maggio 『マッジョ ・ 夢の中の五月』
好きに使って良い、と言い渡されてあてがわれた部屋の中、未だ菊は何をして良いのか分からずにベッドの上に腰を下ろしてぼんやりと柔らかい午後の光りで満ちた外を眺めていた。やっと長い冬が終わったらしい英国は、それでもまだ寒くて菊は小さく身を縮める。
突然扉がノックされる音が聞こえ、菊はビクリと体を震わせて扉の方へと目線をやった。ここに菊がやって来てからというもの、なぜかアーサーは仕事を暫く休んで一日中家に居る。と、いっても別段一日中顔を合わせるわけでもないし、そんなに言葉を交わすこともない。
だからか、未だに彼がノックをしてくると菊は怯えずには居られない。否、怯える必要が無いのは分かっているのに、それでも気を張ってしまう。
「はいっ」
菊は慌てて近くにあった杖に手を伸ばし、棚に手を置くと少々辛そうに酷くゆっくりと立ち上がる。微かに震える膝に入らない力を懸命に入れ、入ってくるだろう彼を待ちかまえる。
微かな間があってから扉が開かれ、一瞬立って出迎えてくれる彼女に、アーサーはいつだって驚いてしまう。その足は震えているし、立っていることさえ困難だと聞いていたのに、会いに来るといつも背筋を伸ばしてそこに居る。
「……もう、慣れたか?」
微かに首を傾げ、ベッドに座るように促しながら近寄ると、菊はまたゆったりとベッドの上に腰を下ろし、アーサーを見上げてアルカイックスマイルを浮かべる。
「はい。おかげさまです。」
ふんわり微笑みそう応えながらも、胸を締め上げるコルセットが辛く、先程から息一つ吸うことさえままならない。それでも耐えようと思うのは、出来るだけ早くこの国に慣れなければと、そう思うからだ。
「どうかしたか?」
菊の声にいつもより少々覇気がないのを感じ、アーサーは訝しそうに眉を歪めて問いかけるが、菊はいつも通りの様子で首を振ってみせる。黒い柔らかな髪がさらさらと揺れた。
「いいえ、本当に大丈夫です。」
この我慢もあと少しだけだから……と、菊は笑顔の底でそっと思う。アーサーは菊と寝室を共にしようとはしないし、結婚したというのにまだ一度も契りを交わしてさえ居ない。果たしてそれで夫婦といえるのだろうか……?
答えは否だ。つまり、その意味はただ一つ、彼には外に別の人(女)が居て、自身とは子供を作るつもりさえ無いという事。
だからきっと、もうすぐ彼はこの家に立ち寄ることもなくなるのだろう。そうすればこんなにも緊張する必要は無くなる……だけど。とすぐに菊は思った。だけどそうなれば自分は、この大きなお屋敷にお手伝いを抜かし一人きり、という事になるのだろう。
まるで意味を成さない存在として、この部屋の、この椅子に座り、そうして来る日も来る日も外ばかり眺め、動かない足に手の平を置いたまま朽ちていくのだろう。こんなにも遠くに来ておきながら、どこにも行けないのだ。
それは地獄だ。想像しただけで発狂してしまいそうな、酷い地獄だ。
けれども菊にアーサーを引き留めるだけの、例え振り向かせる事だけの術を知らないと、そう思っていた。どんなに頑張っても華やかな彼等の様にはなれないのだろうと、そんなコンプレックスが既に心の中に植え付けられている。
「今日は庭を案内しよう。広いから大変だが、もうすぐ花が沢山咲くぞ。」
菊の心中など当然分かるはずもなく、アーサーは嬉しそうにそう言うと、若干気落ちしている菊に向かい自身の腕をさしだし、立ち上がるように促す。菊は顔を持ち上げるとアーサーの顔を見やり、微かに戸惑いをその黒い瞳に浮かべてから手を伸ばした。
こんな時、本当はどういえばいいのだろうか。どう接すれば、彼は喜ぶのだろうか。なんて、決して決着のつかない問答を繰り返し、その度に国で子供一人生むこと無い自身を父は恥じるだろうと、項垂れる。
「もう少し暖かくなったら、外にテーブルと椅子を引っ張り出して紅茶を飲むのも良いな。」
長い廊下を抜け、春の薫りが漂い始めたガーデンに足を踏み入れ、アーサーは嬉しそうに弾んだ声でそう笑う。菊はほんの少しだけ驚き、アーサーの横顔を下から見上げると、自分とは似ても似つかない美しい金糸が風に靡いた。
口を開いて返事をしようとしたのだが、言葉が出ずに目の前がグラグラと揺れる。直ぐに菊は自身の異変に気が付きながらも足を止めようとは考えなかった。それどころか、どうにか誤魔化そうと懸命に足を動かしつつ、息を整えようとする。
それなのに掴もうとする先から意識はスルスル遠のいていき、目の前が徐々に狭まり体が揺らいでふらつく。
「……菊?」
