卿菊
※ この小説はかの有名な貴族英×女体日パラレル(卿菊)の設定を少々拝借させて頂き書いております。私の妄想満開ですので、あしからず。
望郷
この国は、故郷と同じところなんてただの一つも無かった。同じ地球の上だから、と、父には励まされたのだが、ここは吹く風一つさえ故郷の日本とは違う。
家に帰りたいか、と聞かれたら「否」と答えるが、本当は今すぐにでも飛んで帰ってしまいたかった。
夫のアーサーが不満だとか、この家が住みにくいとかそんな事では一切無い。それどころか想像の何倍も住心地は良く、アーサーは暇が出来れば自分に会いにきた。ひどく義理堅いものだと、菊は感心さえ湧く。
そんな環境に居て、何が自分に望郷の思いを抱かせるのか、菊にさえ分からない。全ての要因さえ、母国に置いてきてしまった。だからココには心の奥底から安らげるものなんて、一つとして存在していないのだ。
菊は嫁いで三ヵ月後に、床に伏せ寒空続く外を眺めながらそんな事を思った。
熱を出したのはストレスのせいだ。ゆっくり休めばすぐに治る。と医者は言っていたのに、二晩過ぎても菊の熱は下がらなかった。
体は全て重く鉛の様で、頭はガンガンと常に痛みが終わりそうもなく、喉は痛みで引きつく。ぼんやりとした意識の中で、このまま本当に鳥になりでもなってしまうのではないかと、少しだけ危ぶんだ。
もう朝も昼もグチャグチャになってしまい、一体今が何時だかなんて分からなくなってしまった。日本にいた頃も度々熱を出したものだけれど、こんなに辛かったか……
浅い呼吸を繰り返しながら、いつも病気になるとやってきて手を握ってくれた王耀の事を、思い出してしまう。否、夢か現実かさえ分からない今ならば、子供の頃の記憶はどこまでもリアルに蘇り、今にも自分が子供の頃に戻ってしまった気がする程だ。
誰かの手の平が不意にぬるくなってしまったタオルを除け、自身の額に降りてきて、ひんやりとしていてとても心地が良い。思わず小さく体を捻ってその心地良さを受け入れる。
「菊、何か欲しい物はあるか?」
耳元でそう問われた言葉に、菊はほんの微かに瞼を持ち上げるが、周りを見ずにすぐ閉じてしまう。
「いいえ」
掠れて聞き取りにくいだろうと分かっている声色で、それでも頭を振るより幾分もマシだろうと菊は辛うじてそう呟いた。と、額に手を置いているだろう主は、暫し黙り込んだが、直ぐさままた声を上げる。
「なんでも良い。なんでも用意する。」
……それならば、と、菊は混雑し回らない頭で懸命に考え、小さく「……お味噌汁が、飲みたいです。」と、囁いた。言ってから母国語だった事に気が付いたが、訂正する程の体力さえ見つからずに、菊はそのまま口を閉じる。
尋ねてきたらしい人物は、その人の後ろに居た人物と何やら会話をしているが、聞き取れない。暫くその聞き取れない会話を耳にしながら、菊は日本の星空の事ばかり考える。
死んだ人間は鳥になり、鳥はやがて星になるのだと、そう幼い頃は信じていた。なぜそう考えたのか分からないが、明け方一羽で飛んでいく鳥の鳴き声が、酷く悲しそうだったからかもしれない。
一度王耀にその話をしたら、彼は笑うことなく黙って明け方の白々とした空を、窓の桟に座って見上げていた。彼は幼い頃、一晩中だって一緒に話をして明かした、兄の様な存在だった。否、兄と表現する事も出来ない。けれども親でも恋人でも親友でもない、一緒に旅をしている同胞の様だった。
彼はいつだって歩けない菊の代わりにどこへでも歩き、沢山の話を土産として持って帰ってきてくれる。大きくなるに従ってあまり会わなくなってしまったが、それでも未だに兄の様に感じていた。
「分かった、必ず用意する。」
