椿姫
椿姫
オペラ、小説版を織り交ぜた椿姫の完全なパロディです。
日本は女で娼婦役ですごめんなさい私の趣味ですね。
後この椿姫は椿姫自体パリが舞台なので仏日にした為(因みに舞姫の舞台はドイツです)誠実な青年の筈のアルマンは軟派で賭け好きなお金無しのフランス兄ちゃんです。
マルグリット→キク(日)
アルマン→アルセーヌ(仏)
ドゥフォール男爵 兼 ガストーネ(無茶な!)→アーサー子爵(英)
フラーロ→フェルシアーナ(伊・女体化なので女の名前にしました。っていってもノをナにしただけ)
彼女が死んだ、という噂を人伝に聞き、やっと訪れた彼女の家では既に家具の競売がかけられていた。本当にもう彼女なんて何とも思っていない、と軽口を叩いていた癖に、気が付いたら此処に来ていた。他人じゃなくてもお笑い癖だと鼻で笑うだろう……。
本当は『彼女が死んだ』と聞いた時も動揺で指先が冷え震えたのに、それでも何でも無い振りをしていつものヘラヘラした笑いでその場を誤魔化した。自分のこの性が便利であると同時に情けない。
少し昔に遡れば、七人もの貴族を囲っていた筈の彼女の屋敷は、今はもう殆どの家具も売られ、自分と二人で笑い合って弾いたピアノはもうその姿を隠してしまっている。
ポケットの中の小銭を指先で弄びながら、自分に買える物が一つあるならば買っていこうと、辺りをキョロキョロと見て回った。
ふと目にとまったのは、一冊の古い本。見覚えのあるその本に、思わず目を見開きありったけの金を取り出すと購入していた。それは、彼女がずっと付けていた日記だったのだ。
過去寝る前に彼女が絶対に付けていたのを、何度も目にしているのだから間違い無い。購入して彼女の邸宅を後にしつつそっとその本の最初の一ページを捲り、思わずハッとさせられる。その日記は正しく、忘れる事も出来ない自分と彼女の出会いから始まっていたのであった。
そしてその数日後の日記には、彼女らしい、細かな綺麗な文字で自分の事を『お金の無い世間知らずの坊や』と書かれていて思わず苦笑を浮かべた。あんなに嫌な思い出だと思っていたのに、瞬時自分の脳裏で彼女と初めて出会った時にまで巻き戻され、それは美しい彼女の顔を急激に思い出させた。
そう、それはまだ寒い冬の夜。誘われた劇を見に行った時だった。
金持ちしか座ることの出来ない席の一つに、何故だか真っ白な椿がいくつも飾られた席があり思わず劇が始まるブザーが鳴ったのにも関わらず隣の友人に尋ねた。尋ねられた彼は少しだけ身を乗り出してその席を確認すると、「あれは椿姫の席だ」と小声で返してくる。椿姫? と返そうとした瞬間、真っ白な何かが自分の隣を横切り、その席に向かっていくのを見つけて思わず目を瞠る。
それは白い肌に黒い髪、黒い瞳を持つ珍しいまだ少々幼さを残した少女だった。あれは……かなり珍しい東洋人だ。席に着こうとした彼女が、不意に目線を持ち上げバッチリとアルセーヌと瞳同士を合ってしまうと、ふんわりと一見天使の様に、けれどもどこか妖艶に微笑む。瞬時体温が少しだけ上昇するのを覚えて思わずアルセーヌが瞳を反らした。再び視線を戻した時には、もう彼女は舞台の方を向いて座っていたが、アルセーヌは劇が始まっても尚彼女の顔が頭の中に張り付いて離れない。
初めて会った時のコンタクトはそれだけだった。
二度目に会ったのは子爵のアーサーに連れられてでの、椿姫と呼ばれる東洋の娼婦、キクの邸宅で行われたパーティーでだった。初めてキクを見かけてからというもの、会う人に何となく彼女の事を聞き出し続けて続けて知ったが、その東洋人という希少さと美しさで少なくとも七人の貴族と関係を持ち、他にも数人のパトロンが居るらしい。
その話を聞いたとき、思わず『やるな』と笑ってしまった。邸宅は贅沢に尽くされた彩色、豪勢な料理の数々が自分達客人をもてなし、当の本人であるキクは意外にもとても落ち着いていて、どこかふんわりとした娼婦らしくない雰囲気を持っている。
「キク、紹介しよう。オレの友人のアルセーヌだ」
彼女の手袋で包まれた掌をとりキスを落としながら、アーサーが自分を指し仲介をしてくれた。
「……初めまして、アルセーヌさん」
ほんの少しだけ沈黙を置いて、キクは素晴らしい発音でアルセーヌと挨拶を交わしあの劇場で見た笑顔を向ける。
「どこの出身だ?フランス語が凄く上手だな」
いつもの様に言ってから思わずハッとする。相手はそこらへんの町娘では無くて、いつも貴族を相手にしている高級娼婦なのだ。アーサーが横からもの凄い勢いで睨んでいるが、そこは自分的に無視を決め込む事にしたので触れないでおく。が、キクは一瞬だけ目を見開いたものの、フッと微笑みアルセーヌに言葉を返した。
