Samsara


 
 
 S a m s a r a    5
 
 
 
 大和に訪れて既に二週間が経とうとしていたしていたけれど、交渉は一向に進まない。それも王耀を通しての面会など、進むはずも無く、アーサーは心の底で苛々としていた。そうこうしている内に、青かった葉が段々と色を持ち始めている。
 それは目の前の簾の奥の人もそうであるだろう。しかしながらこのまま時間を引き延ばそうというのもまた向こうの魂胆だろうし、その分作戦を練っているのかも知れない。
 アーサーは目を鋭くさせて簾の奥を見やっていると、その膜が透けて一人の女性の影が映っている様な気がしてくる。真っ黒な双眼に、それと同じ色と艶を持っている髪、そして赤い着物だ。
「……あーあ、一体いつまでここに居なきゃなんねーんだろうねぇ。」
 長い交渉を終え、アルセーヌは大きな欠伸を一つして、そのままボリボリと無精髭の生えた顎を掻いた。このまま難航するようなら、一度国に帰った方がまだ良いのかも知れない。
 大体アルセーヌは、そんな事を言いながらも、まだまだこの国を探検したいのだろう事も見え見えである。第一この場所を出て、もっと色んな場所に向かってみたいのだろう事も、見え見えである。
 取り敢えず自室に戻りぼんやりと外を眺めていると、外はしとしととした雨が降っていて、庭全体がしっとりと濡れているのが見えた。この国には四季というものがあり、もう暫くすれば冬が来るのか、もう半袖では肌寒い。
 雨が降り始めると、アルセーヌは今日の観光を取りやめて、部屋で昼寝をしていた。肌寒いし、アーサーもそのまま本でも読んで過ごそうと思っていたのだが、不意にあの神社を思い出す。
 そういえばあの猫に、今日も彼女は屋敷でも抜け出して会いに行っているのだろうか。……いや、今日は確か祭式が行われると聞いていた(祭司以外は出席不可らしい)ので、彼女は外に出ることが出来ない筈だ。
「……傘って借りられるか?」
 世話役としてあてがわれた少年の部屋の障子を開けてそう尋ねると、彼は紙で出来た傘を取り出してこちらに差し出した。彼は一緒について行くと言ったけれど、それを制してアーサーは灰色の街へと足を踏み込む。
 石段は人目に付かない場所から伸びていて、神社へと続いていく。アーサーは滑る石段を、踏み外さないようにゆったりと進んでいくが、猫の鳴き声も鈴の音も聞こえてこない。
 猫の事を、彼女は確か『ヒコナ』と呼んでいた。少々戸惑ってからその名前を呼ぶと、縁の下から小さな猫の鳴き声が聞こえてくる。体を屈めて覗き込むと、真っ黒な子猫がブルブルと震えながらアーサーを見上げていた。
「寒かったのか。」
 震えている小さな姿を見やり、アーサーは思わず笑いを浮かべて手招くが、猫はアーサーの手の平に牙を剥いて威嚇してくるばかりで、一向にアーサーの傍に近寄ってこようとはしない。
 懐から持ち出したクッキーを取り出し砕くと、その猫の前へと差し出す。それでも猫は近寄ってこようとしないから、一歩退いて小さな動向を見守る。
「大丈夫だ、取って食ったりしねぇよ。」
 昔実家で飼っていた猫の事を思い出しながら、アーサーは猫の警戒心に思わず笑ってしまった。猫は暫く戸惑っていたのだが、ようやく一歩を踏み出し、クッキーを口に含み出す。
 カリカリと音を立ててクッキーを頬張る様子が愛らしくて、彼女がご執心なのも、まぁ分かる。自国では黒猫はあまり縁起が良い代物では無いのだが、子猫ならば魔女だって相手にしないだろう。
 連れて帰ってしまったら、彼女が悲しむだろうが、このままここに置いていってしまうと、尚夜は寒くなって耐えられるかどうか怪しい。
 アーサーは腕を伸ばして子猫を摘み上げると、子猫は「シャー」と威嚇音を発し、アーサーの腕の中で爪を向きだしに唸り声を上げた。が、小さな体を布で包み込んでしまえば、その子猫も抵抗出来ずに簡単に布に埋もれ込んだ。
 
