※ 普♀日 普→←日
『愛は理解』の続き
いつか何かが変わることを信じて待っていた。どうしてアクションに起こさないのかといえば、もちろん今の関係が壊れるのを恐れていたからだ。
例えばアポ無しで突然遊びに行くと、笑顔で受け入れられること。そしておいしい夕飯をごちそうしてくれて、それから風呂も用意してくれること。長い年月をかけて手に入れたそれらの喜びを、たった一瞬で崩してしまうのが嫌だった。
そんな関係からの進展(もしくは崩壊)のタイミングは、非常に突然やってきた。遊びに行ったはいいが、大雪が降りおいとますることができなくなったのだ。
困りましたね。そういいながら笑顔で菊は日本酒を持ってきた。ギルベルトがアルコールに目がないことを知って、いつも置いておいてくれている。
嬉しくて流し込むように飲むギルベルトに、菊は始終ニコニコしながらおつまみを作ってくれた。やがて夜も更け、互いにかなりの量あおっていたせいか、すっかり酩酊してしまった。
足元のおぼつかないギルベルトに肩を貸しながら、菊自身も足元がおぼつかない。そうしてフラフラ廊下を歩いていると、ギルベルトは足がもつれて菊に寄りかかるように倒れた。
ああ、わりぃ。そう笑いながら体の下にいる人物を見やると、酒で潤みを帯びた黒い瞳が、ジッとギルベルトを見上げている。・・・初めて会った時から、もう何年経つだろうか。自分たちにとっては、まるで一瞬だろう。
何かを愛しいと思うのは、決してこれが初めてではない。そうやって長い長い、途方もない時間を誤魔化し誤魔化し生きてきたのだ。
ともすれば、自分が一体何であるか分からない者同士。それは、互いが互いの存在を認識し、いっそ仲間意識を覚えるほどの孤独の時間だ。
彼女はひとつも抵抗を見せなかった。いや、熱に浮かされて抵抗を起こすことも出来なかったのかもしれない。
次の朝起きると、ギルベルトが望んだような変化はひとつもなかった。いつもどおりに食事をつくり、いつもどおりにギルベルトを起こす菊。その表情には、昨夜の痕跡など一つも残っていない。
ただ、泣き明かしたかのように眼の下が赤く腫れている。その腫れた部分を見やりながら、ギルベルトは「かわいそうに」と思いながらも、それから幾たびも彼女を組み敷いた。
「なぜ日本語を勉強なさるのですか?」
そう、布団にくるまり尋ねてきた主を見やりながら、ギルベルトはその昔、独逸語を教えてくださいとはにかみ訪れた彼女を思い出した。
彼女は辞書と睨めっこをしながら「語学を勉強するということは、本気でその文化を尊重しているからなのです」と言っていた。だからこそ笑ってギルベルトも応える。
「教えねぇ」
愛は理解 ギルver
眠たそうな姿を見つけ小突くと、ビクリと驚き目を覚ました。小動物を思わせるその動きに、ギルベルトは思わず頬をゆるめて意地悪く笑う。
好奇心に溢れた彼女は、その好奇心と同じほど臆病であった。また、自分達のようなキリスト国家とは違い、国をも神となれるせいか国民から過保護な扱いを受け蝶よ花よと愛されている。
蛮人、なんて呼ばれている通り、自分達が彼等を「野蛮な猿」というのと同様、彼等も自分達を「野蛮」だとしていた。過保護な彼女の国民達が、彼女の髪を泣きながら切り、彼女に男装させ、飛び出したがっていた彼女を泣く泣く海外に派遣させた。
『御国になにかありましたら、我々は腹を切ります』と項垂れる男達を前に、肝心の菊は懐いた人間(ギルベルト)にくっついて、彼の祖国に行くのが楽しみなのか、目をきらきら輝かせていた。
