La Campanella -ラ・カンパネラ-
夜警の鐘が鳴り響き、菊は己のベッドの中で目を醒ました。怪我の所為か運動をした所為か、体中が痛く、ベッドから滑り出しながら微かに顔を顰める。
いつの間にか波は高くなっていたらしく、大きな船だというのに大分揺れ、菊は壁にしっかりと掴まりながらマストへと出た。既に沢山の人々が慌ただしく駆けていて、嵐でも来るのかと、菊は心配そうに眉尻を下げる。
「菊様、お部屋に戻って鍵を掛けてください!」
不意に後ろから腕を掴まれ、驚きそちらに視線をやると、東の男が必死な形相でそう声を荒げた。辺りは曇っていて、月の光さえ無いけれど、異様と言って良いほどに明るい。
「何があったのですか?」
普段夜の海を航海するにあたって、海賊の類に目を付けられないように、夜は船の灯りを落として進むのに、こんなにも灯りを灯しているのは異常事態だ。
菊が問うても男は返答をせずに、慌てて菊の腕を引っ張って彼女の部屋へと連れて行こうとする。菊は菊で、自分の所為で沢山の東の人間が被害に遭っているという負い目も働き、暫くは言うとおりに歩き出す。が、不意に振り返り、その足を止めた。
「あれ、は……?」
そこに現れたのは、まるで黒く巨大なモンスター。今まで見たことも無いほどに巨大な船が、自分達の乗っている船の後ろにピッタリとくっついている。波の音しか響かない、あまりにも静かな夜だからこそ、その不気味さは増す。
「分かりません。恐らく海賊船の類だと思われます。どうか、部屋に入って鍵を……!」
「でも……」
眉をハの字にして言い淀む菊に向かい、もう一度男は「早く」と急き立てた。
「場合によっては王耀様がそちらに向かうと思いますが、それまでは絶対に鍵を開かないように……」
海賊によって女性が攫われ、競売にかけられたり慰み者にされるという話は跡を尽きない為、彼がそう言うのも分かるけれど……。それでも、自分自身よりも、ここまで自分を助けに来てくれた人々が気懸かりで、菊は掴まれた腕を振り解きたい衝動に駆られる。
それでも、自分が行った所で誰一人助けることが出来ないのは、もう実証済みで。
「お願いです、あなたは我々にとって大切な方なんです。」
解ってください、という気持ちを込めて男が懇願すると、菊は微かに瞼を伏せ、決心したのか、やっと一つ頷く。
「……でも、お願いですから、無理はなさらないでくださいね。」
そんな事を言ったって仕方がないのだろうが、男は菊の言葉に一度頷くと、人が大勢いる方へと向かって走っていった。私は、彼の名前さえ知らない。と、立ち竦んだまま菊は泣き出したい心地に陥った。
「菊!」
不意に後ろから声が響き、驚きそちらに視線をやれば、王耀が菊に向かって手を招いている。菊は一度頷くと、揺れる地面に意識を集中させ、懸命に歩き出した。
風は別段強く無いのだが、何せ波が大分荒れてきているらしく、段々と平衡感覚を失っていくのが分かった。
「これを着ておけ。お前の部屋から逃げられる扉があるから、火が付いたらそこから逃げるよろし。」
「そんな……兄様は?」
王耀から渡された衣服を胸にきつく抱きしめながら、それでも菊は眉尻を下げて兄に縋り付き、首を振る。が、王耀は菊から視線をずらすと、彼女を突き放すように一歩さがった。
「大丈夫、我も危なくなったら直ぐに逃げるある。」
ああ、嘘だ。本当ですか?絶対に誓ってください。 泣き出したい心地で菊は叫び出しそうになるけれど、昼間兄にはたかれた頬の痛みを思い出し、きつく唇を噛みしめると強く頷く。
今は自分が出て行ったとしても、どうにかなるような時では無い。これからチャンスは回ってくるだろう。ここでごねても皆の邪魔になるだけだ。
取り敢えず自室に戻ると、兄から渡された男物の洋服に袖を通す。男物、という事は、ここまで着たときのように男の振りで誤魔化せ、という事なのだろう。
「菊!いるか、菊!」
扉の向こうから自身を呼ぶ声が聞こえ、慌てて着替えを済まし、扉を開けて彼を招き入れる。
