La Campanella


 
 La Campanella  -ラ・カンパネラ-
 
 
 通された席に着くと、目の間に座っていた彼は自分にオレンジジュースを差し出し、いつもどおりにっこりと笑う。いつまでも子供扱いするから、こんな所が気にくわないのだと、思わずロヴィーノは唇を尖らせてそのオレンジジュースを見やった。
「なんやぁ?今日はフェリシアーノと一緒やないんやな。」
 アントーニョはロヴィーノの顰めっ面を眺めながら楽しそうに笑ってそう言うと、尚更ロヴィーノは眉間の皺を深くさせて唇を尖らせてみせる。
「実は、お前の力が借りたいんだ。」
 それでもロヴィーノはオレンジジュースを飲みながらそう言うと、アントーニョは一瞬キョトンとしてから、パァッと顔を輝かせて笑う。まるで屈託のないその表情が、いつだって人々の彼にタイする認識を誤解させてしまうのだろう。
 アントーニョが笑って立ち上がると、彼の背後で待機していたスーツを着ている多数の人々は、一斉に懐に手を潜らせ、瞬時に部屋中に緊張が走るのだが、当のアントーニョは全くその緊張など意図していない。
「ええよーその代わり、もっと遊びにきてぇな。」
 にっこりと笑うアントーニョを見やりながら、ロヴィーノは残り少ないオレンジジュースを、音をたてながらストローで吸い込んだ。いつの間にか、額にじっとりと汗を掻いているのに気が付き、内心小さく舌打ちをする。
 誰も彼を、アントーニョを、この国で一番巨大な犯罪組織の代表者であるなんて、きっと誰も直ぐには信じられないだろう。
 
 長い廊下を駆け抜けて行き、一つの影が会議室に躍り出た。会話を交わしていた真っ最中という事もあり、席に着いていた全員の視線が、彼、任勇洙に向けられるのだが、勇洙は別段そんなの気にしないらしく、真っ直ぐに王耀に歩み寄った。
 そしてバンっ、と一度机を強く叩き、走ってきたせいか上がってしまった呼吸を懸命に正すように、深く二,三度息を大きく吸い込む。
「兄貴、菊がイワンと婚約したって、本当かよっ!?」
 泣き出しそうな弟の顔を見やり、王耀は椅子から立ち上がろうともせずに微かに唇を尖らせ、つまらなそうに机に付いていた肘を外す。そして小さく、首を傾げた。
「本当ある。……お前には分からないみたいだから言ってやるが、今会議中ある。関係者以外、立ち入り禁止ね。」
 まるで感情の籠もらない、冷たい声色で王耀はそう言うと、手に持っていたペンでピッと、出口を示して見せた。勇洙はそのペンをジッと見つめたまま、徐々に眉を持ち上げ、奥歯を強く噛みしめて王耀を睨む。
「オレは、オレは納得出来ないんだぜ!」
 そう声を荒げた勇洙に王耀は眉間の皺を深くさせると、今度は先程より低い声で一言「出て行け」と唸り、睨め付けた。勇洙はそれでも納得出来ない様子で奥歯を噛みしめると、悔しそうに黒い瞳を震わせる。
 けれどもそれ以上何も言わずに顔を王耀から反らし、ギュッと拳を握りしめてから踵を返す。それからまた騒がしい音を立てて彼は扉を閉め、姿を消した。
「……我ももう行くある。」
 王耀が立ち上がろうとすると、キョトンとした面々の中でアルフレッドがいち早く立ち上がり、王耀の腕を掴んだ。
「ちょっと待てよ。君の妹とイワンが結婚するって事は、つまり東はどうなるのさ。」
 それはつまり、東とイワンが手を組むのか否か、という事を聞きたいのだろう。王耀は掴んだアルフレッドの顔を見やり、キュッと煩わそうに目を細めた。
「それは後で話す……アーサー、ちょっといいあるか?」
 急に名前を呼ばれ、一人呆然としていたアーサーが驚いて王耀の方へと顔を持ち上げ、その緑色の目を大きくさせてアーサーを見やった。王耀があまりにも真剣な表情をしているから、アーサーも思わず顔を引き締める。
「……分かった。」
 周りが呆然としている中、ガタリと音を立ててアーサーは立ち上がり、王耀の方へと向かって歩き出す。
 王耀がアルフレッドの手を払い除けると、アーサーと連れだって部屋を後にする。そして歩いている時、なぜか急に庭に咲いている残り僅かな桜を思った。自分の桜で、彼女自身の桜。
 
 
