La Campanella


 
 La Campanella  -ラ・カンパネラ-
 
 
 力が完璧に抜けてしまった彼女を船に詰め込むと、先に戻ってきていたらしい王耀が菊の体を抱きしめるが、それでもぼんやりとしていて反応一つ返そうとはしない。
「取り敢えず傷の手当てを。」
 王耀はそういいながら菊の背を押して船員に任せる。そこかしこに火傷を負い、崖の上から落ちたときについたらしい草による切り傷が露わになった手足に付き、そして割れたガラスを少し踏んでしまったのか、菊が歩いた後には少しばかり血が滲む。
 彼女の小さな手の平についた酷い火傷の跡を見つけ、思わず顔を反らして彼女の割れかけた左足の親指の爪に目を向ける。じんわりと滲んだ赤い血が痛々しく、今度はそこから目が離せなくなってしまう。
 船員に手を引かれて船内に入っていこうとした瞬間、もう一つ巨大な爆発音が響き、菊は驚き顔を持ち上げて先程まで彼女が居たイワンの城の方へと、黒い瞳を向けた。
「……私、行かなくては。」
 そう、小さくポツリと漏らされた言葉にハッとして王耀は若干瞳を大きくさせ、眉間に皺を寄せる。と、暫く黒い煙りの立っている空を眺めていた菊は、パッと駆け出そうとして王耀がそれを留めた。
「おまえ、どこに行く気あるか?」
 眉間に深く皺を寄せた王耀が、深く重い声色でそう言うが、それまであまり反抗する事など見せたことが無かった菊はその眉を上げ王耀を睨め付ける。
「まだ向こうには皆さんいらっしゃるんです!……ルードヴィッヒさんも、フェリシアーノさんも……ヘラクレスさんも……」
 泣き出しそうな顔で菊がそう声を荒げ、そして王耀の腕を振り払おうとする。が、それよりも早くに腕を振り上げた王耀の手の平が菊の頬をパチンと鋭い音をたてて打った。
 瞬時に辺りは水を打ったように静まりかえって、二人の動向をジッと見やっている。菊は打たれたままに斜め下に目線をやっていたが、そっと菊はその頬に手を当てた。
「お前、今自分が戻って何かできると本気で思ってるあるか?」
 そう王耀が言うと、菊は深く俯き何も言わずにその場でただ立ち竦んだまま、下に向けた黒い瞳を揺らしている。
「船内に連れて行け。一応鍵を掛けておくある。」
 菊の肩を掴んで王耀がそう声を上げると、船員が菊の背を押して戸惑いがちに船内へと導く。菊は菊で力を無くしてそれ以上抵抗もせず、俯いたまま船員の後に付いていく。
 
