La Campanella


 
 La Campanella  -ラ・カンパネラ-
 
 
 しょんぼりとしょぼくれていたフェリシアーノも、ちょっと突くとビッと背筋を伸ばしてまたもう一度自己紹介を繰り返す。それはもう聞いたのだが……と、思わずルードヴィッヒは眉尻を下げた。
「お前は……主に王宮の警備に配置する。」
 一番安心だし、別段危険性も無いし、その上彼ならば自分が王宮で行動するのも楽になる、というものだ。
 と、フェリシアーノはルードヴィッヒの言葉になぜか嬉しそうに目を輝かせると、自分の自己紹介以上に嬉しそうな声で「はいっ」と声を上げると、なぜかそこで一度敬礼をしてみせる。
 一瞬ルードヴィッヒは不思議そうな顔を浮かべるのだが、まぁどうでも良いかと未だ納得しきれずに小さく首を傾げた。
 
 昼食の場で通された広間で菊は一人で食事を突いていると、部屋に入って来るなりイワンはにこやかな笑顔で菊の目の前の席に座った。その顔を見ていると、飲み込み書けた野菜が喉につまりそうになる。
「僕の要求は、東の国と内密に手を組むこと。」
 何の前置きも無いまま、急にイワンがそう言うと、菊は驚いた様に顔を持ち上げて黒い瞳を大きくさせる。その動きを完全に止め、持ち上げたままのフォークをそのままにさせた。
 言葉も返すことを出来ずにイワンを見つめる菊を、イワンはジッと笑顔のまま細めた目で見やるのだが、その瞳が怪しく光った。
「君のお兄さん、連絡さえしてこないよ?」
 冷たい声色でそう言われ、菊は微かに眉を歪めて顔を俯かせる。その動作につられた短くなった髪が微かに揺れ、自身の頬に触った。
「東の国以外にバレると意味が無くなるんだけど。」
 クツリと喉を鳴らしてイワンは笑うと、ガタリと椅子を後ろに引いて立ち上がる。菊はその音に驚き弾かれた様に顔を持ち上げ、彼の動向をジッと見つめた。
「どうにかコチラから連絡は取れたから……旅に出る準備をしてね。君のこと、十分に利用させてもらうからね。」
 にっこりと笑うイワンを前に、菊は眉尻を下げて泣き出しそうな顔をして更に俯く。と、イワンはそれ以上何も言わずに立ち上がり、部屋を後にする。元から誰も居ない部屋は、彼の出現の所為で更に静かになった気さえした……
 フォークを唇に付けたままぼんやりと菊は目を細め、今庭に咲いているだろう桜と、その家に住んでいる兄の事を思い出し、目の前が微かに歪んだ。
 が、直ぐに顔を持ち上げ立ち上がると、キュッと眉を持ち上げて顔を引き締める。落ち込んでいる暇も、悩んでいる暇も、自身には無いのだ。
 
 今まで見ていた街とはまるで違う、あまりにも豪勢な庭園、綺麗な建物にフェリシアーノは顔をキョロキョロとさせ、それからルードヴィッヒにこずかれやっと顔を目の前に定める。
 イワンが数人の護衛を伴って国の端で、東の国の現頭領と会うというので、今回我が国に在中している東の国の頭領の妹である菊の護衛を任されたのが、ルードヴィッヒだった。色々考えた結果、一番人当たりが良さそうなフェリシアーノを自分と一緒に、彼女を一番知覚で守る役と選んだのだが……間違いだったかもしれない。
 癖っ毛の少年に連れられて部屋の中に入ってきたその姿は、確かに今まで一度も見たこと無い容姿だった。黒い髪は隣国にも沢山居るのだが、彼女の姿は一見酷く幼いのにどこか妖美だと見えるほどに、白い肌に黒色が栄えている。
 頭領の妹という事と、全く知識の片隅にさえなかった東の人間という事もあり、彼女の姿を想像だにしなかったのだが、意外な程小さくて華奢だ。
「……はじめまして!オレの名前はフェリシアーノ!」