彼、アーサーは、菊の姿を見やると度々の彼女の無理を見てきた所為か、思わず安堵の溜息を吐き出す。が、菊の格好に微かに眉間に皺を寄せて、顔を顰めて見せた。
「お前の兄から、護衛を頼まれたんだ。」
ここまで着いてきた根性を買われたのか、鋭い癖にどこか抜けている王耀は未だにアーサーが菊に抱いている思いなど気が付いていない。それどころか、以前から面識があることさえ知らないらしい。
彼としたら、西の重役を担っているアーサーに傷を負わせる訳にはいかないし、大切な妹が野蛮な海賊なんかに連れ去られる程の悪夢も無い。そうなれば、いっそ一緒に行動させて守ってやろうという魂胆なのだろう。
「……昨日の傷は大丈夫か?」
一番気懸かりだった火傷を負った菊の手の平を取ると、菊の体が微かに固まってしまった。いや、違うんだ、下心なんて勿論ちっとも無いんだ。
思わず弁解をして、アーサーが更に墓穴を掘りそうになったその瞬間、大きな衝撃が船を襲い、二人して揺れる床に倒れ込む。ほとんど脊髄反射といっていいほどの早さで、アーサーは菊の腕を掴むと、自身の胸に、守るように抱く。
今度は両者緊張さえする間も無く、2人で扉の方向を睨み、あまりにも不気味な静寂さに心臓が早まるのを感じる。
王耀が乗ってきた船よりも更に巨大な船からの体当たりは、あまりにも大きな衝撃だった。どこか破損し、穴が開いてしまったのではないかと、甲板から巨大な船を睨みながら王耀は舌打ちをする。
てっきりハシゴでも降りてくるのだと思っていたのだが、黒い影が上から数個降ってきたとかと思うと、こちら側が構える暇もなく、彼等は立ち上がり拳銃を向けた。戦うつもりではいたけれど、出鼻を挫かれて王耀達は微かに狼狽える。
「オイ、なんでぇテメェら。ここを許可証無しで通ろうとするたぁ、随分ふてぇ奴等じゃぁねぇかィ。」
その拳銃を構えた人々の後ろから現れた男は、ブーツの音を立てながら甲板の上に居た人々の前に姿を現す。彼は酷く長身で、目の部分に何やら白い仮面を取り付けているために顔は分からないが、鼻筋は通っている様に見える。
「取り敢えず責任者は誰でぇ。」
飾りと、金銀の美しい彫りが施された拳銃を弄びながら、仮面の男はグルリと一週甲板の中に視線をやってから、王耀で視線を動かすのを止めた。
それから、見える口元だけで笑みを作ると、その拳銃を彼に真っ直ぐと向ける。
「アンタみてぇだな……法に従って、許可証を持たないあんた等を運んでやる変わりに、荷の一部を置いていってもらうぜぃ。」
「……許可証?」
海域からいえば、正規のやり方で許可はもらった筈である。思わず耀は眉間に皺を寄せてそう問うと、仮面の男は微かに首を傾げて見せた。
「なんでぇオメェら、風に流されてきたのか。ここらはちょっくら磁気が歪んでるんでぇ。」
仮面の男は微かに唇を尖らせてから、つまらなさそうに肩を竦める。密漁者、海賊……そんな類ならば、何だかんだで荷の殆どは手に入れる事が出来たのだが……。
見るに随分立派な船だったから、少々訝しかったのだが、波にもまれて流れてきてしまった船を沈めるなど、勿体ないことをしてしまった。
「まぁ良い。オレの国じゃぁ法律は絶対なんでェ。……荷を詰め替えて、あと女が居たら連れて来い。抵抗する様なら殺しちまっても良い。」
そう言い切ると、仮面の男は何やら合図を示す。船は既に穴が開いてしまっているのか、グラグラと揺れ動き立っている事さえままならないのに、巨大船に乗っていた彼等にとっては何ともない様だ。
こちらは武器も持って居らず、船の上の戦闘となれば圧倒的に不利であったし、言っている事から大人しくしていればどうやら危害を与えるつもりも無いらしい。
あとは、彼女だけだ……。先程はああ言ったものの、例えココで逃げたとしても、この荒波に揉まれてしまえばボートじゃ逃げ切れない。逃げ切る方法は女とばれなければ良いのだが、顔を隠してどうにかなるだろうか。
視線だけで菊の居る部屋の方へ視線をやると、それとほぼ同時に、彼女の部屋の扉が蹴破られる音を聞いた。