 
 外に駆け出した菊を見送った後、イワンはぼんやりと外の情景を眺めていた。と、この部屋にも黒い煙が立ち込み、それが熱気と共に自身にからみついてくるものだから、目の前がクラクラと揺れるのを覚える。
 どうしようか暫く考え、外で自分を呼んでいるトーリスに向かい歩きだそうとしたその時、炎が燃えさかっているだろう背後から足音が聞こえてハッとそちらに目線をやった。そこには、ルードヴィッヒが剣を構えてコチラを見やっている。
「……ルードヴィッヒ?」
 眉間に皺を寄せて問いかけると、彼はいつもの無表情さを一切崩さずに細い目をいつも以上に細めてこちらを睨んでいた。その様子が、いつも従順な筈の彼とはあまりにもかけ離れていてイワンは不審に思う。
 名前を呼ばれても微動だにせず、ただルードヴィッヒはそのまま動かずに、炎によって時折赤く煌めく切っ先を、真っ直ぐイワンに向けている。
「……ああ、そう、そういうこと。」
 クツリ、とイワンが喉を鳴らして自嘲気味に笑うが、それでもルードヴィッヒはまるで動かずにイワンを見据えたままだ。そのまま、何かが爆ぜる音が響く場所で二人は無言で向かい合う。
 踏切はどちらがはやかったろうか、イワンは手早く婚姻の儀での服装に必要な飾り刀を引き抜くと、高い音をたてて二つの刃が重なる。飾り刀の為か、それだけでイワンの持っていた刃は微かに刃こぼれをした。その刃を見て、喉を鳴らしイワンが笑う。
 再び振り上げられたルードヴィッヒの刃を受け、今度こそ高い音をたててその刃が二つに割れ、勢いよく割れた欠片が壁に突き刺さった。その様子を、なぜかイワンは酷く冷静に見送る。
「あの爆発も、君が仕込んだの?」
 まさかルードヴィッヒに裏切られるとは思っていなかったら意外ではあったけれど、いつかはこんな事なるだろうと想像していたから、そこまで動揺もしない。簡単に割れてしまった剣を下に投げ捨てて、あまり興味なさそうにイワンはそう言った。
 と、ルードヴィッヒも全く表情を変えずにイワンへと視線を寄越す。
「外以外のはオレが仕込んだが……東の人間が妨害してくるのは意外だった。」
 まさかそこまでするとは思っていなかったのだが、どうにか菊も連れだそうと考えていた自身の作戦より、随分と楽に物事が進んだからラッキーではあったが……
「へぇ……僕はてっきり君の手引きかと思ったんだけど。」
 意外そうの肩を竦めて見せた彼は、いつもと違いどこもかしこも隙だらけだ。しかもルードヴィッヒから視線を落としている彼を、ルードヴィッヒは奥歯をギリッと噛みしめ見やり、酷く腹立たしさを覚える。
 カチャン、という音が鳴り、驚いてイワンが視線を上げると、そこには大理石に落ちたルードヴィッヒが握っていた剣が転がっていて、思わず目を瞠って自身とあまり身長の変わらない、彼を見上げた。
「……なんのつもり?」
 階上でパチパチと炎が爆ぜる音が鳴り、その中で威圧感のあるイワンの重低音な声色が響いた。彼にとって一番の屈辱は、自身が甘く見られることなのだ。
「お前こそどういうつもりだ。」
 苛立たしげにルードヴィッヒが発した言葉に、イワンは何も返さずに二人とも押し黙り、ただ炎が燃えさかっている音と、時折屋敷が崩れる音ばかりが聞こえてくる。立っているだけでじんわりと汗を掻くほどに、ここは熱くて、煙が天井に充満していた。
 ルードヴィッヒが敵討ちをしたかったのは、こんな諦めきった彼では無く、あの刃向かう物をみんな返り討ちにしてしまう彼なのだ……キツク奥歯を噛みしめると、ルードヴィッヒは爪が食い込む程強く、手を握りしめる。
「……オレは、外に出る。お前も丸焼きになる前に出ろ。」
 ルードヴィッヒは顰めっ面のまま、何かを決心した様子でそう言うと、弾かれた様にイワンは顔を持ち上げてルードヴィッヒに視線を送った。彼は、ルードヴィッヒはそれ以上何も言わずに横にたてつけてあった窓から身を乗り出し、外の光りの中に姿を掻き消した。

 
 
 ダラダラと際限なく流れていく自信の血を、手の平でしっかり抑えてどうにか止めようとするが、当然、そんな事は出来ない。目の前がチラチラと暗くなり、立っていることさえままならくなった。
 ああ、菊は大丈夫だろうか。ちゃんと家に帰れるだろうか。火傷は酷く無いだろうか。自分の事を、心配しているのだろうか。
 ヘラクレスは木に寄っかかったまま、虚ろになってしまっているだろう瞳を、これから敵が溢れ出てくるだろう箇所に向け、自嘲気味に小さく微笑んだ。死ぬことなど、最早怖くない、気もした。
 けれども、これでお別れなのは少々悲しい。血で濡れ、肩に負った怪我の所為で中々上がらない腕を無理矢理上に上げながら、ヘラクレスは最後の力を振り絞り剣を掴むと、向こうからやってきたイワン側の甲冑を身に纏った男と対面する。
 今にも殺されるとばかり考えていたのに、対面していたイワン側の兵士は勢いよく自身の頭を覆っていた兜を脱ぎ捨て、ぽよよん、とそのアホ毛を揺らした。どうやらとても憤慨しているらしく、怒っているような泣き出しそうな顔をしている。
「や、やっと見つけたぞこの野郎!」
 彼は、幼い顔を真っ赤にさせてそう、なぜか怒鳴り声を上げて眉をキュッと持ち上げていた。はて……どこかであったことがあっただろうか?
 血が足りなくてグラグラ揺れる視界のまま、ぼんやりとヘラクレスはごちゃごちゃに絡まってしまった思考回路で懸命に考えていたが、やがて足に力が入らなくなってしまい、そのままズルズルと地面に体を横たえる。息をするのも、辛い。
「なんや?見つけたのか?」
 アホ毛をたゆたかせる彼の後ろからもう一つの声がしたが、既にヘラクレスは意識を手放す寸前で、何もかもが遠くで聞こえてくるかの様だった。
 
