大学生だった彼等

 ※大学生な2人。何気シリーズとして続いています。リンク貼るほどじゃないけれども。
 
 
 大学を卒業し、勿論就職もし、そして結婚まで果たす。
 沢山の子供に囲まれ、一軒家を買い、毎日おいしい御飯を食べて、優しさに溢れて眠る。
 サッカーが出来るほどの子供が居て、ラストは老いて一緒に死のうと言うと、菊はクスクス喉を鳴らして笑う。冗談なんかじゃないぞ、とムキになって怒ると、尚も菊は笑う。
 それが自分人生計画であったし、彼女もそうであるとばかり思っていた。傍にいると幸せになり、手を繋ぐと何だって出来る気がする。名前を呼ばれると、誰よりも強くなって、何からだって護ってあげられる、そんな気がした。
 あいしてる。って、女は喜ぶから、良く言ってみたけれど、本当は言うような事じゃないって気が付いた。言えるような事じゃなくて、例えば喧嘩した時とか、そんな時にしか言うべきな言葉では無い。
 きっと、彼女だってそんな気持ちなんだ。そう、信じ込んでいた。
 だって、彼女はふわふわ笑いながらこちらを見やると、いつだって両手を開いて包み込んでくれる。去年だって、ギュッと抱きしめて結婚してくれるって、そう言ったのだ。
 だったらこの仕様はなんだろう。
 アーサーは一人ぼっちの部屋に佇み、菊がいつも座っている椅子をジッと見つめていた。今日は卒業式で、本当だったらこれから飲みに行く筈だったのに、こんな寂しいところで一人ぼっちだ。
 これも、菊の所為だ。一緒に行こうって言ったのに、菊は卒業式に姿を現さなかった。留学中だった彼女は住むところを無くすから、これから一緒に住もうと言ったら、菊は穏やかに笑っていた。
 どこを探しても見つからない菊の姿を探し求めて家に帰ってくると、小さな部屋から彼女の家具ばかりがごっそりと無くなっていた。ああ、この部屋はこんなにも不完全だったのかと、思わず愕然としてしまう。
 菊は隣人であったけれど、ほとんど同棲していたも当然で、何か足りないモノがあると、お互いがお互いの部屋へと運んだ。まるでマーキングみたいだと笑うと、菊もつられて微笑む。
 好きだ。好きだ、菊。とても好きだった。代わりなんて、きっと、一生かけても見つからない程。
 幼いとだれかが言うだろう。若いと、誰もが思うだろう。こんなの人生に何度だって訪れる一節だなんて、思うだろうし、映画や小説では日常茶飯事に起きている。でも、自分の人生で起こってはいけないんだ。
 なぁ、お前だってそう思うだろ。そーいう奴だったじゃん。なんて、机の上に置かれた、綺麗な文字が並ぶ手紙に話しかけた。そういう別れ、嫌いだって、言ったじゃねぇか。
 
 
 『アーサーさんへ
  急な話だと思われるかも知れませんが、私は自国へ帰らなくてはならなくなりました。
  本当は、こちらの大学に入学する時から決まっていたことなのですが、あなたにはどうしても言えなかったのです。ごめんなさい。
  両親と、四年間海外の大学へ行く、という自由と引き替えに、帰国したら家につくという約束をしました。私は、それを守らなければなりません。
  あなたと過ごした日々は、私にとって夢のようでした。』
 
 
 なんだよ、それ。そんなのってありか?
 手紙をグシャグシャに丸めればいいのか、それとも大切に仕舞えばいいのか、そんな事も分からずにアーサーは項垂れる。
 こちとら結婚するつもりだったのに、『夢のようでした。』なんて一言で片付けられてしまうなど……これって、振られたという事になるのだろうか。アルセーヌに言ったら、あいつは笑うだろう。
 就職先も決まっていて、これから一緒に金を貯める。なんて豪語していたというのに、一体どんな顔で友人達に会えばいいのだろうか。大きな溜息を一つ吐き出し、仕方なく、そっと手紙を棚の奥へ仕舞い込んだ。
 
