Samsara




 S a m s a r a    4




 不意に体を揺すられて、アーサーは船上で目を醒ます。グラグラと波間に揺られる船の上が、不思議な夢を見させていたのかと思うけれど、もう既に夢の内容さえ忘れてしまった。ただ、酷く不思議な内容だったように、思う……
「よう、船長がいつまで寝ているつもりだよ。」
 アーサーの体を揺すっていた主(足で)は、ニヤリと笑ってから、嫌味っぽく肩を竦めてみせる。
 アーサーはアルセーヌの顔を見やりながら体を起き上がらせると、ボリボリと頭を掻きながら丸い窓から外を眺めた。自国から遠く離れた、東の海の端っこに、自分達が探し求めた島が存在している。
 東方の香辛料と共に、各国の侵略という事業に取り組むには一番良い位置にあるその国との話し合いに向かう、という一大行事の代表者として選ばれたのが、アーサーとアルセーヌであった。
 もしも先方が納得しなければ、その時はどんな手を使っても良いと言い渡されていた。まだあまりその国についての知識は届いていなかったのだが、そんな辺境の土地で生きている人間の知能・文化レベルはたかが知れているだろう。
 アルセーヌはどうだかしらないが、アーサーは武力行使をする気でいた。今まで自分達の国はそうやって生き延びて来たのだ、今更偽善ぶるつもりさえ無い。




 通された屋敷は、嵐が良く来るらしいこの国独特の平屋で、大きな土地に延々と家が建っている。庭には手入れが隅々まで施され、苔や池、そして年齢を重ねた巨木を多用し、自国には見受けられない自然な美しさが溢れ出していた。
 隣を歩いていたアルセーヌがうっとりとした溜息を吐き出すのが聞こえ、アーサーは若干顔を顰めた。これほどにまで発達している国だとは思っていなかったので、交渉が上手くいくのか、正直不安に成らざるを得ない。
 やがて大広間と言って良いほどに大きな部屋に通され、その部屋の床には編み込んだ草の絨毯が一面張り巡らされている。部屋から庭が見える仕組みになっていて、ザワザワと草の匂いを含んだ風が自身の頬を撫でていく。
 目の前には簾が置かれ、その右前に一人の男が油断出来ない笑顔を浮かべ、座っていた。彼が着ている服は、この国の住民とは少々違うが、金と銀をふんだんに使ったその着物は、エキゾチックで美しく、身分が高い者だと示唆している。
「あなたがこの国の統治者か?」
 座るように促され、ようやく腰を落ち着かせると、開口一番にそう訪ねる。と、その男は扇子で顔を半分隠し、出ていた目を楽しそうに細めてみせた。
「我は隣国の太子ある。この国は女系国家で、巫女が代々跡を継ぐあるから、男にはその顔も声も見聞きさせる訳にはいかねぇ。だから我が間接者として入ってやる。」
 隣国の太子といえば、王耀か。瞬時、2人の眉間に微かな皺が寄る。貿易、軍事力と、今急成長をしている巨大国家の太子が、まさかこうして頻繁に訪れるほどにその統治下とされていたのか。
 流石に王耀の国と戦う訳にはいけないだろうから、いっそ彼と話し合った方が良いだろう。が、取り分はそれだけ減ってしまうだろうし、どうにか交渉する手さえ今から考え直さなければならない。
「取り敢えず長旅だっただろうから、今日はゆっくり休むよろし。大和もお前らを歓迎するって言ってるある。」
 ニィッと笑った王耀が簾の奥にそう言うと、簾の奥で微かな布擦れの音が聞こえてくる。本当にそこに人が居るのだと、その音でようやっと解った。



 夜中通された部屋に下女らしき女がやって来て、アーサーとアントーニョを広い部屋へと案内された。既に人が何人か居るらしいのだが、辺りは真っ暗で、手を引かれない限り座ることさえ出来なかっただろう。
 静まりかえった一体に、人間の息づかいと虫の音ばかりが聞こえてくる。新月なのか灯りは一切なく、暫くその場に座り、アーサーはこの異世界に戸惑いを覚えていたその瞬間、低い音をたてて四方に明かり取りの為の炎が上がった。
 庭の四方に置かれていた松明の灯りは、炎が爆ぜる音と共に光りが激しく目に差し込み、思わず顔を顰めた。と、庭の真ん中に設置されていた巨石の上に、一人の人間の姿が見え、思わずギョッとする。
 それは着物という物にしては少々異様であり、裾が長く、そして全体的に白があしらわれていた。ネックレス、ブレスレットは金で出来ているらしく、松明に照らされてキラキラと輝いている。
 そして一番異様だったのが、その顔を覆っている仮面であり、異様に頬が上がり細い目をした、不気味といって良いほどに笑っている真っ白な顔である。長い髪は耳の上で輪を作り結ばれ、そしてその体は微動だにしない。
 不意に、暗闇の中から数人の人間が灯りの中に入ってきて、その手には楽器らしい物が握られている。何の合図も無しに、笛と太鼓の音が聞こえ、辺りに反響しながらアーサーの耳に返ってきた。
 巨石の上で微動だにしていなかったその人影は、音楽と共にゆったりと動き出す。動きは緩やかな出だしで始まり、音楽と共に激しさを増していくが、今まで一度も目にしたことのない美しい動きだった。
「踊りの名前は『ウズメ』。この国最古の踊りある。」
 王耀の解説が直ぐ隣りから聞こえてくるが、今はその踊りを見るのに精一杯で他に視線をずらすことさえ叶わない。
 四方からあてられた炎で、白い衣装はオレンジと黒に色を変え、足下から伸びる影はいくつも重なり、限りなく数を増やしている。狭い足場だというのに、クルクルまわるその姿は巨石から落ちることは無い。
 まだ音楽が途切れていないというのに、踊っていた人物は動きを止め、仮面の下からジッとアーサーとアルセーヌを見やる。一瞬、聞こえている筈の音楽が遠のき、2人だけ浮き出た気さえした。