「出身は日本です。だけど育ちはフランスでしたから、フランス語で育ったのです。」
二回目出会った時の会話はたったそれだけだった。彼女の日記には、自分の事など唯の一つだって記されていない。
三回目に出会ったのは、まるで意図しない良く晴れたお昼時。それは町中、適当にブラブラ歩いていると石橋の上から嬉しそうに自分の名前を誰かが叫ぶ様に呼ぶ。
「アルセーヌさん!よかった、随分待ちましたよ。」
へ? と驚いて上を見上げると、そこにはあの高級娼婦であるキクが真っ白の帽子を押さえながら来い来い、と手を自分に向かって振っている。
まるで記憶に無いが、あんな美人に呼ばれたのなら行かない訳は無い、とばかりに階段を上り彼女の横に付くと、目の前に居た太った男は一つ舌打ちをし、別れの挨拶を告げて馬車に乗り込んだ。パタパタと手を振っていたキクはその馬車が見えなくなると、一つホウッと溜息を吐き、それからコチラを見上げてうっすらと微笑む。
「助かりました。あの人お金が無い癖にしつこいんです。」
「なるほど、それでオレを出汁に使った訳か」
そう言いつつ無精髭を撫でる、が、本当は名を覚えられていた事だけでも自分の胸を躍らせるものだから笑えない。こんな余裕の無い自分を、今の恋人達が見たら笑うか、もしくは酷くバカにするだろう。
「……お怒りになって?」
心配、というより不思議そうにその今まで生きてきて自分は見たことの無い真っ黒な瞳を、一心にアルセーヌに注いだ。パリの正午の暖かな光に照らされた彼女のバター色の肌は、光を絶えず反射させアルセーヌの瞳を射る。
「そうだな。これはデートの一つでもしないと収まらないぞ。」
と、真剣な顔でアルセーヌが唸ると、思わずキクはその口を緩めて控えめな笑い声を上げた。丸い目が柔らかく歪む。
「よろしくってよ、アルセーヌさん。それでいつになさいます?」
キクが首を軽く傾げれば、纏められ上げられたキクの髪が一房だけこぼれ落ちた。黒なんて辛気くさい色は嫌いだ、と言っていたが、キクの持つ黒は自分の知っている黒とはまるで違う。
「……明日だ。明日迎えに行こう。」
その黒の一房を指でなぞれば、キクの首に指が擦り彼女はくすぐったそうに笑った。
「分かりました。明日の予定は全部キャンセルしてお待ちしておりますね。」
にっこりと笑いながら彼女は小さくを手を振りつつ、アルセーヌの元から離れていく。彼女が手に持っていた日傘を差すと、やはり彼女だけが絵画から出てきたかの様に見えてアルセーヌは思わずその目を擦った。
デート当日、お金の無いアルセーヌには勿論劇場の良い舞台の良い席など取れもしないので、彼女を連れて訪れたのは喜劇ばかり開幕する劇場。
そこまで下品では無く、それでもみんな笑わせる劇を選び抜き、仲間に頼んであらかじめ白椿で飾った席に彼女を導いた。初めて体験するその雰囲気に、最初は彼女も酷く警戒していた様だが、劇始まればこっちの物。初めは彼女も困った様に些か下品な劇を見つめていたのだが、やがて耐えきれなくなったかの様に手を口に押し当てて笑う。
正しくコロコロ、なんて擬音が似合う上品な、それでも楽しそうな笑い声に、自然アルセーヌも破顔してしまう。七人の貴族を囲って贅沢三昧しているというのなら、自分は自分の武器で対抗してやろう、と、劇が終わると今度はアルセーヌはキクを馬車に導き、いつも自分が飲んでいる安い飲み屋に連れ立つ。
先程の劇が余程面白かったのか、それとも好奇心が旺盛なのか、今度は訝しむ様子を一切見せずに、この汚い飲み屋に楽しそうに入ってくれた。安いドレスを着込んだ女達は勿論、一人で飲んでいた男達も驚き一様にこの見かけない客を物珍しげに眺めているが、眺められた等の本人であるキクはその事をまるで気にしていないように堂々と振る舞う。もしかしたら、奇異の目に晒されるのに慣れているのかもしれない。
いつも頼んでいる料理を頼むと、やがて運ばれてきた料理の形にキクは些か驚いたかの様に目を見開きながら恐る恐るソレを口にした。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「うまいか?うまいだろ!」
アルセーヌの楽しそうな言葉にコクコクとキクは頷く。その黒い瞳がキラキラ輝くのが美しくて、アルセーヌも笑いながら皿の上の料理を平らげた。最後に訪れた他人の庭園に、キクは夜の闇が恐いのかそれとも他人の庭園に入るのは忍びないのか、ひっしとアルセーヌの腕に掴み辺りをキョロキョロと見回す。
「勝手に入っていいんですか、アルセーヌさん」
心配そうに彼女が声を上げるのと逆に、アルセーヌはニッと悪そうに微笑む。
「ここは御貴族様の別荘なんだ。今の時期誰もいやしない。」
