、そう心の中で菊はひっそりと思った。
「菊は何でこんな所に居るの?」
 柔らかな口調でそう訪ねる彼の、壁一枚挟んで直ぐ近くによると、一番ヘラクレスの目が見える場所に足を止めて彼を見上げる。口調から幼い気もしたが、声色はしっかりと芯が通っていて、自身とそれほど歳は変わらないのかも知れない。
「私は……東の人間として、イワン様と話し合いをしに参りました。」
 一瞬『人質』と言いそうになるのだが、相手側がそういう意志を表明していないのだから、自分が言うわけにはいかないだろうと踏みとどまる。菊が笑みを浮かべて言ったその言葉を聞きながら、ヘラクレスは鉄格子にそっと手をかける。
 こんなにも暖かく柔らかい世界なのに、彼が入れられている部屋ばかりは陰湿で暗く、まるで別世界の様だ。
「じゃあ、話し合いが終わるまで、また来てくれる……?」
 菊はなんの戸惑いもなくそう言ったヘラクレスに一瞬驚くのだが、こんなにも暗い部屋に入っている事が彼にとって苦痛なのかもしれない。もしかしたらあまり他人と会話さえしていないのかもしれないと、そう思いつき、顔を真剣に強張らせたままコクリと一度、深く頷く。
「……嬉しい」
 鉄格子の、小さな窓の向こうでヘラクレスが目を細め、笑う。その瞬間、菊の背後で鐘の音が響き、振り返ると暮れていく空が見えた。
 自身の国より日が暮れるのが早いのか、それともあまりにも現実味が無い事が続く物だから早く感じるのか、兎に角もうこの国に夜が気配を落とし始めている。呆然と空を見上げている菊に、ヘラクレスが小さな声で「もう帰った方が良いよ。」と囁いた。
 
 
 うーん、と眠たげな声を上げ、まるで猫が伸びでもするように長く長く体を伸ばしながら、大きくフェリシアーノは伸びをしてみせた。それからズレた青い縁をした眼鏡を綺麗に元の位置に戻すと目の前の書類に顔を戻す。酷く眠たそうな目を擦り、懸命に目を開く。
「それじゃあ、これでいいですか?」
 そんなフェリシアーノを心配そうに見やっていた中年の男がそう声を掛けると、フェリシアーノは慌ててウンウンと頷いてみせる。
「有り難う御座います!」
 声を上げて立ち上がり握手を求めるフェリシアーノを、中年男は苦笑しながら見やる。が、まるでそんなことはどうでもいいのか、フェリシアーノの笑顔はまるで曇らない。
 フェリシアーノは男と握手をかわすと、そそくさと机の上に置かれた札束で一杯のスーツケースを掴み、片手を上げてにこやかに部屋を後にする。外に出るまで見送りが一人も居ないのは、目立たないためだろう。
 入ってきたときはまだ昼頃だったというのに、空はもう真っ暗でストリートチルドレンや怪しい格好をした男達、売春婦が町の至る所にひっそりと立っていて、否が応でもフェリシアーノの足を速くさせる。
 スーツケースを抱えながら肌寒い通りを越えた所に停まっていた車に慌てて飛び乗ると、フェリシアーノとほぼ顔のパーツが同じ男が一人、運転席に座りフェリシアーノが抱えているスーツケースに目を落とし、にやりと口の端を持ち上げて笑う。そしてまだきちんと座席に体を落ち着かせていないフェリシアーノの体を仰け反らしながら、車は急発進した。
「ちゃんと出来たみたいだな。」
 楽しげな歌でも歌うように運転席に座る男、ロヴィーノが言うと、フェリシアーノは元々下がり気味の眉尻を更に下げて見せた。
「うん……。でもあの麻薬、ほとんど混ぜ物ってバレないかなぁ。」
「そんなの、表面しか調べなかったあいつ等がわりぃんだ。バレた所で俺達はとんずらするんだから関係ねぇだろ。」
 ふんっ、と鼻を鳴らし微かに首をもたげてロヴィーノはそう言うと、「あ」と少しばかり目を大きくさせる。それから夜道を運転中にもかかわらず、顔をフェリシアーノに向けた。
「最近隣国の国王第一継承者が居なくなっただろ?」
 人を数人轢いていてもおかしくは無い程に荒い運転をしながらそう言うロヴィーノを、そんな運転に慣れているのか、フェリシアーノはいつもの笑顔を崩さずに見やり、頷く。いくら世情を知らない二人といえど、流石に現在一番世間を騒がしている王子失踪の話題ぐらいは知っていた。
「あれにな、もの凄い額の懸賞金が掛けられてるんだ。」
