Samsara


 
 
 ここはどこだ。ここは、理想郷だ。


 その次の日の早朝、彼女は河川敷で変わり果てた姿で見つかった。衣服は乱れて居らず、首が絞められた跡だけがクッキリと残っている姿で、警察は動くも犯人は結局捕まらなかった。
 葬式の最中、彼女を溺愛していた筈の彼女の兄は、いつもとまるで変わらない冷たい表情を浮かべ、冷静に式を取り仕切っている。沢山の人が居る中、彼女と親しかった筈の人物の多くは、彼と同様に妙に冷静な表情を浮かべていた。
 彼女の兄はこちらを振り返り、その黒曜石に似た瞳をアーサーに向け、呟いた。
「我は追いかける。お前はお前の好きにするよろし。」と。


 S a m s a r a    1


 夢というものは、起きてしまえば内容が希薄になり、どんなに心に重苦しいものだったとしても、気が付けば忘れてしまうものだ。けれどもしかし、忘れてしまったとしても、それはいつまでも心に残る。悪夢なら尚更。
 アーサーはズキズキと痛む頭を抑え、覚えてなどいない夢の内容を思い浮かべながら、だるそうにベッドから腰を持ち上げた。
 どこか大切な人の夢を見ていた気がしたのだが、それが誰だったのか分からないし、恐らく今まで一度も会ったことさえ無かった人物だった様に思う。
 簡単に食事を済ませると、いつもどおり適当に顔を洗い髪を整え、高校の制服に着替える。いつもどおりの朝であるし、悪夢を見たからといって寝過ごしたわけでもない。

 夢のことは結局いつまでも引きずっていたし、思い出さなければいけない事のようにさえアーサーには思えてならなかった。けれども、思い出そうとして思い出せる物でも無い。
 沢山の生徒が登校中の道の中、そう悶々考えていたのだが、「おはようございます、カークランドさん。」と不意に後ろから声を掛けられ、驚きと共に後ろ振り返る。
 後ろでふんわりと微笑んでいたのはやはり彼女……本田菊だった。
 彼女と出会った切っ掛けは中学生の頃、電車で痴漢にあっていた菊をアーサーが助けた時から始まった。別段助けるつもりは無かったのだが、目の前で眉を歪め泣き出しそうな顔をした少女を放っていく周りに腹が立ち、何と無しに声を上げて助けたのが切っ掛けだ。
 その時はそれで別れて、もう二度と会うこともないだろうと思っていたのだが、それが高校の入学式でたまたま顔を合わせることとなった。
 目を真ん丸にして「「あ」」とお互い声を上げて立ち竦み、二人の横を何人もの人が通り過ぎていく中、ただ無言のまま向かい合う。随分時間が経ってから、やっと菊は「あの時はありがとうございました」なんて、ぺこりと頭を下げた。
 返事をしようとしたアーサーはどうしてか言葉を詰まらせ、頭を下げた彼女の前でダラダラと脂汗を流して菊のつむじ辺りを見つめていた事が、今でもはっきりと記憶の中に残っている。
 なんというか、その……愛らしかった。
 こんなにも愛らしいかったか、と、高校生になって変わったのか……なんて色々思考を回したのだが、ちゃんと顔を見たとき思いだしたぐらいだから変わらないのだろう。
 黙り込んでいたアーサーを不思議に思ったのか、菊は顔を持ち上げて小さく首を傾げると、眉を曲げて頬を朱くさせ俯く。
「すみません……私のことなんて、覚えてないですよね?」
 顔を真っ赤にさせて泣き出しそうな顔を菊はすると、慌てて「あの、中学生の時、その、あの……」と焦っているのかちゃんと回らない舌で懸命に説明しようとする。そんな菊を前に、やはりアーサーは固まっていた。
 