キクを宥め、やがて見えてきた芝生に一つポツンと咲いた大木の下に彼女を招き、そっと手を伸ばしてその木―――林檎の木の実を一つもいだ。
小さくて酸っぱい木の実だが、自分は好んで良く食す。ソレを服で擦り彼女に手渡すと、月明かりでもソレと分かる程彼女の顔が綻んだ。その林檎の木の裏手に位置している池を二人座って眺めながら、月光に照らされ彼女は酷く楽しそうに、それはゆっくりと林檎を囓った。シャク、シャクという音が池に反射する月光の音楽の様だと思えてならない。
「今日は本当に楽しかったです。初めての事が沢山ありました。」
帰りの道のり、歩くなんて嫌だといわれやしないかという心配とは裏腹に、それは楽しそう彼女はアルセーヌの腕を取り喋る。
彼女らしい控えめの喋りに、アルセーヌはご自慢の話術を駆使してどうやれば彼女が笑ってくれるかに必死になりつつあった。が、彼女の邸宅が見え始めると、不意にキクの顔は曇り家の前に泊められた高級な馬車をジッと見つめる為に、事情を一切知らないアルセーヌにさえ何が起こっているのか察する事は出来た。
「それじゃぁ此処で、オレは失礼するとしよう。」
貴族の愛人がわざわざ訪れたのだから、と、気をきかせたつもりだったのだか、自分のその言葉に弾かれるかの様に上目遣いで自分を見上げた彼女の歪められた眉に、思わず一つ息を飲み込んだ。が、スルリと自分の腕からキクは離れると笑った。泣き出しそうな笑顔だった。
「では、アルセーヌさん。また誘って下さいね。」
笑いながら遠ざかる彼女を、本当は引き留めたいのだと気が付いたのはその時。
次に出会ったのは、自分から彼女の邸宅に訪れたからだった。
昨日の賭博に勝ったので、大量の札束を財布に押し込み昨晩の客が帰り、次の客が訪れるよりも早くに彼女の家に訪れたのだ。ノックをしてやがて出てきたキクの顔は、アルセーヌの顔を認めた瞬間に強ばり目を瞠る。化粧で隠してもうっすらと首筋に残る赤い跡と関係あるのだろうが、アルセーヌは何にも気が付かない様に笑った。
「おはよう、お嬢さん。今日はオレに時間を分けてくれないか?金ならある。」
とかれた長い髪が肩に垂れたその姿は酷く妖艶で、自分の言葉に驚き悲しそうに瞳を歪める姿はやはり人形の様に可愛らしい。何か言いたそうなキクを無視して部屋に上がり込むと、後から駆けてきた彼女が声を上げた。
「い、今寝室は……その…片付けが…」
羞恥で頬を赤くして泣き出しそうな彼女は、本当に貴族を7人も囲っている娼婦なのか思わず不思議に思ってしまう。アルセーヌは流石に悪い気がして軽く肩を竦めると、近くにあったソファーに腰を下ろす。
「今日はあなたと話をしに来たんだ。朝起きてからあなたの事が頭から離れなくてね。あなたの話が聞きたい。小さい頃の思い出だとか。」
そう笑って言うと、目の前のキクは大きく見開いた瞳をユラユラと揺らしジッと自分を見つめ立ちつくす。それからやがて泣き笑いを浮かべると、そっとアルセーヌの隣に腰を下ろした。
『この人はきっと頭がおかしいのだろうと思った。』と、キクの日記に記されていて、思わずアルセーヌは一人深夜のベットの上で苦笑を浮かべる。
それから日記に続けられた一行に、息を止めた。『そうでなければ、こんな事を言う人はきっと居ないと思い込んでいたから』と。
アルセーヌとキクは同じソファーの上で数時間も話をした。
彼女の母は昔日本でキクを産んでも尚芸者という風俗をやっていて、そこでフランス人の旅行者に目を留められ連れてこられたらしい。この地でパトロンとして暮らしていたのだが、やがて母が肺に病を持つとその男は簡単にキクの母を捨ててしまった。最期の時、母が悲しそうに男の名を呼ぶのを、10歳のキクは震えながら見つめていたという。外ではカーニバルの楽しそうな音楽が鳴り響き、子供達が喝采を上げていたのを今でも覚えているらしい。
「母は、唯の置物だったのです。壊れたから、捨てられたんだわ。きっと私も壊れたら捨てられてしまうでしょう。」
そう彼女が悲しげに微笑んだ瞬間、誰かのノック音がして二人同時にハッと顔を持ち上げる。
「……すみません。」彼女が謝るから、舌打ちすら消えてしまう。
「いい、また来よう。」
そう言いつつ財布に手を伸ばすと、細い彼女の指がそれを制した。それからキクは自分の指の一本に付けられたシンプルな指輪をそっと抜き取り、アルセーヌの掌に握らせる。
「……コレは?」
指輪を見つめたまま動きを止めたアルセーヌに、キクはニッコリと微笑んだ。
「お金を払うべきなのは私です。こんな話を聞いて下さって、有り難う。」
