Samsara


 
 
 何かが這い回る音が暗闇の中から微かに聞こえてきて、徐々に近付いてきたと思うとやがて自身を、その音は捉えて締めあげる。全身の骨がギリギリと軋むのを感じ、菊は苦しさに喘いだ。
 冷たい肌をしたソレは、ずっと、太古の遥かなる昔から、菊をそうして締めあげ続けていた。寝ても覚めてもその恐怖に怯え、苦しさに、未だに悶えている。
 けれど菊は知っている。彼が泣いている事を。
 彼が、淋しさに耐えかねて、暗い空間の隙間で、子供の様に泣いている事を。
 
 
 
 S a m s a r a    6
 
 
 
 ヘラクレスは菊を一目見るなり、嬉しそうに顔を綻ばせて、それでも心配そうに彼女が座った机に、足早に寄る。
「菊、3日も学校休んで、どうしたの……?」
 図体ばかりが異様に巨大な子犬か何かの様に、ヘラクレスは眉根をさげてみせた。ヘラクレスは大きい体を小さく屈め、机に顎先を乗せて上目勝ちに見やってくる。
「少々風邪を引いてしまって。」
 菊は苦笑を浮かべてそう言うけれど、本当はもう学校に顔を出すつもりもなかった。それでも一日中部屋に籠もっているのも、それはそれで非常に辛く、それでやっと学校に足を踏み入れたのだ。
 授業が始まる前の少ない休みの合間、そうしていつもの様にヘラクレスと二人で話して居ると、不意にクラスメイトに名前をよばれ、菊は顔を上げる。
 菊を呼ぶ声が聞こえた方向へ視線をやると、教室の出入口に立っている主を見つけ、思わず固まった。クラスメイトの後ろに、いつも目線で追いかけていた見慣れた姿があったのだ。
 そんな菊の名を、机の上に顎先を乗せたままのヘラクレスが、不審そうに呼ぶその声に驚き、菊はやっと我を取り戻す。
「……菊、オレが追い返そうか……?」
「いえ、ちょっとお話をしてきますね。」
 良く分からないが、呼んでいた主を見るなり菊が固まってしまったものだから、ヘラクレスは出入り口を睨んだ。菊は苦笑を浮かべると、椅子から立ち上がって、待っているアーサーの下へ歩む。
 軽い定例通りの挨拶をすると、ここから離れようと小さく合図をアーサーが出したのを見やり、菊は一つ頷いて彼の後を追い掛けた。
 
 天気は曇っていて屋上は肌寒く、その所為か人は誰も居ない。屋上の柵に寄り掛かりながら、2人は向かい合う様に立った。
「良かった。もう来ないのかと思ってた。」
 アーサーは安堵を具現化したような優しい笑みを浮かべると、自身の上着を菊に寄越そうとしたが、それを菊は腕を伸ばし制す。仕方なしにアーサーは上着を羽織り直した。
「あの……この間は可笑しな事を言って申し訳ありません。あの時の事は、もう気になさらないで下さい。」勢い余って抱きついてしまった事を思い出し、菊は知らず顔を赤らめて俯き加減にそう焦って言うと、アーサーは顔を微かにしかめさせる。
 素早く腕を伸ばすと、アーサーはそのまま菊の小さな体を抱きしめた。不意に体を抱き締められ、菊は内心慌て目を大きくさせる。
「菊」
 耳元で名前を呼ばれ、どうしていいかわからなくなる。本当だったら、そのままアーサーを突っ張ってしまおうと思っていたのに、アーサーの行動が予想外で、動揺で足が震えた。
「あ、あの……」
「……思い出したんだ。」
 耳からゆったりと首筋をたどって行く感触に、菊は勝手に動く背中に懸命に力を入れた。
「ならば、カークランドさん。お願いします、離して下さい。」
 小さな息を一つ飲み込み、覚悟を決めてそう言うけれど、アーサーは腕の力を緩めない。菊は腕をつっぱって藻掻いてみるが、逃れられなそうに無かった。
「また、一人で逝くつもりなのか?何で、オレの意志を解ろうとしないんだよ。」
 アーサーのその言葉を聞いた瞬間、藻掻いていた菊の体の力が抜ける。ピッタリと体を密着させながら、お互いの体温を久しぶりに感じていた。
 頬を寄せて息づかいを聞き合うと、遙か遠い昔まで戻ってしまった気がしてくる。ここならば、アイツの目も届かないのでは無いだろうかと、そう思えてしまう程に、ここは静かであった。
 決してアーサーの意志が解らない訳では無かった。彼は、菊さえ解っていない彼女の心の底を見透かしている様な言葉を紡ぐ。
 アーサーが、誰よりも菊の行動や言葉を理解してくれている分、菊もアーサーが何を言いたいかぐらい解っていた。アーサーの言葉は、どれ程菊の運命を変えてしまったのだろう。
 
