卿菊でこちゅー


 
『黄色の花』
 
 
 仕事でよくしてくれている夫人から、家族全員食事に呼ばれ、アーサーは戸惑いながらもいつも贔屓して貰っているし断る訳にはいかず不請不請頷いた。
 本格的に伸び伸びと育ちすぎたアルフレッドを厳粛な場に連れていくには抵抗がある。その上好奇な目で菊についてとやかく言われたり、菊自身に何かされたら最悪だ。
 もう頷いてしまったのだから結局悩んでも無駄なわけで、あまり余所の家にお呼ばれしたことの無かったアルはキラキラと顔を輝かせ、一生懸命支度を整えさせようとしている菊とフェリシアーノのまわりをじたばたしていた。その様子だけみれば10歳という歳相応な気がするのだが、自身の母を名である『キク』と呼び、母に対する反抗期はてんで来ない。
「菊」
 アーサーが不意にその名前を呼ぶと、アルを捕まえようとしていた菊は驚き顔を持ち上げ、黒い瞳をくりくりとアーサーに向ける。
「ちょっと後ろ向いてくれないか?」
 菊は不思議そうな顔をアーサーに向け、それから戸惑いながらもアーサーに背を向けた。アーサーはすぐ横にあった机から小箱を取り出すと、ツカツカと彼女のそばに寄る。
 小箱から真新しいシンプルなネックレスを取出し、細かな彼女の髪をそっと左横に纏め、ネックレスを取り付ける。細い首がいやに目に付く。
「……アーサー様?」
 驚きネックレスとアーサーの顔を交互に見やってから、眉を歪めて泣きだしそうな顔をする菊に、アーサーは小さく肩を竦める。
「一昨日仕事先で買ってきたんだ。やはり、似合うな。」
 ネックレスを取り付けた菊を見やりアーサーは満足そうに頷くと、菊の白い頬を指で一度撫でてから自身の革手袋を取出し自分の手に器用にはめる。菊とアーサーのやりとりを見ていたアルは、それまで暴れてその辺を飛び回って居たのだが、むくれた表情で急に素直になり、ドカリと偉そうな様子で椅子に座った。
 