 止める間もなく、あろう事かフェリシアーノは儀礼さえ取り越してルードヴィッヒの横から駆け出すと、いつもの訓練の数倍速い速度で彼女の元に走り、酷く楽しそうにそう自己紹介をする。あくまで、自分達より身分は上の少女であるというのに……
 勝手に手を握られ強制的に握手をさせられた菊と、その光景を見ているルードヴィッヒ、それからお手伝いの数人の女、そして猫っ毛の少年は体を硬直させて驚いたのだが、フェリシアーノだけは楽しそうに彼女の名前を聞いていた。さっき話した筈なのにな、と、思わずルードヴィッヒは頭の片隅で思う。
「オレこの間軍隊に強制的に入れられたんだけど、みんなマッチョなんだぁーだからね、オレね、もう筋肉はやだったんだよ。」
 えへへ、と笑うフェリシアーノを、暫くキョトンとした顔で見やっていた菊は、不意にその頬を緩めて思わずという風に微かに笑った。黒く大きな瞳が三日月を描き、外から吹き込んだ風が彼女の長い髪を揺らす。
 この国の女性用ドレスを裾を直して着ているらしく、衣服は見慣れた婦人用の服装なのだが、それすらどこか異国の匂いが漂ってきそうだ。
「うわぁ可愛いね!ねぇねぇ、菊は……」
 ガツン、と、フェリシアーノのすぐ背後に来ていたルードヴィッヒは彼の頭の真上から拳骨を振り下ろし、強制的に彼の口を閉じると、恥じからくるのか赤い顔で一度咳払いをし、それから菊に深く頭を下げた。
「失礼を詫びます。これからの旅で貴女の身の回りのさせて頂くルードヴィッヒです。」
 菊もゆったりとした動作でルードヴィッヒに頭を下げると「こちらこそよろしくお願いします」と、通った声で言う。凜とした、鐘を思わせるような芯のある声色に、頭を下げたままルードヴィッヒは細い目を微かに大きくさせる。
 彼女の護衛、というのは勿論表向きのもので、本当は彼女が逃げ出さないように監視する役割だ。もし少しでも逃げ出すような素振りをすれば躊躇うこと無く始末しろ、と言われたのだが、たったこれだけ傍にいたのに情が移りそうだと思わず顔を顰めた。
「……それではこれで失礼します。」
 顔を持ち上げるとフェリシアーノの首根っこを掴んだままズルズルと彼を引きずり、部屋の扉を開く。閉じる瞬間にもう一度彼女に顔を戻すと、あの黒い瞳が微かに揺らし、どこか遠い世界を見つめていた。
 
 心残りと言えばヘラクレスに挨拶をしてこなかった事だろう……菊は馬車の中で姿勢を一切崩さず座ったまま、小さくそう思う。一人分だけの小さな馬車で窓さえ無く、否が応でも自分を考え事の奥へと導く。
 逃げ出すつもりなんて無いし、兄はもう自身を見限っているだろうから会話をする機会さえ無いのだろうが、もしかしたら和議は決裂してこのまま殺されてしまう可能性だって、大いにある。だからこそ、ヘラクレスにだけは一言言い置いておきたかった……
 菊が小さく溜息を吐き出したとき、約半日間一切止まることさえ無かった列が急に止まり、その日宿泊する場所に着いたらしく馬車が開けられる。既に太陽は殆ど沈んでいてあたりは赤く、そしてその効果以上に何もない大地は酷く侘びしさを醸し出している。むき出しになった土の大地が殆どで、遠くに細く葉が落ちた木々で構成された、おおよそ森とは言えないだろう林が続く。
 作物が育ちにくい土壌、寒い気候と、土地としては劣悪な環境だという事は知っていたが、その現状は初めてはっきりと目にした。数件の建物の中に一つ、黒く大きな洋館が建てられどす黒い雰囲気を醸し出していて、見上げていた菊は思わずたじろがせる。
 グイと不意に背後から腕を掴まれ慌てて振り返ると、そこにはいつの間にそこに立っていたのかイワンがにっこりと笑みを浮かべていて、微かに身を屈めると菊の耳元に顔を寄せた。
「さっき連絡が入ってね、君のお兄さんが予定よりずっと早くに着いたから、ここまで来るそうだよ。」