「どうかなさったのですか?」
 回想に入り込んでいたアーサーの顔を、菊は心配そうに下から見上げ、小さく首を傾げさせている。アーサーはハッと我に返ると、思わずその姿から飛び退き、顔を赤らめながら他方を見上げた。
 結局あれから違うクラスになり、二年間友達として過ごしてきたし、生徒会に入ったアーサーと図書委員となった菊ではあまり接点もない。つまり、思いは二年間自分の中に抑え込まれていた事になる。
「いや、何でもない。」
 自分の思いが滲まないように出来るだけそっけなくアーサーは応えると、菊は微かに眉根を下げ目を細め、俯く。
「それじゃあオレは生徒会に寄っていくから。」
 自分が思っていることとは到底違う言葉を言ってしまってから、言ってしまったのなら撤回は出来ずにそのまま別れを告げて彼女とは別の方向へと、肩を落として向かう。
 この分で行けば、まともな話さえ中々することが出来ないじゃないか……
 廊下の途中、ふと彼女の姿を振り返れば、彼女はそこに立ったままジッと自分の姿を見つめている。心臓が微かに弾むけれど、どうにも出来ずにそのまま生徒会室へと歩みを変えた。
 
「菊、どうしたの?なんか元気無い……。」
 ぼんやりと机を眺めていた菊の目の前に、綺麗な顔がドンと映り込み、思わず彼女は驚き身を引く。程良く日に焼けた健康的な肌に、長身、そして艶がある黒髪を持った彼、ヘラクレスは、心配そうにジッと菊の顔を覗き込んだ。
「いえ、そんなこと無いですよ。」
 慌てて菊はフルフルと首を振りそう言うと、ヘラクレスは未だ納得できていない表情を浮かべたままも、唇を突き出して彼女の隣の席に座る。
 そこはもとより彼の席では無かったけれど、今年の春に転校してきて、なぜか妙なほど菊に懐いてしまったのだ。そして休みごとにシッポを振る犬よろしくこの席を陣取ってしまう。
「何でも言ってね。オレ、頑張って役に立つよ……」
 こんなに図体のデカイ男が、それこそ甲斐甲斐しく小さな少女の後に付いている姿は、どうにも面白いのか恥ずかしいのか、クラスの連中は目の端で黙ってその光景を見やっていた。
「あ、そうだ。」と、ポンッと音をたててヘラクレスが大きく手を打つ。また俯きかけていた菊はその音に驚き、パッと顔を持ち上げてヘラクレスの顔を見やる。
「あのね、駅前においしいジェラートの露店が出来たの、知ってる?」
 ニパッと、顔の周りにキラキラとした星が飛び交いそうな程の笑顔をヘラクレスは浮かべると、その響きに誘われて思わず菊も黒い目をキラキラと輝かせる。
「放課後一緒に行こうよ、ね。」
 普段猫と遊んでいる時以外はほぼ無表情で眠たそうな癖に、菊と向かい合っているときはひたすらヘラクレスはニコニコをその顔に引っ付けていた。
 が、今回は菊までも満面の笑みを浮かべ、嬉しそうに「わーそれは良いですね」なんて声を弾ませる。