 
 そうです、私の事を馬鹿とも、可哀想だとも仰ったのは、あなたが最初で最後でした。
 
「あんたは馬鹿だな。自分が可哀想だと解っていない。だから、自己犠牲に酔う事さえできない。」
 目の前に居る人物、アーサーがそう言うと、彼女は不思議そうな様子で目を更に大きくさせた。黒い瞳が皿の様になり、アーサーは本気で彼女が理解していないのだと解る。
 解らないのは可哀想とも馬鹿だとも、今までの人生で一度も言われた事が無かったからだ。だから『馬鹿』といわれた腹立たしさより、不思議が勝ってその首を傾げてみせた。
「可哀想……?何がですか?」
 不可解そうな表情を浮かべる彼女に、アーサーは思わず苦笑を浮かべた。
「人の3分の1も生きられず、普通の女の様に恋愛も結婚も出来ない。」
「……けれど、クチナワ様の元へ嫁ぐのは、皆幸いな事とおっしゃいます。」
 アーサーの言葉に、彼女は食い付く様に口を開いてみたけれど、ラストは少々尻すぼみになる。言い聞かせてきた自信が、第三者によって打ち砕かれ、もう良く解らなくなってきたのだ。
 自身の母は、自身を生む際死んでしまった。生まれたばかりの赤子の右腕には、蛇の鱗の様な跡がクッキリと付いていて、産婆は「クチナワ様の嫁が生まれた」と散々近隣にふれまわった。
 父は妻の忘れ形見をみすみす殺させまいと、息さえつい先程し始めた子供を抱え、人家が見えない方、灯りが見えない方へと一人で駆けた。たかだか商人の子供だというのに、人々は狂ったようにその男を、一晩中捜し続ける。
 山狩りをしても見つからなかったその男は、次の日の早朝、海岸先の巨大な洞窟の付近で、死体として見つかった。その死体の傍にはいくつもの蛇が這った跡と、そして泣き声を上げる赤ん坊が居た。
 それが彼女だという。人々は畏怖を込めてこの話しを口々に伝えていたのだが、本当の事を言うと、彼女はいつも胸がつかえる様な思いがした。
 父の事をみな『愚か』だと言うのだけれど、彼女は彼が自身を抱き上げて逃げたという事実があるのが、本当はどこか嬉しかったのだ。そしてまた、そんな事をしなければ死ぬ事も無かったのだろうと思ってしまう。
 どこかで、この生まれが憎かったのかもしれない。理不尽だと幼い頃は、誰にも知られないように憤慨した事もある。この国を愛しているのと同時に、酷く憎んでいた。……だからこそ、彼等を騙すのを辞めてしまったのかも知れない。
 特に、この異国人は大和の事情を知らないためか、自身がクチワナの嫁であるという目を持たない。この国の人は、畏怖と同時に蔑みと哀れみを持ってコチラを見やる。
 それが嫌で嫌でならなかった。いや、もう麻痺していてそんな事も考えなかったというのに、最近アーサーと会話をする度にその思いが蘇る。
「なぁ。」
 頭の中がこんがらがって、俯き難しい顔をして思い考えていたのだが、不意にアーサーに声を掛けられ驚き顔を持ち上げる。
 顔を持ち上げると、予想外に近くに彼の顔があるのに気が付き、思わず固まった。と、そのまま顎を捉えられて軽い音を立てて、掠れる程度に唇が合わされた。
「……なんですか、今の。」
 ぽかん、として彼女がそう尋ねるとアーサーは気まずそうに肩を竦めて、彼女から顔を背けて夕日を見やった。眩しそうに目を細めながら、その頬をぼんやりと朱くさせている。
「キスっていうんだ。オレの国では親愛を意味する。」
 アーサーの言葉に、彼女は思わずアーサーから目を反らせるとそのまま俯き、細い指先を揉ませて照れを懸命に隠す。けれども上がる体温を誤魔化す事は、出来そうに無かった。
「私の国では『接吻』って言います。……意味は、同じです。」
 
