Samsara


 
 早く行って、菊、早く。
 次の瞬間、何がどうなったのか分からないが体が吹っ飛び、木に激しく打ち付けられた。体内で骨が悲鳴を上げ、もう、呼吸さえままならなくなってしまう。
 菊は、自分の名前呼んで悲鳴を上げると、こちらへ向かって走ってくる。その足音が聞こえてくるというのに、彼女を止めることさえ、もうできない。否、初めから叶わない。
 それが悔しくて、泣き出したくて溜まらないというのに、勿論自分にはそれさえ出来ない。生まれたときからそんなこと、できやしない。抱きしめることも、慰めることもちゃんと出来ない。
 駆けてくる彼女の足音を聞きながら、心底思う。……ああ、ダメなのに。菊を助けたいからやった事なのに。と。誰にも聞こえないだろう、最後の力を振り絞ってささやいた。
 菊が笑ってくれるなら、何もいらない。菊が幸せならば、何も望まない。
 もう閉ざされた視界の向こうで、雨が激しい音を立てて降っている。今夜はなんて寒いのだろうと、途切れる命を抱え、菊が風邪を引いてしまわないか、そればかりが気になった。

 
 
 
 SAMSARA
 
 
 
 寒さに耐えきれずヘラクレスは肩を竦めると、つまらなそうな様子でその唇を尖らせた。寒さに指先がかじかみ、何度も手を擦り暖を取ろうとする。
 寒いのは嫌いだった。彼だって、寒いのには弱いと思い込んでいたのに、どうしていつもこんな寒いところにばかり閉じこもっているのだろうか。初めてあったときも、それは寒い部屋だった覚えがある。
「約束するよ、君の望みは叶えてあげる。」
 ね、と微笑むその『姿』は、まるで優しそうにさえ見えるというのに、灰色の瞳は雪のように冷たい。
 ヘラクレスは下唇を噛みしめると、微かに眉間に皺を寄せ、ジッと彼を見つめた。彼の表情から、感情は読むことさえ出来ない。いや、感情があるのかどうかさえ、最早分からなかった。

 
 
 結局一晩フェリシアーノの家に泊めて貰い、次の日家に帰ると兄は何も事情を尋ねたりはしてこなかった。菊は大いに迷いながらも制服に着替え、学校に向かう。
 アーサーはやはり学校に来て居らず、項垂れる菊に今日もにっこりと微笑んだヘラクレスが半ば駆けるように近付いた。
「菊、元気ない……」
 それでも直ぐに菊の異変に気が付き、笑顔を消すと、悲しそうに眉根を下げて菊を下から覗き込む。その様子を見やると、どうにも菊は苦笑を禁じ得ず、強張った表情を崩す。
「大丈夫ですよ。」
 ふんわりとした笑顔を浮かべてそう返すと、ヘラクレスはパッと表情を明るくして嬉しそうに菊を見返す。のほほんとした時間が暫し流れ、菊自身気分が晴れていく気がした。
 アーサーについては、彼なりに事情も考えるところもあったのだろう。そう納得せずには物事は進んでいかないし、どんどん引きずってしまいそうである。
 
 冬の間、屋上はあまりにも寒々しい。かといって教室の喧噪はあまり得意でない、仕方なしに菊はコンビニのおにぎりを持って、屋上の出入り口の扉の前に腰を下ろした。
 その菊の後を追いかけて、にこにことしたヘラクレスが菊の隣に腰掛ける。いつもおいしそうな手作りのお弁当なのに、今日ばかりは菊がコンビニ弁当であったことに、不思議そうな様子をみせていた。
 菊は苦笑を浮かべ、「寝坊したのです。」なんて誤魔化し、一口そっと囓る。外でなくとも随分と寒く、指先がかじかんで震えていた。
 