 それから暫く普通に暮らす。引っ越しをして、会社に通うようになり、忙しい毎日に追われて、彼女の事を忘れた気がするのに、街中で黒髪の女性を見掛けると思わず目で追いかけた。
 愉快な事と言えば、実はアルセーヌが留年していたという事ぐらいだ。出席日数が足りなかった所為で、単位がとれなかったのだという。
 まぁ、会社の跡継ぎ息子である彼はわざとなのかも知れないが、取り合えず散々馬鹿にした後、菊が実は自国に帰っていた事をいうと、案外にそっけなかった。
 それで春がやってきて、花が咲いて、もうすぐ初夏という頃にアルセーヌから留守電が入っていることに気が付いた。今でも毎日が休みなのだろう、どこか眠たそうな調子で、彼は、手紙が来ている、と言っていた。
 大学の寮住まいだから、直ぐに新しい住人が入ってくるのだが、アーサー宛の手紙が届いたというのだ。わざわざアルセーヌから電話が入ったというのだから、まさかと思えばやはりそうで、それは日本からの手紙であった。
 疲れてグッタリとしているというのにも関わらず、会社から真っ直ぐアルセーヌの元へと行くと、彼はニヤニヤとしながら手紙を振って見せた。
「てめぇ、中読んでねぇだろーな!?」
 食って掛かる勢いであるアーサーに対して、アルセーヌはにっこりと、それは楽しそうに微笑みながら首を振った。
「俺がそんな無粋な事するように見える?ほらほら、今ならお兄さんがアドバイスしてあげるよ。」
 アルセーヌの言葉に、訝しそうな目線を送りながらも、そろそろとアーサーは手紙を開け始める。中には手紙が一枚入っている様子で、淡い桜色をしていた。
 彼女らしいと思いながら手紙を開けると、数行ばかりが書かれていて、開いた瞬間微かに落胆した。
 間違えて合い鍵を持ってきてしまいました。心配に思われるかも知れないので、お返しします。 その言葉の通り、手紙は合い鍵が同封されていた。素っ気ない銀色のその塊に、知れずアーサーは溜息を吐き出す。
 やっぱり、もうお終いなのか。なんていう勝手な幕を下ろしなのだと、そう嘆くアーサーの隣で、アルセーヌは嬉しそうに声を上げた。
「おお、良かったじゃねぇーか!」
「はぁ?何がだよ!」
 思わず殴りかかろうとしたのだが、それよりも早く、アルセーヌは菊から届けられた封筒を指さす。拳を強く握り締めていたアーサーは、その動作につられて視線を下に向ける。
 アルセーヌの指先には、やはり綺麗な菊の文字があるだけで、ソレの何がやった!なのかまるで理解出来ない。不思議そうな顔をしているアーサーに、アルセーヌは肩を竦めてみせる。
「だってお前、これ、住所書いてあるじゃん。縁を切ろうっつーのに、普通書かないだろ?つまり、返事を寄越せってことか……会いに来い、っていう事なんじゃねぇの?」
 ニヤリと笑うアルセーヌを見やりながら、なんだ、こいつ、たまには役にたつじゃん。と密かに思った。
 
