※ この小説はかの有名な貴族英×女体日パラレル(卿菊)の設定を少々拝借させて頂き書いております。私の妄想満開ですので、あしからず。
『 febbraio 』
( 愛すべき二月 )
この部屋の外は明るくて暖かくて、住み心地の良い世界が広がっているのにも関わらず、菊の部屋は暖かな光りも厚いカーテンで遮断され、部屋一杯に悲しげな雰囲気が漂っている。
一歩足を踏み入れて直ぐに、アルフレッドは相手にばれない様に微かに顔を顰め、それからまた直ぐに表情を明るくすると、そのまま菊の寝ているベッドに歩み寄った。
彼女はアルフレッドの姿をみとめると、横になっていた体を起こして彼を出迎える。本当だったら辛い筈なのにそんな笑顔を浮かべる彼女が憎らしくて、悲しくて、でもやっぱり大好きで……アルフレッドはそのままベッドの端に腰をかけた。
「……キク」
身を乗り出してアルフレッドは菊の額に手を当て、その前髪を持ち上げるが、菊は少し身を捩って避ける。
「もうしばらくお風呂にも入ってないから、汚いです」
キクに汚いも何も、あるものか。とアルフレッドは言い掛け、口をつぐみ、そのまま身を乗り出して菊の額に口付けた。
「じゃあ、また後でね、キク。元気が出たら二人で散歩に行こう。」
アルフレッドのその言葉に、菊は一つコクリと頷き、小さく笑う。なぜだかその表情がひどく淋しそうに見えて、アルフレッドはその目を細めた。
菊の病が発覚してから暫らくは別段いつも通りに生活していたのだが、仕事を打ち切った筈の父が突然手紙を出すと言って家を出ていった。詳しいことはよく分からないけど、朝方早くにフェリシアーノ一人を連れて馬でどこかへ行ったらしい。
行く間際母と言葉を交わしたらしいが、「すぐに帰る」とだけしか言わなかったらしい。行く場所を聞かない母も母だが、聞かないだけで本当はとても母が不安がっていると気が付かない父も父だ。
とにかくそんな風に父が家を出てすぐ(誠に遺憾なわけだが)キクは不安なのか咳がまた止まらなくなってしまった。同時に胸も痛むらしいが、その気配を必死に隠そうとするキクがアルフレッドは嫌で仕方ない。
暫らくして流れてきた噂では、父は今仕事の知り合いである夫人の家にいるらしい。
真偽の方は分からないけれど、例え嘘にしろ面白可笑しく尾鰭が付いたそんな噂、キクの耳にでも入ったら……と思うとアルフレッドは苛立ちを覚えずにはいられない。本当ならばどんな理由にしろ、更に腹が立つ。
そんなわけでその夜、アルフレッドは人生二度目のアーサー宛ての手紙を出した。幼い頃ほぼ強制的に見知らぬ子供と共に行かされた避暑地では、毎日と言って良いほどキクに手紙を出したけれど、父には過去一度きり、今回同様キクのことでしか出したことは無い。
手紙を出してから数日後、キクの体調が急変し、散歩に行けるまでになっていたのにまたベッドの中、となってしまった。それどころかスープ類ですらあまり喉を通らず、日に日に眠る時間が増えて体は細くなっていく。
もう昼だというのにカーテンを締め切った暗い室内で、アルフレッドは眼鏡の奧の目を細める。目の前のベッドには横たわったキクがいて、この部屋の中で音は何一つ聞こえなかった。
と、そこへアーサーが書いて字のごとく、まさしくこの部屋に転がり込んできた。勢い良く扉を開けたのだが、菊がベッドで横たわったその顔を一目見、アーサーは全ての動きを止めてただ立ち竦んだ。
「……菊。」
小さくそう呟いた瞬間、アーサーの腕のなかから革の大きなカバンが滑り落ちて床にあたり激しい音をたてる。が、アーサーは別段そんな事気にもしないらしく、鞄には目線さえやらない。
ただアーサーは彼女が寝ているベッドの横にひざまつく様にしゃがむと、ベッドの上野菊の白い頬に触れようと腕を伸ばす。けれどもアーサーの指先が菊の頬に触れるより早く、アルフレッドが口を開いた。
「何しにきたんだよ。もう遅い。」
アルフレッドの妙な程淡々とした口調に、アーサーが感情の滲まない顔でチラリと彼に視線をやると、俯いていて表情は分からないがアルフレッドの肩は小刻みに震えていた。
アーサーは一つ、肺の奥からため息とも違う重い息を吐き出すと、その瞳を微かに細めて身を乗り出す。そしてずっと前からいつもしてきた様に、菊の額に髪の上から一つ唇を落とした。
そうした瞬間アーサーは目の前が霞み、視界がぼやける。これが本当に最後なのかと、当然信じる事など出来ずに胸の奥が潰れそうだ。
と、もう聞く事は無いと思っていた声が下から微かに聞こえ、菊は小さく身を捩る。
「ん……あれ、アーサー様、帰ってらしたんですか?」
数度目をしばたかせてから、菊は上半身を慌てて持ち上げアーサーを見やりキョトンとしている。が、もっとキョトンとしているのがアーサーで、その緑の目を真ん丸にさせて信じられないものを見るように菊を見やっていた。
しばらくの間を空けて、アーサーの後ろで肩を震わせていたアルフレッドは思いっきり吹き出すと、自身の腹を抱えて笑い転げる。
「あ……アルフレッド!!」