 イワンの言葉に驚き、弾かれるように菊は彼に顔を向けると眉尻を下げ、泣き出しそうな顔で全身を強張らせた。イワンはそんな菊を一目見やると、満足そうな笑みを浮かべて微かに首をかすめてみせる。
「訂正するよ。君は愛されているね。」
 クツリ、と喉を鳴らして笑うイワンを見上げ、菊は目を瞠り微かに体を震わせる。まさか、そんな危険を兄がおかすわけ無いと、そう思う反面自身を可愛がってくれていた兄の姿が浮かんだ。
 
 部屋に通されてから真っ先に窓を開くが、その部屋が一番上の階で真っ暗な世界がずっと下に広がり、冷たい風が下から吹き付け菊は窓を慌てて閉めた。どう頑張って降りられそうは無い……
 直ぐに窓の傍から離れて扉を開けると、菊の直ぐ目の前に立っていた人影にぶつかりよろめきかけた所を、腕を掴まれて転がりそうな所を助けられる。彼はいつもの無表情のまま微かに首を傾げ、片眉を持ち上げた。
「どうかしたか?」
 ルードヴィッヒがそう訪ねると、菊は大きな目を一杯に開き、小さく首を振る。
「いいえ、何も。」
 青い顔をした彼女の顔を見つめたままルードヴィッヒは少しばかり顔を顰め、細い目を更に細めた。
「ならば部屋から出ないでいただきたい。あなたに何かあっては我々の面子にかかわる。」
 そのまま腕を引かれて部屋の中に返されそうになるのを、菊は直ぐさまルードヴィッヒに掴まれた腕を振り解き、廊下を走り出す。ハイヒールの所為か、中々スピードも出ないし走りにくい。
「フェリシアーノ!」
 ルードヴィッヒは別段焦る様子も見せずにそう名前を呼ぶと、廊下の角で待機していたフェリシアーノが不思議そうな顔を覗かせ、そして慌ててすれ違いそうになった菊の腕を掴む。
「菊ちゃん!?どこ行くの?」
 いつも穏やかな表情をしている彼女とは思えないほどに、眼光鋭く菊はフェリシアーノを振り返ると、もう一度腕を振り解こうとするが、しっかりと掴んで簡単には振り解けそうもない。
 部屋の前に立っていたルードヴィッヒはゆっくりとした動作で菊の目の前にまでやってくると、腰に付けていた拳銃を引き抜き、菊の額に向ける。
「ルードヴィッヒ?」
 フェリシアーノが眉尻を下げてそう彼の名前を呼ぶが、ルードヴィッヒはそちらをチラリとも見ずに菊を睨む。
「これ以上は絶対に一人では行けない。行けば十中八九殺される。」
「それでも私は行って、兄様をお止めしなければ!」
 噛み付かんばかりにそう言った菊とルードヴィッヒは、ただ言葉を無くしてジッと睨み合う。その合間に挟まれたフェリシアーノは困ったように二人を見比べ、半べそを掻きながらも菊の腕を離そうとはしない。
「それでお前が殺され、東の国が優位になると思うか?第一イワンもここで東の頭領を殺すなんて、そんな愚かな真似はしないだろう。」
 王耀ではなく完全なる偽物を影武者とたてて送られてきていたのならば、そこに文句をつけて東の国とのみ戦争を始めても良かった。そしてそれが叶わなかった今、正当な理由が付けて彼女を殺し、東側が動かざるを得ない状況にしても良い。
 もしかしたらわざと王耀と会う寸前まで野放しにしておいて、彼女の兄の目の前で殺すことだって、あの男なら簡単にやってのけるだろう。
 菊はルードヴィッヒの言葉に口を閉ざすと、揺れる黒い瞳をそっと下に動かした。泣き出しそうな瞳が、大きく見開かれている。
「……私、どうかしていました。」
 項垂れた菊が小さく呟くのを聞き、ルードヴィッヒはやっと拳銃を仕舞い込むと、フェリシアーノに連れて行けと、小さく指示を出した。それからすれ違う時、フェリシアーノに一緒に室内に居るように言いつける。
「……変なことするんじゃないぞ。」
 それが一番心配だ。とばかりに顔を顰めたルードヴィッヒに、フェリシアーノは頬を膨らませながらも強く頷く。なぜだか、その頷きも少々不安であったが、フェリシアーノにそんな根性もあるまいとどこかで思う。
