La Campanella


 
 La Campanella  -ラ・カンパネラ-
 
 
 本当にあの海域は彼の国の物だったらしく、まだ夜も明けきる前という随分早い時間に、陸上を目前とする。発展している都市らしく、船の停留所にはいくつもの巨大な船が停められていた。
 結局王耀とアーサーを助けた後も一睡出来なかった菊は、船員に導かれるまま甲板に導かれ、その壮大な光景を目の当たりにした。海を渡ってくる風は少々冷たいけれど、朝特有らしくとても心地がよい。
「菊さん!よく眠れやしたか?」
 早朝なのだが、彼、サディクは嬉しそうな声を上げ、楽しそうにスキップなんかかましそうな身軽さで甲板にやって来る。
「え、ええ。」
 確かに、即興で作り上げたベッドにしたらあまりにも寝心地が良すぎた。のだが、疲れすぎているのか、逆に神経が逆立ってしまい結局眠れなかった。
「そうですかぃ、そりゃあ良かった。」
 サディクは嬉しそうに笑うと、菊に袋から取り出したパンを一つ、手渡す。少々堅くなってしまっているのだが、良い香りが鼻先をかすめた。
「もうすぐ着きやす。そしたら是非、オレの宮殿に来てくだせぇ。」
 カリカリと小動物の様に、堅いパンを少しずつ食べている菊を見やると、仮面の奥の目を細めて彼は満足そうに笑う。それから碇を下ろしに行くのを見るのか、挨拶を一つすると船員の一人に話しかけた。
 暫くぼんやりと朝靄に揉まれている海の果てを見やっていると、不意に肩に布がおろされ、驚きそちらに視線を向けた。と、菊の左後ろにフェリシアーノが立っていて、自身の上着を掛けてくれたらしい。
「昨夜はありがとうございました、フェリシアーノさん。」
「ううん。オレ一人だったらおっこっちゃってたよ。」
 えへへ、と恥ずかしそうにフェリシアーノが肩を竦めると、彼のお腹が小さく鳴り、思わず菊は笑みを浮かべる。そして手に持っていたパンを彼に差し出す。
 パンを受け取ったフェリシアーノは御礼を述べ、そのパンを二つに割り大きな方を菊に差し出した。朝靄がそろそろ晴れ始め、今日も太陽の光が海面に差し込むらしい。
 
 陸に降り立つと、外国人が珍しいのか、それともいつもサディクにくっついているのか、トタトタと駆けてきてサディクの後ろに隠れると、不思議そうな様子で異邦人達を眺めていた。
 まだ幼い子供達が心底可愛いのか、菊は嬉しそうにニコニコしているし、菊がニコニコしていれば昨晩の不愉快な出来事もまだ忘れる事が出来るだろうと、変に抑え付けられて痛む肩にアーサーは手を当てた。
 しかし納得いかないのはあのサディクという人物だ。聞くに、彼女は彼を覚えていないらしいのだが、サディクは菊の事をえらく気に入っているし、何やら恩義があるらしい。その為先程から菊の傍をくっつき離れない始末だ。
「本当に美しい所ですね。」
 両手を合わせて嬉しそうにそう言った菊をサディクはバッと見やり、仮面の下で嬉しそうに笑う。
「そうですかィ!気に入りましたかィ。」
「ええ。」
「ここで暮らしたいとお思いで?」
「え?……そうですね。」
 たたみかける様に聞いてくるサディクに対し、菊は困惑しながら曖昧に一応頷けば、サディクは楽しそうに頷く。
「これでオレは決心したぜぃ!この国を正式に継ぐ。そして菊さんを嫁にとらせて頂きやすぜ!