 暗い部屋の中で微かな音を立てて蝋燭が燃え、その光りがユラユラと揺れ自身を見上げる黒い瞳が幾つもの色に染まる。その視線が酷く真剣で、次に何を言おうか思わず頭の中から消えた。
「君のお兄さんから連絡が入ったよ。僕と手を組むってさ。」
 いつもの通り笑顔を浮かべて言うと、思っていた程に彼女は驚く様子を見せなかった……否、全くと言ってもいいほどに、その表情を変えることさえしない。ただ一度、頷く。
 ギシリ、とベッドのスプリングを鳴らして身を乗り出すと、なだらかで柔らかなその白い頬に触れ、そしてゆったりとした動作で口づける。それでもやはり、菊の表情に何一つ変化が生じずに、何故かイワンは胸の奥がチリっと燃え様な微かな怒りを覚えた。
 グイと肩を押してベッドの上に倒すと、のし掛かり自身を見上げている彼女の黒い瞳と真っ向から向かい合う。そして数秒そのままジッと互いを見やっているのだが、不意になぜか耐え難い物を感じ、イワンは体を起き上がらせた。
「やめた。部屋に帰って良いよ。」
 急に体を起こしたイワンは菊から離れ、ベッドから立ち上がると冷たくそう言ってのける。菊も体を持ち上げると、神妙な顔でジッとイワンを見つめる。
「……あなたと婚姻するのなら、私はあなたに尽くします。」
 眉を持ち上げて真剣な表情でそう言った菊に、イワンは冷たい表情を返すと、またベッドに片手を置いて菊に顔を寄せ、そしてやっといつもの様に笑った。
「お兄サマの為?」
 意地の悪そうな声でそう言うイワンに、菊は大きな瞳を微かに細める。
「はい、東の国の為に……それと、あなたの為に。」
 そう菊が言った瞬間、不意にイワンは頭にカッと血が上るのを覚え、自分が意識するよりも早くに彼女の喉元を掴んだ。グッ、と苦しそうな声色が漏れ、大きくその細い肩を揺らす。
「僕の為、だって?」
 クツリ、と喉を鳴らしながらイワンがそう言うと、手の平の力を強めていく。菊は背を曲げながら、震える指先が掴んでいるイワンの手に自身の手を当て、辛そうに目をキュッと閉じた。
 ギリギリと音が鳴るほど締め上げ、そして不意にイワンはハッとして、その手の平を外す。ヒュッという息を吸い込む音が鳴り、菊は激しく咳き込みイワンの手の平の跡が残った細い首もとに手を当てる。
 その姿を見やった後、ふと自分の手元を見てから、イワンは眉を歪めて顔を顰め自身の手の平を強く握りしめた。と、それからゆっくりと菊に視線をやると、菊の黒い瞳が潤み、それでも自身を一直線に見やっている。
 もう自分の事を一心に見やることなど、恐ろしくなって無いと思ったのに。と、イワンはぼんやり菊を見返しながら考え、そして不意にこの場から逃げ出したくなってしまう。それでもどうにも出来ずに、ただ立ち竦んだ。
「……部屋に帰りなよ」
 言うことに詰まってイワンがそう言うと、菊は自分の喉に付けていた手を離してゆったりと立ち上がった。そしてイワンと向かい合う。
「……一番は自分の為です。」
 泣き出しそうな声でそう言う菊の瞳は、先程空気が無くなっていた所為か潤み、そして揺らいでいる。
 菊は思っている事をそれ以上言って良いのか、迷いそして決心した様に自身の心臓の前で握りしめた拳を当て、口を開いた。
「私の、これからの為です。」
 結局イワンに利用されたというだけの人生で終わるだろう自身を、今ここでだけでも奮い立たせたかった。これからずっとあの部屋とこの屋敷だけで生きていくのが、本当は恐ろしくてたまらない。
 もう兄にも、東で仲の良かった人達にも、最後まで自分を引き留めようとしていたアーサーにも二度と会えないのだろう。話をすることさえも、きっと叶わない。
 ならば、せめてもの救いに自身に意義を付けたかった。誰からも、居ても居なくても関係ない存在にはなりたくないからこそ、今ここでイワンと向かい合っている。
 震える拳を強く握りしめると、鼻の奥がツンと痛んだのを感じて、慌てて菊はイワンから顔を背けて半ば駆ける様に扉へと向かった。部屋の外に飛び出すと、外で心配そうな顔をして待ちかまえていたフェリシアーノがキュッと飛び出してきた菊をそのまま抱き留める。
「……もう大丈夫。」