異変に気が付きアーサーが眉間に皺寄せ訪ねるが、既に意識が飛びかかっていた菊は返事も、アーサーを見上げることも出来ずに状態を揺らしたかと思うと、不意にぷっつりと目の前が真っ暗になる。遠くで自分の名前を、もう一度アーサーが叫ぶのが聞こえた。
目が覚めたのは別段それほど時間が経つ前……というよりほんの数十分程なのだろう、未だ太陽は空にちゃんと輝き、世界は暖かく、そして目の前には彼が自慢していた薔薇のつぼみが見えた。
「フェリシアーノ!居ないのか、フェリシアーノ!」
真上でアーサーが声を荒げているのをぼんやりと聞きながら、ようようハッキリしてくる意識の中、やっと菊は彼に抱き留められているのだと気が付く。コルセットに締め上げられすぎた所為か、いつの間にか意識を失ってしまったのだろう……
情けなさを覚えながら、菊は腕をアーサーに伸ばしかけ、戸惑い止めた。
「……アーサー様、大丈夫です。」
気を失っていると思っていた菊の声が聞こえてくる物だから、若干驚きながらもアーサーは菊に目線をやる。菊は深緑の瞳に見られ、気恥ずかしそうにその双眼から視線をそらし、空いた手で下に落ちただろう杖を探る。
「今医者を呼ぶから、大人しくしてろ。」
地面を探ろうとしている菊の肩を自身に寄せ、藻掻こうとする菊のその動作を遮り、アーサーは眉間の皺を深くして不機嫌そうな声を上げた。
「そんな……大袈裟です。ただちょっと眩暈がしただけですから。」
驚いた様子で菊はハッとアーサーを見上げるのだが、そうすればそうする程にアーサーは不機嫌そうな顔をし、そして菊を抱きかかえたまま立ち上がる。下に落ちた杖は、どこかに転がってしまっていたらしく、目線だけで探したのに見つからなかった。
「ほんの少しの眩暈で気を失うのか?」
酷く苛立たしげな彼に、菊は微かに俯き、幾分戸惑いながらやっと口を開く。
「……コルセットがきつくて呼吸が出来なかったからです。」
ポツリと漏らされた菊の言葉に、アーサーはそれでも不機嫌そうな顔を直そうとはせず、尚眼光をキツクする。
「ならなんでもっと早くに言わなかったんだ。」
なぜこれ程怒りを買ってしまったのだろうかと、抱き上げられたまま菊は眉尻を下げた。放って置いて貰っても構わないと、本当は思っているのだが、ソレを言ったらもっと怒ってしまうだろうか?
どうしていいか分からず、それでも迷惑を掛けたくないとただ菊は俯く。
「どうしました?」
奥からアーサーの声を聞きつけて走ってきたフェリシアーノは、入りずらそうな雰囲気を感じているのか居ないのか、そっと声を上げて割り行った。と、振り返ったアーサーの表情が酷く不機嫌なものだから思わず小さく後じさる。
「菊の部屋着を用意しろ。後このコルセットは体の負担にならない大きさに仕立て直しておくように言っておいてくれ。」
アーサーの言葉にフェリシアーノは返事をすると、またパタパタと駆けていく。
アーサーは菊を抱え上げたまま居間のソファーに向かうと、いつものソファーに妙にゆっくりと降ろされ、背中を見せるように動作で指し示される。
菊は戸惑いながら背中を見せると、シュルリと布ズレの音が聞こえ、締め上げられた胸に微かな余裕が生まれてその心地よさに思わず菊はホゥッと小さく息を吐き出す。
彼自身も外し方がいまいち分からないのか、グイグイ何やら格闘している様子だ。もたつく割にコルセットが緩んできて、開放感が自身に降りてくる。
「前を。」
そう言われ、菊は驚き慌てて顔を持ち上げてアーサーを見やる。
「あの、自分で外せます。」
眉尻を下げてそういうのだが、一切表情を変えずに不機嫌そうな彼の顔を一目見て、菊は泣き出しそうな顔をすると素直にアーサーに向き直った。下に服を着ているのだから恥ずかしい訳では無いはずなのに、それでも菊はアーサーから顔を反らして胸元で動く指から懸命に意識を外す。
一番上がパチリという音と共に外されると、菊は目を大きくさせて大きく息を吸い込む。徐々に外されていく音を聞きながら、菊はどうにか意識しないようにしようと、ぼんやりと窓の外に目線をやる。
「どうしてもっと早く言わなかったんだ。」
不機嫌そうなアーサーの言葉を聞き、菊は思わずアーサーの方に視線をやると、真っ直ぐにこちらを見ていたアーサーの瞳とぶつかり、直ぐに逸らそうと思ったのに反らせない。
菊は謝ろうと口を開きかけるのだが、怒ったアーサーの顔を見た瞬間にこの文化に慣れようと必死になっている自分が酷く惨めで、彼女にしては珍しく少々腹が立った。
「……私も、ここの暮らしに早く慣れたいんです。」
反論というのにはあまりにも弱々しくはあったけれど、謝罪の言葉を言われるのだとばかり思っていたアーサーは微かに眉間に皺を寄せて、菊と対峙する。