 オレぁこう見えても国王第四皇子でさぁ。残り全員殺っちまえば良い、簡単ですぜィ!」
 バッとサディクに腕を差し出され、一瞬彼が何を言っているのか理解できなかった菊は、数秒後に「え?」と、眉を歪めて首を傾げた。なんか、最近こんな事ばっかりだと、内心どこかで溜息を吐く。
「な!何を……!」
 後ろに立っていた王耀が駆け出し、そのまま跳び蹴りをかますそれよりも早くに、誰かが無言でサディクの頭を、後ろから気の棒でビシビシと叩いた。
 案外痛かったのか、サディクが驚きと痛みで「ギャッ!」な鳴き、慌てて後ろを振り返る。と、そこには白い布を被った褐色の肌をした男が一人、無表情で棒を握って立っていて、サディクと目が合うと「やぁ。」と片手を持ち上げた。
「グプタ……!てめぇ何しやがるんでぃ!」
「またお前が暴走してるから、宥めてやろうと。」
 飄々とした様子でそう言うと、「因みにあそこで買った。」と、路上でなぜか木の棒を売っている男を指さす。サディクはギリギリと歯噛みすると、グプタと呼んだ男から棒を奪い取り、パキッと音を立てて折って、その辺に放ってしまう。
「オレぁ調教されてる虎じゃねぇ!」
「見れば分かる。」
 咆えるサディクに全く怯える様子も見せずに、グプタは無表情を崩すことなくそう頷くと、そこでようやく菊と王耀へと視線をやり、少しだけ目を大きくさせた。
 そしてそのまま無言でサディクの元を離れていくと、王耀、菊に握手を求め、握手を果たすと若干満足そうな様子で再びサディクの傍に帰り、ウンウンと何度か頷く。
「……何してんだ、オメェ。」
「……外交。お前もさっさともてなしたらどうだ。」
 握手がもてなしなのだろうか……思わず菊は一瞬自身の手に視線をやるが、サディクが手を強く打つ音が聞こえ、また慌てて顔を持ち上げた。
「そうだな。取り敢えずオレの宮殿に来て下せぇ。」
 サディクは顔一杯に笑顔を浮かべると、菊の腕を掴みさっさと歩き始めてしまう。慌てて菊は振り返り、少々困った顔で兄と仲間に視線をやった。王耀は一度頷き、菊とサディクの後について歩き出す。
 
 
 サディクが宮殿と言った場所は、まさしく宮殿であった。白い大理石で作られたドーム型の巨大な建物、その内部には所々池が張られていて、心地よさそうな蓮華が浮かべられている。
 足下に敷かれたカーペットには幾何学模様が編み込まれ、その幾何学模様は至る所で目にすることが出来た。それは壁にも柱にも彫り込まれ、埋められた宝石は絶えずキラキラと光っている。
 こんなにも美しい光景など目にしたことが無かった菊は、辺りをキョロキョロと見回りながら、サディクに色々尋ね嬉しそうに微笑んでいた。通されたのは巨大な一室で、そこには様々な事細やかな色彩が込められたカーペットが敷かれ、果物が置かれている。
「おい、もてなしの準備をしろィ。東の国の頭領がお見えでェ。」
 部下にそう言いつけながら、サディクは嬉しそうな様子で菊たち客人を案内すると、全ての人間の召し物を用意して寄越す。
 見慣れぬ衣装を身に纏い、見慣れぬ土地で、そして見慣れぬ食べ物が目の前に並べられ、菊を含め東の人間もフェリシアーノも呆けて口を開け、その珍しい様子を眺めている。
「オレの家は知らねぇが、オレは東に協力しますぜ。これからどうするか、何でも言ってくだせぇ。」
 宴の準備が全て終えられ、食べ物を前にサディクがそう王耀に問いかけると、王耀は鋭い瞳を持ち上げて隣りに座っている菊を見やった。菊は顔を持ち上げ、一瞬困惑をその瞳を揺らがせるけれど、直ぐにキュッと唇を締める。
「私は……私の所為で沢山の人が犠牲になった事は承知しています。でも……」