 へぇ〜、兄ちゃんは物知りだね。と、嬉しそうに、何も考えずにフェリシアーノがまた頷く。勿論、ロヴィーノが何を言いたいかなんて、考えてはいない。
「あれぜってぇ、イワンが関連してると思うんだ。最近戦争を吹っ掛けたり、行動が怪しいからな。」
 浮浪者を轢きかけ、ロヴィーノは深夜だというのに大きな音をたててクラクションを鳴らし、顔を顰めて口の中で舌打ちをする。相変わらずフェリシアーノは大きな鞄を抱えたまま、やはり笑顔を浮かべていた。
「だからお前、今から軍隊に入って王宮の警備になったとき、ヘラクレスを探して連れ出してこい。」
 数秒、にっこりとフェリシアーノはいつもの笑顔を浮かべていたのだが、徐々に顔を青く染めていき、やがて今にも泣き出しそうな顔をした。否、実際はその目に涙を溜めていたかも知れないが、今はそんな事、フェリシアーノ本人にとってもどうだっていいことだろう。
 彼は「ヴェー」と大きな泣き声を上げると体を乗りだそうとして、シートベルトに遮られてガクンと体を揺らした。
「む、無理だよ兄ちゃん!!オレにそんな事、出来るわけないよ!それに、オレ、戦争とか行かされちゃったら、どうすんのさ!」
 先程の車のクラクションより大きな泣き声を上げてそう訴えると、ロヴィーノはさも五月蠅そうにフェリシアーノが居る側の片耳を塞ぎ顔を顰め、そして肩を竦めてみせる。
「オレだって外からフォローする。ダメだったらいつもの様に逃げればいい……それに」
 ロヴィーノはそこで一呼吸置き、ゆったりとした口調で続ける。
「前の山、詐欺だってばれて、お前今外歩いてると良い弾の的にされるぞ。」
 今回と同様に、やはり麻薬関連で町のマフィアから多額の金を騙し取ったのだが、それこそ結構巨大な組織だから、他国を歩いてたって襲われる可能性があった。
 「ひっ」と息を飲み込んだフェリシアーノを見やり、ロヴィーノは苦笑とも取れる笑顔を浮かべ、車を急停止させる。と、そこは軍隊入隊志願兵が集まる施設であり、どうみても彼等二人とは種類が違う筋肉隆々の兄ちゃん達が住んでいる建物だ。
「ほら、オレが書類書いてやったから後は頑張ってこい。どたまに風穴開けられるのと英雄として帰ってくるのと、どっちが良いんだ?」
 ズイ、と紙一枚を向けられたフェリシアーノは泣き出しそうな顔のままブンブン頭を振り、
「ど、どっちもやだよぉ〜……オレは、父ちゃんの借金が返せればそれでいいもん。」と、懸命に涙ながらに訴える。
「よし、じゃあ決まりじゃねぇか。このままコツコツ貯めるよか、バーンっと返すぞ。」
 ……そんな訳でフェリシアーノは一人、やはり涙を流しながら車から降ろされるはめとなった。自由もない、可愛い女の子も居ない、お金は貰えるけれど、楽しくはない。つまり、フェリシアーノにとっては地獄の様な世界だった。
 
 
 つい先日戦争を吹っ掛けた相手である東の統率者の妹が居るという情報が入り、ルードヴィッヒは宿舎で微かに眉間に皺を寄せて見せた。最近イワンの考えている事の予想ぐらいはついていたが、これからどうするつもりなのかまでは理解しかねる。
 どうやって東の頭領とコンタクトをとるつもりか分からないし、この『妹』というのも所詮妹なのだから、東の国にとってはそれほど大切な存在であるとは思えない。それなのに何故、彼はその妹を人質としてとったのか……
 確かに本人を連れてくる様に要求した所で、もっと攻め込んでいない限り影武者を用意してくる事ぐらい予想出来た。そして影武者を用意した、という事を理由に無理矢理約束をこじつけようとか考えていただろう事も、やはり理解出来た。
「ルードヴィッヒ大佐殿」
 名前を呼ばれ後ろを振り返ると、アルコールランプに照らされて敬礼をする男と、その隣りで嫌にションボリとした細い男が一人立っていた。どうみても軍隊向きじゃないから、恐らく金が無くて仕方なしに入ったのだろう。
「健康診断には引っかかりませんでした。明日から貴方の元で、との事です。」
 そうか、と大きく頷いてからションボリとした青年に名前を聞くと、一応彼は声を張って「フェリシアーノです!」と自己紹介をしてみせる。が、心の中では『やっぱり筋肉もりもりだぁ……』と嘆いていた。