 アーサーの家とどっこいな大きさの豪邸を前に、「わぁ!」と声を上げて駆け出しかけたアルの肩をアーサーは掴み、眉間に小さな皺を作りながら押し止めた。  それから菊に手を貸し歩きだすと、やはりアルはむくれたまま二人の後ろをついてくる。
 アルは食事の席でも菊の胸元に光る宝石を見つけては、毎度頑張って自制心を働かせて良い子を演じるのに撤しった。勿論小さな失敗は幼いということでカバーするのも忘れない所が彼らしい。
 相手の家族は初老という程の夫人と、夫人の若い娘の二人だけだが、アーサーの他に数組仕事仲間の家族を招いていて、アルフレッドと同じ歳ほどの子供も同じ席に着いている。
 と、会話もそこそこカシャーンという音が部屋に響き、アルはハッと青い瞳を隣で固まってしまった母に向ける。アルだけでなく全員の視線がそそがれ、菊は白い肌を瞬時に青くしたまま数秒動けずにいた。
「す、すみません……」
 泣きだしそうな顔で慌てて身を屈め落としたフォークに指を伸ばす。
「菊」と、隣に座っていたアーサーがすぐに声を掛けたのだが、菊はすでにフォークを手に体を起こしていた。菊はハッとしてからもう一度謝ると、眉尻を下げて泣きだしそうな顔を俯かせる。
 アーサーはそんな菊の手からフォークを取ると、手伝いの人間に「もっていってくれ」と差し出す。居心地が悪そうな菊に何か一言声をかけたいのだが、この場で何か言うわけにもいかず、アーサーは無言のまま前に向き直った。アルフレッドはその様子を目で追いながら、そっと母の顔を覗き込み、キクと目が合った瞬間にこっと目を細めて笑う。泣き出しそうだった母の顔が、ほんの少しだが和らいだのに満足し、すぐに前に視線を戻した。
 夕食が終わり案内された居間で、皆が話す中菊は椅子にポツリと一人で座って室内を見やって居た。アーサーは挨拶しに行ってしまい、やはり動けない菊だけが残されたのだ。
 慣れている事だし、人見知りする質である菊からすると逆にありがたい事ではあるのだが、周りから見ればそう気分の良い光景では無いのだろうな、と少しだけそわそわしてしまう。
 アーサー自身わざとそうしている事で不用意な会話に菊を巻き込まないように、誰かと話す事が少なければそれだけ傷つく機会は少なかろうと、そう考えてのことなのだが、不器用同士お互いの考えを知る日はまだ来ない。
 そこへ先程まで同年代の子と遊んでいたアルが、一人座っている菊の元へと駆け寄る。母が一人座っていたのを見付け、アルフレッドは彼女の膝に両手をついて、心配そうに菊の顔を覗き込んだ。
「もっと遊んでおいで、アル」
 アルフレッドの真意を汲んで、菊はそうアルフレッドの頭に手を置いて言うと、アルはふるふると首を振って、菊の顔をジッと見上げたままにまーっと笑う。
「オレはね、キクと一緒に居るのが一番楽しいんだもん。」
 と、ひどく大人びた口調で言い、菊の膝のうえにピョンと飛び乗る。
「キクはオレと居るの、楽しい?」
 アルフレッドが椅子の上で器用に菊の膝を踏まないように膝立ちして、菊と顔を真正面から向かい合わせ、首を傾け尋ねた。いきなりアルが視界に現われたものだから、少しばかり驚きながらも菊は頬を緩める。
「勿論です」
 ふんわりと菊は微笑み返すと、アルフレッドは目を細めて菊にギュッと抱きつく。アルは暫らくはぴったり菊にくっついて喋っていたのだが、いつのまにか菊の胸の中で寝息を立て始めた。
 アーサーが適当に会話を切ってまた菊の所に帰って来た時、彼は二人の姿を見つけて翡翠色の瞳を少しだけ大きくさせる。
「なんだ、アルは寝たのか?」
 菊にひっついたアルフレッドを後ろから剥がして抱え込もうとするも、しっかりと指が菊の服を掴んでいるものだから、指一本一本丁寧に剥がさなければならなかった。おかげでアーサーがその小さな体を抱き上げるのに、随分時間がかかってしまう。
「さすがに重いな。」
 大きくなってからあまり抱える機会が無くなっていた為、いつも間隔を開けてアルを抱える度に驚いてしまう。もう流石に片手で抱き上げることは出来なく、アルフレッドを抱き上げると菊に手助け出来ず、アーサーは困って微かに目を細めた。
「私は大丈夫です。」
 菊はアーサーを見上げて微かに笑い、横に立て掛けていた杖を掴み、ゆっくりと立ち上がる。アーサーは屋敷の外に馬車を待たせているから距離はあまりないが、いくつかの段差が気になった。
 さっさとアルを馬車に詰め込み、菊が歩くのを手助けしようと、アーサーは周りへの挨拶もそこそこに足早に歩き始める。菊は勿論アーサーの真意を知らないから、どんどん離れてしまうアーサーの後ろ姿を見やり、慌てて足を動かそうとした。が、当然足は動かずにアーサーの姿はどんどん離れていってしまう。
 焦った彼女の足がもつれて倒れこんでしまうのに、そう時間はかからなかった。
 彼女にしては受け身がとれなかったらしく、アーサーの後ろで大きな音が響き、アーサーの所まで菊の杖が転がってくる。アーサーは驚いて振り返り、倒れこんだ菊を見て思わずアルフレッドを落としかけてしまった。
 慌ててアルフレッドを担ぎなおすと、菊の所まで足早に近寄る。菊は眉を辛そうに歪めながらもアーサーを見やると照れたように小さく笑い、アーサーから杖を受け取った。
「大丈夫か?」
 アルフレッドを置くところがどこなに無いかと、アーサーは周りに視線をやってから、軽くアルフレッドの背をぽんぽん叩いて起こそうとした。
「アーサー様、私は大丈夫です。」
 菊は顔を持ち上げると、慌ててそう言いながら腕をつっぱって上半身を起こそうとする。
「いいから動くな。」
 アーサーは目を擦るアルフレッドを床におろそうとしながら菊にそう言い、緑色の瞳を向けるが、菊は立ち上がる為に新しい傷を作った足を床につく。少々辛そうに眉を歪め、懸命に立ち上がろうとした。
 が、椅子にしがみつきながらも立ち上がる事が出来ず、足首に力を入れようとした瞬間きつく目を瞑り、グッ、と喉奥から苦しそうな声が漏れる。
「動くな!」
 その菊の姿を見たアーサーが思わず一言そう声を荒げると、ビクリと菊は肩を震わせ目を伏せた。アーサーの一言で完全に覚醒してしまい、大きな瞳で父と母を不安げに見やるアルをアーサーは床に置くと、まるでひざまずく様に菊の足首をそっと両手で包み込む。
 それだけで菊は眉を歪め、小さく肩を震わせた。
「……完全に挫いてるな。」
 眉間に皺を寄せながらアーサーがぽつりとそう洩らすと、菊は申し訳なさそうに眉尻を下げ、肩を落とす。
「医者を呼ぼう。」
「いいえ、本当に大丈夫です。」
 アーサーが立ち上がろうとすると、菊は慌てて彼の裾を掴み、泣きだしそうな頭を振る。が、アーサーは顔を顰めたまま菊の頭に手を置き、
「ひびが入ってるかもしれない」と宥める様に言って立ち上がり、菊の手を離れてしまう。
「もうしわけないが、もう少しここに居させてもらえますか?」
 顔を持ち上げアーサーは家の主である女性に問い掛けると、一部始終見ていた夫人は小さく目を細め、なぜか少しだけ口の端を持ち上げて一度頷く。
そして「今夜は泊まっていっても構いません。」と、笑い声をたてて言った。
 