「菊ちゃん、大丈夫だよ。オレよく分かんないけど、菊ちゃんなら大丈夫だよ。」
 一体何が根拠なのだかまるで分からないけれど、いやにハッキリとそう言うフェリシアーノを、菊は眉間に皺を寄せて見上げ睨んだが、いつもどおりの笑顔を浮かべた彼に諦めたように俯いた。
 取り敢えず兄に急に危害を加える様な事は無いかも知れないが、自身の存在が邪魔になるには違いない……微かな溜息を吐き出し、菊はまた広いけれど出口の無い部屋に一歩踏み入れる。
 
 王耀がやって来たのは、その次の朝の事だった。窓から覗けば、貧しい林の奥から一向がこの建物に向かってきているのが見え、菊は思わず身を乗り出し後ろに居たフェリシアーノに支えられる。
 結局昨晩は一睡も出来ず、菊は布団の中で、フェリシアーノは床に座って一晩中色んな話をしていた。嘘か真か、フェリシアーノはつい最近までマフィア専門の詐欺師を兄弟でやっていて、その時の面白かった事や命さえ危なかった事件を、身振り手振り加えて話してくれた。別に頼んだわけでは無いけれど。
「菊!取り敢えずご飯を食べて、着替えをしておけ、だって。」
 王耀の一向が建物内に入り、見えなくなっても窓際に立ったまま動こうとしなかった菊にフェリシアーノが一声掛けると、ハッとした様に菊は顔を持ち上げ、フェリシアーノの方を泣き出しそうな顔で見やる。
「大丈夫だよ」
 何度目かになるか分からないその言葉を言って、フェリシアーノはにっこりと微笑み、菊に外から持ってこられた朝食らしいパンとミルクを差し出した。
 菊は腕を伸ばしミルクだけ受け取ると、影をさした表情のままそっと唇をカップに付けて、気持ちを落ち着かせるように一口、やっと飲み込んだ。そしてまだ大分余ったまま、それをフェリシアーノに手渡す。
「……もう、これ以上何もお腹に入りそうにないので……」
 肩を竦めて困った様な表情を浮かべた菊がそう言うと、フェリシアーノは眉尻を下げて何か言いかけるが、それよりも早くにまた扉が開く。そしてそこから顔を覗かせた女顔の青年は一瞬驚いた顔でフェリシアーノを見やるが、軍人だと分かったのか、何も言わずに小さく頭を下げた。
「そろそろお着替えして頂かないと……」
 そう青年がチラリとフェリシアーノを一瞥して言うので、菊はそっとフェリシアーノの背中を押して、笑った。
「また、いつかお会いできたら……」
 その菊の言葉に含まれた意味を、珍しくフェリシアーノは嗅ぎ取って思わず目を大きくさせる。そして大きく頷くと、キュッと眉を持ち上げて一心に菊の顔を見やった。
 衝撃でまだコップの中に溜まっていたミルクが零れたが、彼にとってはどうでも良いことらしい。
「そしたら、話の続き、してあげるからね!」
 昨日は確か、兄のロヴィーノと共にマフィアからくすねた身分証と、特殊メイクを施して銀行の金を盗んだ所まで話をしてくれた。そんな話、まさか本当とは思えないけれど嘘だとも、なぜか思えない。
 それまでのドタバタ経緯を思い出し、菊は思わず破顔して噴き出すと、眉を持ち上げていたフェリシアーノも思わず頬を緩め、目を優しく細めた。
「はい、楽しみにしています。」
 そう笑って菊は綺麗な顔をした青年に目で合図を配ると、フェリシアーノを残して二人は部屋をあとにした。
 
 今まで通ってきたこの国の内情とはまるで似つかない、豪勢な飾りが施された室内は、窓から朝日が差し込み王耀の黒い瞳を射した。ゴテゴテ、と東の人間には思えるほどに金だの銀だのをあしらい、派手な色を使った絨毯は王耀にとってはあまり趣味が良いものとは映らない。