 
 始業のベルが、遠い過去の淵から菊を無理矢理に引きずり出した。思わず瞳を大きくさせながら目の前の人物を見やると、アーサーはそれを合図にするかのように、ゆったりと顔を近づけそのまま唇を合わせる。
 思いの外深く合わせられ事に驚きたじろぐ菊の腰をアーサーは引き寄せ、体を尚密着させた。何度も重ねられる唇に戸惑い、行き場を無くしていた菊の腕が、ゆるゆるとアーサーの背中に回される。
「……逃げよう、菊。」
 唇が離され耳元で言われたその一言に、菊は思わず手を突っぱねて体を離し、頭を振った。
「いいえ、ダメです。無駄です。それに、またアーサーさんまで引き込む訳には……」
「巻き込むって、オレが引きずり込んだ様なもんだろ。」
 菊の細い肩を掴んで、言い聞かせるようにアーサーは語調を強める。菊は首を小さく振り、眉間に小さな皺を寄せ、眉根を下げた。
「違います!私は、どういう結末を迎えなければいけないのか、ちゃんと解っていた筈なんです。」
 彼女はそう言いきると、下唇を噛みしめて小さな肩を戦慄かせる。俯いたその頬を包み込み、そのままほぼ無理矢理に上を向かせ、目を合わせた。
「逃げよう。今度こそ、2人で逃げ切ろう。」
「……でも」
 アーサーの言葉にまごつく菊に、アーサーは眉間の皺を尚深くさせる。
「また、死んでも良いのか?」
 延々と繰り返すその輪っかに組み込まれ、忘れることも生き抜く事も許されない。菊はアーサーの言葉を聞いた瞬間、ゾクッと寒さが全身を駆け巡り、背筋が震えるのを感じた。
 耳の直ぐ後ろで、またあの這い回る音が聞こえた気がして、強く拳を握りしめ、震える己を懸命に忌まわしめる。
「いいえ……嫌です。私、生きていたいです。」
 ああ、例え何百年何千年経っても変わらないだろう、浅ましすぎる人間の業。本来ならば自己犠牲の為にこの世に生まれ、育てられてきたというのに、結局は生に固執をしてしまう。
 けれども涙を浮かべてそう言った菊を、今も昔も変わらずに、微かに、それでもいっそ悲しそうな様子さえ見せて笑って見やった。
 
 
 
