Samsara


 
 最初は何もない、海だけだ。それ以上前の記憶は、流石に手繰り寄せる事は出来なかった。ただ、真っ暗であったことは覚えている。
 漂う海は、最初は暗くて生ぬるく、やがて地球は体温を下げ始め、ようやく自分達は進化することを許された。どこまでも小さな存在だったけれども、やがて一人でどこまでも泳いでいけるようになる。
 ああ、けれどココにはライバルが多すぎる。太陽は燦燦と輝き、それはあまりにも美しく、日の出と日の入りだけでは飽きたらず、遂に海面から体を出し、のそのそと歩き出す。
 今度は空があまりにも美しすぎる事に気が付き、あの点々と輝く、懐かしい自分の故郷があるだろう宇宙に憧憬の念を抱く。覚えている。自分はあのどこからかやってきたのだと。
 やがて気が付けば、自分は両手を出来るだけ大きく広げ、その空の中を走り出した。頬をすり抜けていく風、それは、長い時間自分を魅了させる。
 けれも束の間、誰かがこちらを見上げている事に気が付き、ようやく自分は再び大地に足を下ろす。空を飛ぶほど便利ではないけれど、雨が降れば大地は匂い立ち、春になると家の周りはすっかり華に囲まれる。
 けれども、長い長い年月を飛び歩きようやく出会った存在とは、またも別れなければならない。
 
 不意に外気に晒され、別れ出会う事に悲しみ、慟哭を上げた。夢から醒めることは、悲しい。苦しい。どこにいるのだろうか。
 君は、どこにいるのだろうか。また出会い、別れなければならないのだろうか。
 
「大丈夫です、私は傍にいますよ。」彼女は、そう言ったのに。
 もう、それさえ叶わない。

 
 
 
SAMSARA
 
 
 
「オレが、どうにかする。大丈夫だ。逃げよう、逃げ通そう。」
 そう言ってしまってから、彼女が反応するよりも早く、そのまま唇を合わせる。驚き思わず菊はアーサーの体を押し返そうとするのだが、抱き寄せられ唇を合わせられていると、抵抗も出来ない。
 何度も合わせた唇を離すと、そのまま細い首にかぶりつく。慌てて菊は手を伸ばしてアーサーの顔から逃れようとする。
 驚き藻掻く菊を抱きしめると、細いラインに舌を這わせる。ビクリと体を震わせ、菊は知らない体感に小さな声を漏らし、体を捩ってスン、と泣き出しそうに鼻を鳴らした。
「人身御供に必要なのは、処女なんだろ。」
 アーサーの言葉に菊は驚き、信じられないものを見るかのようにアーサーへと視線をやる。
 けれども切羽詰まった様子で、アーサーは下唇を噛みしめて、菊の目線を真っ直ぐに捉えた。菊の細い指に指を絡めると、そのままキュッと締め、再び顔を近づける。
「菊、お願いだ。逃げるって、言ってくれ。」
 切望する声色で言われ、菊は戸惑い、見つめるその目を見返す。
「……どうしてあなたを信じられますか。」
「どうしたら信じてくれる。」
 頬に手を寄せ、首を傾げて尋ねると、菊自身どう応えていいのか分からず、困った様子で目を細めた。
「王耀は力を持ってる。お前がいなくても、この国は無くなりはしない。」
 雨の音が聞こえ、神社の境内には2人以外には一人もおらず、静まりかえっている。菊が小さく息を飲んだ音さえ、アーサーの耳に届いてくるほどであった。
 対面し、暫く見つめ合った後、再びゆったりと唇を重ねる。2人とも、同時に意識が遠のいていくのを覚え、雨が降っていることさえ、そしてココがどこであるのかさえ、どこかに忘れ去りそうになる。
 戸惑っていた菊の腕が伸び、キュッとアーサーの服を掴む。しがみつかれたことに一瞬驚くが、アーサーはそのまま、菊の着物の裾に指を入れ、滑らかな鎖骨を指先で撫でた。