誰にも話した事が無いんですよ。 と笑って言った。その白桃の様な頬を、何故だか酷く胸苦しさ覚える自分に思わずハッとする。こんな胸苦しさジェローデルでもフローラでもジョセフィーヌでも……あとは、えぇと、取り敢えず誰一人として感じた事が無い。恐らく、これから何人もの女の名前を連ねていったとしても、こんな心地はきっと無い。一生無い。思わず遊び人と呼ばれている事を思い出し笑い出してしまいそうになるのを耐え、代わりにキクの瞳を見つめる。真っ黒な其処からまるで何処か違う所にでも繋がっているかの様な気がして不意に恐くなる。それを無理矢理打ち消して、そっと屈み彼女の唇に自分のソレを押し当てた。
その行為は酷く純化されたお伽噺の一部な気がして、何だか自分が子供の頃に戻った心地すらした。
「さようなら、アルセーヌさん」
その声に押され家を出て行く。代わり入ってきた男の高級な仕立てのスーツを横目で見ながら。
次に会ったのはアーサーのパーティー会場での事で、彼女は数人の男に囲まれ言われるがままに酒を呷っていた。顔を赤くして陽気にピアノを弾く姿は、自分が知っている彼女とはあまりにもかけ離れている。アーサーと言葉を交わしつつチラチラ彼女を盗み見ると、やがて酒が気管にでも入ったのか苦しそうにむせ、男達に2,3何か言うと一人こそこそと一人でバルコニーの方へと向かった。
アーサーに一声掛けるとキクを追い自分もバルコニーに向かう。
夜の風は酷く心地が良いが、少々肌寒い。少々欠けた、それでも大きな月が空に浮かび、その下で彼女はしゃがみ込み咳き込んでいた。
「……どうしたんだ?」そっとしゃがみこみ彼女の背をさすってやると、キクはビクリと大きく肩を震わせて目を大きく見開き振り返る。
思わず離された白手袋をしていたその掌と口の端に、僅かながらも血痕が付着していて、まるで二人とも時間が止まったかの様に微動だに出来ない。そこに、冷たい風が一つだけ吹き込んだ。
「……この事は、誰にも言わないで下さい…!」
初めに沈黙を破ったのは、キクだった。
室内から流れてくる陽気なヴァイオリンとは真反対に、その声色は酷く必死で、歪められた眉の下の黒い瞳が今にも泣き出しそうだ。黄色の月を背景に立った彼女に向かって、自分はただゆるやかに首を振ることしか出来ない。それは、彼女の言葉に対してのモノでは無く、確実に訪れるであろう現実に向かっての否定であった。が、勿論彼女にはそんな事までは分からない。
「お願い…!」
身を乗り出して自分の服を掴んだ彼女の細い指が微かに震えていた。
「……分かった」
そう言いつつ宥めようとするも、彼女は小さな溜息を一つ吐き出すとスカートを翻し室内に戻り自分の荷物を手に逃げ出すように邸宅を後にした。アーサーの訝しげな目線を無視し、その日の舞踏会は一人のお持ち帰りも無く帰路につく。ただモヤモヤと脳内に彼女の事が浮かんで離れない。あの血は……もしかしなくとも今流行っている結核だろう。いっそ病的な青白い肌も、時折苦しそうに咳をしていたのも、そう思えばなんの不思議も無かった。
苛々と部屋の中を歩き回りながら、ただ黙々とその事を考え続け、そして結論に至ったのは月も頂上から傾きかけた深夜だった。取り敢えず、会いに行かなくてはならない。そうしてアルセーヌは朝が来たのなら、真っ先に家に訪れようと決心する。あの様子では客も取れないだろう。
そしてやっと眠りについたのものの、その所為か次の朝は盛大に寝坊をした。
日も大分高くなった日中、アルセーヌは見慣れた屋敷にやっと足を運んだ。2〜3回のノックの後出てきたのは、彼女の召使いだった。その痩せた顔を持ち上げて不安そうに自分を見上げ、「今キク様は……」と言いかけたが、それを無視して「邪魔する」と断り勝手に屋敷に立ち入る。そこは前に来たときと寸分も変わらない室内だったが、奥の部屋で誰かが咳をしているのが聞こえてくる。
ドカドカとその部屋まで進んでいくと、後ろで召し使いが自分を止めようと声を張り上げていた。と、ノブに手を置くよりも早くガチャリとその扉が開かれた。そこに立っていたのは紛う事なき彼女であったが、優しい瞳を大きく吊り上げてコチラを睨め上げていた。
「何のご用ですか?」
キツイ口調で彼女がそう言うと、わざわざ心配して駆けつけてやったのに、と思わず怒りすら感じる。
「お前、結核なんだろ?」
ワンクッションを全く置かずにそう言うと、彼女はハッとしてその目を大きく見開き、ジッと自分をみやった。瞬時、悔しそうに下唇を噛みしめる。その表情でやはり……と、アルセーヌはどこか気落ちすら感じた。当時、治らない病では無かったものの、結核は大量の人々を殺す病であった。
「……何が望みですか?」