 昼休みの時間も半ば過ぎた頃、のほほんと話をしていた菊は、不意に顔を持ち上げて、眉間に小さな皺を寄せる。
「菊……?」
 返事が来ず、不思議そうな様子でヘラクレスが菊の顔を覗き込むと、菊は彼を遮る様に腕を上げた。
「……揺れてます。」
「え?」
 菊が囁いた瞬間、菊一人にしか感じられなかった微かな揺れが激しくなり、ヘラクレスは慌てて隣に座る菊を引き寄せる。揺れは徐々に激しさを増し、旧校舎の壁は耐えきれずに崩れ始める。
 更に揺れが増してくると、辺りに土埃が舞い始め、下の階からは生徒の悲鳴が響き、土埃の所為で2人とも目を開けることさえ出来ない。否、菊はヘラクレスにすっぽりと包み込まれていて、もとより周りは見えなかった。
 天上が抜け、2人の真ん前に落ちてきたらしい轟音が響き、ヘラクレスの腕の中で、更に菊は縮こまりギュッと服を掴んだ。ようやく揺れが収まったのは、どれ程経った時なのか、顔を持ち上げると辺りは崩れた壁に遮られ、殆ど何も見えない。
 ただ、天井付近に備え付けられていた明かり取りの窓からのみ、白い光が輝いている。2人は暫く無言でその明かり取りの窓を見上げ、そしてようやく自身を取り戻す。
「お怪我は?お怪我はありませんか?」
 自身を庇っていたヘラクレスに、菊はそう慌てて声を掛けると、微かな明かりに照らされていたヘラクレスは嬉しそうに微笑む。
「うん、大丈夫。菊は……?」
「私もヘラクレスさんが庇ってくださったので……でも、閉じ込められてしまいましたね。地震でしょうか。」
 天井がそのまま落ちてきてしまったらしく、抜け出すなど当然無理そうだった。けれど周囲から喧噪が聞こえて来るから、こちらも声を出せば助けてくれるかもしれない。
 ほう、と菊が溜息を吐き出すと、ヘラクレスはピッタリと菊にくっつく。身動きなどさほど出来ない程空間は狭く、菊は動くことなくヘラクレスがくっつくままにしていた。
「寒い?」
 心配そうにそう尋ねられ、菊は「いいえ」と頬を緩める。今は衝撃で心臓が激しく動いているからそうでも無いが、もし長時間ここに閉じ込められたら、寒さにやられてしまうかもしれない。
「……まるで、夜みたいだね。」
 ポツリと隣から声が漏れ、菊は笑みを浮かべながらヘラクレスを見やる。が、真っ正面を向いた彼が、あまりにも真剣な様子だから、何と声を掛けて良いのか分からずに、微かな光を見上げた。
 確かにここは、まるで月明かりの入る夜の様だ。
「でもあの日は、雨が降ってたから、月が出たの、一瞬だったけど……」
 やっと漏れてくる光を見やっていた菊は、そのヘラクレスの言葉にギョッとして彼を見やると、先程までどこかを見ていたヘラクレスは、いつの間にか一心に菊を見つめていた。
 菊は驚き、微かにたじろいだが、その反面、彼が言わんとしている事に「まさか」と思い遮る事も出来ない。
「ヘラクレスさん?」
 驚いてその名前を呼ぶと、そんな言葉はまるで聞こえていないように、ヘラクレスは腕を伸ばし菊の手の平を握ると、顔を寄せる。
「あの……待って下さい……」
 動揺を露わにして顔を背けるが、ヘラクレスは身を乗り出し菊の耳に唇を寄せた。
「もう時間なんて、無い。ねぇ、あんな奴の事忘れて。お願い……」
 ギュッと手を握られて、間近に見えるヘラクレスの顔を、菊は少々怯えた様子で下唇を噛みしめ見やった。けれども、どうにも我慢できずに、そのままソロリと視線を外す。
 それでもヘラクレスは菊から視線を反らそうとはせず、尚より近くへ擦りよう様にと、顔を寄せていく。
 ここはカビ臭く埃っぽい。上の方にポツリと付いた小さくて鉄格子のある窓からは、頼りになる程の灯りも入ってくることも無く、生徒達の喧噪はより遠くから聞こえてくる。
「直ぐに忘れちゃうあいつより、オレ、菊の事幸せに出来る……ね。」
 微かに首を傾げたその様子は、初めて彼に出会ったときからの癖である。その仕草をみるだけで、菊の胸の中には懐古感と共に悲しさが満ち溢れた。
 けれども、だからといって彼を受け入れられる筈も無く、グイと手を突っ張ってヘラクレスの胸元に手を当て、体を捩る。
「……ごめんなさい。」
 震える声色でそう自身を拒む菊の耳元に唇を寄せ、体温を欲しているかのようにさえ見えた。何よりヘラクレスは、微かにその体を震わせている。
「菊、オレ怖いよ。今度もまた人間になれるのか……今度はミミズや蟻かもしれない、犬や……猫かも。  でもオレ、絶対に菊の事見つけだすよ。だから菊、愛してなんて言わない、心の隅にオレを置いて。お願い。」
 泣き出しそうな声色で彼はそう言い、菊は自分の胸元に顔を埋め震えるヘラクレスの頭を抱え込んだ。いつの間にか聞くまで指先が微かに震え、遠い夜に意識さえ飛んでしまいそうだった。
「……ごめんなさい」
 先程とはまた違う声色の謝罪を聞き、ヘラクレスは苦笑を浮かべて尚、菊に頬を寄せて目を瞑る。震える指先で黒髪を少しばかり弄った後、その手を小さな窓に向けて伸ばした。
 キラキラと窓から光が漏れ、伸ばした自身の指先が霞んで見えた。
 
