『あれは、客人(まろうど)様では無かったのか。』
突如現れた鬼に対し、人々はそう噂した。鬼は畑を荒らし、その畑を耕すための牛も殺され、ついには幼い子供までもが行方不明になる、という事件が相次いだ。
元々、その山に鬼がやってくるのは六十三年に一度であった筈なのにも関わらず、その歳が来るよりも早く、赤く巨大な鬼はその山に栖を置いた。
それ故、人々は狼狽し、そしてそれ以上の犠牲者を出さない為に、村から小さな少年を一人選び、鬼に献上した。それは、巨大な、まるで魔物が大きな口を広げたような、そんな洞窟の中であった。
SAMSARA
2〜3時間寝入ってから、揺り動かされてアーサーは目を覚ました。最近あまり寝付けなかった所為か、菊と少し会話しようとしたのだけれど、すっかり眠ってしまったらしい。
「起きろ、場所を変える。」
金髪をオールバックにした、体格の良い男……確か名前はルートヴィッヒ……が、アーサーの顔を無表情で見下ろしている。思わずギョッとしてから、アーサーは生返事を返して起き上がった。
用意されていたテントが二個あり、菊はフェリシアーノに手を引かれて彼等のテントへ招かれる。呪いにまさか性欲など無いだろうけれど、それでもギリギリするアーサーに、アルセーヌは溜息を吐き出す。
「……いつまでこれを繰り返すつもりだ」
寝ぼけ眼の菊をみやりながらアーサーが尋ねると、フェリシアーノはいつものような笑みを浮かべて応える。
「さぁ?兎に角今アレが弱ってるから、しっぽを掴むまでかな」
入り込んだ迷路のような道を歩き続け、彼等の後を追いかけていくと、やがて天井を外して外に出た。マンホールの穴はいつの間にか入り組んだ都会に繋がっていたらしい。
裏道で誰にも見られていないけれど、遠くから喧噪と目映い光がチラチラ目を刺激してくる。
「やっぱり街中の方が紛れて良いのかな」
「いや、空がひらけすぎている」
目が痛くなるようなネオンを見上げ、フェリシアーノとルートヴィッヒは微かに目を細めた。ここには自身達の主の根源である『生』が限りなく少ない。ここは立っているだけでどことなく、息苦しい。
草木も眠る深夜だというのに、いつまでたっても空はほの明るい。
「ここでしょ」
フェリシアーノの声に、それまで足下ばかり見やっていた三人は同時に顔を持ち上げる。と、昼間とはまったく違う顔を持った、ピーターが入っている総合病院が立ちはだかっていた。
「ここからは俺とフェリシアーノで行く。二人は菊を頼む」
ルートヴィッヒの言葉に、フェリシアーノはようやく菊から手を離し額に唇を寄せる。
「それじゃあ気を付けてね」
にっこりと笑ったフェリシアーノと、全く表情を変えないルートヴィッヒ二人は歩き出す。数歩歩き出してすぐに、二人の姿がすぐに闇の中に紛れてうまく見えなくなってしまう。
大きな欠伸をすると、イヴァンはググッと大きく背筋を伸ばした。眠たそうな目を擦りながら、寒さに身を揺すって溜息を吐き出す。よりしろが蛇であるのは、冬であると不便でならない。
「あーあ、あの二人は駄目だったなぁ。……折角僕が作ってあげたのに」
眉間に深い皺を寄せた彼は、手元に落ちていたランプに手を伸ばした。カチリと音を立てて灯りが灯ると、イヴァンはかすかに顔を顰める。
「ねぇ、君はそういうこと、ないでしょ?僕を裏切ったりしないよねぇ」
優しげに見える目を細めると、イヴァンは深い闇の中に目線を送る。深い闇の中に、微かにキラキラと何かが光輝いていた。
それは雪のような白銀と、そこから覗く真っ赤な瞳だ。彼は不機嫌そうな表情で仁王立ちをし、床に座り込んだままのイヴァンを無言のままで見やっていた。
「行っておいでよ」
その一言が掛けられても、彼は何も返すことなくただゆったりと鋭い瞳を瞼で覆う。
フェリシアーノとルートヴィッヒが何処かへ消えて直ぐに、足下で何かがチイチイと鳴いている声を聞き、アルセーヌは思わず顔をしかめる。いち早く気が付いた彼が、隣で立っているアーサーの裾を引いた。
「ネズミが居るぞ」
都市部にも鼠は頻繁に見受けられる物だが、アーサーは直ぐに菊の腕を引っ張った。それまで病院を見上げていた菊は、微かに驚きの声を上げるが、振り解こうとはしない。
「近くに川あるか?」
「どぶ川だけどね」
いかにも嫌そうな表情を浮かべ、アルセーヌが先導を切って走り出す。その後を菊をひっぱっているアーサーが走る。小さな足音がその三人の後をつけ、一斉に駆け出した。
後ろを振り返る程の余裕もなく、三人はやがて都心に飛び出す。酔っぱらったサラリーマンや若い人々の合間を縫い、走り続ける。後ろにどれほどの大群がいるかは知らないが、皆が驚きの声を上げているから相当数いるのだろう。
前で走りながら息を切らすアルセーヌが、力ない声色で「あーもう、本当に嫌だよ」と泣き言を呟く。
鼻先に微かなどぶ臭さが擦り、そろそろばて始めていたアルセーヌを追い抜き、躊躇無く欄干に飛び乗った。手を伸ばし菊を引き上げたところで、要約アルセーヌも追いつく。
水の匂いが分かるのか、それとも彼等の主がそうしているのか、鼠の大群は橋に乗ろうとはしない。小さな個体が集まり、一種黒い塊を作り上げ、コンクリートが息づいて蠢いているかのように見えた。