そしてその病は、売春婦という商売をしている彼女にとってはカナリの致命傷である。万が一『結核である』という噂が立っただけでも、商売あがったりでその日食べるものすらありつけない状態にまでなってしまう。
「そうだな……取り敢えず煙草を止めろ。あと酒もだ。」
アルセーヌの台詞は菊にとってあまりにも意外なものだったのだろう、菊は大きく目を見開いて、思わずといった様に首を傾げる。
「それが、望みですか……?」
ああ、とアルセーヌは菊の問いに大きく頷いてから、何かを思い出したのか手を打つ。
「それと、暫くの間は夜遊びとお仕事禁止だな。『体調がすぐれません』でいいんだ。簡単だろ?」
ぽかん、とアルセーヌを見上げたまま菊は微動だに出来ない。ただ見開かれた瞳がユラユラと揺れ、そしてどこか泣き出しそうに歪む。
「金の事なら、ちょっとぐらいなら出せる。煙草と酒と夜遊びを止めたら、あんたぐらい何とかなる。」
ニッコリと笑ってやるが、それでも菊の瞳は不安で陰っていた。
「なぜ……そこまでしてくださるんですか?」
最初の威勢の良さはすっかり萎み、彼女は震える小さな声で怖々と自分の顔を覗き込む。アルセーヌは一瞬どんな顔をすればいいのか分からずに、いつもとは違う真面目な顔つきになった。が、直ぐにニッコリと笑うと菊の頭をポンポンと軽く叩く。
「あんたに惚れたからだ」
自分で言って自分で笑うと、菊もつられて微笑む。パッと頬が病に染められた青い顔では無く、触れれば何よりも心地が良さそうな桃色に染まった。真っ黒な髪がここまでも似合う人は、東洋人だって居ないかも知れない。言葉が消え失せた二人の合間に、居心地の悪くはない沈黙がうっすらと掛けられた。
アルセーヌの腕が伸び、菊の細い顎を捉えるとゆったりと口づけた。最近していなかった本当に唇同士を合わせるキスなのだけれども、それでもうっとりとした陶酔感がアルセーヌの胸に過ぎる。小さな菊の身体も、折れそうな細い手足も、少々頑なな心も自分は愛しているのだと思った。
「なぁ、キク、お前がそれで良いのなら、二人で田舎に家でも借りて住まないか?」
瞬時、驚き菊はアルセーヌから勢いよく体を離し、下からジッとアルセーヌの瞳を見つめる。その瞳の色には、当然ながらいぶかしさと戸惑いが籠もっていた。
「あなたは勘違いしています……私は……私は一杯のスープを飲みたいが為に処女を売った様な女です。あなたが思っている様な人間ではありません。」
まるで覇気のない声色でそう言葉を紡ぎ、そして最後には語尾を震わせて泣き出したキクを見つめ、アルセーヌは全身が震え出すのを覚えて思わず掌を強く握りしめる。なぜか、無性に腹立たしくなったのに、一体何が矛先かさえ分からない。
言いかけたセリフが全て消え失せ、唯アルセーヌは幼いキクが泣きじゃくりながらスープを飲んでいる姿を思い今の彼女を抱きしめる事しか出来はしない。アルセーヌに抱きしめられたキクは、その細い腕を必死に彼の背中に回し、その柔らかな金髪が掛かった肩に顔を押しつけ泣き出した。
静まりかえった曇天のパリに、雨を交えた雪が、明日の朝には消え失せてしまう様な雪が、彼女のか細い泣き声を鎮めるかの様に降ってくるのが、窓の向こうでチラチラ見える。
「……キク、街を出よう。こんな汚い街を出て田舎に家を持とう。」
宥める様にそう言い聞かせれば、彼女は大きな黒く潤んだ瞳をコチラに向けた。
「私は……何も持ってません。田舎に行って、どうするのですか?」
眉間に皺を寄せ、必死めいた目線を一心にアルセーヌに向けながら彼女は泣くように呟く。縋り付いた手が微かに震えている。
「こんな所で狂ったみたいに客商売してるからいけねぇんだ。田舎に行ってすることは一つ、養生すればいいんだ。」
簡単だろう?そう両手を広げて言うと、目を大きくさせた菊がジッとアルセーヌの顔を見上げた。アルセーヌは言ってしまってから、なんて衝動的な事を口走ってしまったのだろうと思うけれども、勿論後悔などしてはいない。
暫くの沈黙があってから、菊はフイッと顔を俯かせると困ったように眉根を下げる。
「……応えは、保留してもよろしいですか?」
彼女はポツリと漏らすと、自身の部屋の扉のドアノブに手を置いた。アルセーヌは「……ああ」と抜けるような返事を返すが、挨拶をして菊が閉めようとしたその扉に手を置き、閉まるのを一度押しとどめる。
驚いた様子で菊の真っ黒の瞳が、弾かれるようにアルセーヌを仰ぐけれども、アルセーヌ自身一体自分がなぜこんな事をしているのか分からずに、微かにその唇を戦慄かせる。
「あの……なんだ……。……おれは、本気だからな。」
そう一言言い置いて扉から手を離すと、彼女が扉を閉めるよりも早くにアルセーヌがその扉を押し、そこから菊の姿を隠した。驚いた表情で自身を見上げているその瞳に、どうにも耐えられなかったのだ。