 震える菊の背中を抱きしめると、フェリシアーノがまた落ち着かせるようにそう囁く。その瞬間、ホワッと菊は安心してしまうから、不思議だ。部屋まで送ってくれたフェリシアーノは、最後にっこりと笑って手を振るから、菊もにっこりと笑ってその日はベッドに入った。
 枕に頭を乗せると、枕の下にそっと忍ばせていた桜の花びらが入っていた空の封筒がカサリと音立てるのを聞き、不意にまた怖さと、そしてなぜか悲しくてたまらなくなる。
 あの、月の銀色に染まった桜の花びらが、暗闇の中舞い上がっていくのを思い出した。
 
 
 婚姻の儀式といっても形式だけであり、つまりイワンと東の国を結びつけるだけの婚姻であるから、別段喜ばしい雰囲気も無いまま着々と進んでいく。
 王族の人間が次々と紹介され、菊は椅子に座らされたまま自身が着ている動きにくい巨大なドレスを見やりながら、小さな溜息を吐き出した。どこから呼んだのか、結構大きな楽団が音楽を一々奏でわざわざ王族が紹介される度に音楽を鳴らす。
 ぼんやりとしている菊の隣りに座ったイワンは、やはり絶えずニコニコとしながらも非常に苛立っている事を彼の側近達は感づきヒヤヒヤとせざるを得なくなっていた。
「お飲み物は……?」
 不意に後ろから聞こえた声に、菊は驚き顔を持ち上げてそちらを見やる。声の主とは思えない金髪をたわわにした、この国の月の神を象った仮面を被った男が飲み物を持って立っていた。
 驚き目を丸くした菊に向かい、仮面の上から口元に指先を当てる。それから誰にも聞こえないような小声で「西門の奥の海岸で船を停めているある。」と菊の耳元で囁く。
 その瞬間だ、もの凄い爆発音が外で鳴り響き、会場に居た人々が悲鳴を上げ、窓ガラスはその音と地面が震えた所為で大きく揺らぎ、数枚音をたてて割れ、シャンデリアが大きく音をたてていた。
 驚き固まった菊はそちらに目線をやるのだが、後ろに立っていた仮面の男に腕を引かれて菊は立ち上がる。みんな窓の外に注目していて気が付かないらしい。
 けれども次に爆発音が階上から聞こえ、王宮全体が大きく揺れてテーブルの上に置かれていた飲み物と食べ物が落ち、皿が割れる音が響く。けれども今回は、菊の腕を引いていた仮面の男まで驚き天井を見上げた。
「……おかしいある。」
 ポツリと兄が呟くのと同時に、やっと気が付いたのか会場がざわつき始めると、王耀は仮面と共に金髪のカツラを脱ぎ去ると、何の戸惑いも無く構えた拳銃を数発乱射させる。
 会場は一気に騒然とし我先にと逃げ出すのだが、その反対に警備隊が不審に思ってか、会場内に駆け込んできて、更に混乱して何が何だか分からない。
 外から銃声と刃が重なり合う音が聞こえ、驚き王耀意外の人間がそちらに目線をやる。菊は直ぐに争っているのが東の人間と、イワンの王宮を警備している人間だと気が付き、全身を強張らせて立ち竦んだ。
 そうこうしている内に階上で続けざまに何発もの爆発音が響き、咄嗟に王耀は菊の事を抱き寄せて微かに身を伏せる。見上げるとどうやら動揺していて、今の爆発音の事を彼も知らないのだろうと悟らせた。
「……ライヴィス」
 不意に隣に立っていたイワンが、癖っ毛の少年を呼び寄せると、小さく彼は頷き腰に掛けていた剣をスルリと引き抜き王耀と対面する。王耀は銃口をライヴィスの方に向けられ、そのまま無言で騒然とした会場に異様なほど静かに佇んだ。
「こんな鳥かごの様な中で、一体君に何が出来るっていうわけ?」
 クツリとイワンが喉を鳴らした瞬間、「兄貴が一人で乗り込む訳無いんだぜ。」と、にんまりと笑った任勇洙がイワンに剣の切っ先を向け、立っていた。その時会場内に隠れていた東の人間が数人、同時にその仮面を取り、各々の武器を引き抜く。
 爆発音に続き、瞬時に静まりかえった天井からブスブスと音をたてて黒い煙が舞い上がるのを見上げて一同微かに目を細める。会場に呼ばれていた人はほぼ外に逃げ出し、数名の逃げ遅れた人、そして警備の人間と東の人間だけが思わず息を飲んで止まった。
 その瞬間だった。二階の何かが引火したのか、今まで以上の音が鳴り響き、王宮全体をぐらつかせる程の衝撃が走り巨大なシャンデリアが揺らいだと思った瞬間、部屋中にガラスが割れる音と共に破片と黒い煙、そして炎と熱気が部屋にブワッと舞い込んだ。
「菊、先に逃げるある。」