大体、なぜこの国民は総じて腹を切りたがるのか、全く意味が分からない。
菊は非常に我が家の犬に似ていた。手綱を持っていなければそのまま走り去ってしまいそうになるのを、宥めながら一つ一つ教えていった。
彼女は頭が良く、たちまちドイツ語を覚え、舌っ足らずながらも懸命にドイツ語を話し、法律の本に目を通す。猫のようだ、犬のようだ、鳥のようだ……いつどのようにして、そんな考えから今に至ったのかは、覚えていない。
また夜遅くまで本を読んでいたのか、ソファでウトウトと昼寝をする、その黒髪に唇を寄せた瞬間、無自覚が引っ繰り返ってしまった。
それから長い年月の間、自身の思いから見て見ぬふりをして過ごした。長い年月は人の心も変え、今や菊は『神』ではなくなり、キリスト国家と同様どこか浮いた存在として捉えられるようになる。
寂しがるかと思いきや、自由を手に入れたのが喜ばしいのか、割と気ままに暮らしていた。戦火が迫る世界とはほど遠い今、あの頃とは違い、二人とも自分の好きなことが出来る。
アイデンティティーを模索し続ける存在達にとって、この平和とそして自由というのは、割と似合っているのかも知れない。血だらけになって呻いていた姿を思い出してから、楽しそうな現状を見ると、腹の底が暖かくなる。
人間の男女のように、寄り添って手を繋ぎ生きていく事をどこかで望んでいた。けれども今更言い出せない。
距離が近付けば近付くほどに、どんどん遠のいていってしまう。掴もうと手を伸ばしたけれど、スルスルと逃れていってしまった。
きっと焦りがいけなかったのかもしれない。終戦後、解体といわれ無力化したギルベルトと、アルフレッドの傘下とされ、独占され閉じ込められた菊。詳しい状況さえ分からず、このまま一生再び会うこともないのかと思っていた。
可哀想な弟子、可哀想な思い人。自分達のような存在ではなく、心から国民に愛され、そして国民を裏切ったのだと自分を苛んでいるだろう、あまりにも生真面目な女。
『よ、久しぶりだな馬鹿弟子』
互いに傷だらけになってしまい、その上表だって会う機会さえなかったため、二人が再会した時はアルフレッドの目も緩やかになったほど、時間が経ってからだった。
微笑を浮かべたその様子は、昔目をかがやかせて己の後ろについて回ってきていたあの彼女だと、どうも思えないほどに悲しげだ。好奇心に溢れて、いつも楽しそうだった姿は無い。
胃に入りやすいものをと食材を探しだし、菊が好む味付けのレシピを、本を片手に考えていた。ふと、菊の息づかいが荒くなったのに気が付き、その頬をさするといつもよりも熱い。
冷蔵庫から氷を取り出し水に入れ、その氷水にタオルを沈めた。額にぬれタオル、脇の下に即席で作った氷袋を入れると、それまで寝入っていた菊がゆったりと瞼を開く。
熱で掠れているようで、菊は唇をパクパクと動かすばかりで、何を言っているのか分からない。「なんだ?」と問いかけながら耳を近寄せる。
「おししょう、さま……どこに行かれるのですか?」
掠れた声色をようやく聞き取り、ギルベルトは笑みを浮かべる。師匠、弟子と面白がって呼びあうように強要したのは、もうずっと昔の話だ。寝ぼけているのか、それとも昔の夢を見ていたのか……
「どこにもいかねーよ。朝までここに居るから、安心して寝てろ」
幼い頃、弟を宥めたのと同じように頭を撫でると、安心したのか彼女はそっと目を細めて見せた。その仕草が愛らしい子供のようで、思わず頬を緩ませる。
「いやな夢をみてました……」
ポツリと漏らす言葉に、ギルベルトは微かに首を傾げた。熱か寝ぼけか、取り敢えず彼女らしくもなく精神がちょっとばかり過去に戻っているのかも知れない。