 猫はいつまで経っても懐こうとしなかったけれど、暖かな毛布を与えてやると、そのまま毛布にくるまり眠りこけてしまう。空は真っ暗になり、雨の勢いは太陽が昇っていた時より増している。
 食事まで暫くぼんやりとしていた所、廊下を沢山の人々があわてふためき駆け回ったり、何やら喋っているのが聞こえてきた。不思議に思いアーサーは廊下への扉を開けると、自身の世話役の少年もその中に含まれている。
「お願いですから部屋から出ないでください。」
「祭式か?」
 それにしては雰囲気があまりにも不穏であるし、祭式は基本太陽が空にある間に行われると聞いていたから、祭式では無いだろう。
 けれども彼は、少し戸惑いながらも「……そうです。ですので部屋からは……」と、アーサーの目を見ずにそう言い、強制的に襖を閉じさせた。
 
 
 深夜になった折、それまで寝入っていた猫が起き上がり、ニャアニャア鳴きながら襖を引っ掻いている音が聞こえてくる。その猫にくっつけられた鈴が鳴り、誰を呼び寄せているのが容易に分かった。
 アーサーは起き上がると、行灯の火を灯し、襖を引っ掻いていた子猫の体をヒョイと抱き上げる。その途端、再び猫はアーサーの腕の中で藻掻き、その甲に引っ掻き傷を作った。
「痛っ……」
 パックリと開いたその傷口を見やり、思わずアーサーは引っかかれた右手をブンブンと振り、思わず下唇を噛みしめる。
「お前なぁ、誰が良い寝床と餌を与えてやったと思ってんだぁ?」
 猫の首根っこを掴みヒョイと持ち上げると、彼の腕が届かない範囲で自身の目の前に翳した。と、彼は酷く不服そうな様子で、また一つ「にゃあ」と鳴く。
 その時、彼の声を聞きつけてか、廊下の奥で布が擦れる音が聞こえてくる。やはり足音はあまり聞こえず、彼女がここに来たのだと襖の奥を見据えるよう目を細めてそちらを見やった。
「……ヒコナ」
 襖の向こう側で、彼女の声が聞こえてくる。姿も声も一度しか出遭っていないのにも関わらず、妙なほどハッキリと記憶に残っていた。
 襖を開ければ直ぐそこにその姿があるのだろうと思いながらも、一瞬戸惑い、ようやくその襖をアーサーは開け放つ。と、驚いた様子をありありとその表情に浮かべ、アーサーを見つめた。
「ほら、御姫様のご所望のモノだろ。」
 そう言いながら、アーサーは抱えていた猫を差し出すと、彼女は戸惑いながらその子猫を受け取る。先程までアーサーに牙を剥いていた癖に、今度は打って変わり猫は甘い声を出して彼女の腕の中で嬉しそうな顔をしていた。
 彼女は嬉しそうな笑顔をその顔に浮かべるが、目の前にアーサーが居るのをようやっと思い出したのか、直ぐに眉をキュッと持ち上げ、アーサーを睨みあげる。
「なぜあなたが。」
「神社で飼ってるんだろ?内緒で。前に見たんだ。」
 彼女はその幼い顔をムッとさせ、若干悔しそうに下唇を強く噛みしめた。アーサーはその様子を見やると、良く分からない満足心が胸の中に走る。
「黒猫は、我が国では縁起が悪いので、屋敷に入れて貰えないのです。」
「そうか、オレの国でも黒猫は縁起が悪い。」
 アーサーの言葉に彼女は驚き、その大きな瞳を更に大きくさせ、アーサーの事をジッと見やった。その目線に戸惑い、アーサーは動揺するのを覚えて思わず目を反らしかける。
 暫く訝しそうな様子でアーサーを見やっていたのだが、ホッと息を吐き出すと、いからせていた肩を落として視線を猫にやり、愛おしげそうに子猫の頭に唇を落とした。
「……無事で良かった。有り難うございます。」
 あくまで子猫に向けて、なのだろうが、彼女はふんわりとした柔らかな笑顔をその顔に浮かべた。その笑顔を見やった一瞬、なぜかアーサーは頭の中が白くなる。
「何か御礼を……いえ、勿論外交以外の事で。」
 猫に向けていたその笑顔をそのまま、アーサーに向かわせて今までずっと鋭かった瞳を柔らかくさせた。
 首を傾げてコチラを見上げるその視線に射られ、アーサーは狼狽えて懸命に頭を回らせようとしたのだが、中々思い当たらずに言葉を見失う。と、彼女はただ自分を上目勝ちにこちらを見やっていた。
「あー……ならばこの国について、上からの観点での話が聞きたい。」
 自分の国への報告書を書くにあたり、今のままではあまりにも知識が少なすぎる。……それに、どうにか良い交渉手段が得られるかも知れない、という期待がどこかにあった。
 アーサーの言葉に、彼女は少々訝しそうな様子で彼を見上げると、暫く悩んでから「分かりました。」と彼女は頷く。そしてアーサーから少し離れて座ると、かしこまる。
「して、何をお聞きしたいのですか?」
 腕の中の猫を愛おしげに撫でながら、彼女は猫にふんわりとした笑顔を浮かべたまま、アーサーにそう問う。問われれば、アーサーも何を聞きたいのかいまいち分からない。
 悩んでいるアーサーを、猫をあやしながら上目勝ちに黒い瞳を見やっている。
「あのぅ……あなたの国では、どうして黒猫の縁起が悪いのですか?」
 黙り込んでしまったアーサーに、彼女はその沈黙に耐えられずそう声を掛けると、悩んでいたアーサーはハッと顔を持ち上げて彼女を見やった。
「それは、魔女の使いだからな。」
「魔女?」
 不思議そうな声色が返ってきて、アーサーは悩むように眉間に皺を寄せる。
「そうだな……不可解な魔法を使ったり、儀式をしたり、悪魔と話をしたりする女だ。」
 アーサーのその言葉に彼女はポンッと手を打つと、納得顔で一度頷く。黒い髪が揺れ動き、微かな動作によって付いていくのだ。
「それならば、私のことですね。」
「いや、違う。ちょっと違うが……」
 確かに根本的な所では似ているのだろうか?けれども、向こうでいう魔女とはかけ離れているような……分からず頭を悩ませるアーサーに、不思議そうな黒い瞳を向けて小さく唇を尖らせた。
「魔女は……そうだな、醜いんだ。アンタとは違うな。」
 そうだ。とアーサーがそう言うと、一瞬彼女はキョトンとしてアーサーの顔を見やって数秒、フト彼女の白い頬に朱が混じる。アーサーはその様子を見やり「違う!」と言いかけ、それも違わない気がした。
 再び沈黙がやって来て、子猫が時折喉を鳴らす音以外が聞こえてこなくなり、居たたまれなくなったのか、彼女はゆっくりと立ち上がった。
「すみませんが、私はもう帰らなければなりません。けれども私の部屋にこの子は入れられません。」
 抱き上げると猫の頭に唇を押し当てて、上目勝ちにジッとコチラを見やってくるものだから、考える間もなく彼女が抱えていた子猫を受け取る。
 そして、彼女が部屋から出て行った瞬間、子猫はアーサーの手の中で暴れ、またアーサーの手の甲に爪の跡を残し、再び毛布にくるまり寝息を立て始めた。  
 