遠巻きに見ている人々には見向きもせず数百個にも及ぶだろう小さな瞳は、一心に三人を見つめている。暗がりの中、その目ばかりがネオンを反射し赤く輝いていた。
「お兄さん、その川に落ちるぐらいなら死んだ方がましだなぁ」
廃棄物が沈殿し、腐臭が立ち込める都会の真ん中を流れるどぶ川。その代わり水を恐れる鼠たちにとってはそこまで侵入することもできないし、川の中はそれほど身を脅かす生物も存在していない。
「じゃあお前は鼠に噛まれて変な病気でもうつされるんだな」
アーサーの言葉に、顔を持ち上げたアルセーヌは微かに顔色を変えた。取り囲む鼠が蠢き、その体勢を揺らがしている。飛びかかってくるとすれば、もう直ぐであろう。
「菊、水飲まないようにしとけよ」
気遣う声色に、菊は無言で一つ頷くと、意を決して強く唇を噛みしめる。アルセーヌが欄干を飛び越え、アーサーと菊が川に飛び込むのと、鼠が群れを成してなだれ込んでくるのはほぼ同時であった。
落ちていく中、人々が声高に何かを叫んでいるのが聞こえてくるが、瞬時に水を背に受けた衝撃が走る。凍り付いてしまいそうな水の中、唯一暖かな存在であった抱き寄せた菊が、そのまま抱き返してくるのを感じた。
水から顔を出し、第一に菊を確認すると、少々辛そうに咽せているだけで特に問題は無さそうだ。ホッと笑って上を見上げた時、それまで無数の輝きでこちらを見ていた真っ赤な瞳が、大きくなりそして一対だけでアーサーを欄干から見下ろしていた。
ネオンが彼の髪を照らし出し、幾重もの光を持って輝いているようにみえた。半身切れるような冷たい水に浸かって、アーサーは半ば呆けるように彼を黙って見上げ続けた。
ネオンの逆光となり、その顔は正しく見ることは出来ないけれど、口角を上げるだけで笑っているのは、なぜだかわかる。
「人間てぇのは、不便だ。もしも俺様が何かに生まれ変わったとしても、お前等みたいのにはなりたくねぇわ」
クツクツと喉を鳴らして笑う彼の目線が、アーサーと菊、そしてアルセーヌを巡ってから、歯を見せて笑う。
「よぅ、随分寒そうな所に居るんだな」
言い終わるか終わらないかの合間に、彼の背後でシャッター音と共に目映いフラッシュが焚かれた。億劫そうに振り返れば、携帯のカメラにぶつかり、微かに彼は顔を顰める。
瞬時、爆発音を発して携帯の画面が一斉に破裂した。悲鳴が辺りに飛び交う中、欄干に立っている男は何の感慨も無くその光景を眺めている。
「ぎゃあぎゃあうっせぇな、人間は……おい菊、一緒に来い。負ける戦したって、仕方ねぇだろ?」
振り向きニンマリと笑った、彼の口元に光る歯ばかりが良く見えた。
それは噎せ返るような夏だった。今から考えると目まぐるしいほどの時代を超えていて、記憶を抱いたまま生まれ始めたときからは、ほんの数回目の事。
疫病が流行り、道の端には死体が転がされているような、そんな夏。菊は数え歌を歌いながら、誰も居ない寺社で鞠をついている菊のもとに、突如として現れた。銀糸の髪に真っ赤な目は、菊に絵物語の「鬼」を思い起こさせた。
「……鬼、さん?」
目を真ん丸にして尋ねると、愉快そうに鬼が笑う。絵物語で描かれる鬼は、何とも恐ろしい形相をしていたけれど、本物は何とも美しいのだろうか。
「よぉ、俺の主さんがお前のこと見に行けっていうんだ。悪い虫がつかねぇように、ってさ」
嬉しそうに笑う彼を見上げながら、菊は鞠を拾い上げる。言っている内容はよく分からないが、それほど恐ろしい人物ではないように思えた。
「見守る、てぇのは面倒くせぇよな。いいか、俺のことは誰にも言うんじゃねぇぞ。言ったらお前の口を裂いてやるからな」
屈んだ彼の親指が唇に押し当てられ、菊は目を真ん丸にさせたまま彼を見上げ、固まっていた。彼に「名前をくれ」と言われたのは、この国が再び外国と交易を持つ頃になってからである。
既に彼が誰に使われて菊の所にやってきているのか、もうとっくに気が付いていた。けれども、毎度幼い頃に出逢うものだから、彼が敵方だと分かっていても今更逃げることもない。
何度も巡り会う数名と同様、いつもいつも顔を見やる人々の一人。ぼんやりと、橋の下から彼を見上げながら、菊は彼のことを思い出した。
ルートヴィッヒ、フェリシアーノと同様に、彼の名前は小説の登場人物からとったものだ。なぜ名前が必要なのかと問いかければ、窓の桟に腰掛けた彼は笑う。
『名前を持った者だけが、魂を持てるんだ』と。
「……ギルベルトさん」
冷たい水の中、カチカチと奥歯が鳴る中、菊は彼の名前を思い出して呟いた。
彼がここに来たのならば、もう逃げ切ることは不可能だろう。抱き寄せるアーサーの腕にすがりながら、余裕の笑みを浮かべているギルベルトを見上げ下唇を噛んだ。
まろうど:まれびと、希に来る人から「客人(まろうど)」
民俗学的には、古代祭司の際にやってくる来臨する神とされている。沖縄の祭りなんかで草まみれで来るアレです。
琉球にはニライカナイという他界観念が存在し、そこに死んだら行くそうです。そんでそこから年始めに帰ってくるとか。
しかし目を合わせちゃだめだ、とか、なんだか怖い縛りがよくあるのがまろうど様なのです。
まろうど様、大好き。