Samsara




 S a m s a r a    3


 まだ朝早く、アーサーは苛々としながら学校へと向かう支度に、懸命に取りかかっている。こんなにも苛々しているのには、勿論立派な理由が一つ、あった。
 それは、今アーサーの小さな同居人となりつつある男の子の事なのだが、土日だけ預かるという約束だったのにも関わらず、月曜日になっても誰も引き取りに来なかったからだ。
 散々アルセーヌにバカにされた料理さえ、ピーターはおいしいと言って頬張るし(今までの生活から考えて、おそらくインスタントの類か、パンとかしか口にしたことが無いのだろう)、あまりにも寒い一人暮らしに光りが入ってきたようで、そんなに嫌な生活では無かった。
 が、それは休みの日であったからの話で、学校が始まってしまってからは、一体誰がこの子の面倒を見るのだろうか。親戚に電話も通じないし。
「いいか、絶対に火は点けるなよ。冷蔵庫に昨日の残りがあるから、アレをチンしろ。後ベランダには出るな。それから知らない人が来ても、絶対に開けるな!」
 早口にそう捲し立てると、ピーターが返事をするよりも早くに家を飛び出す。飛び出す寸前、出る挨拶をすれば、食卓からパンを口に含んでいるらしい返事が聞こえる。
 思わず笑みを零してから、朝一で生徒会の会議があるのを思い出し、慌てて駆け出した。文化祭がもう直ぐで、学校がこんなにも慌ただしい時期でなければ、いくらでもサボってやるのに。と、また心の中でアーサーは舌打ちをした。



 会議室の机の上、グッタリとダレている生徒会長であるアーサーを見やり、アルセーヌは嬉しそうにその頭に手を置く。
「お前、一児の父になったんだってな。」
 ニヨニヨとしながらそう言ったアルセーヌを、下から思わず睨み付けながらギリギリと歯を食いしばる。
 その表情が、ちょっと前グレていた頃の彼を彷彿させるものだから、思わずアルセーヌは笑顔のままで一歩退き、「冗談だってぇー」と誤魔化しにかかった。直ぐにでも飛びかかってきそうだったアーサーは、チッと今度こそ舌打ちをし、また顔を机に突っ伏させる。
「しかし一人で面倒みるのも大変だろ、誰かに手伝いとか頼んだらどうだ?」
「誰かって、誰に?」
 まさかアルセーヌに頼んだら、(今更言うのもなんだが)確実教育に良くない。セーシェルは……子供が2人に増えてしまったかのような光景が一瞬通り過ぎ、知らず頭痛を覚えた。
「適任が1人、居るじゃねぇかよ」
 チッチッチッ、と芝居じみたアーサーにとってひたすらムカツクだけの、人差し指を立てて左右に揺らすという動作をするアルセーヌを、胡散臭そうにアーサーは見上げる。
 知り合いにそんなに教育に良さそうな人間はいないのだが……と、眉間に皺を寄せていると、アルセーヌは揺らした指先をアーサーにビシッと向けた。
「ずばり、お菊ちゃんだよ。」
「はぁ!?」
 その名前を聞いた瞬間に立ち上がり、今まで座っていた椅子が転がり床で激しい音を立てる。けれど、今のアルセーヌの言葉の衝撃は、そんな椅子の音の衝撃には負けるはずがない。
「適任だと思うけどなぁ、オレは。良いチャンスじゃん。お前好きなんだろ。」
 バレバレだって、無理すんなよ。と、アルセーヌが乾いた笑い声を立てる。あんなにガン見しているなんて、知らないのはお菊ちゃん一人なんじゃないのか?
「なっ……そんな訳あるか、あんな暗い女!」
 バチン、と机を強く叩きながら、顔を真っ赤にさせてアーサーは怒鳴る。そして怒鳴った後、「まぁ利用してやらんことも無いが……」と口の中でもごもご呟いた。
 あーあ、この分だと今回も絶対に上手くなんていかないな。と、思わずアルセーヌは苦笑を漏らしながら、深い溜息を吐き出した。時間はもう、無いに等しいというのに、だ。


