Samsara







 S a m s a r a    2


 生徒会の仕事に行く前、昼休みに途中で図書館に寄ると、いつもそこに座っている彼女を横目で見やる。彼女、菊は椅子に座り厚い本を捲り、髪を耳にかけていた。
 こうして毎日声さえ掛けられず、図書館を横断する時だけ盗み見してしまう。アルセーヌには「ストーカーっぽいぞ」と嫌味に笑われたけれど、付きまとっているわけではないのだから、許される範囲だろうと、自身に言い聞かせている。
 時折こちらに顔を向けてくれる事もあるし、そんな時は挨拶だってしてくれる。そんなことにしか今は接点が無いけれど、そこからチャンスが生まれる可能性だって、きっとあるだろう。
 なんて思っているけれど、実際は名前さえ呼んだことが無いのが現状だ。幸い彼女の兄がとてつもなくシスコンであるお陰で、彼女にはまるで男の影が無いけれど、それもいつまでそうなのか……。
 不意に、「菊!」と、図書館にしては大きな声が聞こえ、菊とアーサーは驚き同時にそちらの方へと視線をやる。そこには今まで見たことのない、茶色い髪をした幼い顔の男と、金髪をオールバックにしている巨体の男が立っていた。
「フェリシアーノさん。」
 菊は驚き立ち上がると、フェリシアーノと呼ばれた男は、小動物じみた軽い動きで彼女に走り寄り、その小さな体をキュッと抱く。瞬時、菊とアーサーは体を固まらせて目を大きくさせる。
「あああ、あの……」
「ごめんね、嬉しくってつい。」
 菊が固まってしまっていると、フェリシアーノは小さく肩を竦めて菊から体を離し、申し訳なさそうな、嬉しそうな表情を浮かべる。
「ちゃんと制服洗った?汚れついてない?」
 またあの子犬か何かのような表情で、フェリシアーノは小首を傾げてみせる。ホヨン、と、彼独特のアホ毛が揺れるのを見やりながら、思わず菊はその表情を緩めてしまう。
「ええ、直ぐに落ちましたよ。」
 近所の子供でもあやす様に、菊は優しくそう言いながらフェリシアーノにほほえみかけた。
 結局、歩きながらこの見知らぬ闖入者達を観察するのにも限界があり、結局どういった関係なのかさえいまいちアーサーは分かりじまいとなってしまう。斯くして、生徒会の会議なんて、まるで上の空へとなってしまった訳だが。


 つまらない学校がようやく終わったというのに、自宅の扉を開けて直ぐ、アーサーはうなだれながら自室の中の異邦人を見やった。小さな訪問者は、その大きな瞳でアーサーをジッと見上げて、目を離そうとしない。
 彼、ピーターはアーサーの親戚であったものの、年齢差のせいか、今まで会ったことさえ無かった。それが突然、どうしてアーサーの家に来たのかというと、ピーターの家が今色々と揉めていて、都合が良いとアーサーの家に預けられたのだ。
 アーサー自身は納得しきっていなかったのに、今日来るからと勝手に押しつけられて、しかもどうやって入ったのか、もう部屋の隅で大きな飴を頬張っていたのだ。
 でも普通、土日だけだからといっても、一人暮らしの高校生に預かるだろうか……アーサーは舌打ちをしたいのを我慢し、机の上に荷物を放り投げる。
「……今晩何が食いたい?」
 ピーターの両親は、生まれたときから仲があまり良くなく、先日遂に離婚をしたのだが、両親が両方ともピーターを引き取りたがらないそうだ。それが今、揉めている事柄だと言うのだから、情けない。
 どこもかしこもそんな奴等ばかりだと、思わずアーサーは再び舌打ちをしたくて溜まらなくなるのだが、どうにかそれも抑えて、椅子に座ると床に座っているピーターを見やった。
「……ピーター君、ビーフシチューが良いです。」
 もしかして喋れないんじゃないかと思い始めた頃、ようやくピーターは口を開いてそう言った。片肘を付いて小さな子供を観察していたアーサーは、口の端を持ち上げ、笑う。
 一人暮らしだからどうにか料理を作ったり何かしているけれど、レパートリーは吃驚するぐらいに少ない。その中で、奇跡的にピーターのリクエストは自分のレパートリーに含まれているものだったのだから、内心ホッとしたりなんかしていた。
「よし、とっておきのを作ってやるからな。」
 カタリ、と音をたてて椅子から立ち上がると、買い出しのために鞄から財布だけを抜き取る。それからピーターに一緒に来るように手をこまねけば、ピーターの顔にサッと喜色が走った。



