Samsara


 
 生まれたときからみなしごだった。母親の顔も、温もりも、そして家の暖かさも知らず六まで生きると、羨望すら覚えることは無い。
 幼い頃から親戚の間をたらい回しにされ、時には殴られたりして、最終的に街の隅で同じ運命を生きる動物と身を寄せ合って生きていた。ゴミを漁り、飢えを満たし、野良犬なんかと生きていく。
 そんな自分に声を掛けたのは、この国を治めている女の巫女に使える、一人の侍女だった。元々自身と同じ孤児だったのを、拾われたという。
 自分よりも幾つか年上であり、優しく甘い薫りを漂わせ、自身の少ないにぎりめしを全部分けてくれた。最初は拒んでいたけれど、彼女に懐かしさを覚え、気が付けば隣に座っていた。
『寂しかったのですね、偉いです。』
 にこにこ笑う彼女は、しらみだらけの自分の頭を、やはりふんわりと笑って撫でてくれる。
 渡されたおにぎりは、塩のみで、何の具も入っていなかった。けれど、常にキリキリと締め付けるほどにすいている腹には、信じられないほど、今まで感じたことが無いほど、おいしい。
 少女はボロボロと泣く幼い少年を見やりながら、優しく笑って見守っていた。
『そんなに慌てなくても、私はずっと傍に居ますよ』それは、恋というよりも母への懐かしさであったのかもしれない。
 
 彼女の顔はよく覚えている。けれど、自分の顔も、そして名前も、何も思い出せない。
 
 
 やがて少女は姿を見せなくなった。直ぐに、死んだのだと思った。
 巫女に謀反を企てた、巫女の弟が、両目を潰されて河へと投げ込まれたと、聞く。年老いてきた巫女は、力を無くし、今まで神通力があると信じられていたけれど、やがてその事さえ信じられなくなりつつあった。
 その最中である。巫女に仕えていた侍女が一気に姿を消した、らしい。
 元々孤児の集団であったから、誰も気にしなかったけれど、若返りを望む女王が乙女の肝を喰らったのではないか、なんて噂話が流れていた。
 やがて反乱が起こり、祭政一致でなくなって、巫女の代わりに男の君主が就いた。けれども街ではいまだに呪いの類は根強かった。
 そして、鎮守の森に、一匹の鬼が住み着く。
 
 
 
SAMSARA
 
 
 
 ゆったりと目を開けると、体は重い。暗く、寒く、寂しい、ここはまるで井戸の中である。
 ……もう時間がない。吐く息は冷たく、肺から出てきたソレは、口の中で冷え冷えとし、舌の上ばかりが真冬であるかのようだった。イヴァンは、眠たそうに目を閉じると、だるい体を床に横たえる。
 自分が遣わせた2人組は、中々帰ってこない。力が弱いから、それほど気にも止めていなかったけれど、彼等は既に意志を持ち、自己を持ち、学習し、一個体として生き始めている。
 生命は、それだからいけない。神など、所詮はどんなものであるのか理解しているが、一つだけ理解できないものがある。それが進化であった。
 死ぬだけの生命に、どうして『死と生』などと、そんなくだらない事柄についても悩むほどの脳みそなど、備えさせるのか。備え付ければ、死を恐れなければならないからだ。
 そうだ、寂しいなどと思わないほどに、群れを成さない動物の本能だけで生きていけばいいのに。それでも、猿であった自分達は、群れを成さなければ不安でならない。
 一人が辛いなど、あまりにも小さな生命体だ。思わず自身を嘲ると、小さく鼻を鳴らし、そのまま生ぬるい眠りについた。
 