 割り当てられた部屋に、自分の屋敷からわざわざ呼び寄せた菊の掛り付けの医師に診て貰うと、骨には異常は無いようだが様子見の為にも暫らく絶対安静に、と言い付けられた。アルフレッドが寝入っているベッドに腰掛け、菊は包帯がまかれ固定されている自身の足首を見やりため息を吐き出す。
「痛まないか?」
 上着を掛けたアーサーが、菊の顔を覗き込んで問い掛けると、菊は一度こくりと頷く。その顔がひどく悲しそうで、菊の顔を覗き込んでいたアーサーは小さく頬を緩める。
「……気にするな。」
 彼女のことだから気にしないなど無理だろうがそう言うと、俯いたまま菊は目を瞑った。
「今日は迷惑ばかりかけてしまって……すみません……」微かに声を震わせる彼女の頬を、指先でアーサーは軽くなぞる。
 ぎしり、とベッドが揺れたから、アルフレッドはぼんやりとした視界を微かに広げて前を見やった。暫く見知らぬ天井を眺めてから横に目線を泳がせていくと、座っている母の頬を包み込んで上を向かさせると、その額に父が唇を落とす。
 キクの胸元のネックレスがきらりと光った。
 
 
 見知らぬ家にお泊まりなんてはじめてだったからか、アルフレッドはいつもより随分早くに目が覚めてしまった。起きたら既に父の姿は見えず、アルフレッドの横に座っていた菊はアルフレッドが目を覚ましたのに気が付き、腕を伸ばして優しく彼の頭を撫でる。
「もう目が覚めてしまったんですね。もうちょっと寝てても平気ですよ。」
 柔らかなキクの声を聞きながら、アルフレッドはその手の平が心地よくて微かに目を細めただけで暫く撫でられるままになっていた。が、ようやく目を覚まして小さく伸びをした頃に二人分の朝食をお手伝いが部屋まで運んでくれる。
「お昼に帰るから、暫くお庭でも見せて貰いましょう」
 本当は別段アルフレッドは庭なんて見たくは無いけれど、あまり遠くに出られない母はいつだってそれだけでも凄く楽しそうだった。だからこそアルフレッドも快くキクと一緒に庭に行く訳で、それがキクで無ければ別段どうでもいいだろう。
 屋敷から持ってきた車椅子がベッドの横に置いてあったのだが、それでも普通の家は段差が多くて中々進めない。会談の前では仕方がないので廊下の途中で立ち往生するしかなくなる。
「……父さんは?」
 言いたくなかった一言を言い、アルフレッドは頬を大きく膨らませムスッとしながら唇を尖らせた。が、菊はふんわりと笑ったまま微かに首を傾げる。
「多分お話ししてるのだと思いますが……仕方ないですね、アルだけでも行ってらっしゃい。」
 相変わらずふんわり笑った菊にそう言われ、アルフレッドは頬を膨らませながらも菊に背中を押されて、キクを部屋に送り届けてから仕方なく一人で階段を降りだした。
 昨日とは違いやけに静かな廊下を抜け、巨大な扉を小さな体で無理矢理押し開けて、そっと見つからない様に中を覗き込む。と、椅子に座った父とこの家の娘が話し込んでいるのを見つけ、アルフレッドは眉間に皺を寄せ唇を尖らせる。
 本当は父を(本当に仕方が無いが、キクが部屋にポツンと居るよりはマシかと)呼ぼうとしたのだが、やはりアルフレッドはそれをやめにして扉を閉め、外へと続く道を探してアルフレッドは駆け出す。
 バタン、と小さく扉が鳴ったのに気が付いてアーサーは顔を持ち上げてその扉を見やる、が、その扉は既に閉じられていて誰も居ない。けれどもそこに居ただろう子を思い、今まで話していたのを適当に打ち切り、立ち上がる。
 