 向かい・・・といっても随分遠くに座ったイワンと軽い挨拶を交わしてから、お互い相手の腹の中を探りあいながら取り敢えず取り留めもない会話をした。と、不意に扉が叩かれ眼鏡をかけた青年が室内に現れ、小さく頭を下げて入ってくると、その後ろにくっついて一人、小さな人影が入ってくる。
 それは、待ち続けた自身の妹の姿で、思わず王耀は顔を顰めて眉間に皺を寄せた。
 長かった髪は短くなり、彼女には似合わない、やはりゴテゴテとしたドレスを着込み、そして長い睫を伏せて俯き、自分を見ないようにしている。白い肌が更に白くなり、もう青白いとしか言えない。
 満足に食事は与えられているのか、何かされてはいないか、体に何か障りは無いか……聞きたいことは、それこそ底につかない程にあったけれども、ここで駆け寄って聞くわけにはいかない。柔らかな風が吹き込み、短い彼女の髪を揺らした。
「……それじゃあ、本題に入ろうか。」
 動揺している素振りを一切見せない様にしていたのにも関わらず、イワンは王耀の微かな動揺を嗅ぎ取ったのか、満足そうに微笑むと指を組んで座り直した。王耀は顔を持ち上げ、鋭い瞳でその巨体を睨み付ける。
「僕は、君たちと手を組みたいんだ。君たち東の人間は弾圧されて暮らしているだろう?」
 戦争をふっかければまず手始めに東の人間が派遣されるだろう事を見越して、きっと彼は戦争を始めることにしたのだろう。人質と武器を持つイワンの提案は、東にとっては半ば恐喝だ。
「勿論、答えは今すぐって訳でもない。条件の提示はするけど、後は考えておいて欲しいんだ。」
 にっこり、と微笑んだイワンは軽く身を乗り出し一枚の紙を王耀の前に寄越した。
「あと君の妹さんの事なんだけど、返答によっては婚姻を結んでも良いと思うんだ。」
 にっこりと微笑んだままそう言ってのけたイワンの言葉に、王と菊は驚いて顔を持ち上げ、目を大きく見開いた。つまり、首を横に振れば殺され、縦に振れば婚姻と称して一生監視下に置いておく、という訳だ。
 ギリ、と王耀は奥歯を噛みしめ顔に陰を落としてイワンを睨むが、イワンは実に楽しそうな笑顔を浮かべたまま小さく首を傾げてみせる。
「決断は滞在中にして貰っても構わないし、後から手紙を送ってもらっても構わない。」
 元々今日会ったのは、イワンにとってはどれ程王耀が妹のことを大切にしているか、王耀にとっては菊がちゃんと生きているか確かめるための会合なのだから、話し合いはこれからが本番だろう。
 クツリ、とイワンが喉を鳴らして悔しそうな顔をした王耀を見やってから、ゆったりとした動作で席から立ち上がる。
「取り敢えず、一度部屋に戻ってからもう一度話し合いの席を持った方が良さそうだね?」
 今にも噛み付いてきそうな程に睨んでくる王耀に一度笑みを投げ掛けると、イワンは眼鏡を掛けた青年に何やら耳打ちをしてから、立ち竦んでしまった菊の腰に腕を回して扉に手を掛けた。扉が閉まりかけ、見えなくなりそうな兄に菊は思わず声を掛けそうになり、その声は強制的に遮断させられる。
 伸ばしかけた腕も、その所在を失い項垂れると共に降ろされた。
「部屋にお帰り」
 腰に当てられた手をそのままグイと押しやり、イワンは今までに比べると若干柔らかい口調でそう言って、菊をまたあのトーリスという青年に方へとやった。その顔には今までの笑みが消えて居る。
 
「菊、良かった!」
 項垂れたまま部屋に帰るなり、椅子に座って待ち続けていたらしいフェリシアーノは飛び上がり駆け寄る。本当に嬉しいらしく、顔をパァッと明るく染め上げ、俯いた菊の顔を懸命に覗き込む。
 それでも菊が顔を上げようとしないのを見やり、心配そうに数秒見やっていた後、下げていた眉尻をギュッと持ち上げ、そして緩い顔を懸命に引き締めた。それでも、少しばかり泣き出しそうだ。
「お兄さんとお話し、出来た?」