 
 初めて彼女と出会った時、自分はこのまま死んでしまうのだろうと、生まれたばかりだというのに、そう思っていた。そこはあまりにも暗く、寒く、ガタガタと震えながら自身の死期をジッと待ちかまえていたからだ。
 自分の兄弟はもう、今から少し前に全員死んでしまって、足下にその体が横たわっていた。いつしか自分もそうやってタンパク質の塊になってしまうのだ……
 そうしていると、彼女はそんな暗く寒く寂しい孤独しかない世界から、ヒョイと自分をつまみ出してくれたのだ。初めての抱擁は酷く暖かく、優しく、思わずもう死んでしまったのかと思ってしまった。
 可哀想に。今日から一緒に居ましょうね。 と柔らかな声色が頭の上から聞こえてきて、甘い薫りがふんわりと落ちてくる。自分の体はこんなにも汚いというのに、そんな事も気にせずに彼女は自分に頬を寄せ、優しく頭を撫でてくれた。
 その時から、愛しているんだ、菊。オレの夢。オレの希望。オレの世界。オレの、愛。
 
 
 
 
 アーサーはピーターの横についたまま椅子に座り、壁にもたれ掛かりいつの間にか寝入ってしまっていた。不安定な体勢だったため、そこまで長い間寝入っていた訳では無いだろうが、随分姿勢が崩れていた事さえ、気が付かなかったらしい。
 体を起こし時計を見上げると、午後の一時半を過ぎていて、40分ほど意識が飛んでいたことに驚き、ピーターに視線をやった。
 と、彼は上半身を起き上がらせると外の景色をジッと見やっていて、アーサーを驚かせる。つい40分前までは、確かに目を醒ましていなかった筈なのだが。
 彼の名前を呼びかけようと口を開くよりも早く、彼は外を見やったまま何かを小さく囁いている。
「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に……」
 漏れてきたその歌は、確かに聴いたことのある歌詞であり、アーサーは思わず息を飲んだ。その歌は確かに、菊が祭司で歌っていた歌詞であり、初めて対面したときの思い入れの深い歌である。
 そしてようようピーターの名前を呼ぶと、彼はやっとアーサーが起きた事に気が付いたらしく、少々驚いている様子だ。
「お前……もしかして、何か覚えてるのか?」
 ピーターの小さな肩を掴み、アーサーが声を荒げると、彼はクリクリな大きな瞳でアーサーを見返し、キョトンとする。それから一度、瞬きをすると、ゆっくりと口を開いた。
「ピーター君が居た所は真っ暗で、何も見えなかったですよ。」
 