 
「お前さ、いい加減にしろよ。」
 ホワッと煙を吐き出したアルセーヌは、帰ってきたアーサーを見るなり、その表情を曇らせた。アーサーは、廊下の先で立っているアルセーヌをみつけ、思わず立ち止まる。
「俺等の目的、ちゃんと分かってる?お前。」
「分かってる。大丈夫だ。」
「お前は家族が居ないからいいだろうけど、俺は、失敗したら家族にも被害が及ぶんだぞ。」
 そう声を掛けると、アーサーは一瞬だがアルセーヌを睨み、直ぐに何かを考えるように視線を外す。
「……そうだな。」
 一言言うと、アルセーヌの脇をすり抜けながら、上着を脱ぎ、その足であてがわれていた自室へと入る。背中にアルセーヌの訝しげな視線を感じるが、それを遮断するかのように障子を閉めた。
 上着を掛けると、シャツのボタンが一つ掛け違えられていて、思わずハッとする。手を強く握ると、今でも彼女の温度が直ぐ傍に感じられ、思わず目を瞑った。
 分かっている……自分が何をすべきで、何を目的としてこの国に訪れたのか。今まで自身を嘲っていた者達を見返すつもりで、この使命を受け、そしてここまでやって来た。
 一旦王耀の大陸の方へ行っていたアルセーヌが帰ってきた、という事は、戻らなければならない時間が、直ぐそこに迫っているのだ。机の上に置かれていた手紙を手に取り、アーサーは軽く顔を顰める。
 本当に利用するだけのつもりだった。どうにか出来ないものかと思案してきたけれど、背中についた引っ掻き傷が微かに痛み、その思考をアーサーの脳内から奪い去っていく。
 先程アルセーヌが言ったとおり、自国には家族も居なければ、恋人さえ居ない。いや、恋人をどう定義するかによるだろうけれど、今自分を占める存在に比べると、なんと小さなものだろうか。
 アーサーは溜息を一つ盛大に吐き出すと、己の額を押さえ、柱に背をもたせたまま、ズルズルと座り込む。  
 
 あいつは丸め込まれてしまったのだろうか。アルセーヌは表情を曇らせ、煙草を一息呑み込む。
 否、アーサーはそんなに愚かであるとは思えないけれど、前が見えなくなる気持ちは十分に理解出来る。……それは、国から出てくる前に、アルセーヌの心を捉えて離さない女性が出来たからだ。
 絶対に成功させる、と、その彼女にも約束して国を出てきた。彼女「そんな事望んでいない。無事で帰ってきて。」と泣かれたけれど、アルセーヌは彼女と結婚する為にも、成功させたかった。
 今回は重要な任務であり、成功させるか否かで、国からの評価は大きく変わるだろう。それにより自分の将来もまた左右される。
 だから、どうしても、どうしても良い報せを持って帰りたかった。それは、アーサーに味方してやりたい気持ちもあるけれど、老いた両親と、貧民街出身の婚約者を養っていかなければならない。
 奥歯を噛みしめると、書き途中であった手紙を広げ、横に投げ出してあったペンをそっと掴む。
 
 
 帰る日取りが決まり、菊との逢瀬も、今日をもって一時中断となるのだろう。
 暗い中廊下を歩いていると、一つの影が向こうにあるのに気が付き、思わず立ち止まると、王耀は微かな灯りに照らされて顔を顰めていた。
「あの子を丸め込んでも、意味なんてねぇあるよ。」
 王耀が奥歯を噛みしめて、憎らしげにアーサーを睨んだ。アーサーは立ち竦み、その王耀の顔をぼんやりと見つめていた。
 何と言ったら彼が納得してくれるのか分からずに歯噛みする。2人は睨み合ったまま、しばらくの間対面していいた。が、意を決してアーサーは口を開けた。
「お前は、本当は菊を愛して等居ないんだろ。」
 アーサーの言葉に、王は驚いた様子で、その切れ長の目を大きくさせる。それから眉間に皺を寄せ、きつくアーサーを睨み付けた。
「お前……なんであの娘の名前を……」
 王耀は悔しさを丸出しにし、表情に濃い影を落として歯を噛みしめる。それから踵を返すと、己のために用意されている部屋に足早に向かう。
 まさか菊が、あんなぽっと出の人間に己の名前を教えているとは思わなかった。名は、この国では大きな意味を持つ、一種の呪いである。
 特に菊は、いつまでも神と近しい存在にあるから、名前は人より重要な意味があった。この国では、七つになるまで子供は神の子であり、その間は幼名使う事が多々ある。
 しかし菊は、ずっと神の子であるから、死ぬまで真実の名前を押し隠さなければならない。名前を知られるという事は、命を握られているという事である。その証拠に、クチワナへの献上の際、最後に本名を教えるしきたりがあった。
『私の命もあなたに捧げます。』その意味がある。
 ……初めて出会った時、十年後のクチワナへの献上品として王耀の前に彼女は姿を現した。人形の様に表情が無く、座ったままジッと王耀を見つめている。
 彼女は『橘』と呼ばれていたけれど、王耀とその両親にだけは本名が明かされる。卑しいあやかしには名前が知れない様、今に至るまで、とうとうその名前を口にする事は無かった。
 甘い菓子と、煌びやかな服飾品で誤魔化し、広い屋敷の中に押し込まれ、朝から晩まで監視の目につかれ、彼女は来る日も来る日も一人で鞠に興じている。悲しげな数え歌と、その背後に聳える桜はいまでもはっきりと思い出された。
 最初は面白くて話かけたけれど、途中からその強張った表情をどうにか崩したくて、沢山の本やらなんやらを与え、一日中一緒に居る機会が増えた。両親は菊を蔑みながらも、神の子となれば仲良くしておいても良いだろうと判断したのか、口は挟まない。
 段々と笑うようになった彼女を、どうして愛していないなど言えるのだろうか。何も知らない人間が、一体何を知っているというのだろうか。
 それでも王耀は、彼女を、菊を運命から助け出したいと思う反面、クチワナの元へ行く事を……本当は喜んでいた。女としてどこかの男とくっつくぐらいならば、いっそ……
 どうせ王族の自分は、こんな小さな国の娘と婚姻など許されない。否、他国の人間というだけで、あのしきたりに厳しい王家では叶うはずもなかった。
 ならば訳の分からないモノのもとへいき、そのまま綺麗な記憶だけを残し、「仕方が無かった」と誤魔化して残りの人生を歩んでいく方が好ましい。それは、あのアーサーという男が出てくるまで、無意識な内に自身に根付いていた答えだ。
 勿論、そんな事に気が付いてしまった今では、自身に対する嫌悪感を抱くのと同時に、あまりにも自分らしい思考だと、笑みさえ漏れるから情けない。