 肩を掴まれて、いつもとはまるで違うフェリシアーノの真剣な顔と声に、菊は驚いた様子で顔を持ち上げると、小さく首を横に振る。フェリシアーノはその様子をみやると、酷く神妙そうに一つ頷いた。
 それから震える自身の拳にほんの少し力を入れ、菊に少しだけ顔を近づけ、そして自身に言いかけるように言った。
「菊、大丈夫だよ。絶対に大丈夫。」と。
 
 廊下の向こうで潜みながらも駆けてくる二つ分の足音に気が付き、ルードヴィッヒは軽く眉間に皺を寄せて手元の拳銃を引き寄せた。それからゆったりとした動作で廊下に目線をやる。
 ムコウ側から二人分の影が伸びるのに気が付き、ルードヴィッヒは廊下に躍り出る。二つの影……フェリシアーノと菊は目を大きくさせ、思わずたじろいでから、フェリシアーノはルードヴィッヒに拳銃を真っ直ぐ向けた。
「ご、ご、ごめんね、ルードヴィッヒ。」
 微かに震えた拳銃がルードヴィッヒの額に向けられ、フェリシアーノは泣き出しそうな顔の癖に眉を持ち上げて声を裏返し、そう言った。
 思わずルードヴィッヒは眉間に深い皺を寄せ、盛大に顔を顰める。けれども何も言わずにそっと、フェリシアーノの構えている拳銃に腕を伸ばし、触れる。
「……安全装置を外し忘れている。慌てすぎだ。」
 え。とフェリシアーノが安全装置が外れている筈の拳銃に目線をやった瞬間を狙い、ルードヴィッヒはフェリシアーノのみぞおちを狙い、肘を一発撃ち込んだ。
 瞬間、体を捻るように折り曲げ、苦しげな咳を漏らしてフェリシアーノがその場に蹲る。菊は慌てて彼の名前を呼び、その背中に手を回した。そして直ぐにフェリシアーノから視線を外したかと思うと、一つ地面を蹴って手の平を拳代わりに、ルードヴィッヒの顎を狙い繰り出す。
 すんでの所で避けるとその細い腕を掴む、が、たじろぐこともなく繰り出した彼女の細い足の膝蹴りがみぞおち付近に落ちて、微かに体を折る。それでも腕を離さなかったからか、菊は顔を顰めて一度降ろした足をまた振り上げた。
 思わず菊の腕を離ししゃがみ込み、自身の顔を捉えようとしていた彼女の蹴りを回避すると、しゃがんだ状態で菊の足下に向けてその足を弾くように蹴りを入れる。けれどそれよりも早くに彼女はもう片方の足で地面を蹴り上げると、クルンと後ろに綺麗に一度回り、やはり美しい体勢で着地した。
「すごいな」と、意識しないままに小さくそう漏らして居たルードヴィッヒの顎先に、先程まで蹲っていたフェリシアーノの拳銃が突きつけられる。未だ涙目のフェリシアーノが立ち上がっていたのだ。
「早く行って、菊」
 震える声色でそういったフェリシアーノに、菊は目を瞠って「でも……」と小さく首を振った。
「早く!」
 フェリシアーノのその声に押され、菊は一度体を震わせて走りだそうとするのだが、それよりも早く、今度はルードヴィッヒが声を荒げる。
「待て!今行ってもどうせ警備が強いんだ、兄に会いになんていけない。」
 そんな事しては、イワンの思うつぼだ。殺されてしまうに決まっている。
 菊は、思わず動きを止めてルードヴィッヒと、彼に拳銃を向けているフェリシアーノを見比べて言葉を失う。廊下に設置された蝋燭の明かりが怪しく揺れ、三人の姿を浮き上がらせていた。
「……オレの部屋から、抜け道が一つ通っている。そこなら警備も居ない。」
 前々からこの屋敷に泊まる事をセットしたのは自分だし、より正確な地図を入手しているのも自分だけの筈だから、それは真実だ。菊は驚いた様子で目を大きくさせ、ルードヴィッヒの言葉を信じて良いか悩んでいるらしい。
「信じなくても良い。ただ信じるのなら、兄の所まで通してやる。」
 例えココを強行突破したところで、丸腰の彼女一人が辿り着けるはずもない。その上王耀に逃げようとしている所を掴まった事によってこれ以上迷惑を掛けたくない、という気持ちも働いているのだろうから、彼女の返答は一つだ。