 寝起きのアーサーを一目見るなり、アルセーヌは苦笑を浮かべて「なんだ、眠れなかったのか。」とアーサーの肩を肘で突く。アーサーは煙たそうにその腕を払い除け、苛々とした様子で胸ポケットから煙草を取り出した。
 アーサーは眠たそうに煙草を一服肺一杯に吸い込むと、部屋の隅で未だに寝入っている気楽そうな猫を目の端で見やる。これからも、彼女はこの部屋を訪れたりするのだろうか。
 そう思うと、妙にそわそわとしてしまって、昨晩はどうも寝付けなかったのだ。なんだというのだろうか、これは。
 しかも今日面会が出来ると言われていた為、それが妙な緊張を誘う。アルセーヌは簾の奥の人物は、実は年増だから顔さえ見せられないんじゃないか、なんて冗談を抜かしていたけれど、とんでもない。
 簾の奥に見えた影に、昨夜の姿を重ねてしまうだろう事は必須で、そう思うと余計に夜が明けるのが待ち遠しいのか、それとも何か引っ掛かっているのか……
 
 いつもどおり、王耀を交えて簾越しの四人の会合に、アーサーは緑色の瞳で簾の影をジッと見やる。今日は関税についての話なのだが、これがまた中々進まず、アルセーヌはうとうとさえし始めてきた。
 なにせ、このところ寒い日が続いていたのだが、久しぶりに太陽が顔を出し、小春日和といった感じである。どうせ今日も大して話は進まないのだろうから……
 そう思っていたのだが、不意に簾の下にあった微かな隙間に指先が覗いたかと思った瞬間、スッと上に持ち上げられ、太陽の灯りが差し込むこの部屋に、彼女はあまりの呆気なさで姿を現した。
「な……!」
 ギョッとして王耀が声を上げ、アーサーは固まり、アルセーヌは今までウトウトしていたのがどこへ行ったのか、「お!」というなり身を乗り出す。
「もう辞めましょう、兄様。こんな事不毛です。」
 彼女は大きな瞳を細め、そのまま段になっていた部屋の中前に進み出て、アーサーとアルセーヌの前に座る。と、王耀は慌てて立ち上がり、彼女の横に乱暴に座った。
 やはり刺繍が施されていた赤い着物を着込んだ彼女は、ゆったりと顔を持ち上げてアーサーの目を、昨夜の無邪気さを含まない冷たい黒い瞳で見やる。
「こんな茶番劇に付き合わせてしまって申し訳ありませんでした。私がこの国を治めているのも、今年いっぱいです。
 ここでいくら条約を結んでも、全て白紙に戻ります。次期の御方に話を付けてくださいませ。」
 彼女は立ち上がると、そのまま長い着物を引きずるように部屋を後にする。お付きの侍女が、慌ててその彼女の後を追いかけて、小走りにひい様と声を上げた。
 後に残されたアルセーヌは、その後ろ姿を見送った後、軽い口笛を一つ、王耀へ向かい吹いて見せた。
「……どういう事だ?」
 アルセーヌが王耀へそう尋ねると、王耀も立ち上がりアルセーヌの方へ振り返り、その鋭い黒い瞳を細くさせて2人を睨む。
「……そのままの意味アル。そんな訳だから、どうせ今来ても相手出来なかった、一度国に帰った方が良い。」
 王耀はそう言うと、廊下の向こうへと姿を消してしまった。
 