 
 日本は、春だ。ああ、なんて心地が良いのだと、公園のベンチで目を細める。外国人が珍しいのか、ジョシコウセイが笑いながら通っていくのを目で追いかける。
 アルセーヌに言われて、アーサーは直ぐさま荷物をとりまとめると飛行機に乗り込んだ。あまりの行動力にみんな驚いたが、大学の友人達はみんなして喜び、飲み会を開く。
 日本のガイド本を片手に、自力でここまでやって来た。この国の電車は複雑で訳が分からないが、時刻表が的確すぎて驚愕してしまった。また、非常に平和だと、公園で遊ぶ子供達を見やる。
 菊はこの街の何処かに住んでいるのだと思うと、知らず緊張してくる。ここまで追っかけてくると、まさか彼女はおもっていなかったかもしれない。ああ、気味悪がられたらどうしようと、ここに向かう途中から思い悩んでいた。
 しかしこんな事で悩んでいても仕方が無いと、溜息を一つ吐き出すと、アーサーはようやく立ち上がり駅前へと向かう。重いリュックを背負い、地図を広げて眉間に深い皺を寄せる。
 その時、大きく広がった地図の端っこに、赤い何かを見つけてアーサーはハッとする。この国の民族衣装に身を包んだ一つの影は、それは紛れもない、彼女の姿であった。
 見た瞬間から心臓が飛び跳ね、直ぐさま声を上げたいのと同時に、瞬時恐ろしささえ覚えてアーサーは足を止める。何か大きな荷物を抱えている菊は、どこか顔色が悪いし、表情は酷く沈んでいる。
 黒い髪を全て上げ、髪留めでキュッと締めている。そんな姿初めて観たけれど、驚くほどに似合っている。やはり彼女はこの国の人間なのだと、アーサーはぼんやりとそう考えていた。
 不意に、すれ違いざまぼんやりと菊は顔を持ち上げ、そして真っ黒な瞳でチラリとアーサーを見やる。そこで思わず心臓が弾けるほどになったけれど、彼女はそのまま視線を落とし、アーサーの横をすり抜けていく。
 その表情には、驚きも悲しみも、喜びも無い。アーサーはどうしていいのか分からずただ突っ立ってばかりで、彼女が歩いてきた方向をぼんやりと見つめていた。体中の力が抜けてしまい、座り込んでしまいそうになるのをようやく堪える。
 そう、一人で突っ立っていたのはどれ程の時間だったのだろうか、恐らくほんの少しの間だったろうだけど、アーサーの直ぐ後ろでガシャン!と何かが砕ける音が鳴り響く。
 驚いて振り返ろうとするのだが、それよりも早くに、誰かの細い腕が自身の胸の前に回り、キュッと抱きしめられた。黒い髪と赤い着物の袖が見え、思わず彼女の名前を呼んでいる。
「……げ、幻覚かと、思いました。」
 微かに鼻を鳴らし、そして小さな体を震わせながら彼女は、囁くようにそう言った。泣き出しそうなその声を聞くと、アーサーの胸の中はモワモワと暖かな何かで一杯になる。
「き、菊……」
 泣き出しそうな声でそう呼ぶと、菊は顔を持ち上げてアーサーを見やった。その黒くて大きな目は涙で潤み、頬と鼻の上は赤色に染まっているが、嬉しそうな色で一杯だ。
 それは優しくて愛しい、懐かしの自分の恋人だ。
「……まさか、会いに来てくださるなんて……」
 そこまで言うと感極まったのか、菊は顔をくしゃりと歪めてボロボロと泣き出してしまう。そんな幼子みたいな泣き方に、思わずギョッとして手を伸ばし、濡れた頬を手の平で拭ってやる。
 あまりにも不思議な取り合わせなのか、周りの人間は驚き、その2人に目線をやる。最初不審そうな目線をアーサーに送っていたが、泣いた少女の目前に屈み込んで慌てて宥めているのを見やり、微かに笑みを浮かべた。
「今どこに泊まっていらっしゃるのですか?」
 ようやっと泣きやんだと思うと、菊はニコニコと笑いながらアーサーの手を握り、機嫌が良さそうに微笑んでいた。
 道路に落ちてしまった袋には、何やら瓶に液体が入っていたらしく、粉々になったその破片を拾い上げて、手早くビニール袋に詰め込んだ。それから、日本語でなんと書かれているのか分からない数個の箱を鞄に詰め込む。
 大丈夫か。と尋ねると、菊はいつもの笑顔を浮かべて頷いて見せた。その様子に一応安心すると、手を取り目的地もないまま、人の流れに乗っかって歩き出す。どこかの喫茶店でも入りたいのだが、休日の為どこも一杯だ。
 色々問いただそうと思っていたのだが、そんな彼女を見やると、どうにも問いただそうという気分にならず、ただアーサーも笑みを浮かべて彼女の行く通りに歩を進める。
 もうそろそろ太陽は傾き、闇がやってくるだろうけれど、街はまだ賑やかであった。石畳の道が続き、みんなが不思議そうに2人を振り返る。
「いつ会えるか分からなかったし、安いホテルに泊まっているが。」
 安いホテルといえど、自国の安ホテルより幾分もマシで驚いた。町中でパトカーが鳴っているわけでなし、部屋が異様な程不潔な訳でもない。
 けれども菊は眉間に皺を寄せると、軽く首を傾げてアーサーを見つめる。まだ顔色がそんなに良く無いけれど、先程までのドヨンとした雰囲気は見受けられない。
「私の家にお呼びしたいのは山々なのですが、私の家族は、その……」
 言い辛そうにするその表情がどこか寂しげで、アーサーはフルフルと首を振る。
「いや、それは良いんだが……でも。」
 でも。の後を続けられずにアーサーは口ごもると、菊はにっこりと微笑んでアーサーの腕にすり寄った。ぴったりとくっつくその行為は、今まで一度もされたこと無かった物で、思わず体が固まる。
「おいしいもの一杯食べて、それからお洗濯もしましょうね。」
 急いでいたから、数日分の洋服しか詰めることが出来なかった所為で、よれよれの洋服を纏っていた事もあり、気にしていた事もあり思わず肩を震わせた。
 悪気は微塵も無かった菊は、アーサーの腕にきゅうっとすり寄り、しっぽでも振るように嬉しそうに微笑んだ。それからそっと、袖の中に隠していた携帯の電源を落とす。
 