恥ずかしさからか、アーサーは顔を真っ赤にして握りこぶしを作り立ち上がると、アルフレッドは瞬時に不思議そうな表情を作って居直る。けれども残念ながらアルフレッドのその目尻には、笑いすぎた涙が溜まっていた。
「ついていい冗談と悪い冗談があるぞ。」
盛大に眉間にしわを寄せ、眉を吊り上げたアーサーを前に、アルフレッドはバカにでもするかのように小さく肩を竦めてみせた。
「冗談なんかじゃないさ。本当にそうなっていたかもしれないんだからね。」
飄々と唇を尖らせてそう言うアルフレッドに、アーサーは眉間に皺をよせたままアルフレッドを睨み、奥歯を噛み締める。
「キクがこんな状態なのに家離れたりしてさ、一体何考えてるんだよ。」
アルフレッドが声をあげると、アーサーは視線を床にずらす。薄暗い部屋でも、その表情ははっきりと見えた。
「確かに菊を置いて行きたくは無かったが……知り合いにキクと同じ病を親族で経験した人が居たから、彼女に直接話を聞いてきたんだ。薬を手に入れる事もできた。」
そう言うと険しい顔を崩し頬を緩ませ、床に落ちてしまっていたカバンをを拾いあげ、先程とは正反対に大事そうに抱える。それまで事の次第を分かりかねていた菊は、ハタアーサーの顔を見やり、その黒い瞳を大きくさせた。
「菊、菊……これできっと良くなるぞ。」
ギシリと菊の寝ているベッドの上に片膝を乗せて、心底嬉しそうにアーサーは再び鞄を床に置くと呆然としたままの菊の手を取り、満面の笑みを浮かべて声を上げる。
「……アーサー様。」
元々大きな目を目一杯大きくさせて、菊は薄暗い中で笑うアーサーの名前を小さく呼ぶと、それとほぼ同時に彼女の瞳から一粒涙がこぼれ落ちた。
勿論、泣かれるなんて微塵も思っていなかったアーサーは酷く慌て腕を伸ばし、菊の顔を両手で包み込み、小さく首を傾げて菊の顔を不安そうな緑の瞳で覗き込む。
「何で泣くんだ?治るかもしれないんだぞ。」
慌てる父の声を聞きながら、アルフレッドはフイッと顔を二人から反らすとフェリシアーノの首根っこを掴んでそのまま部屋を出て行く。出来るだけ音がしないように扉をしめると、窓から一杯の光りが差し込む明るい廊下へと出て行った。
後ろから掛かる不思議そうなフェリシアーノの声を聞き、アルフレッドはフェリシアーノへの視線を一切向けず、無言で廊下をツカツカと進んでいく。訪れたのは安堵か希望か、それとももっと暗い物か、それさえ自分には分からない。
己の頬を包み込んでいるアーサーの手に手を重ねると、零れた涙で濡れた頬も拭かずに、菊はその黒くて潤んだ双眼をアーサーに向け、赤い唇の両端を持ち上げて小さく微笑んだ。
「……嬉しいんです。」
にっこりと微笑み、首を小さく傾げているアーサーを真似て菊も微かに首を傾げて見せた。病気をしても変わらない綺麗な長い黒髪が彼女の動作につられて揺れ、青白い彼女の肌に赤い色が混じる。
その笑顔を見てアーサーも真剣そうだった表情を崩し、頬を緩めて緑色の瞳を三日月型にさせ、そのまま体を乗り出して菊の額に唇を落とす。くすぐったそうに喉を鳴らす菊の顔が、薄く入り込む日光に照らされて浮き上がった。
菊の表情を見やった瞬間、衝動的にアーサーはもう一度彼女の名前を呼び、その自身より幾分も小さな体を抱き寄せる。暖かな体温と体がしっかりそこにあるのを確認すると、指先が微かに震えるのを覚えた。
薬など一体どれ程の効力があるのか定かでは無いし、あそこまで病が進行してしまった今、微かな延命にしか繋がらないのかも知れない。それでも、どうにかしなければならないという思いが、アーサーを駆り立てた。
不思議そうな声で菊がアーサーの名前を呼び、背中に腕が回り菊は宥めるようにそっとアーサーの背中をさすった。
「アーサー様、私最近お風呂に入っておりませんので汚いですよ。」
やんわりとした口調で菊はアーサーの背中に回していた腕を外すと、そっとアーサーの胸元を押すように手をかけるが、アーサーは菊を抱き寄せたその腕を解かない。ただ小さく首を振り、少しだけ腕に力を込めた。
「……悪かった、置いていって。」
ポツリとそう呟き細い腰を抱き寄せ、白い耳元でもう一度名前を呼ぶと、微かに肩を震わせてまた小さな笑い声を立てる。その頬を手の平で包み込み、もう一度体を乗り出し口づけた。また微かに鉄の匂いが鼻孔を擦り、アーサーは思わず辛そうに微かに目を細める。
顔を離すと菊は黒い瞳を震わせジッとアーサーの顔を見上げて、何か言いたそうに唇を震わせるが、結局何も言葉は出てこずにそのまま俯く。それからパッと顔を持ち上げ、ふんわりと微笑んだ。
「いえ、大丈夫です。……ただ。」
言葉を詰まらせるのと同時に、再び彼女は顔を曇らせて眉尻を下げると小さく首を傾げ、泣き出しそうな顔をした。
「ただ少し………夜は怖いんです。」
申し訳なさそうに呟いた彼女の青白い頬に手の甲を当てると、黒い瞳を細めさせて菊はアーサーの顔を見上げる。アーサーは菊の前髪を梳くと立ち上がり、暖かな太陽を遮断していたカーテンをサッと開けた。
瞬時に太陽の光りが部屋中に溢れ、その金髪がキラキラと光り輝き、振り向きざま緑色の瞳が眩しさに細める。
「もう少し良くなったら、風呂に入ろう。お前好きだろ。」
菊も眩しそうに目を細めると、小さく微笑んだ。