 
 昼食を済ませた後アーサーが自室に戻ると、先まで寝ていた筈の猫の姿は無く、アーサーは微かに開いていた窓へと視線を向かわせた。
 あの猫が向かった場所がどこなのかは大体想像が付く。午後は大抵暇になり、屋敷は出入り自由な為、アーサーは自身のブーツを履くとそのまま神社へと向かう。
 猫が居なければ、彼女がアーサーの所にやって来る事も無い。取り敢えずどう掛け合ってみても、なぜ彼女と話をしても意味がないのか、誰もその真実を教えてくれないが為、自身で確かめるしか無い。
 そろそろみんな慣れてきたのか、外国人を見掛けても誰も駆け寄ったり不審そうに見てきたり等しなくなった。その為、一人で出歩くのもやりやすいし、心地が良い。
 アルセーヌはアルセーヌで自国への手紙を書き始めている。だからこそ、その仕事はアルセーヌに任せてアーサーは一人で家を出た。静かなこの国は、一人で歩くのに何よりも適している。
 アーサーはあの階段を上り終えて神社へと顔を向けると、思わず息を一つ飲み込み、固まった。神社の扉が開けられ、彼女はそこに腰を下ろして片手で猫とじゃれあっている。
 アーサーが鳥居で立ち竦み、彼女を見やっていると、暫くすると彼女はゆったりとした動作でアーサーへその黒い瞳を向ける。それから警戒心の強い色を見せた後、猫を抱き上げて立ち上がった。
「……ここに来るには、護衛とかも付けないのか?」
「……簾やなんだかは、兄様が勝手に用意したものです。それにココは私の本来の居場所です。お祈りや占いは、全てココでやっているんです。」
 そう言うと、彼女の瞳から警戒の色が抜け、そしてフッと唇を弧を描いてみせた。そしてそのまま、再び腰を下ろす。
 その動作に従い、アーサーも彼女の横に腰掛けた。と、彼女が抱えていた猫はその膝の上で丸くなり、気のせいか顔を持ち上げてアーサーを睨む。
「さっきのあの話、詳しく聞きたいんだが。」
 横に座ってそう尋ねると、菊は猫の喉をさすりながらアーサーへと目線をやる。 「私は元々ただの置き飾り。来年には御神の元に嫁ぐ身です。」
 彼女の言葉にアーサーはギョッとしてその眼を細めると、彼女はアーサーの顔を見上げたままふんわりと微笑む。。
「……結婚するのか?」
 どこかガッカリしながらそう尋ねると、彼女は顔を持ち上げてアーサーの方を見やり、頬を緩めて少々切なそうな笑顔を向けた。
「ええ。海岸付近の洞窟の中に住んでいらっしゃる、クチナワ様の元に行くのです。……つまり、人身御供ですね。」
「人身御供って……」
 死ぬのか。と言いかけてアーサーは口を噤む。自国でも橋を造る際、人柱を用いる事があったのだが、それがこの国でもあったのだろう。
 神社に腰を下ろしながら、菊は子猫を右手であやしながら、その唇に小さく笑みを浮かべていた。
「心配なのはこの子だけです。……この子、箱に詰められて川辺に捨てられて居たんです。
 こんなに小さくて、面倒を見る人が居なければ、直ぐに死んでしまいます。」
 そこまで言った彼女は、それまでの笑顔を消して、小さく顔を顰め泣き出しそうな表情さえしてみせる。下唇を噛みしめた彼女の顔を見やり、アーサーはまた言いようもない感情に胸が捉えられた。
 彼女の人間らしい表情を観る度に、自分がどうしたいのか、分からなくなってしまう。本当に望んでいるのは何なのか、そしてどうしたいのか。