 王耀に背中を押されて、菊は驚き目を王耀に向けて慌てて口を開く。
「兄様は?」
「我は後から行くある。こいつと決着をつけなければならねぇからな。」
 そう言った王耀の目線の先で、炎に照らされてユラユラと立っていたイワンが、微かにその目を細めて見せた。一瞬菊は戸惑いながらも、脳裏にフェリシアーノの笑顔が浮かぶ。
 今日は二階の警備に当たると言っていたが、もしかして先の爆発に巻き込まれてしまったのでは無いだろうか……菊はハッと顔を持ち上げると、コクリと頷き、巨大なウェディングドレスの裾を掴み廊下へと駆け出す。
 廊下も既に火が回り、人間は誰も居ない。菊は慌てて背中のホックを外すと、一息に自身のウェディングドレスを脱ぎ捨てると、下着の上に着る白いワンピース一枚になる。ヒラヒラとしたウェディングドレスなど着てても、火が付くだけだ。
 そして歩きづらい靴も脱ぎ捨てると、裸足のまま熱くなった廊下を駆け出し始める。炎が上がっていない場所を選びながら進んでいくのだが、それでも酷く熱く、そして黒い煙が自身にまとわりつき頭がクラクラした、
 
 それでも二階に上がったのだが結局人は誰もおらず、警備の人間さえいない。二階は既に炎が上がり、ただ立っているだけで顔が熱くちりちりと燃える様な心地さえする。
「フェリシアーノさん!ルードヴィッヒさん!」
 危ないと分かりながらも、自身の部屋周りを警備している、と笑って言っていたフェリシアーノの名前を呼んだのだが、やはり返事は無い。もしかしたら、もう逃げたのかもしれない。
 走りだそうとしかけた菊の腕を誰かが捉え、その歩みを引き留める。驚いて顔を持ち上げた菊の黒い瞳に、背景一杯に炎を燃え上げさせ、顔に陰を落としているイワンが立っていて、思わず菊は小さな息を一つ飲み込む。
 菊がその腕を振り解こうと思うよりも早く、イワンはグイと菊の体を強く自身に引き寄せるものだから、菊の小さな体は簡単にイワンの胸の中に収まる。
 抗議の声を上げようと菊がイワンを見上げた瞬間、菊が今正に行こうとしていた天井が炎により崩れ落ち、辺り一斉に火の粉と熱風が舞い散った。その衝撃に驚き目を瞑った菊の頭をイワンはギュッと自身の胸に押しやり、煙と熱風を吸わないよう抱きしめる。
 そうしていたのも束の間で、イワンは無言のまま菊の腕を引くと所々炎を立て、熱風を巻き上げている廊下を駆け抜け始める。慌てて菊も足を動かしながら、イワンの大きな背中を見上げて微かに眉尻を下げた。
 このままどこに連れて行かれるのかは分からないけれど、先程のイワンは確かに自分を守ろうとしているかの様だった。あくまで推測なのだけれども、それでも今は出口の事など一切分からない自分より、悪くても命は助かるかも知れない。
 そして不意に、その扉は二人の前に姿を現した。外から吹き付ける冷たい風に当てられ、菊は目を大きくさせてその口を開けて穏やかな午後の光りを出している扉を見やる。
「ここから出て、後はどこにでも行けば良いよ。」
 いつもの笑顔を一切浮かべずに、イワンは菊の背を半ば無理矢理押しながらそう言う。菊はイワンの顔を見上げ、一瞬言葉を探った。
「……あなたは?」
 まるで自分が外界とまるで関連性が無いかのようなイワンの口ぶりに、菊は眉間に皺を寄せながらそう訪ねる。と、イワンはやはり何の感情も表情には出さない。
 今まで自分の感情を笑顔でごまかしていた反動の様に、菊には思えた。
「……さぁね」
 微かに首を傾げて適当にそう言ったイワンに、菊は眉間に皺を寄せて何と言っていいか分からず唇をキュッと締めた。自身を逃がす、というのは捕らえて見せしめで殺す事を、彼は嫌がっているのかもしれない。
 イワンにとって、今この城を出たところで東の人間に掴まるのも嫌だけれど、その可能性は十分にあり得る。けれどもココで城と一緒に潰れてしまうのも、馬鹿らしい。内心、どうしていいか自分でも分からなかった。
 菊はどうしていいか分からずに俯いたとき、ふとイワンの右腕から血がポタリポタリと垂れているのに気が付き、菊は目を大きくさせた。と、イワンもソレに気が付いたらしく、微笑をその顔に浮かべる。
「これ?君のお兄さんに撃たれちゃってね。」