 
 
 菊は何一つばれて居ないと思っている様だが、王耀にとったら、菊がアーサーと周りの目を盗んで睦言をしている事など、とっくに知っていた。まさかとは思っていたけれど、今宵林に駆けていくその後ろ姿を見つけていた。
 このまま得たいの知れないモノの人身御供とされるよりも、こうして彼女のしたい様にさせてあげた方が良かったのだろう。
 が、暫くして彼女部屋へと向かうと、雨が降る庭に、真っ赤な着物を着た彼女が蹲っているのを見つけ、微かにその眼を大きくさせる。それは、確実に菊であった。
「なんでお前、あの男と逃げなかったあるか?」
 小雨ながらも雨が降る庭で、その白く細い手のひらを土で汚した彼女の背後に、そっと呼び掛ける。菊は王耀の方には一度も視線をやらず、ただ自身の目の前にある土を堀ながら見つめていた。
 菊のしゃがみ込んだ直ぐ隣には、高価で美しい絹の布に包まれた、小さな塊が見える。布のほんの隙間から、黒猫のものらしき尾っぽが確認出来た。
「……私が居なくなったら、沢山の首が飛びましょう。」
 彼女からポツリと漏れた言葉に、王耀は思わず顔をしかめ、奥歯を強く噛み締める。
「そんなの、誰も恐れてはいないある。」
「恐れているのは、私です。」
 そこでようやく振り返った菊の頬は、雨と涙でグシャグシャに濡れている。悲痛に歪められた顔は、泥で汚れていたけれど、確固たる意志で象られ、十分に美しい。
 菊はゆったりとした動作で立ち上がり、王耀と真っ直ぐに向かい合う。水を含んだ着物は酷く重たそうだというのに、真っ直ぐに伸びた背筋は曲がることなど有り得ない。
「沢山の人を殺した罪に、どうして耐えられるでしょうか。」
 そう言って彼女が俯くと、長く艶のある黒髪が揺れ、その顔に掛かった。
「……アーサーとの関係、官内の人間には、我がごまかしてやる。」
 王耀が絞り出すようにそう言うと、菊は半ば自嘲気味に微笑み、自身の腹部をゆったりとした手つきで撫でた。雨に濡れて体が随分と冷えていたけれど、菊にとってそこだけは暖かく感じる。
「腹が膨れてくれば、もうみんなを誤魔化すことなど、不可能です。」
 え。とそう呟いたきり言葉を失い、王耀は肩を落とし、微笑んだ菊と向き合った。なぜ彼女がこうまで堂々としているのか分からないけれど、王耀はその反面、酷く動揺を覚える。
 思わず王耀は菊に駆け寄ると、素足だというのに、雨を含んだ土の上に降り立ち、菊の肩を掴む。
「堕ろせば良い。我がどうにかしてやるから……」
 まさかそこまでの関係になっているとは思ってはいなかった。所詮アーサーという異人も、珍しいからか探りの為かで手を出したのだと、そう、彼女も分かっていると思っていたのだ。
 巫女が、それも神に嫁ぐ為の巫女が、処女を失うほどの大罪は中々無い。見つかれば、その場で首を切り落とされてしまう。
 それなのに菊は、王耀の提案を聞くと、まるでつまらないジョークでも聞いたかのように苦笑を浮かべ、愛おしそうに腹を撫でる。
「この子が死ぬときは、私が死ぬときです。」
 
 その時菊が言った言葉はその通りとなり、アーサーが再び訪れたときには、腹の中の子諸共土の中であった。赤子は、終ぞ太陽を見ることもなく。