耳元に返ってきた返事を聞くと、なぜだか無性に菊は泣き出したくなり、小さく頷くことで涙腺の緩んでしまった瞳を引き締める。
「だからもう少し、頑張ってくれ。」
一体何をこれ以上頑張れと言うのか……そう思いながらも掠れた声色で「……はい」と呟いた。誰と話しているのかさえ、霞んでいる意識では理解さえ出来なかったというのに。
ミソというものが何なのか、まるで見当もつかないが、どうやら日本ではかなりポピュラーなものらしく、菊に付いてきていたメイドはその存在を当然のごとく知っていた。
すぐに作れるような物では無いらしいのだが、思いつく知り合いを手当たり次第当たっていけば、どこかで手にはいるかも知れない。立ち上がろうとしたアーサーを引き留めたのは、熱に浮かされた菊が何事かを小さく呟い声だ。
「……たら、……になって……」
泣き出しそうなその声に引き寄せられて、アーサーは身を屈めると「どうした?」とその熱い頬に手を寄せる。黒い瞳が少しだけチラと見えるが、すぐに閉ざされてしまった。
「日本の、広い田んぼの上を……」
そう呟いてから、ふ、と菊は小さく息を吐き出すと、左の瞳からポロリと涙が一筋赤い頬の上にこぼれ落ちた。アーサーは思わず言葉を探しあぐねて黙り込み、そっと汗で髪が張り付いてしまったその額にもう一度手を置く。
それから暫く黙り込み、苦しげな呼吸を繰り返す菊の顔を覗き込んだまま、眉間に深い皺を寄せた。彼女に過度のストレスを与えているのはこの国そのものだというのなら、一体どうすれば良いというのか……
「暫く待っていてくれ。」
兎に角一言言い置き立ち上がると、足早に部屋の外へと出て行き、待機していたフェリシアーノを呼び寄せる。
ずっとずっと幼い頃はまだ母様が生きていて、自身が熱を出す度にわざわざ母が看病をしてくれたものだった。いつもは暖かな手の平が、そんな日だけはひんやりとしていてとても心地が良いのだ。
母親の手の平というものは、その時々によって感触どころか熱まで変化させてしまえるのでは無いかと、そう不思議に思ったほどだった。
けれどもそんな母がいなくなってしまってからは、看病をしてくれる人は居たのだが、暗い中でただ一人ぽつねんと孤立している気がするほどに、心細かった。何度母の事を呼んでも、あの心地よい手の平は自分を撫でてはくれない。
いつからか、もう居ない母の名を呼ぶと自分の手を握ってくれる人物が現れる。いつもでは当然無いけれど、時折熱でうなされる自身の手の平を、朝まで握ってくれる人物、それが王耀だった。
『兄さんの様に思っていました』と、いつか言ってみたかったけれど、結局もうそんな機会なんて二度と訪れる事も無いだろう。もう二度と。
そこまで考えると、菊は何だか無性に悲しくなってきて、ホロホロと涙が零れていってしまう。泣く、なんて、ずっと忘れていたかった事だけれど、今日ばかりはもうどうでもいい。体の内で熱してしまっていたのだろう、熱い涙はきりがなく零れていってしまう。
と、自分の手の平を誰かが包み込んだ。瞬時に菊はその主が『王耀』であると思った。
なぜならばその手の大きさも、母の手の平と同じ心地よい温度も、幼い頃自分を励ましてくれたソレとまるで同じな気がしたからだ。だから思わず握りかえすと、微かにその手の平は動揺したかの様に震える。が、離さない。
まるで酷く寒い暗闇の中に、ポツンと小さなオレンジの灯りが灯った様で、菊はまた小さく瞳を開けると、ぼんやりとした灯りの中をキラキラと綺麗な何かが輝くのを見つける。あまりにもその輝きが綺麗で、思わず涙さえ止まってしまう。
その光りを見つめていたのはほんの数秒で、けれども目を瞑ったならば幾分気持ちが落ち着き、胸を支配していたむかつきが心持ち軽減している。菊は大きく息を吐き出すと、またどろどろとした眠りに落ちていく。