 言葉を一瞬失うと、菊の脳裏に3人の人物が過ぎった。自分を最後まで守ってくれたヘラクレスとルートヴィッヒ……そして炎の中に立っていた、イワンだ。
「兄様、私はこのまま自国に帰ってのうのうと暮らすことは出来ません。……どうか、この菊に知恵とお力をお貸し下さいませ。」
 菊は地面に手を付くと、その頭を床に付くほど深々と下げた。そのままの体勢で、中々その顔を持ち上げようとはしない。
 暫く沈黙が流れるのだが、不意にその沈黙を破ったのはサディクで、彼はガバリと立ち上がり握り拳を高く掲げた。
「オレにお任せくだせぇ!船も人員も、いくらでも出しまさぁ。」
 その声に驚き菊は思わず顔を持ち上げると、驚きで目を真ん丸にさせて片膝で立ち上がったサディクを見やる。彼はマスクの下で満面の笑みを浮かべて、菊を見やっていた。
「お前の頑固さは、昔からよく知ってるある。今更ダメだなんて言わねぇある。ただ、絶対に無茶はもうするなよ。」
 王耀はあきらめともとれる溜息を一つ吐き出してそう言うと、手近にあった果物を一つ手に取り、一口囓った。と、それまで何も言わなかった東の人間は、各々頷き肯定の意を示す。
 菊は一度持ち上げた顔を俯かせると、大きな黒い瞳を震わせ、強く目を瞑り声を震わせて礼を述べる。
「さぁ、どんどん食ってくだせェ。そうと決まれば、明日からオレぁ情報を集めて来やす。」
 サディクはそう皆に勧めると、自分は一人立ち上がり、黒いマントを翻して部屋を出て行った。
 
 
 やがて日が沈む頃になると、部屋を分け与えられ風呂を貸してもらい、疲れていた人々は勧められた夜の宴を断り皆床に就く。菊は部屋に備え付けられた窓を開けると、そこから夜の海を望んだ。
 と、ふと隣から視線を感じてそちらに顔を向けると、驚いた様子のアーサーが窓から顔を出している。
「こんばんは。お隣だったのですね。」
「ああ。」
 軽い挨拶を交わすと、お互い一度黙り込み夜の海の音に耳を傾けた。夜の中に浮かんだ明るい月が光、やはりあまりにも美しい夜だ。
「あの……ここから先は、私の問題です。どうぞあなたはここに残っていてください。」
 菊が沈黙を破ってそう言うと、アーサーの緑色の瞳が驚いた様子で見開かれる。
「今更それは無いだろ。」
 申し訳なさそうにアーサーを見上げていた菊に、思わず嘆息を漏らしてそう返すと、菊は暗闇の中月の光を返しキラキラ光る黒い海に目線をやった。海は絶えず波打ち、酷く幻想的で美しい。
 暫く沈黙が続く中、菊は決心したように再びアーサーに視線を戻し、目を瞠らせながらずっと心の内に閉まっていた疑問を口に出す。
「……あの……あの時、なんて仰ったのですか?」と。
「え?あの時って、いつの話だ?」
 所がアーサーにとってはあまりにも前の話題で、当然何の話をしているのか瞬時に分からない。思わず少々裏返った声色でそう返すと、菊は微かに頬を朱く染めて、俯く。
「あの、笛が鳴って、あなたの言葉が良く聞き取れなかった時……」
 菊が言った後も、暫くアーサーには何のことか分からなかった。が、不意にあの眩しい夕日の輝きと共に、焦燥感とも愛おしさとも取れる感情がありありと蘇り、思わず身震いを覚えた。
 あの時…イワン勢が責め来ようとしていた要塞で…は、彼女を止めようとあまりにも必死で、自分でも意識する間もなく彼女に自身の思いを伝えてしまおうとしたのだ。
「あ、あの時か!……あれは、その……」
 まごついてしまうアーサーを、菊は気のせいか微かに潤んだ瞳でジッと見上げ、切なそうにその眉を下げている。アーサーは何と言っていいのか戸惑いながらも彼女に視線をやると、それに合わせるように菊は小さく首を傾げて見せた。