「オレが、オレの国に連れて帰ろうか。……どうせオレに家族は居ない。縁起が悪い猫が居ても、誰も気にしないだろ。」
 そう言いながら手を伸ばすと、猫は途端「シャーッ」とアーサーを威嚇し、牙を剥きだしにして唸った。彼女は小さく笑い声を漏らし、アーサーは苦笑を浮かべて伸ばしかけた手を引っ込める。
 暫く笑顔を浮かべていたアーサーは、そのままその笑顔を消し去り、威嚇する子猫の頭に唇を寄せて、抱え直す。
「……すみませんでした。どうにか時間を稼ぎ、今回の条約を結んでしまい、次期に代わったときどうにか誤魔化そうという魂胆だったのです。」
 すみませんでした。と再び小さく言うと、そのまま項垂れる。
 その沈黙に耐えられずに、アーサーは懐からクッキーを一枚取り出すと、軽く砕いて猫の口元へ持っていく。と、警戒しながらも猫はザラザラの舌を出してその欠片を口に含んだ。
 猫の様子を覗き込んでいたアーサーが顔をちょいと上げると、ジッと不思議そうな様子で彼女が猫とアーサーを見比べているのに気が付き、思わずギクッと肩を揺らす。
「それ、何ですか?」
 目をキラキラさせて上目勝ちに覗き込んできていた彼女は、クッキーを指さし小さく顔を傾げて見せた。
「これか?……えっと、オレの国の菓子だな。」
 懐に収めていた包みを解いて、一枚取り出して彼女に手渡す。と、日に透かせたり、裏側を見たり何てして彼女は不審そうな様子だったが、やがて一口囓る。
 それから大きな目を数度瞬きをして、囓った残りの部分を再び日に翳して見せた。
「不思議な味です。でも、おいしいです。」
 嬉しそうに笑う彼女に、見つめかけて慌てて残りのクッキーも彼女に手渡すと、パッと彼女は顔を明るくしながらも、不安そうに顔を傾げる。
「本当に貰っても良いのですか?」
「ああ、女子供の食べ物だしな。」
 ならばなぜ持ってきたのだろうか。なんて思いながらも、彼女は笑って受け取り、そっと袖の中に隠す。と、猫は鳴き声を上げて裾を撫でるものだから、思わず2人は頬を緩めた。
 そのまま猫をからかっていたのだが、やがて溜息を吐き出して黒い瞳で空の上を見やる。
「……この国は閉鎖的です。せめて平等な条約じゃなくては、恐らく来期でも受け入れられないと思います。」
 勿論ここまで武力を持ち入れられれば、状況は恐らく変わるでしょうけれど。小さく眉間に皺を寄せ、苦痛を漏らすようにそう言うと、遠くで鳥が鳴く。
「私はこの国をより良くする為に生きて、そして死んでいきます。我が国を守る為ならば、私は何でもします。」
 そう言い切った彼女の瞳が、微かに細められ、今度は再びその瞳に殺気が籠もる。先程までの優しそうな色はどこへ行ったのか、度々アーサーに向けられたその瞳がまた向けられた。
 思わずアーサーはその瞳に寒気を覚え、小さく息を呑み込むと、直ぐに彼女の表情は和らぐ。
「まぁ、私が何の権限も無いのと同様、あなたも使いに出された身、このような事を言っても仕方がありませんね。」
 お互い難儀な身ですね。と笑って指を空に差し出すと、狙った様にその指先に蝶が停まる。ギョッとするアーサーを余所に、彼女は蝶を自身の眼前に翳し、黒い瞳を三日月型にさせてアーサーに笑いかけた。
「不思議ですよね。私、生まれたときから動物に好かれるです。」
 そう笑う彼女の顔を、猫は不思議そうな様子で見上げた。
 
 
 
 
 
 
クチナワ=蛇です