「 さねさし 相武の小野に
  燃ゆる火の 火中に立ちて
  問ひし君はも 」

 微かに聞こえてきたその歌が、踊っていた人物の物だと分かるや否や、瞬時、その巨石の上の人物が女性であると知る。そして同時に、あの簾に隠れた存在を思い出し、微かに身を乗り出した。
 唄が終わった瞬間、辺りに聞こえる程の大きさで、パキンと何かが割れる音が響く。鳴っていた音楽が止むのと同時に、彼女が付けていた仮面が、真ん中から割れてハラリと足下に落ちた。
 その場に居る全員が息を飲んだのだろう、真っ黒な瞳が一線になってアーサーを睨んでいるのだが、その造形は凜として美しい。瞬時に呑み込まれ、言葉は喉元で潰れて出ては来なかった。
「火を消せ!」
 王耀の怒鳴り声が辺りに響いたのとほぼ同時に、辺りは再び暗闇に還る。ザワザワとみんなが口々に、不安そうに何かを言っているのだが、アーサーはあの巨石が置いてあっただろう所から目が離せない。
「部屋に案内するある。」
 が、王耀はまるで何事も無かったかのような様子で立ち上がると、そのまま2人に指示を出す。アーサーは一瞬動作が遅れながらも、アルセーヌの後について、ゆったりと立ち上がる。
 立ち上がると黒い瞳、黒い髪の少女が背後に立っている気がして、思わず後ろを振り返るけれど、そこにはただ闇ばかりが広がっていた。


 アルセーヌはすっかりこの国に魅了されてしまったらしく、部屋についても訳者を呼び出し、行ける範囲内で良いから案内してくれと頼み込んでいた。
 本来ならば、少しでも交渉を有利に導くため、アーサーもこの国について深く知らなければならないのだが、どうにもそんな気分になれずに、一人部屋に残ることにする。近くに娯楽場が無いのか、夜になると尚一層静けさが増し、庭に落ちた闇は濃くなる一方だ。
 行灯と言われる微かな灯りで日記を記していく中、不意に紙で出来た扉の向こうに気配を感じ、ゆったりと顔を持ち上げた。そこに人影を見つけ、思わず体をビクリと震わせ、編み込んだ草の床に手を付く。
「……誰だ?」
 いつでも対応出来る様、机に置いておいた拳銃に手を伸ばしながらそう問うと、影はゆったりと、鈴のような声色で応える。
「兄様があまりにも心配症なので、直々あなたと話をしに来ました。」
 その声が、あの時踊っていた人間のものだと気が付き、アーサーは思わず小さく息を呑み込んだ。もしそうだとしたならば、簾の向こうに座っていた人物と、同じ人間なのかもしれない。
 紙一枚向こうの影が床に座り込むのを見やり、アーサーもその場で座り、彼女の影に面と向かって座り込む。問いたい事は沢山あったのだが、言葉が出てこずに、先に口を開いたのは彼女の方だった。
「勘違いしないでいただきたいのは、兄様の国との貿易には一切の治外法権などありません。我が国は立派な独立した国家です。」
 王耀は西方の者達とは違う、という意味合いを含めて、彼女はキッパリと言い切った。昼間の態度が、彼女の立腹を買ったとは気が付かなかったことにアーサーは微かに眉間に皺を寄せる。
「我々もそんなつもりは無い。」……勿論、嘘であったのだが、アーサーはカッとなってそう返すと、思わず立ち上がった。向こう側で彼女が身構える気配がする。
「どうだか……帰ってお伝え下さい。私達の国は私達のやり方という物があり、接点を持ちたいのなら条件を見直して欲しい、と。」
 ツイ、と彼女が離れていくのを感じ、アーサーは思わず障子に手を掛け、そして開け放った。小気味良い音が鳴り響き、それまで遮断されていた世界が一つになり、そして間近で対面を果たす。
 険しい表情で目を大きくさせている彼女と向かい合い、ああ、やはりあの姿だと、アーサーは胸中で声を上げた。が、実際は何を言って良いのか分からずに、まごついてしまう。
「何か不満がおありですか?」
 一瞬戸惑いを表していたのだが、直ぐに彼女は自己を取り戻し、先程と同じように、冷たい声色でそう投げるように言った。
「名前、を。」
「は?」
 もっとちゃんとした事を言わなければと思ったのだが、それよりも彼女の名前を聞いていなかったことに気が付き、思わずそう口走ってしまう。勿論彼女は訝しそうな顔を、アーサーに向けた。
「……私の正式の名はお伝え出来ませんが、皆には橘と呼ばれております。お好きなように。」
 そう言うなり、彼女は身をひき、そのまま暗い廊下へと抜け出てしまう。歩く音さえ聞こえてこないのは、そういう風に育てられたせいか、それともそれほど軽いからか。