 迷路の様だと、アルフレッドは人工的に作られたのだろう花畑の中を駆けながら、思った。もしも母が歩けたのなら、一緒に手を握り駆けたのだろう、なんて考えてから小さく頭を振る。
 いつだってもしも、もしも、なんて考えながら一つだって叶わないのだから、考えてはいけないのかもしれない。もしも自分がもっと大きかったら、母にあんな顔させないのに。とか。母をどこに連れて行ってあげるのに。なんて。アルフレッドは駆けながらなぜか潤んだ瞳を慌てて擦って、午後のぽかぽかと浮かび上がる様な光りの中に飛び込む。
 暗い室内から出て直ぐに光りが顔に当たり、アーサーは緑色の瞳を眩しさに細めると、向こうを駆けていく小さな後ろ姿を見やりながらおでこに手を翳した。暫し立ったままその光景を眺めていたのが、ようやく駆けていくその後ろ姿を追いかける。

 
「アルフレッド」
 誰も居ないと思っていたのに名前を呼ばれ、アルフレッドは驚いて黄色い花々から顔を持ち上げてそちらを見やり、また頬を膨らませる。
 名前を呼ばれたというのに、しかも視線を一回アーサーに向けたというのに、アルフレッドは何も言わずにまた花に視線を落としてしまう。アーサーは片眉を持ち上げると、小さなアルの後ろ姿に向かって歩き出す。
「……何してるんだ?」
 しゃがんだアルフレッドの横にアーサーもしゃがみ覗き込むが、アルフレッドはプイッとアーサーから顔を背ける。アーサーは額に青筋を立てると、優しくではあるがアルフレッドの子供独特なふにふにした頬を摘んだ。
「何怒ってるんだ、お前は。」
 顔を顰めるアーサーと同じくして、アルフレッドも嫌々という感じでアーサーに視線をやると、パチンと小さな手の平でアーサーの手を叩き、またもやそっぽを向いてしまう。右手には大量の黄色い花が握られていて、アーサーはその花々に視線をやってから小さく首を傾ける。
「菊はどうした?」
 アーサーがそう問いかけると、アルフレッドはむくれて花を指先でいじりながら視線をアーサーに向けることなく、
「部屋」
 と一言言うと、更に眉間に皺を寄せてなぜか泣き出しそうな顔をアーサーに向けるが、何も言わずに唇を尖らせてまた下を向く。アーサーは微かに目を細め、アルフレッドの頭に手を置いた。
「……そうか」
 頷いたアーサーの手をやはり弾いてアルフレッドは立ち上がると、眉を持ち上げ、キッとアーサーを睨み、何も言わずに背を向けて走り出してしまう。
 残されたアーサーは暫くぼんやりとその後ろ姿を見やった後、ゆっくりと立ち上がり彼が駆け出していったその後を歩き出す。
 
 
「……キク」
 何時の間に扉を開けたのか、不意に名前を呼ばれ、菊は窓の外に向けられていた顔を扉の方へ向け、笑顔を作り目の前のアルフレッドに視線を向ける。と、何時の間にか扉の所に立っていたアルフレッドはにこーっとほほ笑み、菊の所へ駆けて後ろ手に隠していた黄色い花で作った王冠を差し出した。
 菊は一瞬目を大きくさせてから、思わず自然な笑みをその顔に浮かべる。
「くれるんですか?ありがとう、アル。」
 にっこり笑った菊が小さく身を屈めると、アルは反対に体をのばした。そしてアルは仰々しく菊の頭の上に花輪を載せる。
 菊が体を戻そうのを、慌てて声を上げ止め、不思議そうな顔をしている菊の頭へと腕を伸ばした。そして菊の前髪を小さな手で掻き上げ、チュッと音を立てて菊の額に一度キスをする。
 額に手を当て驚き顔を持ち上げた菊に、アルは照れた様子でにっこり笑うと、菊もつられて微笑んだ。