 ノックするために持ち上げられていた手は、拳を作ったまま打てずに、止まってしまっている。先程から、申し訳ないと思いながらも、生徒会室の会話が耳に入ってきてしまうのだ。
『あんな暗い女!』と彼が怒鳴るのを聞き、早鐘のように飛び跳ねていた心臓は急激に萎み、痛むほどに嘆き悲しむ。
 もうこの部屋には入れないと、仕方がないから文化祭の為に自分達の教室で今のところ使った会計の束を、扉の前にそっと置く。窓も閉まっているし、飛んでいったりはしないだろう。
 兎に角菊はもう、この場から逃げてしまいたくて仕方がなかった。心臓が痛み、微かに全身が震えていて、今にも泣き出してしまいそうで怖い。
 何をそんなに期待していたのかと、菊は生徒会室に背を向けると長い廊下を駆け出す。



 文化祭一日前へと差し迫ったとき、誰も居ない暗くなってしまっている教室に一つの人影を見つけ、アーサーは思わず足を止めてその人影に視線をやる。それが本田菊だと直ぐに気が付いたのは、その長髪の所為か……
「なんだ、まだ帰ってなかったのか、本田。」
 文化祭の準備が施された室内に、月の光ばかりを浴びて、彼女は薄ぼんやりと光り、立っていた。いつも以上に無表情で、一体何を考えているのか分からない。
「暗くなってるから、早く帰れよ。」
 そう言いながらも、次の言葉を探すけれども、それ以上言葉が続かずに、アーサーは気まずさを覚えてクルリと菊に背を向けた。兎に角、この間のアルセーヌとの会話が聞かれていたのなら、どうにかして弁解がしたかったのに。
 その時、ポスリと背中に何かが当たったかと思うと、スルリと腹部に何かが巻き付く心地を覚え、アーサーは動きを止める。数秒の間が空き、床で影が一つになっているのを見つけ、そこでやっと、菊が抱きついているのだと気が付いた。
「ほ……本田?」
 知らず自身の声色が上ずり、動揺しているのだとようやく自覚する。
「いつまでも追い掛けると約束しましたが、私が邪魔ならば仰って下さい。」
 震えた彼女の哀しい声が、静まり返った教室に、まるで音楽の様に響く。
 その声をどこかで聞いたことがあると、アーサーは頭の片隅で思うが、それがいつ聴いたのか思い出せずに、ただ立ちすくむ。
「もしそうならば、どうして耐えられるでしょう。のこのことあなたの前に現れて、なんになりましょう。」
 相変わらず震えた彼女の声を聞きながら、自分と彼女はこんな関係だったかと、懸命に考える。どう考えても、今こうして抱きつかれる様な関係ではないのに、なぜか否定しきれない自分がいた。
 懐古感に似た哀傷が胸を満ち、微かに体が震える。
「今のあなたを戸惑わせる私を、どうぞ許して下さい。でも、もう後生だから、最後になるから、言わせて下さいね。」
 そう言って、彼女の体が俄かに離れた。振り返り菊の顔を見やると、あの時同様つきの光に照らされ、酷く悲しそうにふんわりと微笑んでいる。
 いやだという言葉さえ出ずに、窓が全て閉められて入る筈の無い風に、アーサーは頬を撫でられた心地を覚えた。ああ、帰ってきたのだ、やり直せるのだと、歓喜が湧く反面、あれは夢じゃなかったのかと混乱する自分がいる。
 恐怖やら喜びやらに捉われて、一体どうしたら良いのか分からない。
「……さようなら」
 瞬時、彼女の顔が誰かと重なり、体の奥が俄かに震えたった。本当は会った時から気が付いていた様にも思えるが、なぜかずっと拒絶しているいた自分が居る。
 思考はほんの一瞬だけれども、アーサーが我に返るよりも早くに菊は駆け出す。
 だめだ菊、その先には底さえ見えない崖しか無いのに!
 自分では無い自分が叫び声を上げる。腕をのばす。
 けれども、もう、間に合わない。
「待て、本田!待ってくれ……待ってくれ、菊!」
 叫んだのは彼か、自分か。ただあの時と同様、闇のなかに姿を隠すように走る彼女を追い掛け走りだしても、彼女に追い付く事は叶わない。
 そんなこと、気が遠くなる程昔から知っていた。それも繰り返し、繰り返し繰り返し知っていた。知っていたのに……
 