 最近出来たばかりとあって、ジェラート屋の周りには狭い路地だというのに沢山の人々が居り、少し目を離せば直ぐに友人を見失ってしまうだろう。
 菊とヘラクレスと……それからいつの間にか付いてきていたのか、サディクまで一緒になって列に並ぶ。ヘラクレスは随分とむくれていて、サディクは酷く楽しげに鼻歌を歌っている。
 不思議な三人組は少々浮いているのだが、当の三人組は別段気にする様子も無く、各々欲しい物を頼むと、座る場所も無いので立ったまま冷たいジェラートを口にした。
 暫く平穏に時間が過ぎていったのだが、やがてヘラクレスとサディクが何か口論を始める物だから、菊は楽しげにその2人の会話を耳にする。いつもながら、口論までならば2人の会話はとても楽しい。
 そんなわけで、ヘラクレスとサディクがお互いの会話に夢中になり、少々菊から目を離した瞬間、菊は右腕をグイと引かれ、驚き瞬時そちらを見やるけれど、人が多すぎて誰に引かれているのか分からない。
 ヘラクレスかサディクを呼ぼうと振り返るけれど、人の波に飲み込まれて2人の姿は直ぐに見えなくなってしまう。懸命に振り解こうと腕を振るった時、やっと掴まれていた腕が離された。
 辺りは人々が一杯で、人波から逆らうと中々進むことが出来ない。その中を歩いていくと、不意にドンッと誰かにぶつかり、瞬時相手の持っていたジェラートが胸元にベチャリと当たった。
「ご、ごめんね!オレ、前見て無くて。」
 ジェラートの持ち主は、慌てて菊の顔を覗き込むと、その髪を揺らして申し訳なさそうに眉尻を下げる。前にいたのは男性で、優しそうな目を歪ませていた。
「俺の名前はフェリシアーノ。……同じ高校みたいだね。俺、二年生だよ。」
 彼は笑顔で自分の名前を名乗ると、キュッと菊の手の平を掴んでブンブンと強引に握手をしてみせる。それは確かに自分と同じ学校の制服を着込んでいたのだが、今まで一度も見たこと無い生徒だった。
「こっちはルートヴィッヒ。……制服、汚れちゃったね。それじゃあ恥ずかしいよね?」
 グイとフェリシアーノに腕を引っ張られ、菊は慌てて「大丈夫です。」と返すけれど、フェリシアーノはニコニコ笑いながら「だいじょーぶ」と繰り返す。
 フェリシアーノに連れられて菊はそのまま大通りに出て行く。後ろを振り返ると大勢の人が居て、ここまで一緒に来た2人の姿はどこにも見つけられない。仕方がないから、どこかで一度メールをしなければならないだろう……
 取り敢えず見る限りフェリシアーノは悪い男の様に見えないけれど、簡単について行ってしまってもいいのだろうか。前を歩く2人組の男にほんの少し目線をやると、ルートヴィッヒと呼ばれた男の鋭い目が、チラッと自身を見やる。
 やがて大きな服飾店の前でフェリシアーノは足を止め、菊を振り返った。少々高そうな店で、菊にとっては入りにくいとは言い難いお店で、思わず菊はポカンとしてその建物を見上げる。
「取り敢えずここで服を買わなきゃね。」
 ニパーッと笑いそう言うフェリシアーノに、菊は慌ててフルフルと首を振り、慌ててフェリシアーノを止めにかかる。
「大丈夫です。本当に。家に帰って洗いますので。」
 逃げ帰ろうとする菊に反して、フェリシアーノは眉をハの字に歪めると、酷く悲しそうな顔をするものだから、菊も戸惑いその場で足を止めた。
「こんなドロドロじゃ、ダメだよ。」
 ジェラートで汚れた菊の制服をチョイと摘み、フェリシアーノはそう言うと、再び目を子犬の様に潤ませる。その目に見られると、どうにも菊はそれ以上反抗出来ず、目線をウロウロと漂わせた。
 フェリシアーノが腕を引くよりも早く、いつの間に菊の背後に回っていたのか、ルートヴィッヒが菊の小さな体をヒョイッと持ち上げて、店の扉に手を掛ける。
 暴れる事さえ忘れてキョトンとしていた菊は、そのままルートヴィッヒによって、簡単に店の中へと連れ込まれてしまう。笑顔でこちらを見やった店員は、その不可思議な客に、挨拶も半ばに思わず目を大きくさせて黙り込む。
「この子に似合う服を、お願いするね。」
 ニッコリと笑ったフェリシアーノが、店員にそう告げると、やっと地面に降ろされた菊は目を真ん丸にして、店の煌びやかな雰囲気に固まってしまう。

 あれよあれよという間に、菊の服は新品のものに変えられ、その上制服をクリーニングに出しておくよ。なんてフェリシアーノが言う物だから、慌てて首を振る。
 さっさとお金を払ってしまったフェリシアーノを見やれば、彼は随分とお金持ちらしい。まさかこれからお金を請求されやしないかと、一瞬そんな考えが菊の中を通り過ぎるけれど、人が止さそうな彼からはそんな事はありえなさそうだ。
「またね、菊。」  そう、夕日をバックにフェリシアーノが菊に向かって大きく腕を振る。そこでようやく、菊は気が付いた。
 まだ自分が、名乗っていないことに。