 
 菊に連れらて和服店へ行ったり、和食店に行った。目的を達成したのだから、これから数日の休日は目一杯日本を満喫することに決めた。
 安ホテルはガラガラだったらしく、菊は直ぐにもう一部屋とることが出来た。壁を叩くととても薄く、これは今夜は無理だと、アーサーは風呂の中でぼんやりと思う。
 何というオリエンタルリズム。未知の装飾、着物を前にアーサーはワーオと小さく呟いた。一体どう脱がして良いのか分からずにわたわたするアーサーをよそに、菊は思わず吹き出し、容易に帯びを解く。
 思わず拍手するアーサーは、今は完璧ただの観光客である。面白い服だと声高に興奮する彼に、菊は思わず苦笑を漏らしながら帯を手渡して遣った。取り出した日本製のデジカメで帯の写真をとると、そのレンズを菊に向ける。
 驚いて目を大きくさせる菊は、アーサーを見やって微かに首を傾げて見せた。その姿を一枚撮ると、そっとカメラを下におろす。
「……なぁ、帰らなくていいのか?家には何も言ってないんだろ?」
「大丈夫ですよ。それよりアーサーさんこそ、こんなに会社を休んで大丈夫なのですか?」
 菊の問いにアーサーは無邪気に笑い、その翡翠色の瞳を細ませる。久方ぶりに見やり、それに薄暗いオレンジ灯だけの室内でも、その顔は美しい。
 思わず菊は溜息を漏らすと、両手を広げて珍しくアーサーを迎え入れる。嬉々としてアーサーはその胸に埋まると、甘い心地と布一枚下に感じる乳房に懐かしさを覚えた。
「目一杯の有給をつかってやった。まだこっちに居られるぞ。」
 そう笑うアーサーに、菊は思わず苦笑を漏らしながらも、アーサーの髪を手櫛で遊ぶ。
「まぁ。まだ入ったばかりですのに。」
 やはり海外は違うなぁ……なんて思いながら、アーサーの頭に頬を寄せて抱きしめた。お互いがお互いに、懐かしい匂いがすると、胸中喜びの声を上げる。
「……アーサーさん、私が死んだら、悲しいですか?」
 暫くそのままの姿勢で居たのだが、やがてゆったりと菊が口を開いた。随分思い悩んでいたのだが、口に出してみれば大した言葉では無かった気がして、知れずホッと息を吐き出す。
 けれどそれまで微睡んでいたアーサーはガバリと体を起こし、菊の肩を掴み、眉間に深い皺を作る。その剣幕にギョッとして、思わず菊は体を強張らせた。
「な、なんだよそれ……!もしかして、俺に言わないで国に帰ったのって……」
 顔を蒼くして狼狽えるアーサーを前に、菊は眉根をハの字にし、慌てて首を振る。
「いえ、いえ、違うんです。そういうのじゃなくて、ただ、聞いてみようと……」
 菊の言葉にアーサーは思わず溜息を吐き出すと、グッタリと憔悴して俯く。そして右手で、目に掛かった髪を掻き上げた。
「……吃驚した。そういうのは、冗談でもキツイ。」
 項垂れるアーサーに、菊は困った表情を浮かべ縋る。アーサーの頬を包み込んで目線を合わせると、アーサーもそのまま体を傾けさせて、菊と今度は唇を合わせた。
 唇と頬、それから鎖骨、肩口に唇を寄せると、そのままゴロンと、2人同時にベッドの上に横になる。ベッドののスプリングが、あまりにも大きな悲鳴を上げたものだから、2人同時に噴き出す。
 動く度にわめくスプリングに暫く笑うと、やがて溜息を吐き出して天井を見上げたまま2人とも無言になる。そのまま幾分か経った後、意を決したようにアーサーが口を開いた。
「菊、ここではっきりさせよう。俺と結婚してくれ。一緒にあの国へ帰ろう。」
 手の平に汗を掻くのを覚えるが、繋いだ手の平を解かずにそう告げる。心臓が自身でも驚くほどに激しく鼓動し、黙って彼女の返事を待つけれど、中々返事が帰ってこず、こっそりと盗み見た。
 すると、気が付けば菊は真っ黒な瞳でジッとアーサーを見やっていて、思わず小さく身をひく。どうしていいのか分からずにまごついていると、黒い瞳が潤み、ゆるゆると涙が零れる。
「き、菊?」
 動揺するアーサーに対して、菊は相変わらず泣き出しそうな様子を見せながら、それでも心底嬉しそうにふんわりと微笑んだ。
「嬉しいです、本当に!……ああ、きっと連れて行ってくださいね。」
 そう言い切ると菊は、再びその黒い瞳に涙を一杯溜めてから、不意にホロホロと零した。アーサーは驚き手を伸ばし、その頬を包み込んで眉根を下げ、顔を覗き込んだ。
「なんだよお前、さっきから……なぁ、何があったんだよ?」
 額を寄せながら問うても、菊はスンスン鼻を鳴らすばかりでアーサーの問いには答えようとしなかった。