 クスリと喉をならし、いつもの笑顔を浮かべていたイワンに、菊は慌ててその身を寄せた。
「兄様は?」
「さぁ……逃げたんじゃないかな。少なくとも殺しては居ないよ。」
 それ以前に天井が落ちてくるわ部屋が炎に巻き込まれるわで、よく状況も分からないし自身も臣下と別れてしまい、取り敢えず彼女の声が聞こえてそちらに向かってしまったのだ。
 イワンの言葉に菊はホウッと安堵の溜息を吐き出すと、一度腰の辺りで纏めて結んでいたスカートを解き、ビッと音をたてて何処かに引っ掛けてほつれていたらしいところから布を少し、ヒモ状に破く。そして素早くイワンの腕に巻き、血止めをした。
「あなたはこの国の主なのだから、この国を建て直すのはあなたしかいません。」
 まるで懇願するかの様にそう言った菊に、イワンは目を真ん丸にして立ち竦むが、扉の向こうで誰かがイワンの事を呼ぶ声が聞こえ、二人の目線がそちらに向けられる。そこには、いつもイワンの傍に居る女顔の少年が、炎が回りつつある庭園を声を荒げてイワンを探していた。
 菊は顔を外から戻しイワンを見上げると、眉を歪めて懇願する様な調子でギュッとイワンの服の裾を握る。
「私はもう行きます。……だけど、絶対に逃げてくださいね。」
 スルリと菊は扉の外に駆け出し、炎の灯りからオレンジに染まった大きなスカートを翻し、そのままその姿は見えなくなった。
 
 フェリシアーノが姿を探していた菊はどこにもおらず、ルードヴィッヒともいつの間にか別れてしまったのか逃げ出す人々の合間を、キョロキョロしながら走り抜けていく。焦って名前を呼んでも、叫び声を上げる人々の声に紛れて聞こえない。
 式が始まって直ぐに、ルードヴィッヒが警備隊全員に二階の警備は良いから下の裏門を固めろ、なんて、誰も来ないような場所を指定してきた。「どうして?」って聞いても答えは返ってこなかったけれど、二回目の爆発音で王宮全体が揺れたので、気が付いた。きっと、ルードヴィッヒの仕業だ。
 そんなこんなで、裏門を守っていた警備の人間も、中から逃げ出して来た人間に巻き込まれるように外へと訳も分からぬまま逃げ出す。けれどフェリシアーノには、ただ菊の事が気になって仕方が無いから、思わず人々の波に逆らう。
 そして不意に、沢山の人が居る中右腕が強く引かれ、フェリシアーノは驚いた顔をそちらに向ける。と、そこには懐かしい兄の姿があり、こんな時だというのに思わず「久しぶり!」とフェリシアーノは涙を浮かべて抱きしめてしまう。
「今すぐココから逃げるぞ!」
 顔を顰めたロヴィーノは声を荒げてそう言うと、抱き付いてきたフェリシアーノの襟首を掴んで、引きずるように止めてあった車に向かい出す。が、笑顔を浮かべていたフェリシアーノはその笑顔をハッと消し、引きずられていた足に力を入れた。
「フェリシアーノ?」
 訝しそうな顔でロヴィーノはフェリシアーノを見やると、フェリシアーノは今まで見たことのない表情を浮かべ、眉を持ち上げて立っていた。
「オレ、まだ用事があるんだ。だから兄ちゃん、もうちょっと待ってて……!」
 口早にそう告げると、フェリシアーノは兄の腕を振り解き、人波を逆流するようにまた走り出す。後ろから兄の声が聞こえてくるのだが、フェリシアーノはまったく振り返らずに、一心に走り出した。
 遠目にブスブスと煙りを上げている王宮が見える。きっとまだ、菊もルードヴィッヒも中に居るのだろう……
 
 庭園の真ん中まで走り、そこで前々から見つけていた牢獄らしき部屋に繋がっている鉄で出来た扉が開いているのに気が付き、何も考えずに菊はその中へと飛び込んだ。
 中はもう既に火が回っていて、ブスブス音をたてて黒い煙が室内に充満している。菊は口を自身の手で覆って、涙が滲む目を細め、小さく咳をしながらもヘラクレスの名前を叫ぶ。
 返事は返ってこず、菊は辺りを見回しながら床が熱くてジッとしていられずにヘラクレスが入れられているだろう箇所に向かい駆け出す。もしかしたらもう誰かが彼を連れ出してくれたのかも知れない。そう思った瞬間、「菊……?」と誰かに名前を呼ばれて、やっと床に蹲っていた彼と目が合う。
「ヘラクレスさん!」
 慌てて彼の名前を呼び近寄るが、鉄の扉は鍵が開いておらず、ガチャガチャと音をたてるだけで開いてくれない。