 
「アレは夜行性だし、冬はだるいんだって。」
 不穏な登場を果たしたというのに、目の前の、フェリシアーノと名乗った少年は、モグモグと威勢良く飯を胃の中に詰め込みながらそう言った。それ故、何と言ったのか、正確には分からない。
「……ぷはっ、おいしかった!御飯ありがとう。久しぶりにまともなもの食べたよ。」
 にこにこ笑い嬉しそうに御礼を言うと、本当にご満悦らしく目を細めて、ナプキンで口元を拭う。
 先程、突然自分達の前に現れたフェリシアーノは、うっすらと微笑み、どこか影を落として自分達を見やった。それは背筋に寒さを覚える雰囲気であったというのに、今となればそんな事も何処吹く風、彼は笑っていた。
「それで……お前がなんだって?」
「だから、オレが呪いの一部なんだってば。」
 何て言う不毛な会話なのだろうか。呪いって、そういう、なんか動的なものなのだろうか。
 知らず眉間に深い皺を寄せていると、その事に気が付いたのか、フェリシアーノは首を傾げてアーサーの顔を覗き込む。その仕草は、どこか動物のソレを思い起こす。
「分からないよね。オレだってよくわかんないもん。……でも、真実がそうなんだ。」
 昔から不公平だと思っていた。いや、不公平だと感じるまで、それこそ人間が進化をしてしまう程長い時間をかけてしまったのだが。
 始まりは、一つの塊であったように思う。『アレ』は生命を操る事が出来る。操るとは、意志に反した行動を取らせることでは無く、意志のない生命に命令を与えることが出来る、という意味だ。
 また望めば噴火、地震、そして疫病の発生と、昔はそれこそ大きな力を持っていた。『アレ』は、昔神聖視されていた山の化身であったけれど、この時代となると、力もそれほど持っていない。
 けれど、女性を一人輪廻の渦に巻き込むぐらいならば、十分だ。
「取り敢えず、菊は?」
 フェリシアーノの強い要望により、ファミリーレストランに入ってきたものの、彼があれやこれやと注文しただけで、話あ何の進展もみせてはいない。
 スプーンをくわえていたフェリシアーノは、上目勝ちにアーサーを見やる。どこか品定めでもしているかの様子に、アーサーは微かに眉間に皺を寄せた。
「……君は、毎回追いかけた訳でも無い。思い出さない場合だってあったよ。菊はそれを望んでいたりしたけどね。
 今思い出したからそうなっただけで、今の人生はこれまでの延長線じゃないし、もっと自分の人生過ごしたら?だって君には義務なんて無いんだから。」
 その声色には、特に悪意は無いし、それが真実であっただろうことが分かる。だからこそ、アーサーは微かに下唇を噛みしめると、眉間に皺を寄せ、そのまま下へ視線を送った。
「今は引きずられている状態だよ。追いかける必要は無い。……問題は。」
 口を噤むアーサーに代わり、フェリシアーノはアーサーの右隣に座っているアルセーヌへと視線を送った。灰色の優しそうな瞳が、少しばかりきつく光る。
「辛い死の記憶ばかりに捕らわれているのは、苦しいのかな。俺にはよく分からないけど、抜け出したい?」
「……ああ。出来ることなら。」
 終わりの日を覚えているどころか、その悪夢は何度も何度もアルセーヌの穏やかな夜を襲う。全身焼け付くような痛みを覚え、筋肉はひきつき、白い肌は赤く腫れ上がる。
 それはまさしく阿鼻叫喚の図であった。アルセーヌが乗ってきた船は砲弾を放ち、巨大な屋敷を崩し、そして病で苦しむ人々を追い詰めかの土地を牛耳る事に成功した。
 が、森の伐採に着手した瞬間から、彼等の仲間に疫病が発生した。それは現地の病とは明らかに違い、長いときは二十日間、嘔吐と熱、下痢、そして全身の強烈な痛みに悩まされ死んでいく。
 死んだときはホッとした程であったのだが、次も、その次も謎の病は突然訪れ、自殺する暇さえ与えずに藻掻き苦しみ、やがて息絶える。それが、何度も輪を描き自分の元に訪れる。
 生まれた瞬間、空気を肺に吸い込んだ時から、光を見て瞬くと共に、その事実を押しつけられる。その苦しみは、時には自分を追い込むけれど、もしかして今回は……という淡い希望に縋ってしまうのだ。
「なら、協力してね。」
 フェリシアーノはニッコリと笑うと、自身の鞄をたぐり寄せる。
「今日はもう、起きるころだから。今度また。」
 口元を拭くと、そのナプキンを机の上に置き、フェリシアーノは立ち上がる。が、それよりも早くにアーサーは腕を伸ばしてフェリシアーノの服の裾を掴んだ。
「俺も連れて行け。」
 考える前に出てきた言葉に自身で驚き、フェリシアーノもアーサーも互いに目を大きくさせた。けれどそれも数秒で、アーサーは大きくさせていた眼を窄め、真剣な顔を浮かべる。
 残してきたピーターが気になるけれど、病院にいるならば大丈夫だろう。それに、ピーターの両親にも一応連絡をいれておいたから、今頃見舞っているかも知れない。
「……分かってる?」
 灰色の綺麗な瞳が鋭く光、フェリシアーノは何の表情も滲まない顔をアーサーに向けていた。
「……ああ。」
 それでも尚食い付いて離れないアーサーに、やっとフェリシアーノは表情を緩める。それからニコッと笑って小さく首を傾げた。
 