 雨は嫌いだ。曇りがちな空を見上げながら、ヘラクレスは内心舌打ちをし、窓硝子にその指先を押し当てる。キュッ、と窓硝子は小さく泣き声を上げ、微かに振動が指を伝わった。
 もう時間が無いことは分かっているつもりだけれど、それでも焦燥感ばかりが先走り、不安と絶望に思わず呆然としてしまう。躍起になる問題が、彼女の兄とは多いに違ってはいるけれど、最終目的は一緒なのだろう。
 恐らくも何も、彼女の兄はとっくに気が付いているのだろうけれど、アイツは当然の様に何も分かっていない……そして勿論、彼女もだ。
 焦燥感と不安で眩暈さえ覚え、ヘラクレスはきつく己のこめかみを押さえるけれど、強烈な感情は中々収まってはくれない。あれ程に望んでいたこの世界は、今日の天気の様に灰色で、苦悩にただ藻掻くしかない。
 あんなにも切望していた世界は、彼女にとってはただの拷問にしか過ぎないのか……
 足下から猫の鳴き声が聞こえてきて、ふと下に視線をやれば、真っ黒な自分のそっくりな猫がその身をすりよせてくる。もしかしたら、自分を心配しているのかもしれない。
 思わず頬を緩ませ、その猫の体を抱き、艶やかな毛並みに口づけた。大丈夫だよ、と、声に出さずに呟く。


 廃ビルとなった、灰色のコンクリート製の部屋の中、言葉にならない悲痛な泣き声がこだまする。買い出しに行っていたルートヴィッヒは、扉口に突っ立ったまま、床の上に座り顔を伏して泣いている主を見やった。
「……大丈夫か?」
 一瞬泣き声が途切れたのを見計らい、すかさずそう声を掛ければ、涙やら何やらで顔をグシャグシャにしたフェリシアーノが顔を持ち上げ、ルートヴィッヒを見やる。その顔があまりにも幼いから、思わず不安が走る。
 フェリシアーノはルートヴィッヒを見つけると、頬をグシグシと服の裾で乱暴に拭い、窓の外の灰色の雲を、それまでしていた表情とは違う鋭い眼差しで睨む。
「大丈夫だよ、いつもの事だもの。」
 涙で微かに涸れた声色の癖に、呟く言葉は異様に鋭く冷たい。ルートヴィッヒは、気取られないように微かに顔を顰め、下唇を噛みしめた。不意に脳裏に浮かんだのは、真っ白な肌をした彼女の死体だ。
「……接触しない方がいいんじゃないか?」
 それはずっと昔から感じていた事だったけれど、この時に初めて口に出した。
 もしも彼女の事が嫌いになれるのであれば、それが何よりじゃないか。だったら初めから出会わなければ良い。そうしたら、もしかしたら他人だと思えるのかも知れない。
 そう思ってから、自分は永遠にそんな事可能じゃ無いと、直ぐに思い知らされる。いつからこんな風になってしまったのか、もう分からないけれど、自分達はあまりにも難解な迷路に潜り込んでしまっている。しかも、一生出られない迷路だ。
「だめだよ、ルーイ。そんなの、無駄だよ。」
 異状といえるほど穏やかに彼が笑った時、パタパタと音をたてて雨が降り出し、アスファルトからは雨の匂いが辺りに満ち溢れた。



 王耀は、小さな卓上カレンダーを見やりながら、目線だけで残りの日数を数える。今回も次第にその日は近付いてくるし、無理に押し止めようとは思いもしない。
 微かに目を細めた瞬間、玄関先で妹の声が聞こえ、やっとカレンダーから目を離し、明るい声を上げて駆け出した。