「……辛い思いをしてまで、無理をしなくていい。」
怒られると思っていたのに、アーサーの声が意外な程優しくて菊は驚き小さく目を大きくさせた。目が合い微かにアーサーは身を乗り出すと、驚き菊はビクリと体を震わせて怯える素振りをする。
だから一瞬アーサーは戸惑い、菊の頬に手をあてがうとその額にゆっくりと唇を落とす。
「なんでも言えばいい。これから一生傍で暮らすんだ。」
アーサーにとったら何気なく後に付けた言葉なのだが、菊は大きくさせた黒い瞳を震わせてアーサーの緑色の瞳をジッと見つめる。菊の様子がおかしい事に、アーサーは微かに首を傾げると彼女の名前を呼んだ。
「では……」
一度口を開いてから、また真横に結んだ彼女の体が震える。言葉を探すように菊は目線を漂わせ、そしてやがてアーサーの顔でとまった。
「では、なぜ私を抱こうとなさらないのですか?」
菊の一言にアーサーはポカンと口を開き、そして直ぐにアーサーの顔がカーッと赤くなって体を起こすと、その目線が四方に泳ぐ。酷く戸惑っている様子に、菊も驚きジッとアーサーの顔を見やる。
そして言葉を探しきれずに困ったアーサーは、己の額を自身の手の平で覆って俯く。
「……それでいいのか?お前は。」
先程の不機嫌そうな口調とは打って変わって動揺を隠し切れない様子のアーサーに、菊は訝しそうに眉を歪めると首を傾げる。菊には、アーサーの真意が(アーサーにとっては悲しい事に)掴めない。
不思議そうな顔でアーサーを見上げている菊を、緑色の双眼が戸惑いながら見やる。キス一つ怯えられているのに、どうして組み敷くことが出来ようか……という事を、更にどうやって説明して良い物か……
そこまで考えて、彼女が望んでいる未来と、自分が望んでいる未来の食い違いに気が付き、アーサーは思わず小さく瞳を大きくさせた。
こんな遠くの国に半強制的に連れてこられて、全く違う食べ物を口にし、気絶をしてしまう程に強く締め付けられた服を着ても尚、文句を言わずに耐えようとしているその意志は、一体どこから湧いてくるのか。
そこまで考えて、アーサーは不意に悔しさが込み上げてきて下唇を強く噛んだ。彼女の瞳を自分に向けさせたくて、あの笑顔が欲しくてここまで連れてきたというのに、何も自分は手に入れていない。
「お前が、もっとここの暮らしに慣れたらな。」
腕を伸ばしたアーサーのその手の平が、ポンと菊の頭の上に置かれてアーサーは微笑む。その顔が、ほんの少しだけ悲しそうに見えて菊も眉尻を下げ、彼の顔を見やる。
「……アーサー様は、ずっとここに居るんですよね?」
ポツリと漏らされた菊の呟きに、アーサーは「え?」と顔を持ち上げ、菊の顔を見たまま動きを止めた。深く俯いた彼女の黒い瞳の下に、キラキラと光る涙がたまっていて、どうしていいのか分からずにその場でただその情景を見つめる。
その涙が零れて彼女のスカートの布地に落ちると、彼女は自信の袖で慌ててその水滴を擦り布に水分を染みこませて見えなくしたのだが、また一つ、一つと零れていくから誤魔化しようが無い。
「菊?」
慌ててアーサーは身を乗り出し、宥めるようにその肩を抱き寄せると菊の頭をそっと自身の胸に寄せる。なんでココで泣かれるのか分からないけれど、日本で一度だけ見た彼女の涙をまた見てしまった事に、動揺を隠しきれない。
「なんで泣くんだ?……どうした?」
何一つ言ってくれない菊に、どうして良いのか分からず考える間もなく、その額の上、瞼の上と、まるで子供をあやすように唇を落としていく。それで彼女が泣きやむはずは無いと分かっていたのに、そうせずにはいられなかった。
「いいえ、何でも無いんです。」
そう言いながら菊は顔を持ち上げ、濡れた黒曜石でアーサーを真っ直ぐに見やる。そんな筈無い、とアーサーが口を開くよりも早くに、彼女は泣いた所為で頬と鼻の頭を赤くした彼女が、笑う。
いつも見ているアルカイック・スマイルじゃなくて、少々幼さを増したような、大きな瞳を三日月にした初めて見る彼女の顔だった。泣き出しそうにも、幸せそうにも見えるそんな笑顔は、初めて見る表情。
アーサーは屈み込んで彼女の唇にキスを落とすと、怯えること無く菊はそっとその瞳を閉じてみせる。甘い薫りが、微かに自身の鼻に掠れていく。
「お前が今考えてること、いつか話してくれ。」
唇を離してアーサーがそう言うと、菊は肯定とも否定とも取れない微笑みをその顔に浮かべみせるが、アーサーは何も言わずに菊のその白い頬に触れる。まだ零れたままの涙が指先に触れ、ほんの少しだけ、痺れを覚えた。