船の揺れは酷くなり、確実に穴が開いたらしい。アーサーは菊に大きな帽子をかぶせると、顔が見えないようにしてから腕を引っ張り、駆け出す。
部屋の奥には荷物が置かれていたのだが、それらを全て除けてしまうと、小さな扉が現れる。それは外に繋がっている経路が続く扉であり、そこから小型ボートの所へと出られる仕組みになっている様だ。
けれどもこんなに波が高くて、果たしてその小型ボートが役に立つのかは、はっきりいって絶望的な結果となるだろう。けれどそれも、どこかに売られてしまうよりは幾分もマシだ。
「……アーサーさんはここに残ってください。どうやら男性は大丈夫の様です。」
隠し扉に手を当てたアーサーの袖を引っ張り、菊がそう声を張り上げるけれど、アーサーは頷こうとはしない。ただ、眉間に深い皺を寄せて扉を睨んだ。
「それでまた一人でどこかに行ってしまうのか?」
「それは……」
アーサーの言葉に菊は戸惑い、口ごもる。その菊の腕を引っ張り、アーサーは扉の向こうの狭い道を駆け出すのだが、その瞬間、後ろで扉が蹴破られる音を聞いた。
船は既に大きく傾き、やがて雨でも降り出すのだろう空はくすみ、波は今までにないほどに高くなりつつあった。立っていることさえやっとの2人には、小舟をどうこうすることさえ出来ずに、狭い空間で数人の人間に囲まれる。
足下には既に水が張りつつあり、アーサーと拳銃を手にした彼等の睨み合いが長引けば長引くほどにその嵩は増すのだろう。もう時間も無いし、例えここを乗り切ったとしても、逃げるだなんて出来ない。
「荷を少し分けて貰えれば、それ以上何もしない。」
焦った目の前の男がそう言うのだが、自身が庇っている小さな彼女の事が心配でならないのだから、「はいそうですか。」と止める訳にはいかない。
が、その僅かな睨み合いの終止符は、菊の「分かりました。」という一声でつけられた。驚き菊に視線をやると、彼女は眉をキュッと持ち上げて男達を睨んでいる。
菊はアーサーの影から姿を現すと、目深に被っていた帽子の隙間から男を睨んでアーサーの腕を引っ張った。
「本当に害は与えないんですよね?」
「ああ、荷を頂いたら。……どうせ、男は安値でしか売れないからな。」
そう言いながら菊がかぶっていた帽子に手を掛けると、そのまま顔を露わにさせる。それでも彼女は睨んでいる瞳を緩めようとはしなかった。
「やっぱりテメェーは役立たずある。」
菊が掴まったとあって暴れた王耀とアーサーは、後ろ手に結ばれて甲板の隅っこに二人して転がされてしまっていた。と、王耀が憎々しげにそう呟くのだが、アーサーは眉間に皺を寄せただけで反論も出来ない。
東の人間と捕虜だった人間には拳銃が向けられ、巨船に最後に乗り込んできた菊と、仮面の男は、作られた明るい光りの中で対峙したまま暫く沈黙の中にいる。菊は一心に男を睨み、後ろで沈んでいく船が大きな最期の音を立てた。
「なんでぇ、まだ子供じゃねぇかい。……それに本当に女かィ?」
こう、でこぼこが……と、仮面の男は自身の胸の前で立体的な丸を作りながら首を捻ると、勿論菊も含めて東の人間は一様にギョッと微かに一歩退く。
「しっ、失礼な!あなたの様な小童にその様な事言われたくありません。」
顔を真っ赤にして拳を強く握りしめると、彼女らしく無いほどに声を荒げた。
「面白ぇ事言うじゃねぇかィ。……大体女かどうかなんて、剥いてみりゃぁ分かる事じゃねぇか。」
髪を切ってからはさらに童顔に磨きが掛かり、見掛けが十代前半と言われそうなほどなものだから、多少なりとも仮面の男はカチンときたらしく、口元に意地悪そうな笑みを浮かべ、菊に歩み寄る。
取り乱すか怯えるかすれば良いだろうと思っていたのだが、菊は睨み付けたまま、怯える様子も勿論取り乱す様子も無い。
「それ以上近付くならば、ここから飛び降ります。」
その代わり、酷く冷静にそう淡々と言い、船の際に登ると、背を伸ばして仮面の男と向き合う。
「ちょ、止めるある……!」
思わず王耀はモダモダ動くけれど、結局は無駄な抵抗だ。それに東の人間以外は、彼女が本気であるだなんて微塵も思っていないらしく、皆苦笑を浮かべる。