 色々と考え事をしていた所為で、昨晩は殆ど眠らずに朝を迎える。大和の朝は涼しく、そして家の周りに緑が多く、またその薫りが侵入されやすく建物が造られているせいか、目覚めは悪いはずなのに心地良い。
 アーサーが起きる頃には既にアルセーヌは部屋におらず、朝食を終えると颯爽街の見学に繰り出したらしい。確かに、この国の街は非常に不思議で、アルセーヌを魅了させるには十分であった。
 住宅には至る所に木々が生え、それまで街ばかりだと思っていた場所なのにもかかわらず、一歩道を曲がれば畑が見えてくる。この国の人々は自然を崇拝しているのだろうと、たった一日で直ぐに理解出来た。
 けれども寝不足の所為か、アーサーはそこまで遠出する気にもなれずに、食事を終えると直ぐに屋敷の外に足を伸ばす。彼等は随分と放任主義なのか、それとも楽観主義者の集まりなのか、異邦人の二人組を、屋敷の奥の間以外ならば内外問わずどこへ行っても良いと言った。
 ふらふらと屋敷を出ると、そのまま好奇の目から逃れるように人気の無い場所を選んで歩を進めていく。みんな非常にこちらに興味を抱いて話しかけてくるが、午後になり空が曇って寒くなりだすと、みなやがて道の人影はまばらになっていった。
 そろそろ屋敷に戻らないと一雨来るだろうと思いながら空を見上げた時、林の奥から、チリンと小さな鈴の音が聞こえ、アーサーはそちらへ視線をずらす。
 乱雑に生えた草の中に、苔やら土やらで汚れた石段を見つけ、その通路が繋がる所を探すように上を見ると、赤い不思議な門が建っているのを見つけ、微かにその目を細めた。それは今まで観たことのない形容をしていて、石で組み立てられたような門である。
 鶴が巻いたその門に微かな興味を抱き、アーサーは屋敷に向かわせていたその足取りを石段へと向かわせる。その合間も軽やかな鈴の音が聞こえ、猫らしき声も聞こえてくる。この国にも猫は居るのかと、思わずアーサーはそう感心してしまう。


「そこはきっとジンジャだな。オレも今日連れて行ってもらったぞ。」
 目の前で食事を口にするアルセーヌは、すっかり得意そうにそう笑いながらライスを口にした。中々交渉する機会が無い為に出来た暇を、彼はかえって楽しんでいるのがよく分かる。
「そのジンジャって、何が在るんだ?誰か住んでるのか?」
 昼間観た光景を思い起こしながら問いかけると、アルセーヌは大袈裟に肩をすくめてみせる。
「オレ達で言うところの教会だな。あそこには神様が住んでるんだってさ。」
「そうか、神か……」
 この国は多神教だと、来る前に読んだ書物に書かれていた事を思い出し、アーサーは少しばかり目を細めた。そうならば、女の神だって当然いる筈だろう。
「じゃぁ、使いは猫だったりするのか。」
「いや、大体は狐だってさ。たまに犬とかな。」
 冗談のつもりで言った言葉に、アルセーヌが笑ってそう付け加えるものだから、思わずアーサーは少しだけ喉を鳴らして笑う。なんて言ったって、アーサーの国では狐狩りが流行り、一部の種は全て夫人のマフラーになってしまった。
 けれども……猫が神の使いならば、今日観たものは人間だったのだろう。時折屋敷を抜け出しているのか、それとも、この国の王室などそんなものなのか。
 どちらにせよ、今日声を掛けなくて良かった。どうにか自国が有利になるように契約を取り付けなければいけないのだが、まだ向こうが不審を持っている中、一人で話しかけては逆効果になる。
「飯もうまいし、気候も良いし、服も女も綺麗だし。なんか目的わすれちまうね。」
 そう笑うアルセーヌを、目だけで牽制すると、アーサーは出されたアルコールに口を付けた。ピリッとした辛さが喉元を刺激する。
 アルセーヌを睨んでおきながら、昨晩彼女に名前を尋ねた自身は、一体何を思ってそうしたのか、今は良く分からない。今も目を瞑れば、あの、宝石の様な一対の黒い瞳が脳裏に蘇る。
 その瞳を思い出すと、同時に微かな震えを覚えた。それは、どこか恐ろしいような、酔っているような。