クシャリ、と髪を掻き上げてアルセーヌは顔を顰めると、手伝いの娘に軽口を叩きながらも菊の家を後にした瞬間、重い溜息を吐き出す。もしも自分が彼女だったら……きっと付いていかないだろう。そう思うと苦笑さえ漏れるのだ。
けれども彼女が姿を現したのはその次の番で、あまりにも早さにアルセーヌは自分の家の扉口で呆然としてしまった。
夜、雨が尚いっそう強く降り始めた時に彼女は黒いローブを目深に被って馬車でここまでやってきて、アルセーヌの顔を見るなり少々緊張を落としたまま、ふんわりと微笑んだ。
「お客さん、今頃戸惑っていますね……」
取り敢えず家に招き入れて、彼女の体を濡らしていた雨を拭き取る為のタオルを手渡し、そして暖かな飲み物を台所から入れてきて手渡してやった。と、菊は自嘲気味な笑顔を零し、そう呟くとカップに唇を付ける。
「どうしたんだ?」
菊の向かい側の椅子に腰を落ち着かせてそう訪ねると、菊はゆったりとした動作でアルセーヌの顔を見上げる。雨の所為か、その黒い双眼は若干濡れていて、思わずアルセーヌは微かに身が強張るのを覚えた。
菊はまるで思い悩む様子でカップを机の上に置き、小さく顔を傾げて眉根を下げてみせる。
「なぜか、その、凄く嫌になったんです……」
「何が?」
声を震わせる菊の言葉に間を入れずに問い返すと、菊は白い頬に朱を入れて俯いてから、またゆったりとアルセーヌを上目勝ちに見つめた。
「だから、あの……他の男性に抱かれるのが、です。」
細い項を真っ赤にさせた菊が言い辛そうにそう告白するのを、アルセーヌは目を大きくさせ、危うく手に持っていたカップを落としそうになりながら聞く。思わず問い返しそうになるが、寸前で押し留まった。
何も言葉を返さないアルセーヌに菊は焦れったそうに、また慌てて口を開く。
「私、私……あなたの事、好きみたいなんです。大好きみたいなんです……」
菊はそう言った瞬間、大きな真っ黒な瞳に涙を一杯溜め込み「どうしよう」という呟きと共に俯き、顔を手で覆ってしまった。その”どうしよう”のに若干の引っかかりを覚えつつも、アルセーヌはカタリと立ち上がる。
なんだなんだこれは、夢か?夢だったりするのか?思わずアルセーヌが自分の頬を摘んでみるが痛いし、目の前で泣いている彼女もどうやら実在している様子だし……
取り敢えず彼女の直ぐ横にまで歩むと、菊の小さくて細い肩に手を置く。ああ良かった、居る。
「じゃあ、一緒に行ってくれるか?」
諭すように菊に語りかければ、彼女は深く俯いたままコクリと、小さく頷いた。
そこまでの日記を読みあげた頃には空はとっくに空は白んでいて、アルセーヌは小さな溜息を吐き出すとパタリとその日記を閉じてベッドから少しふらつきながらも立ち上がる。
それ以上、アルセーヌは菊の日記を読む気にはならなかった。なぜならこの後の物語を、誰よりも彼が一番知っているからである。
自分と菊の同棲生活は約一ヶ月続き、自分の親戚の別荘に無断で泊まっていたのだが、その幸せな生活も彼女の突然の奔出で幕は降りる。理由は一切分からないが、その後の菊の豪遊っぷりを見れば、質素な生活が嫌だったのかも知れない。
菊は結局結核が悪化し、半年後には孤独死をしたと聞いた。なんでも残った財産は一つのトランクケース一杯に入った紙幣だったらしい。しかもその紙幣がそのまま墓を作る為の資金になったのだから笑えない。
取り敢えずアルセーヌは台所まで行くと、あの雨の日に菊に差し出したのと同じ味がするココアを煎れ、一睡もしていないのにもかかわらずまるで眠くない目を擦る。そしてぼんやりと、今日は晴れるなぁ、と呟いた。
最近父親に声を掛けられ、大した店では無いのだが店を手伝わされている。最近景気があまり良くないにもかかわらず、アルセーヌが仕立てた服はとても人気で、今や大繁盛となっていた。
けれども今日は一睡もしていないからか、それとも先程の日記が気になるのか、まるで何も頭に入ってこない……ぼんやりと外ばかり眺めているアルセーヌは、無意識にあの日記の続きを自分の記憶だけを頼りに思い出していた。
ある日アルセーヌが家に帰ったら『さようなら』と一言だけ書かれた紙片がテーブルの上に一枚だけ、ポツンと置かれていた。彼女の美しい文字で、ただ自分を傷つけるだけの言葉だけがそこに置いてあったのだ。
最初はその言葉の意味さえ分からなくて、ただ呆然と紙を見つめていたのだが、どれ程待っても菊は帰宅せず、そうしてやっと自分は捨てられたのだと気が付いた。