 ああ、兄ちゃんになんて言い訳しよう。
 そう涙目で捕らえられたフェリシアーノはぼんやりと考えた。菊とルードヴィッヒを探しに屋敷に戻ったのは良かったのだが、なんという事かそこで東の人間に掴まってしまったのだ。
 どうにか菊と連絡でもとれれば良いのだが、そう上手くはいかないかも知れない……しかも殺されそうな時、思わず「ヴェー殺さないで!何でもします!何でも言います!しかも北京に親戚居ます!」なんて言ってしまった物だから、本当は秘密など何一つ知らないのに、何か聞かれるかも知れない……
 でも残念なことに、本当に何も知らないから聞かれても何も応えられない→よって拷問、なんて事になってしまったら、どうすればいいのか。
 ヴェーと項垂れ、フェリシアーノは沢山居る捕虜の一人として歩き出す列に飲み込まれて、ただただどこかに兄ちゃんの姿が無いかと探すけれど、どこにも知り合いらしき影は見あたらなかった。
 
 
 カチャリ、と音をたてて彼女が居る部屋に入ると、俯いていた彼女の黒い瞳が自分に向いた。それからふんわりと、それでも悲しそうな微笑をその顔に浮かべ、微かに首を傾げてみせる。
「……桜、咲いたのですね。」
「ああ。」
 そこでえ一度会話が途切れ、何の話をしていいのか分からずにアーサーは入り口の所で立ち往生していた。と、俯いていた彼女が、小さな小さな声を漏らす。
「私、間違えていたんでしょうか……?」と。
 その声色を聞いた瞬間、どうしても我慢できずにアーサーは彼女の元に歩み寄ると、「すまない」と、これから自身がすることに小さく謝罪を述べてから、アーサーより幾分も小さな彼女の体を抱きしめる。
 キュッ、と覆われる感覚に菊は驚き目を大きくさせたが、抵抗することも無く、抱きしめられるまま彼の金髪を見やった。キラキラと光りながら夜空を舞った、あの桜の花びらを思い出し、菊は不安で固まった胸の奥が溶けていくのを覚える。
 瞬時、視界が掠れボロボロと涙が零れていく。思わず行く先を決めかねていた菊の腕は、アーサーの背中に回され、体をキュッと彼に寄せて肩を震わせ、泣き声を漏らした。そうなると、瞬時にして彼女は小さく細く、か弱い存在になってしまう。
 と、暫くそのままの形で居たときだ、外から捕虜となったらしき男の声が響き、それまで泣いていた菊は勢いよく顔をガバッと持ち上げ、立ち上がる。その視線は、ずっと向こうを見ていて、まだ頬には微かに涙の跡が付いていた。
「菊?」
 訝しげに彼女の顔を覗き込むが、それよりも早くにスカートを翻し、軽やかな小動物の様な動きで彼女は一心に、光りが一杯に溢れかえった甲板えと駆け出していく。
 菊が駆け出し一番に眼前に広がった中で、直ぐに彼を見つけ、思わずキュッと強く下唇を噛みしめ、泣き出しそうになる自身に喝を入れる。彼は、涙目で、額に青筋を立てている自身の兄に今にも殴られそうになっていた。
「「……菊!」」
 王耀とフェリシアーノが同時に声を上げたから、王耀は「ん?」と顔を顰めてフェリシアーノと菊の顔を見比べる。
「良かった!フェリシアーノさん、生きていたんですね!」
 そう声を上げると、大きく手を広げて、あの菊からガバリとフェリシアーノと呼ばれた青年の首に抱き付く。瞬時、王耀は引き剥がそうとするのだが、良かった、良かったと菊が繰り返すから、微かに唇を尖らせ屈んでいた姿勢を正す。
 動き出した船は、それでもグングン陸を離れ、海の真ん中へとこぎ出されていった。
 