顔に朝日らしき光りが当たり、浅くなっていた眠りがふと醒めてやっと自身の体が大分楽になっていることに気が付き、菊は瞼を持ち上げて窓の向こうを見やった。空は青く、白い雲が所々浮かび、そして懐かしい香りが鼻孔をくすぐる。
ゆったりと上半身を持ち上げてみて、未だに誰かに手を握られている事に気が付きふと目線を下に落とした。と、夢うつつで見えたキラキラと光る髪の毛がそこにあり、菊は瞳を大きくさせ自身の手を握ったままベッドに突っ伏して眠っている主の顔をのぞき込む。
「……アーサー様」
驚きそう声に出して呟くと、アーサーはゆったりと瞼を持ち上げて菊の顔を見やりふと驚き体を起こす。
「熱は?」
キョトンとしている菊の額に腕を伸ばし手を当てると、ビクリと小さく菊は体を震わせながらもそのままにされる。目を伏せて手の平を受け入れていた菊は、アーサーの手の平が離れるのと同時に目を開いた。
「……無いみたいだな」
ふっ、と頬を緩めて笑ったアーサーを菊はキョトンとしたまま暫く見やっていると、やっとアーサーは菊の手を慌てて離す。そして少し視線を外して照れたように少しだけ唇を尖らせた。
「辛そうだったから……」
まるで言い訳でもする様な声色でそう呟くと、菊はキョトンとした顔のまま不思議そうにアーサーをジッと見やり、首を傾げさせる。
「一晩中……」
小さく菊が呟く言葉の続きは無いのだが、アーサーにもその言葉の続きが理解出来て気恥ずかしそうに顔を外に向け、黙り込んだ。沈黙が恥ずかしくて何か言いたいのだが、何を言って良いのか分からずやはり沈黙だけが続く。
と、そこにノックの音が聞こえて二人は同時に顔を持ち上げてその音がした扉に目をやる。扉の向こうへ合図を送ったのはアーサーで、菊は漂ってくるその香りに目を大きくさせた。
やがて入ってきたメイドが手にしていたのは洋風のガラスでできたスープ用の容器だし、添えられているのはやはり銀のスプーンなのだが、差し出されたソレを覗き込むとやはりお味噌汁だ。
「……一人だけ日本からの留学生でミソとかいうのを持ってるのが居たんだ。具までは日本のを調達出来なかったが……」
恥ずかしいのか、視線を向こうに投げたアーサーの事を見やりながら、菊は微かに頬を緩めた。
「ありがとうございます。」
こんな時なんて言って良いか分からず、もっともっと言いたいことは沢山有るはずなのに、ただ御礼の言葉一つしか直ぐに出ては来ない。けれど照れたように下を向いていたアーサーは、菊の言葉に少しだけ目線を持ち上げてほんの少しだけ頬を緩めて笑う。
促されて手を伸ばすと、ガラスの容器に入れられた味噌汁を受け取り、じんわりと暖かな温度が手の平から伝わり、懐かしい香りで胸の中が一杯になった。
中に見えた具は確かに日本では見たこともない具材だが、口を付けると味は日本で食べたのとまるで変わらない。ゆっくりと口を離すと、菊は大きな黒い瞳を少しだけ細めて泣き出しそうな顔をした。アーサーはその顔を心配そうに覗き込む。
「おいしいです。」
菊がそう小さく呟いた瞬間、知らず涙が一つ零れた。菊はその涙を慌てて手の甲で拭うが、アーサーは酷く驚いた様に身を乗り出す。
「……どうした?」
心配そうな声色で問いかけるアーサーに、菊は小さく頭を振りつつ目尻に溜まった涙を拭って、顔を持ち上げる。
「ごめんなさい……懐かしくて。」
もう口にする事は無いと思っていたその味に、思わず故郷の影を思い出し、その瞬間眼前の世界全部が故郷に戻った心地さえした。「そうか」と笑うアーサーの金色の髪が朝日に当たって光るのを見つめながら、まるで似ていないその姿に遙か遠くに居る兄の姿を重ねて、菊は泣き出しそうな顔のまま笑い、頷いた。
作者:穀物鮎煮