「もういいから、早く逃げないと……」
 顔を持ち上げて黒い瞳を菊に向けるが、菊は首を振る暇も無く走り出し、鍵の束が置かれている最奥の棚に向かって走り出す。途中炎が舞い上がり、菊は長いスカートをたくし上げて太ももあたりでソレを結んだ。
 手を伸ばしてその鍵の束を掴もうとするが、熱を持った鉄が菊の人差し指の先をジュッと焼き、思わず小さく悲鳴を上げて菊はその鍵の束を床に取り落とす。ガシャンと音をたてたと同時に、階上で何かが爆発する音が響き、二人は慌てて上を見上げる。
 キュッと唇を引き締めると、菊はもう一度鍵に手を伸ばし、酷く熱くなった鉄をもう一度掴む。瞬時、手の平の肉が切り裂かれる様な痛みが走り、額に脂汗が浮き顔を歪め、辛そうに肩をキュッと持ち上げた。
「今、開けます。」
 ヘラクレスの前にまた駆け戻ってきた菊は、真っ赤に染まった指先で鍵を掴むと、一個一個鍵穴が合うか試していく。後ろで燃え上がる炎が熱く、焦って指先が震えるのをおぼえた。
 ガチャリと音が鳴り扉が開くと、飛び出してきたヘラクレスは真っ先に菊の手を掴み、そして眉毛を切なそうに歪める。
「痛い……?」
 早く逃げなければいけない事も忘れて、思わず菊は立ち竦み彼の指先を見つめた。あまり痛みを覚えないから、神経にまで達してしまったのか……けれども今はそんな事を考えている暇は無い。
 早く逃げましょう、と菊がそう言おうと口を開くのだが、それよりも早くにヘラクレスがふんわりと微笑み、「やっと触れた。」と呟く。不意に言われた言葉に、思わず菊は動きを止める。
「口、塞いで。あまり熱気と煙、吸わないようにね。」
 ヘラクレスはそう言ったかと思うと、菊の小さな体を肩に担ぎ上げると、炎で既に見えなくなった扉とは間逆の方向に走り出す。直ぐ横で炎が上がるのを感じ、身を小さくする。
 彼が煙で咳をするのをその肩の上で感じ、何も出来ずに菊は首に抱き付いた腕にほんの僅か、力を入れた。
 どのぐらい彷徨ったのか、恐らく時間にすれば微かな時間なのだろうが、炎が巻き上がった中を歩いているのだから、あまりにも恐ろしく長い時間だった気がした。そして不意に、ガシャンと音が響き、体が降ろされる。
「オレが先に出るから、菊は後から出てね……」
 蹴破られた窓の前で、一階だろうに何故か酷く真剣な顔で菊にそう言い聞かせると、菊もつられる様にコクリと頷く。ここまではまだそんなに炎が回って来ておらず、煙だけが上に溜まっている。
 スルリと綺麗にヘラクレスは窓から外へと抜け出すと、直ぐに外から彼の呼ぶ声が聞こえ、菊も身を乗り出し、そして思わず固まってしまう。外では沢山の人々が争い、蟻が縺れ合っているかの様な群衆が見えた。その中には東の民も混じっているのが遠目でも分かる。
「菊……!」
 下から慌てる様な声が聞こえ、不意に我に返った瞬間状態を崩し、倒れかけたところを下にいたヘラクレスが慌てて腕を伸ばして、菊の体を抱き留めた。それから菊の細い肩を抱き寄せ、菊の視界を塞ぐ様に立つ。
「絶対に離れないでね……。」
 耳元で、くすぐったいほどに顔を近づけてそう言うヘラクレスの言葉に、菊は小さく頷くと、ヘラクレスは身を屈めていつからそこにあるのか、地面に落ちていた微かに刃を朱く染めている剣を掴んだ。そして菊の腕を取り、走り出す。
 走り出してすぐ、まるでゴミの様に投げ出されて俯せになった東の人間の死体らしきものを見つけ出し、思わず足を止めかけた菊の腕をまたグイとヘラクレスが強く引っ張った。喧噪はまだ遠くに聞こえるのだが、悲鳴と刃が重なり合う音は耳をつんざき、酷く心の中を不安にさせる。
「あまり、見ない方が良いよ……」
 庇う様に伸ばされた腕の中でヘラクレスのその言葉を聞き、菊は泣き出しそうな顔をして外界から目線を大きく反らし、目を瞑る。遠回りをして出来るだけ群衆から逃れているのにもかかわらず、鼻先に鉄の匂いが擦り、そして叫び声が鼓膜を震わせる。
「逃げ道は?」
 ふと耳元でそう呟く声が聞こえ、菊は顔を持ち上げて先程兄に聞いていた場所を告げると、ヘラクレスはこくりと真剣な表情で頷き、出来るだけ人の居ない細道に駆け込んだ。