 暫く立ち竦んで悩んでいた菊は、決心のついた顔でルードヴィッヒを見上げると、一つ頷いて見せる。フェリシアーノが思わず「ヴェー!?」と意味不明な悲鳴らしき声を上げた。
 
 細い通路を通り王耀が泊まっている部屋の窓が見える中庭に辿り着くと、菊はそれでも尚信じられないといった表情でルードヴィッヒを見上げた。イワンに忠誠を誓っている筈のルードヴィッヒだから、信じられない筈だ。裏があるに違いないと、思うのが普通だろう。
「……オレの家族は、オレが幼い頃イワンの父親に無実の罪で殺された。」
 一つ、空の上から庭園を照らしている青白い月が、周りに綿菓子のような薄い雲を従わせ、庭園に降り立った三人を見下ろしていた。銀色の中にハーブや小さな花が風に揺らされ、その頭をもたげて三人を見上げている。
 幼い頃、両親と自身より更に幼い妹と弟全員を冤罪で失い、街に出稼ぎに出ていた自分が、幸運というべきか不運というべきか、たった一人残されてしまったのだ。
「だからオレは、オレの人生をイワンの復讐に捧げると誓ったんだ。」
 若い内から軍隊に入隊し、そしてこの地位を勝ち取るまで無我夢中で戦ってきた。
 菊とフェリシアーノは驚き、そして何一つ言葉を見つけられないままにルードヴィッヒを見上げる。ルードヴィッヒは小さく苦笑を漏らし、菊の背を押して大きな窓を指さす。
「兄と、話してこい。外の見張りはオレが気を引いている。」
 そしてそのまま逃げても良い……と、警備にあてられた自分達の身がどうなるか分からない不謹慎な事が瞬間頭を過ぎるが、それは決して言葉にはしない。けれども願望として、胸の奥に沈んだ。
 全然似ていないし、まだ赤子だった自身の妹と、彼女をどこか重ねてしまっていたのかも知れない。それとも、長すぎる自身の復讐劇にもう些か疲れていたのかも知れない。
 菊は背中を押すルードヴィッヒの顔を見上げることなく一度頷くと、大きな窓にそっと手を寄せ、数回窓を叩く。その間にルードヴィッヒは一人で廊下へと続く道を通り、王耀の見張りに「交代しよう」と声を掛けた。
 
 ベッドの中で眠れない夜を過ごしていた王耀は窓が叩かれる音を聞き、首を傾げながらもゆっくりと鍵をとき窓を開く。中庭へと続く巨大な窓は簡単に開き、外を照らす巨大な月が顔を覗かせ、全てを銀色に変えていた。
「……兄様」
 目の前に立っていた人物……菊は小さな声で、昔とまるで変わらないその声で呟くと、大きな黒い瞳を泣き出しそうに震わせた。王耀はこれは夢ではないだろうか、とそう思わずには居られない。
「兄様、ごめんなさい」
 体を震わせて泣き出しそうな顔で彼女は小さく詫びを述べると、深く俯いてしまう。短くなってしまった髪が、それでも柔らかな絹の様な流れを描き彼女の動きに会わせて揺れる。
「菊……」
 思わず腕を伸ばして細いその体を抱き寄せると、彼女も目一杯腕を伸ばして王耀の背中に腕を回し、ギュッと強く苦しいほど強く抱き付いた。
 柔らかで艶のある髪に手を当てて、王耀は宥めるように彼女の頭を撫でる。東の国に居たよりも、一回り細くなったのではないかと、お互いがそう思わずにはいられなかった。
「何か、酷い事はされなかったあるか?」
 王耀が幼い子供に問いかけるようにそう訪ねると、菊は大きくフルフルと首を振ってみせる。
「兄様、お願いです。どうぞ私のことは引き取らなかったものと、そうお思い下さい。」
 掠れた声色でそう繰り出す菊の懇願に、王耀は思わず苦笑を浮かべながら、菊の頭をゆったりと撫でた。外の冷たい風が二人に当たるが、くっついているのだからもう寒くもない。
「お前は我の妹ある。」