 
 家に帰ってから自室に寄ると、昔にアーサーから貰ったワンピースに袖を通す。白地に花の刺繍が施されているもので、可愛らしいのだが、可愛らしいが故に着た事の無かった物だ。
 それから呼ばれた部屋へ行くと、両親と更に兄が菊の到着を待っていた。いつもだったらその気迫に押される菊だけれど、今日ばかりは彼等を見据えてしっかりと立つ。
「お前、昨日どこ行っていたアルか。」
 怒りを露わにする兄に対して、いつもならば居づらそうにするのに、その日ばかりは一歩も退く様子は見えない。
「……何度も申しましたが、留学するまでは、あなた方の言うとおりの人生を歩むつもりでしたが、今は、見知らぬ男の元へなど嫁ぎたくは思っておりません。」
 王耀の言葉には返さず、菊はギッと立っている人物を睨みながらそう言うと、王耀はダン、と机を叩く。
「我の質問を聞いてたあるか?」
「ならば、ならば私の言葉を聞いて下さいっ!」
 珍しく声を荒げる菊に対しても、彼等は耳を貸そうとはしない。お金持ちで、地位があり、品位がある男と結婚すれば絶対幸せになれる、それ以外選択肢は無い。そう、みんな菊を無視して笑う。
 当然自分を思ってのことと知っているのに、今の菊は嬉しくもなんともない。そう声高に言っても、ここの居る誰もが耳を貸さなかった。
 熱くなって鼻の奥が痛くなるけれど、懸命にそれを押さえてコチラを睨む兄をにらみ返す。
「いい加減にしなさい。どれだけ我々が翻弄したと思って居るんだ。」
「……私の言うことは、聞いて下さらないみたいですね。なら本当の事を言います。
 私は昨日、アルコールと薬を持ち、死に場所を探していました。一つも愛せない男と結婚などするぐらいなら、死んだ方がマシです!」
 父親に強く叱られればいつでも逃げ出すのに、その日ばかり菊は手を堅く結びそんな両親もにらみ返す。菊の言葉に両親は驚くが、王耀はその言葉を嘘だと思ったのか、軽く肩を竦めた。
「我は、そういう嘘は好かねぇアル。」
 溜息を吐き出し、細い目を更に細めて菊を見やった。菊は一瞬怯むけれど、興奮している所為か頬を軽く朱くさせ、どこか満足そうに不適に微笑んだ。
 悲しみとも挑戦ともつかないその笑顔に、王耀は思わずハッとした。が、王耀がどうする間もなく、菊は自身の背後にあった窓を開け放つと、ヒョイとそのサンの上に飛び乗る。
「私は……私は、私の人生を歩んでみたかったのです。……ごめんなさい。」
 それまで挑戦的だった様子を萎えさせると、眉根を下げたまま彼女は囁くようにそう言った。そして呻くように「さようなら」と呟く。
「菊っ!」
 振り返った菊は、そのままサンから飛び跳ねるように地面に落ちる。フワリと浮かんだ白いスカートが視界から消えた時、ようやく部屋に居た人々は窓へと駆け寄った。
 