不意に微笑む彼女の姿が脳内に浮かんだものの、それ以上にカッと頭に血が上り、その紙片をグシャリと握りつぶす。結局彼女は、こんな田舎での暮らしよりも贅沢出来て身体に悪くとも騒いで遊ぶ方が良いのだろう。不意に沸き上がったのは怒りよりも不安だった。
結局菊自身を問いただそうと都市にまで戻ってきたら、彼女は前よりも沢山の男に囲まれ、酒を呑み、毎晩毎晩パーティーを開くようになっていた。まるで自分と暮らしていた分の日々から早く抜け出したいかの様に。
……だからだろう、自分も昔の女を連れてお呼ばれなんかに出掛けたりもした。本当は……菊の反応が見たかった、というのもあるのだろう。
自意識過剰なのか、女を連れて歩いている自分を見つけた菊の表情が、あの時は微かに崩れた様に、見えた。本当はどうだったのか今では分からないが……いや、分かる術はたった一つある。日記だ。
その日の夜、いつもより早めに返ってきて夕食を済ませると、小さな溜息を吐き出してからこれ以上読まないと決めていた菊の日記にチラリと視線をやり、アルセーヌは小さな溜息を吐き出した。何をこんなにも引きずっているのかと、思わず自嘲気味に笑ってからその日記を掴み、ゴミ箱に押し込んだ。
そして昼頃になり、そのゴミ箱の前までやって来ると、本当にそのまま捨ててしまってもいいものか、と悩み出す始末。思えば、この小さな日記にもそれなりお金を掛けているわけだし、と、無駄な言い訳を頭の中で練りだした。
ええい、もう何が書いてあったって良いじゃないか、どうせ彼女は死んだのだし……それに、本当に菊は自分に嫌気がさしたのか、実は未だに信じられなかったりしたのだ。
そうして、暫く悩んだ末、少々戸惑いながらもまた一ページ、捲った。美しい菊の文字が白い髪の上を踊り、その日作った料理のことからまた日記は歳を取り出す。
いつもの様に近くの役場でアルバイトの様な仕事に働きに出たアルセーヌを見送り、昼に一度帰ってくるだろう彼のために昼ご飯を作る作業に菊が取りかかった時、扉が叩かれ、菊は顔を持ち上げた。
二人の隠れ場の様なこの場所に誰かが訪ねてくるのはとても希少で、しかもその主がアーサーやフェリシアーナの様な友人では無く、初老の男性だった事からも菊を酷く驚かせる。
取り敢えず部屋に招き入れて、コーヒーを差し出すと、彼は何も言わずに菊にトランクを一つ、差し出した。状況が読めずにそのトランクに目を落としていると、彼はそこでやっと自分の身分を名乗ったのだ。
「あんたには悪いとは思っている。でも、あいつを愛しているのなら、あいつの将来の事を考えて欲しい。」
そう言いながらトランクを開くと、そこには一杯に詰め込まれた、皺が付いた苦労して掻き集めたのだろう紙幣が詰まっている。思わず菊はその札束から目線を反らすと、冷たくなった指先を包み込みながら荒れる呼吸を懸命に整えた。
受け取ろうとしない菊の手の中に男は無理矢理トランクを押しやり、また来ると言い残して家を後にする。
ああ、彼にはこんなにも彼を愛している家族が居るのだ……彼等にとって、娼婦崩れが一緒に片田舎で生活しているとなれば、心配でない訳がない。彼は、愛されているのだ、自分とは違い……
酷く頭が痛み、菊は額に手を押し当てると今まで呼んだことの無い神の名前を小さく唱え、そして駆り立てられるままに自身の服を掻き集め、そのまま家を飛び出した。たった一枚の紙を残して。
「嘘だろ……」
一人、ベッドの上で小さく呟いた言葉が虚しく響き、瞬時、泣き出しそうな顔で自分を見つめていた、あのやつれた顔が酷くリアルに蘇る。豪遊をしていたのは、誤魔化していたのか。
もう、止めて下さい。お願いです。 そう、自分の記憶の中だけに立ち竦んで、違う女の腰に腕を回している自分に、彼女が囁いた気がした。思わずゾクリと肌が粟立ち、動揺するのが分かる。
嘘だろ?嘘だと、言ってくれよ。
口内で小さく呟きながら、それでも日記を閉じる事が出来ずにアルセーヌは震える自身の指先を見つめた。その指先が掠れ、動揺で心臓が酷く早まるのを感じて軽く身震いする。
菊の日記は、家を出て行った所でぷつりと途切れ、数ページ真っ白なページが続く。アルセーヌは寝っ転がっていた体勢を直し、ベッドの上に座り込むと必死な面持ちでページを捲る。ただ口では、彼女の名前だけを何度も何度も唱えた。どこに居るんだよ、どこに……
そしてようやく、インクが走っているページを見つけ、無意識にランプがある所に向かい、ジッと懐かしいその筆跡を眺める。
それは、病の所為か文字が酷く荒れていて、簡単には読めない、彼女の遺書だった。
部屋の隅に置かれているトランクには手を付けずに、菊が死んだらアルセーヌの所に返して欲しい。という旨と、自分の手伝いの少女をアーサーの屋敷で働かせて欲しい。そして墓は、出来れば傍に木がある所が良いけれど、無理は言わない。ましてや墓など、きっと出来るだけ安い土地に買われたのだろう。