 
 足下を走っていくネズミに、アルセーヌは思わず小さく声を上げて体を震わせる。昔は何でもなかったのだが、繰り返す度やはり変わっていくのか、今はあまり好ましくはない。
 どこか遠くで水が流れる音がし、また、どこからともなくカビ臭い風が舞い込んできているのも感じる事が出来る。しかしココは真っ暗で、すっかり水も乾いて足音は遠くまで響く。
「あーあ、俺、こういうとこダメなんだよね。」
「じゃあ何でついてきたんだよ、お前は。」
 眉間に深い皺を寄せて、金糸の髪を掻き上げるアルセーヌを睨むと、アルセーヌは大きく肩を竦め、アーサーから顔を背ける。
「どうせ死ぬんだし。」
 口笛を吹く様にそう言うと、足先でこちらに駆け寄ってきたネズミを追っ払う。
「……ここに居れば、アレには分からないのか?」
「まさか。」
 そう言ったきり、フェリシアーノは黙り込む。2人が何かを聞こうと口を開くが、それを押さえるように、その大きな目を軽く窄めてみせるだけだ。
 やがて拓けた空間に出るが、辺りは真っ暗で、フェリシアーノが持っている灯りがなければ何も見えそうに無い。思わず天井を仰ぐけれど、そこには闇しか無く、響いていた足音は更に間延びし始める。
「ルーイ!」
 先程まで黙り込んでいた彼が声を上げると、その声が何重までも響き、暫くしてその呼びかけに応える声が帰ってくる。都市の地下にこんなものがあったなんて、当然ながら微塵も知らなかった。
「ここだ。菊も無事だ。」
 『菊』という名前に、アーサーは思わず顔を持ち上げて暗闇の中に目線を送る。やがてその辺りでオレンジ色の灯りが見え、そこに長身の男が立っているのが分かった。
「良かった!ここに居れば暫くは大丈夫だよ。まだアイツは君の事を殺すつもりは無いだろうしね。」
 ニコニコしながら駆け寄るフェリシアーノにつられて歩く速度を上げると、暗闇の中から彼女の顔が照らし出されるのが見える。ああ、その黒曜石の様な瞳が早くコチラに向かないだろうか、と焦れる間もなく、菊はアーサーを捉えた。
 そして傍目からでも分かるほど動揺し、困ったように、そして責めるようにフェリシアーノを見上げた。と、フェリシアーノは先程の笑顔を消さずに肩を竦めてみせる。
「彼が来たいって言ったんだよ。」
 フェリシアーノの言葉につられるように、アーサーが一度頷くと、菊は微かに眉間に皺を寄せてから、視線を下にずらす。電話が通じなかったから心配をしていたのだが、ここまでゴタゴタに引き込むつもりは無かった。
「菊、良かった。電話が通じなかったから、心配してたんだ。」
 頬を緩めたアーサーに対し、菊は眉をハの字にしてアーサーを下から見上げて、そのオニキスの瞳でジッと見つめてからゆったりとした足取りで近寄った。
「こんな所に居ては危険です。やはり一緒に逃げるなど無理なのです。私は大丈夫。大丈夫ですから……」
 フルフルと首を振る菊に対し、アーサーは眉間に皺を寄せる。
「俺が来たかったから来たんだ。意見されるつもりは無い。」
「でも……」
 口ごもる菊と、険しい表情を浮かべるアーサーを割って入ったのは、フェリシアーノの手を打つ音であった。驚いてそちらを見やると、にっこりと微笑んだ彼が立っている。
「はいはい、話し合いは後にしてね。俺の話、聞いてくれる?」
 にっこりと笑ったフェリシアーノに有無を言わさない何かが見えて、不服そうながら菊は口を閉じた。その様子にフェリシアーノは満足そうに頷く。
「あまり長く一つの場所には居られないから、ここで一休みしたらまた外に出なきゃね。」
 閉鎖された空間で、コンクリートの中で何度も声が反響する。申し訳なさそうな顔をして、そっと見上げる菊にもう一度フェリシアーノは笑顔を送ってみせた。
 何か言おうとする黒い瞳がフェリシアーノを見やるけれど、それよりも良い香りが三人の異邦人の鼻に掠れる。そこでようやく自身がお腹を空かせているのに気が付き、可愛らしく鳴いた己の腹に、菊は手を当てた。
「えへへ、御飯おいしいよね。俺一杯勉強したから、きっと菊もおいしいって言ってくれると思うんだ。」
 そう笑うフェリシアーノの後ろで、お椀を持ったルートヴィッヒがそっとその手を持ち上げてみせた。素直に受け取りリゾットを口に運ぶと、確かにおいしい。
  「……後一人、迎えに行かなきゃね」
 意味深く笑うフェリシアーノは、そう言うとアーサーへと視線をやる。と、つられるようにアーサーはひとつ頷いた。