 手紙を自国に届ける為には王耀の国に一度戻り、そこから手紙を出すようにしなければ行けない。この国は他国ととことん絶交状態にあり、手紙さえ出すことが出来ないからだ。
 アルセーヌ一人が王耀と共に一度彼の国に行くことが決まり、アーサーは一人でココに残った。理由は風邪やらなんやらであったのだが、本当は面倒だったし、何故か離れたく無かったのだ。
 それでもこの国から一度引くのは目に見えているし、ココに居るのもせいぜい後一ヶ月程であろう。失敗した人間に、恐らく二度目は無い。一度離れたら、もう二度とこの国に足を踏み入れる事も無い。
「あなたとこうしてお話しをするのも、もう少しでお終いでしょうね。」
 毎日という訳では無いけれど、時折こうしてアーサーが神社へ訪れて会話を交わす。彼女は、一度キスをした仲だというのに、驚く程あっさりとそう言った。
 高台にある神社からは、下にある田んぼが一面に見下ろせる。黄金色になり明日から刈り入れになるという稲穂は、風が吹く度にユラユラと揺れ、アーサーは自国の麦畑を思い出す。
 アーサーの父親は酒を朝から晩まで煽り、酔っぱらい自我を失うと必ず暴れ回っていた。その所為で、母と自分はいつも傷だらけで、母はいつも泣いていた。
 やがて母は一人で家を出て行き、捨てられたと気が付いた頃、ようやく施設はアーサーを保護した。ただの施設だというのに、アーサーがここまで上り詰める事が出来たのは、学力の高さとしたたかさのお陰と自負している。
 自分の為なら誰でも踏み台にするつもりであったし、これからもそうするつもりであった。けれど、ここでこうして座っていると、風や鳥なんかの声まで聞くようになると、自分にとって何が一番大切なのかさえ、もう解らなくなってしまう。
「私、あなたが仰った事をよく考えてみました。……あなたと居ると、とても不思議な気分になります。
 今まで考えたことも無かった事を、考えてしまうんです。」
 そこまで言うと、彼女は言葉を紡ぐのにつまずいて暫く何も言わずに、猫を構う手も止めた。猫は不思議そうな顔をして、動くのをやめた飼い主を見上げる。
 アーサーは何も言わずに、そんな俯き動かない彼女をジッと見やり、何か言葉を紡ぐのを待ち続ける。やがて顔を持ち上げた彼女は、眉根を下げて泣き出しそうな表情を浮かべていた。
「……最近私、生きたいと思ってしまうんです。」
 どうしましょう。と切なる声色でそう言った彼女の大きな瞳から、盛り上がっていた涙が一つこぼれ落ちる。
「……それが普通なんだ。」
 身を乗り出して鼻先を合わせる程にそう言うと、戸惑い腰を引きかける彼女の頬を捉えて顔を正面から付き合わせた。大きな瞳が動揺で震わせ、アーサーはその頬の涙の跡を指先で拭う。
 そのまま唇を合わせ、細い肩を掴み、実にゆっくりと押し倒す。
「まだ迎えは来ないんだろ?」
「……何を。」
 問われても言葉が出てこずに、アーサーも頭の中で色々の言葉を逡巡させる。それでも何を言いたいのか解らず、アーサーも微かに首を傾げて見せた。
「分からない」
 そう言いながらも再び唇を合わせると、床の上の小さな体が震える。猫は2人の周りで鳴き声を上げながら、ウロウロと困ったような様子をしていた。
 暫く重ねていた唇を離し、この国の焚きしめられた香の薫りが鼻孔に感じられ、感情が昂ぶっていくのを覚えた。だが細い首に噛み付いた時、戸惑って体を強張らせていた彼女の腕がアーサーの体を懸命に押しやる。
「待って……待って下さい。」
 細い体を捻ってアーサーから逃れようとするけれど、体を捉えられてしまうと中々逃れられない。けれど次の瞬間、「ギャッ」と悲鳴を上げてアーサーは彼女の上から仰け反った。
 無視され実は怒りだしていたのか、それとも主を助けようとしたのか、猫がアーサーの鼻先を引っ掻いてしまったらしい。うっすらと血が出たのを確認し、涙目になるアーサーを余所に、助けてくれた子猫を抱き上げる。
 彼女は立ち上がると、猫を抱き上げたままアーサーから間をおき、眉間に皺を寄せて訝しそうな様子を見せた。アーサーは鼻先を抑えながら、項垂れる。
「悪い。どうかしてた。」
 顔を覆って謝罪する主を、少しだけ身を屈めて覗き込む。
「……オレは、あんたの名前さえ、知らないのにな。」
 溜息とともに吐き出された言葉を聞くと、距離をとっていたのを縮め、手に持っていた手ぬぐいをアーサーに差し出す。驚きそちらを見やると、彼女はぎこちなく微笑んだ。
 そして身を乗り出し、アーサーの耳元に口を寄せた。
「菊、です。帰るまで、名前は誰にも仰らないで下さいね。」
「……なんで?」
 呆気にとられて口を開くアーサーを見やりながら、菊は眉根を下げて困ったように笑んでみせる。
「私も、良く分かりません。でも、あなたならば……」
 戸惑い口調でそう言うと、隣との合間を大きく空けて、再び腰掛けた。遠い空の向こう側で、日は殆ど姿を消しかけ、もう暫くすると、彼女を迎えに沢山の人々がここへ来るだろう。
 その夕日を眺めながら、アーサーは言葉を詰まらせて暫し黙り込んだが、やがて決心したように口を開く。
「……逃げないのか?」
 自身、言ってしまってからギョッとしてしまう。どうしてそんな事を言ってしまったのか、解らなかった。
 驚いたのは勿論菊も同様であり、驚き大きな目を更に大きくさせてアーサーを見やる。
「逃げるなんて……そんな……
 ……ここは、どこへ行っても私の居場所などありません。私の護衛だなんていって、私を監視しているだけなんです。」
 入れる人が限られている聖域を一歩抜け出ると、誰しも彼女の事を知り、そして監視の目を光らせている。折角の人質を、どうして逃すものか。
「……ならばいっそ、オレの国に来るか?そこまで逃げ通せば、誰も追っては来ないだろう。」
「本気で仰っていらっしゃるのですか?」
 菊は不可解な様子を表情一杯に表し、アーサーの事を上目勝ちに見やり、そう声を切にさせた。そんな夢物語の様なこと、本当に出来る筈がないと、そう思えたのだ。
 けれども菊を見返すアーサーの目は真剣で、手を捉えられて引き寄せられると、先程と同様力が抜けて意識が遠のいていく様な気さえする。それもどうしてか、もう解らなかった。
「そんな事、出来る筈がありません。」  否、考えたことさえ無かったから、出来るかどうかなど到底分からなかった。逃げ腰の菊に代わり、アーサーはグイと身を乗り出し、菊の手を握る。
「オレが、どうにかする。大丈夫だ。逃げよう、逃げ通そう。」
 
 
 
 今度こそ。