 
 

+++

 駆け落ちは失敗したけれど、アーサーは諦める気などさらさらなかった。それは、誰も居ない家に帰った時に、益々欲求がアーサーを駆り立てる。
 もう、周りの冷たい目線や噂話など、それこそどうでも良い。忘れるのではないかと思っていたのだが、そんな事も無く、より鮮明に彼女の影が自身に落ちてくる。
 
 部屋の中央に座った、全身真っ黒な服を着た王耀は、アーサーを向かい入れて微かに微笑んでみせた。
「あの子は死んだある。」
 ここが、あの美しい家であったのだろうか。ささくれ立った畳みに、荒れた壁、そして雑草が生えた庭……そして彼女が居ない。どこにも、その存在が見えない。
「……な、んで。」
 スルスルと血の気が引いていき、意識が遠のきながら、辛うじてアーサーはそう尋ねる。日本に来るのも、海賊をどうにか言い含め、政府にさえ知られない様にここまで来たのに。
 どうして、その探し求めていた彼女が居ないのだろう。いや、本当に居ない筈が無い。……間に合うように、迎えに来たのだ。
 彼女の話だと、神聖な森の中、普段だれも入れない洞窟に置いて行く、という儀式であるらしい。一人では到底出ることの出来ない樹海であるし、狼や熊が出る為、置いていっても一人ではどうにでも出来ないのだという。
 だからこそ、場所さえ把握すれば、そのまま彼女が連れ出せる。という考えだった。
「お前との関係がバレたアル。処女を失うのは、重罪アルからな。」
 王耀の言葉に、アーサーは立ち竦む。肌を合わせたのは、ただの一度だけで、その後も普通に暫く暮らしたから、どうしてバレたのか理解出来なかったのだ。
 立ち尽くすアーサーに向けて、王耀は、楽しそうにクツクツ喉を鳴らすけれど、その表情は青白く、酷く疲れた様子が見える。
 その時、港の方で、爆発音に近い大砲の音が響き、屋敷さえグラグラと揺れた。驚き振り返ったアーサーに対して、王耀は笑顔さえ浮かべて立ち上がる。
「お前は……随分大勢であの子を奪いに来たみたいアルな。」
 王耀の言葉を一瞬飲み込めず狼狽した後、アーサーは先程まで自身が舟を停めていた港に向かって走り出す。疫病が流行っているとみえて、街は活気をまるで無くし、人は一人も見えない。
 確かに何かが大きく変わっている事が見えたから、先程上陸した際も胸騒ぎがしたのだ……
 港まで駆け抜けると、そこには巨大な舟が一艘停められていて、アーサーは目を大きくさせて立ち竦んだ。それは、見慣れた自国の舟であり、また、大砲はしっかりとコチラに向けられていた。
 この港は、この国の漁師が使用している所であり、警備も薄く、攻め込むには一番適している場所である。その上、今は疫病の流行の為、闘える人間も居ない。
 本来であれば、こんなにも陸上戦が強い国は無い筈だというのに、疫病だけでなく異常な天災に見舞われた今や、他国と闘える力が残されているとは思えなかった。
 まさか後をつけられたのかと思ったのだが、何度も後方を確認したのだから、そんな筈は無い。だとしたら、答えは一つである。
「……アルセーヌ。」
 自国に戻ってから、友好は希薄になった。結局、大和は王耀の所に従属しているという判断を下したと思い込んでいたのだが、彼は、アルセーヌはアーサーと違う提案を政府にしたのだろう。
 時期を狙って迫れば、いずれこの小さな国は開かない訳にはいかなくなるだろう、と。それは、もしもアーサーがアルセーヌの位置にいれば、そうしていた事だ。
 ただ、自分は、彼女と約束したからだ。また、なんとなくだが、アルセーヌは諦めてくれると、そう思い込んでいた。

 
 
 
 
 続
 
 「胎児の夢」をググれば一発です!
 胎児はお腹の中に居る内に、進化を全て辿るらしいですよという話です。でも難しいのは分かりません。死