 






「……また、失敗したあるか。」
 ネオンに包まれる街を、一つの古いビルの屋上から下を見やり、ポツリと王耀は呟くが、その声は街の雑踏の騒めきに殆どかき消される。
 けれども、いつの間にか王耀の隣にしゃがみこんでいた男の、楽しそうな声が直ぐに王耀の独り言に応えた。
「違うよ、成功さ。」
 にっこりと微笑んだ彼、イワンを、驚く様子を見せずに王耀は見やる。無表情なその顔を、若干しかめるがそれ以上の反応はみせない。
「成功、あるか。お前は一体いつまでこんな事を続けていくつもりか?」
 喋りながらも王耀の視線はひたすら歓楽街に注がれ、一人の姿をひたすら捜し求めている。それは遠い昔から変わらないし、これから変える予定もさらさら無い。
「本当の始まりは存在する?終わりと始まりが同義語であるのと同じで、そんな観念、結局つまらない思い込みに過ぎない。そうじゃない?」
 ゆっくりと、イワンは実にゆっくりと立ち上がる。王耀よりも高い身長がやがて顕になり、王耀の姿に影を落とす。
「僕は何も望まない。僕は何も変わらない。」
 微かな悲哀さえ籠もった声色でイワンはそう言うと、やおら彼の姿は闇に溶け、一人王耀はポツリと屋上に立つ。
 そして不意にしかめていたその表情を緩和させ、嬉しそうに自室に向かい歩きだした。

「菊、遅かったあるな。飯はもう出来てるあるよ。」
 妹を向かい入れて第一声、酷く楽しそうに王耀は彼女に笑い掛ける。けれど菊は何も応えずに、ただ泣き出しそうな瞳を王耀に向け、肩を微かに震わせるだけだ。
「……菊?」
 不安に思い問い掛けると、やおら菊の瞳からポロリと涙の粒が零れ落ちた。
「……兄さん、もう私の事を追い掛けないで下さい。私の業です。」
 菊のセリフを受け取り数秒、イワンを相手にしていても変わらなかった王耀の表情が、みるみると険しく変わっていく。けれども彼は激情するでなく、あくまで穏やかな、そして少し寂しげな口調で彼女を促した。
「いつ思い出してたか?」
「……高校に入学してすぐに。」
 王耀は険しくした表情を一瞬で緩和させると、シャクリを上げる菊の肩に手を置き引き寄せた。
 よろける彼女の覚束ない足下は、懐かしくて愛らしい、どこまでもどこまでも変わらない、永劫の一端であると、ぼんやり思う。
「まだ時間はある。取り敢えず今日の晩飯をくっちまえ。」
 笑ってはぐらかすのは一体何度目か……けれども彼はこの生き方を酷く気に入っていた。溺愛していたといっても良いほどに、これこそが望みだったようにさえ思える。
 ここにはまるで始まりが無く、そして終わりも無いからだ。
「我は追いかける。お前はお前の好きにするよろし。」
 菊を食卓につかせると、スープを椀に注ぎながら、誰に向けたとも無しに、王耀は呟いた。 
 
 


 ここはどこだ。ここは、地獄だ。