 木々がそそり立つ様に生え、葉が多い繁った道なき道を手で掻き分けながら二人はグイグイ進んでいく。途中数カ所菊の太ももは葉で傷つけられ、チリッとその箇所に痛みが走り、足の裏が葉を踏みしめる感触がする。
 辿り着いた王宮の周りに建てられた壁が現れる筈なのだが、そこに現れたのはその壁が崩された跡だった。一度目の爆発音は、兄の仲間がこの壁を破壊した音に違いないだろう。遠目に見てもその破壊場所は直ぐに分かるほど、巨大で広範囲のものだった。
 全く足を止めることなくヘラクレスは菊の腕を掴んだまま、何の躊躇いもなくその場所も駆け抜けていく。そしてやがて急に視界が開け、今まで木々と葉ばかりだった道に、突然遠くにではあるが海が現れたのだ。
 二人は同時に足を止めてその光景を見やったのだが、その海の前には直角では無いにしろ、些か急ではある細い木と葉が生えた崖が十数メートル先まで続く。その向こうに岩肌が剥けられ、そして見慣れた東の国の巨船が停まっているのが見えた。
 色めき立った二人を余所に、後ろから誰かが叫んでいるのが聞こえて振り返ると、イワン側の兵士が二人、コチラに向かって走ってくるのが見えて思わず一瞬立ち竦んだ。
「菊、先に……!」
 ヘラクレスにグイと背中を押され、菊は我に返って慌てて一番近くの木に手を掛けたその時、ヒュッという音が聞こえたと思い何気なく後ろを振り向いた菊は思わず息を飲み込んだ。
「ヘラクレスさん!」
 放たれた一本の矢がヘラクレスの右肩に射られ、白い布地にハッキリと赤色が段々と染め上げられていく。叫び声を上げる菊を余所に、ヘラクレスは苦々しそうに一つ舌打ちをすると、右手に持っていた剣を左手に素早く持ち替える。
 この肩でこの急な崖を、木々を掴み下の船にまで辿り着けることは困難だろう。その上後ろから兵士が迫ってきているのだから、もたつき菊を巻き込んでしまうよりも、今自分が時間稼ぎをした方が良いのだろう。
「早く、菊は先に行って。」
 菊に背を向けてそう声を荒げるヘラクレスに、菊は思わずその背に腕を伸ばして眉を歪め、首を振った。ヘラクレスの肩に刺された矢が酷く痛々しく、菊はその肉に突き刺さった矢が痛々しく思わず目を反らしかける。
「私も戦えます。そんな肩じゃ戦えません!」
 そう言ったのだが、ヘラクレスは菊に目線をやることなく、また先のセリフを告げる。それでも菊はその場で足を踏ん張り、その場から去ろうとはしない。
 直ぐ傍にまで迫ってくる兵士二人に目線を送りながらヘラクレスは剣を構えるのだが、菊の事と同時に自身を守れる自身はあまりない。ギュッと奥歯を噛みしめて、慣れない左手一本で剣を握りしめる。
 キィン……という音が響き、ヘラクレスの刃と兵の刃が触れ合い高い音が響いた。一度に二人など相手することなど出来ずに、目線だけをもう一人の方へと向けたその時、ヘラクレスの後ろから小さな影が飛び出し、向けられた切っ先を避ける。
 切っ先を避けた瞬間に、菊は体をクルリと回転させると細い足で兵士の背中に回し蹴りを決めた。大したダメージにはならなかったのだろうが、兵士は驚き体を前に投げ出すように倒れ込む。
 が、その瞬間ヘラクレスは普段使い慣れない上、たった一本の腕で掴んだ剣が揺れ、その切っ先がヘラクレスの左頬に甘皮一枚ではあるが細く赤い線が走る。
 菊は自身が倒した兵士の剣を拾い上げ強く掴んだ瞬間、火傷をしていた所為か、一瞬刺すような酷い痛みが走り考えることなど無しに手を開いてしまい、剣が滑り落ちていって仕舞った。驚いて赤く染まった自身の指を見つめ、強く握ることは出来ないのかも知れないと思わず立ち竦んだ。
 その時、菊が蹴り倒した兵士がいつの間に立ち上がっていたのか、襟首を掴まれて土の上に引き倒されて菊は強く背中を打ち付けた時、兵士の大きな手の平が菊の喉を捉え、そして地面に押しつけられる。菊は藻掻き、兵士を押しやろうとするがどうにも動かない。ヘラクレスの声が聞こえた。
 ヘラクレスも菊に気を捉えられていたのか、それともやはり左手では太刀打ち出来なかったのか、恐らく両方なのだろうが、ヘラクレスは手から剣を落とされた。その衝撃でよろけたヘラクレスの肩に以前突き刺さったままの矢に兵士が手を掛け、一気に引き抜く。