 そういえば一度キスをしたことがあるのだと不意に思い出し、もんどり打つほどに恥ずかしさが押し寄せてくるけれど、今は悶えている時ではない。
「オレは、その、お前を初めて見たとき……」
 それまでの偉そうな態度から一変し、アーサーは困った様子で狼狽え、指先をもぞもぞと動かしてさえいる。菊は不思議そうな様子で戸惑い赤くなるアーサーを、ジッと目を丸くさせて見やっていた。
 またその菊の様子にアーサーは体温が上がっていくのを感じ、尚戸惑い赤くなっていく。
「その……」
「菊!一緒にお酒飲もうよ!」
 次の瞬間、菊の部屋の扉が激しく叩かれる音がし、フェリシアーノの楽しそうな声が辺りに響く。菊は驚き振り返ると、アーサーの方と扉の方を交互に見やった。
 アーサーが安堵と悔しさがごっちゃになった様子を見せ、軽く肩を竦ませた。菊は振り返り扉に顔を向ける。
「……ごめんなさい、フェリシアーノさん。今日は疲れているのでご遠慮させてください。」
 菊が言った言葉に、アーサーは些か驚いていると、笑顔を浮かべたまま彼女は再びアーサーへと視線をやり、小さく肩を竦めて見せた。
「私、ずっとあなたに御礼が言いたかったのです。」
「御礼?」
 菊の軽く弾んだ声色に、多少なりとも驚きを覚えつつアーサーがそう返すと、心底嬉しそうに菊は一度頷く。短くなってしまった髪が、それでもしなやかに、艶やかに動作に従って揺れる。
「手紙です。あのお手紙頂いてなかったら私、きっと途中で諦めていました。」
 何を。と聞くのも愚かしい質問だろう。
 あの時は、結局家路について庭を眺めたとき、本当の主人を失って悲しげに花弁を落としている桜を見つけ、いてもたってもいられなかったのだ。その花弁が、涙にさえ見えた。
 届かないと分かって出した手紙は、どういう経路でかしっかりと彼女の元に届いたという。それが本当に彼女の力になったのかどうか、アーサーには分からなかったのだが、菊が今アーサーに向けている笑顔を見やればその効果をしんじることさえ出来る。
「……それは良かった。」
 自身でも驚いてしまう程に柔らかな声が出て、再び体温が上がっていくのを感じた。
 ああ、やはりそうだ。と、どこかで思う。初めて会ったときも、祭りへ連れ出したときも、ただ見たかったのは彼女のこの笑顔だったのだ。控えめを具現化した様に一見すると思えるのに、不意な事で子供のように無邪気に笑う。
 自分はどこかおかしくなってしまったのか……!? そう思えるほどに体温が上がり、息苦しささえ覚えてきてしまった。この思いを伝えてしまいたい反面、伝えることさえ恐ろしい。
「……それではそろそろ、失礼しますね。」
 先程までの無邪気な笑顔を消し去った、しとやかな様子で彼女が乗り出していた体を引っ込めようとするものだから、思わずアーサーは彼女を呼び止めた。
 菊は、驚いた様子で目を大きくさせ、アーサーをジッと見つめる。
「あの時言いたかったのは……その、お前の事が好きなんだ。だからココまで来た、それだけだ。」
 なぜかラストは軽く逆ギレしたかのように声を荒げたのだが、海から吹く風が無かったら、本当に顔から火が出てしまうほどに自身の体温が熱いのをアーサーは感じた。
 今どこかに穴が開いていたら、恐らく何も考えずに素早く逃げ込んでいただろう。だが残念ながら、ここには穴も何もないから、ただ菊の顔を見つめることしかできない。
 彼女は暫くキョトンとしていたのだが、徐々に、こちらが恥ずかしくなるほど顔が赤くなっていく。
 
 なんて愛らしいのだろうかと思いながら、尚もアーサーはどこかに逃げ出したい衝動に襲われてならない。少し空いている距離が憎らしいのか、それとも有り難いのか、既に判別は出来なかった。