 
 闘いに挑む様子で家に帰る彼女に付いて歩き、ここで待っていてくれと頼まれた。後ろにある植木の前で立ったまま、彼女が植木の上に敷いたシートを不思議そうに眺めながら、アーサーは待ち惚けをくらっていた。
 最初は心配していたけれど、不穏な雰囲気の一点もない青空に、その内気持ちいいなあ。なんてのほほんとしだした頃である。軽い音がしてアーサーの頭の上にあった窓が開く。
 何やら聞き慣れた声がし、アーサーはその窓の一点をジッと見つめていた。こっち見るかなーとか思っていたのだが、何を思ったのか彼女は窓の桟に飛び乗る。
 危ない。と呟くよりも早く、彼女の上体が揺らぎ、パッと空を飛んだ。たった二階だからそれほど高くは無いけれど、下手すれば骨折か、頭を打ったなら死んでしまうかもしれない。
 驚き両手を広げると、彼女も大きく手を広げ、そしてそのままシーツを敷いた植木の上に引っ繰り返った。結構な衝撃であったけれど、頭同士をぶつけている様子は無いし、取り敢えず強烈な痛みは無い。
「怪我はありませんか!?」
 ガバリと体を起こすと、菊は泣き出しそうな表情を浮かべてアーサーの体をペタペタと触り、真っ青な顔をしていた。ので、アーサーは片腕を持ち上げてヒラヒラと振り、大丈夫だと示唆する。
「菊ー!」
 後ろから声が響き、後ろを振り返ると、窓の所で身を乗り出して数人が仰天してこちらを見やっている姿がある。菊とアーサーは衝撃でぼんやりしたままそちらを振り返った。
 
 
 荷造りで入れてきてしまったらしい長い間荷物の底にあったスーツはよれよれで、折角菊の家族と初対面だというのに、なんて情けない格好であったことか。
 が、そんな事どうでもいいのか、場の雰囲気は完全にピリピリとしていて、あの菊までが本気で苛々している様子である。その隣にセイザをしながら、もぞもぞと足を微かに動かす。
「私が本気だと、知って頂きたかったのです。」
 眉を吊り上げてそう言う菊を見やりながら、アーサーは未だに一人だけ事態が把握できずにいる。
 先程の所為で出来た数カ所の擦り傷の手当をすると、そのまま家へと案内された。アーサーの手当の最中菊とその家族はいくらか話し合いをしたらしく、初めから何の話題かも分からない。
 無言に負けたアーサーが、取り敢えず自身の紹介をしてしまおうと、一緒に入っていた名刺を一枚取り出し手渡す。残念ながら言葉が通じないため、先程名乗ったときも、理解してくれた自信が無かった。
「あーさー・かーくらんど、アルか。」
 英語が分かるらしい若い男が、その名刺を覗き込んで小さく呟く。それから顔をアーサーへと持ち上げると、その目を細くさせてから訝しげな様子を見せた。
「お前、カークランド社の跡継ぎ息子あるか。」
 王耀の言葉に驚き、ガバッと菊は驚きを露わにアーサーを見やる。その大きな瞳を白黒させ、ぽかんと口を開けていた。
「……カークランド社って、あの……?」
 ていうか、知らなかったのか?と逆に驚きながら、アーサーも菊を見やる。
 アーサーの祖父が始めたホテル業は大成功し、今では世界にいくつもカークランドのホテルが建っている。大学は普通の生徒と同様に暮らしたくて、学生寮を選んだのだ。
 周りは旧友以外はカークランドの息子として扱っていたから、菊もとっくに知っているとばかり思っていたのだが……だから、普通に接する彼女が好きだった。
「……普通、新人社員はこんなに休みなんてとれないと思うぞ。」
 知らず苦笑を漏らすと、菊は目を更に大きくさせてパチパチと瞬きをしてみせた。
 
「ああ、あんな現金な親で恥ずかしいです。」
 苦々しい様子で自身の頬を包みながら、菊は本格的に恥ずかしそうな様子で俯く。そんな様子を横目で見やった後、春霞に隠れる日本の満月に視線をやる。
「いや、心配なんだろ。」
 思わず笑うと、カークランドの子息だと知って喜んだ彼女の両親を思い出す。ただ兄ばかりが忌々しそうな様子だったのが気になるが、取り敢えずそれほど心配も無いだろう。
「ああ、日本は綺麗な所だな。」
 ぼんやりとそう呟くと、菊は酷く嬉しそうに喉を鳴らして笑った。すり寄る彼女から、あの懐かしい、甘い薫りが漂ってくる。