そう綴られている言葉達を、きっと自分以外誰も目にはしなかったのだろう……あのトランクは自分の手には渡っていないし、少女の行方も知らない。
言葉にならない言葉を一つ零すと、アルセーヌは日記をパタリと閉じて震える指先で思わず額を抑える。小さく彼女の名前を呼ぶと、抑える間もなく涙がこぼれ落ちて日記の表紙に跡を残した。
呼吸をするのも困難なほどに胸が締まり、頬に当てた指先も震えて上手く涙を拭うことさえ出来ない。ああ、どこにいるんだ、菊、どこに、どこに……
朝が来たらそのまま一番で家を飛び出し、気が付けばアーサーに場所聞き、菊の墓の前に一人で立っていた。大理石で出来た小さな一つの墓には、確かに彼女の名前が刻み込まれている。その様子を眺めながら、いつかココに木をうめてやろうと、そうぼんやり考えていた。
しかし、墓には萎れかけた花が少し飾られているだけで、生前の彼女の華やかさなど微塵も感じ取る事が出来ない。ゆっくりとしゃがみ込んで、その冷たい墓石にそっと触れたその瞬間、視界が歪みポタリと涙が再び滑り落ちた事に、自分でも驚いた。
一粒落ちていくと、もう後から後から途切れる事も無く涙が零れていく。
やがてしゃくりを上げ始めた喉を落ち着かせようと空を見上げると、そこには青すぎる程青く、果てがまるで見えない真っ白な雲を称えた空が広がっていて、まるで自分はそこに飲み込まれてしまったかの様だった。
月光の様な林檎を囓る音。ふんわりとした笑み。白椿で飾られた彼女の椅子。雪の夜に泣き出したその涙。
歌が上手くて、人参が嫌いだった。ピアノはあまり上手くはない。目が合うと思わず俯いてしまうその癖も、やはり自分は愛していたのだろう。
愛していたのだ。
自分の頬に流れた涙を冷やすかの様に、一つ冷たい風が吹いた。
その所為で手から落ちた彼女の日記が風に吹かれ、パラパラとページが捲られていき、彼女が死んだまるで読めない日記をも通り越し、やがて其処に現れたのは半ページ一面に書かれた歪んだ文字。
そっと手を伸ばして、それ以上捲れていかない様に指で押さえ、顔をグッと近づけた。
『アルセーヌ』
真っ暗な闇の中、気が付けば一人でポツンと立っていた。否、本当に自分は立っているのかさえ今は分からない。彼の名を呼んでみたけれど、それはきっと彼に届くことは無いだろう、多分、一生。
窓の向こうでパレードの楽しそうな音楽が鳴り響き、子供達が喝采をあげているのは分かるのだが、こう真っ暗だとその窓すら分からない。ああ、でも……その時やっと今ここが母の死んだあの家だと気が付いた。そしてまた私も、ここで死ぬのだ。外では楽しそうなカーニバルの音楽。
ギュッと握りしめた手の内に、いつの間にかペンが握られている事に気が付く。真っ暗なこの世界では何も見えない、分からない。が、一つだけ分かった。自分は死ぬのだ。もうすぐ。母と同じ様に愛する人も居ないベッドの上、外のカーニバルを聞きつつ彼のその名を呼んで、自分は死ぬのだ。
「アルセーヌ……!」
一つその名を呼び、手探りで探し当てた(と言っても左手の直ぐ下に置いてあった)日記の適当なページに、まるでこれから旅立つ世界へ、決してその名を忘れない為にか、彼の名を書き付けた。もう目が見えないから、それはきっと酷い字であっただろう。
真っ黒な世界に美しい金髪が反射した様に感じる。不意に熱に浮かされたにしては異様に冷たい涙が数粒頬を流れ落ち、全てがグルリと遠のく。
ああ、もうダメだと思うよりも早く、菊はその命を手放した。
彼女のあんなにも綺麗だった手練は、微かに震えて、まるで……いや、実際そうだったのかも知れないが……目が見えていなかったかのように歪んでそこに記されている。
それは、こんなにも長い間向き合い続けている、自身の名前だった。白紙ばかりが残っていると思っていた日記の中盤に、なぜか突如として自分の名前が書かれていたのだ。自分に別れを告げた筈のその筆跡で、苦しみの中で書いたらしきその文字の羅列で、アルセーヌの名前を叫んでいる。
墓地に置かれた一つの大理石の周りは、いつも美しい椿で飾られていた。時にはそこらの婦人のルージュより赤い赤であり、時には雪を連想させる様な真っ白の椿であった。椿が咲かない季節には、違う花々が絶えることなく毎日毎日取り替えられ、その大理石を着飾る事を止めない。
墓地の掃除人は、その華がいつか絶えてしまうのではないかと、なぜだか心のどこかで恐れていた。が、結局その花が途切れる事は無く、ずっとその墓地は美しいままだ。
やがて墓参りに来る人々はその墓を見て、その墓に眠る主を『椿姫』と名付けた。