 穏やかに王耀が言った言葉に菊はフルフルと強くまた首を振るのだが、王耀は苦笑を浮かべたままそれ以上何も言おうとはしない。それからゆったりと体を離すと、菊の顔を覗き込んだ。
「ここにどうやって来たか分からないが、見つかったら厄介ある。……お前は我が、絶対に迎えに来るから。」
 眉を吊り上げた兄の顔を見やり、菊は真剣な面持ちでフルフルとまた強く首を振るのだが、潤んでいた右目から涙が零れてしまい慌ててそれを拭った。その涙を拭う菊の手の平の上から王耀は自らの手を置き、そして菊の頬を包み込んだ。
 それからハンカチを探る様に懐に手を入れ、そしてハタと王耀は目を大きくさせ、一通の封筒を取り出して菊の目前に翳した。不思議に膨らんだ封筒は、淡いピンクの桜色だ。
「これ、名無しでお前宛に届いていたある。もしかしたら今日会えるかもと、そう思って持ってきてたある。」
 兄自身も不思議そうな顔をしながら、その手紙を菊の手の中に収めると、思い切ったように一つ背筋を伸ばして菊から離れると、菊の肩に両手を置いた。
「兎に角今はもう部屋に帰るある……会いに来てくれて、ありがとうアルな。兄ちゃんは大丈夫ある。」
 菊は両手で封筒を握ると、未だ潤んだ瞳のままで顔を引き締め、そして頷いた。窓から体を離すと、向こうで待機してくれているフェリシアーノの所に向かいかけ、もう一度王耀を振り返る。
 兄は、もう閉ざされた窓のカーテンでその姿は見えない。
「お兄さんと、会えた?」
 向こうから駆けてきたフェリシアーノに問われ、窓の方へ目線をやっていた菊はフェリシアーノを見つけると、思わず顔を綻ばせてしまう。それから頭を深く下げて礼を述べた。
「それ、何?」
 菊が手に持っている封筒に興味を持ったらしい彼にそう問われ、やっと菊は自身が持っている封筒の事を思い出し、そっと封を、丁寧に開ける。そして直ぐに手紙が入っていないことに気が付いた。
 代わりに入っていたのは、何か小さい物が沢山。丁寧な手つきでその小さく脆い破片をいくつか同時に摘み上げて手の平に置くと、それが桜の花びらであることにようやく気が付いた。
 風が一つ吹いて、その花弁がフワリと浮き上がり、まるで雪の様に舞い上がると、銀色の光りに照らされた庭園の上空を柔らかな軌道を描きながら空に昇っていく。
「綺麗……」
 目の前に立っていたフェリシアーノが小さくそう声を上げ、そしてそこでやっと菊はハッとした。
 咲いたのだ。きっと彼の庭に植えた、あの自分が取り寄せた桜が咲いたのだろう……金色の髪が目の前に蘇り、あの緑色の双眼がありありと眼前に浮かんで光った。
 思わず逆さにしてしまった封筒から残りの、ドライフラワーにされた桜の花びらが舞い散り、中でバラバラになってしまっていた花弁も綺麗に空に浮かび上がっていく。
 もう自分があの家に居ない事を、彼は知っている筈なのに……それなのに、どうしても自分に桜が咲いたことを知らせたかったのかも知れない。舞い上がる数々の桜の花びらを、そして遠く遙か離れた地で同じ桜の花びらを見上げているだろう彼を思い出った。
 その瞬間、どうしてだか目の前が霞み、美しい月が揺れた、気がした。
「菊?どうしたの?」
 桜に見ほれていたフェリシアーノが、突然泣き出してしまった彼女に、不思議そうな、それでいて焦った声色でそう呼びかける。けれども泣き出した涙を止められずに菊は小さく首を振り、涙を拭いながら俯いたまま「分かりません……」と呟いた。
 どうして涙が流れるかなんて、そんなの、やはり分からなかった。それでも、それでも哀しくて切なくて仕方なかったのだ。
 桜の花びらが一斉に月に向かい舞い上がり、キラキラと遠く離れた地へと穏やかな軌跡を描き消えていく。まるで幻想物語の一編の様だと、フェリシアーノは菊の背に手をあてたままそう思った。