 苦しそうな声を上げてヘラクレスは傷口に手を掛け、溢れる血を止めるように抑え、それでも倒れずに足を踏ん張り兵士を睨み付ける。直ぐさま剣を拾い上げようとするのだが、その剣を兵士が蹴り上げて遠くに落ちる。兵士はしゃがみ込んだヘラクレスの脇腹を蹴り上げ、彼はうめき声を上げて地面の上に倒された。
 喉を締め上げられて声も出ず、空気が無く意識も飛びかけながら菊はヘラクレスの方へと腕を伸ばすが、菊の上にのし掛かった兵士は菊の細い喉から手を離すと菊の手首を押さえつける。
 短くしたスカートから伸びた白く細い太ももに腕を伸ばし、革手袋のごわごわとした感触が走り、驚き菊はビクリと体を震わせ大きな瞳を見開いてのし掛かる兵士の鎧を見上げた。荒い息がそこから漏れているのに気が付き、ゾワリと全身の肌が粟立つのを感じる。
 菊は藻掻いて抗議の声を上げようとするのだが、のし掛かる兵士はビクともしない。スカートが捲し上げられて空気が触れるのが分かり、思わず強く目を瞑る。
 その瞬間、隣りで強い音が響きヘラクレスの肩に足を乗せていた兵士の体が土の上に倒れるのが感じ、菊とその上に乗っていた兵士が同時にそちらに目線をやり、菊は動きを止め、兵士は上半身を持ち上げた。
 いつの間にか後ろに立っていた、鎧を着けた一人の男を見つけて菊は大きく目を開ける。立ち上がった兵士の横顔を、後ろに立っていた男が剣の柄裏でガンッと強い音を立ててなぎ倒す。倒れた兵士の鎧が取れ、彼が完全に気絶したのが分かる。
「菊、大丈夫か!?」
 懐かしい声が聞こえ、その鎧が取れると同時に零れる様な金髪と翡翠色の瞳が現れた。体を起こしてキョトンとした菊が彼を見上げて、立ち上がれずにぼんやりと菊はアーサーを見上げる。
「……なぜここに?」
 ポツリと菊が漏らすと、アーサーは菊に腕を伸ばして助け起こす。
「お前の兄に頼まれたんだ。」
 本当は船の出航許可と船を動かすだけでもいいから人員を借りたい、という申し出だったのだが、結局またもやここまで付いてきてしまった上、兵に紛れて会場にまで忍び込んだ。
 先程黒髪の男と連れだって走るところを見つけ、追いかけてきた結果が今に至る。
「……知り合い?」
 痛めた肩に手を当て、息を荒げながらヘラクレスが立ち上がり木に寄り掛かりながら問いかける。菊はこくりと頷き、血で染め上げたヘラクレスの肩に手を伸ばし、戸惑いながらもそっと触れる。
 その時、後ろから壁の巨大な穴を見つけたのか、誰かが声を荒げてこちらに向かってくる気配を感じ、三人は同時に顔を持ち上げた。まだ姿は見えないけれど、声は直ぐ傍まで迫ってきている。
「取り敢えず血止めしないと……」
 そう言いながらも一体どうしていいか分からずに泣き出しそうな表情で菊が俯くと、ヘラクレスは上がる方の腕を伸ばして菊の頬に触れてふんわりと微笑んだ。
「大丈夫」
 笑ったヘラクレスの顔は酷く青ざめ、どう見ても大丈夫な様には見えない。菊の頬に触れる指先も冷たく、まるでもう、血が通って無いかのように感じる。
 そして不意にヘラクレスはグイと強い力で菊の胸元を崖の方へ押しやり、その所為で菊は状態を崩して崖の方に投げ出された。驚きながらもアーサーは素早く腕を伸ばして地面を蹴ると、落ちながらも菊の腕を掴み自身の胸に寄せるとそのまま草の中に突っ込み、落ちるのが止まる。
「ヘラクレスさん!」
 菊が直ぐに顔を持ち上げて慌てて彼を見上げると、ヘラクレスはまたふんわりといつもの笑顔を浮かべた。が、すぐにその景色が真っ暗になり、ただ壊れた壁から聞こえてくる人間の声が直ぐそこまで近付いているのが分かる。
「……行こう、菊。ここでお前まで掴まったら……」
 後ろで菊の目を自身の手で覆って視界を遮っていたアーサーが耳元で呟いたのが聞こえ、立ち上がろうとしていた菊は力なくその場にしゃがみ込んだまま動かなくなる。アーサーは菊の腰を抱き寄せて肩に担ぎ上げ、崖を降りだした。
 しがみつく菊の力が強くなるのを感じ砂浜まで降りると、波の音が強く後ろの音と混ざり合い、もう良く後ろの情景がどうなっているのか分かりはしなかった。
 
 
 
 
 
あああどうしても出来に納得いかないので、いつか全部書き直ししたいです。orz