 
 彼女の白くて細くて絹で構成されているかのような綺麗な肌が裂かれ、石榴の様に血が溢れる。黒い髪は、前はもっともっと長かったといっていたし、いつもは赤い民族衣装を身に纏っていたらしい。
 いつか、ヘラクレスさんも来て下さいね。いつでも歓迎します。とそう笑った彼女のその声は、もう二度と聞けないのか。聞くことが出来ないのか……泣き出してしまいそうになるのに、どれだけ咆吼しても涙は出ない。
 自分の肢体といえば、まるで鉛でも入ってしまったかのように重く、泥の中に体が埋もれてしまった様に言うことを聞いてくれない。守ってあげなくちゃいけないのに、自分が護ってあげないと、いつでもきっとあの子は無理をするのに……
 フッ、と一つ息を吐き出した瞬間、ドロドロと未だこびり付いてくる眠りから、ヘラクレスは覚めた。熱があるらしく、間接が痛み目の前がグラグラ揺れて喉が酷く渇き、痛い。それでも、それでも……
「菊……」
 夢と現実世界が混在していて、彼にとっては未だ先程まで見ていた恐ろしい夢が現実な気がして、ヘラクレスは体を捻らせて部屋を見回した。小さな暗い部屋で、どうやら今は既に夜になっているらしく、窓の外は真っ黒。ただ、廊下の向こうで誰かが騒がしく走り回っているのが聞こえた。
 けれども、それだけで彼女が殺されてしまうという光景が夢だと気が付き、そこでやっと重々しい溜息を吐き出し、ジッと怪我したらしい肩がジクジク痛むのを覚えた。
「東の……に落とされ……」
 やっと精神が落ち着いたというのに、廊下の向こうから聞こえたその声に、思わずもう一度顔を捻った瞬間、肩がズキリと痛んで思わず小さく声を漏らす。どうやら手当はしてくれているらしいのだが(一体誰がそんな事をしたのか分からないが)、それでもまだ傷口は酷く痛い。
 
 死体の中に弟の姿は見つからなかったし、そうなると東の船に捕虜として掴まった可能性が高いのだろう。ロヴィーノは小さく舌打ちをすると、苛立たしげに足を踏みならした。
 元々東の人間を中に入れたのは自分達で、その混乱に乗じてさっさとヘラクレスを連れて逃げだそうと考えていたのだ。うまくいったのはヘラクレスを連れ出すところまでで、予想外だったのは弟のフェリシアーノがなぜか東の人間に肩入れをして、そのまま何処かへ行ってしまったこと。
 けれどもそうなれば、こちらから声を掛ければ簡単に弟は帰ってくるのに、それよりも予想外だた自体が起こった。それが、今入った連絡で、東の船が海賊か何かの船に沈められたという物だった。
「本当なんだろうな!?」
 苛々とロヴィーノが声を荒げてそう怒鳴ると、アントーニョの部下は焦った様子で一度頷き、「連絡を入れたとき、既に襲われていました。」と力なく言った。
 ロヴィーノが手元にあった灰皿を投げつけようとした瞬間、弱々しい声が戸口から聞こえてくる。
「連絡……オレの、国に……」
 今にも消えてしまいそうな声の方へその場に居た全員が視線をやると、巻かれた白い包帯を微かに血の色で汚したヘラクレスが、壁に寄り掛かって荒い息を繰り返していた。その顔には血が回っていないのか、真っ青に染まっている。
「すぐに……」
 そう絞り出すヘラクレスの言葉を聞き、ロヴィーノは見開いていた目をキュッと細め、バッと腕を広げ声を荒げる。
「連絡しろ!今すぐだ!」
 そうロヴィーノが叫ぶのと、ヘラクレスの体が再び倒れるのはほぼ同時だった。