それは当然仮面の男も同様であり、口元に苦笑じみた笑顔を浮かべると、菊の元へと一歩踏み出す。そしてその瞬間、菊の体がスッと後ろに倒れ、黒い海の中へと落ちた。
「き、菊ーっ!!」
キャー!と声を上げて飛び出してきたのはフェリシアーノで、穏便第一だった彼は暴れることもなく大人しかった為、縛られて等居ない。それ故、飛び出して真っ直ぐに微かに見えていた菊に足に飛びつく。
フェリシアーノの叫び声に釣られ、東の人間も、向けられた銃口など忘れて各々に駆け出し、耐えきれず震えるフェリシアーノの体を支えるために飛び出す。
「菊、菊、手を伸ばして!引き上げるから。」
足を懸命に掴むけれど、いくら菊が軽いからと言って、人一人の重さを支えるのは、貧弱なフェリシアーノには些か困難だ。懸命に呼びかけても、頭を打ったのか気絶したのか、菊は動いてくれさえしてくれない。
指先が震え、支えるのが辛い。けれど、手を離してしまえば、彼女の体は、あの黒い海の中におっこちてしまうのだ。
「菊、菊、菊……」
そんな地獄絵図が繰り広げられている後ろで、仮面の男はぼんやりと先程から耳に届く名前を繰り返し口の中で呟く。どこかで聞いたことがある……否、そんなレベルじゃ無い。
あ、と男が手を打つのが早いか、駆け出しフェリシアーノの手助けをしている東の男を押しのけ、フェリシアーノと共に菊の足を掴んだ。フェリシアーノは思わず小さく悲鳴を上げ、菊を離しかけるが、どうにかとどまり、それでもガタガタ震える。
「菊ってぇと、もしかして東の頭領の妹かぃ?」
「え?……うん、そうだけど。」多分、そうだったと思うけれど……
フェリシアーノが答えると、仮面の男は黙り込み、それ以上何かを言おうとはしない。仮面のお陰で彼の顔は見えないのだが、不機嫌になったのは、その雰囲気だけで分かる。
仮面の男が手を貸しただけで、菊の体が2人の所へと近付いた。どうやら本当に気を失ってしまっているらしく、近付く彼女は、目を瞑っていた。
最後まで引き上げると、フェリシアーノは力が抜けてしまっている菊の体を抱きしめ、いつもどおり「ヴェー!」と書いて字のごとく、泣く。周囲は口々に安堵の溜息を漏らしていたのにも関わらず、一人、仮面の男は頭を抱えて苦悩していた。
ペチペチと菊の頬を軽く打ち、フェリシアーノが何度か呼びかけると、菊はやっと呆けたままの目をフェリシアーノに向け、小さく首を傾げる。
「あれ……どうしたんですか?」
完全に状況を把握してない様子で菊は暫く辺りを見回していたのだが、そこに仮面の男が滑り込み、菊の手をガッと掴んだ。
「すいません、まさか髪を切っているたぁ知らなかったんで!」
「……はぁ。」
困り首を傾げる菊を余所に、男は仮面を外して露わとなった素顔を菊に向け、非常に口惜しそうにギリギリと歯噛みする。
「オレぁサディクです。五年前、東に行く途中船が沈没して、浜に流れ着いた所をアンタに助けていただいたんでぇ!」
屋敷に運んでくれ、看護をしてくれその時御礼を言いたかったんだが、頭領の妹とあって(単に王耀がシスコン気味だったからなのだが)目が覚めたサディクは会うことが叶わなかった。
ただ見たのは後ろ姿で、綺麗な黒髪が風に靡いていた……その印象があまりにも強かったために、自分は黒髪長髪の女性にばかり注意を払いすぎてしまったのだ。なんという過失、なんという恥。
頭を抱えるサディクを余所に、菊はもう一度「……はぁ。」と曖昧に頷く。正直、一体彼が何の話をしているのかいまいち理解していない、が、取り敢えずサディクに合わせるように笑ってみせる。
「今から部屋を作らせますんで……あ、勿論オレの国に着いたら、新しい船も用意します。」
仮面を投げやったサディクの表情は、酷く真剣で気迫じみていて思わず菊は腰を抜かしたままの状態で彼を見上げた。まだサディク以外の人々は誰一人として状況を把握していなかったけれど、サディクに怒鳴られて慌てて駆け出す。
菊が甲板の上で転がされている二人について思い出したのは、即席ながらも立派なベッドに腰掛けてからであった。