恐らく、ほんの数人しか知らないだろうその姿に知らず笑みを漏らしながら、「どんな?」と先を促す。笑みを浮かべるギルベルトと正反対に、顔を持ち上げてギルベルトを見やった菊の瞳は揺らいでいる。
「……いいえ、駄目です。言ってしまったら、きっと正夢になってしまう」
あまりにも真剣で、そして震える声色にギルベルトも思わず黙った。彼女の真っ黒な瞳が今見やっているのは、きっとこの瞬間では無いのだろう。
「そうだな、言わない方が良い。だが夢は夢だ、さっさと忘れちまえ」
カラッと笑うと、下から訝しそうな瞳がジッとギルベルトを見つめている。その瞳が、ゆったりと覚醒に向かっているのに気が付き、なんだかギルベルトは居たたまれない心地になる。
夢など、覚めてしまえば更に重い現実がのし掛かってくる。その通りなのか、昔のようだった彼女の顔は強張り、他方へと向けられる。
「……ごめんなさい、寝ぼけていました。」
寝返りを打った菊の背中を見やってから、ギルベルトは台所へ向かった。昔ギルベルトが熱を出したときに菊が作った、お粥とやらを再現しようと思ったのだが、何せ半世紀以上も昔の話だ。
「ここ、どこでしょうか?」
ぼんやりとした声色が聞こえ、鍋に水を注ぎながら「俺様んち」とケセセと笑う。
「なっ……!」
「薬効いてお前よく寝てたもんな。やっぱ看病すんなら、色々揃ってた方が良いだろ」
そこまで会話をして、菊は体を持ち上げグルリと辺りを見回す。ギルベルトの家、つまりルートヴィッヒの家には、ルートヴィッヒに呼ばれない限り行ったことが無いので、久しぶりにみた光景だった。そこは居間のソファーの上で、部屋にはテーブルランプ一つが置かれている。
ちょっと首を伸ばせば台所が見え、そこで彼が何かを作っている。
「オカユ作ってやるから、それ食ったら薬飲んで寝ろよ」
「お粥、作れるんですか」
「俺様に不可能なものはねぇよ」
そんな事をいいながら、手元の和食本を見つめる。ルートヴィッヒが「ヘルシーだ!」と言い本屋で買い求めて来た本が、ようやく役に立った。
「あ、ルートヴィッヒ帰ってくるかもしれねぇから、お粥食ったらオレの部屋に移動だな」
台所からヒョイっと顔を覗かせ笑う彼に、菊は目を丸くした。
「ギルベルトさんの部屋に入るの、初めてです」
その菊の言葉に、今度はギルベルトが眼を丸くして彼女を見やる。
「あぁ?そーいえばパーティーとかこの部屋だしな」
周りに人、特にフェリシアーノとルートヴィッヒが居る場合は、菊とそういう関係にあることを匂わせる事は一切しない。それが妥当だと思いながら、寂しく思うのは我が儘だろうか。
ずり落ちたタオルを手に持つと、まだ冷たく心地がよい。
「じゃあ今度はゆっくり泊まってけ」
凍らせていた米を電子レンジで解凍し、それをそのまま鍋に入れる。味付けは恐らく、塩でいいのだろう。
「泊まっていいんですか?」
鍋を見張っていたギルベルトも、菊の不思議そうな声色につられて顔を持ち上げた。ソファーにぼんやりと座っている菊は、幼い子供を彷彿させる。どこか寂しそうで、弱火に切り替え近付いた。
「お前、一人で色々抱えすぎなんだよ。言いたいことがあんなら言え」
自分自身にも向けて、菊にそう言い聞かせれば、彼女はとことん困った表情を浮かべ小さく首を傾げた。熱のせいか、黒い瞳は潤んでいる。
「私達って、何なのでしょうね、ギルベルトさん。こんなにも不毛なら、もう止めた方が良いんじゃ……」
「お前が言ったんだ」
菊の台詞を遮るように、ギルベルトが声を上げた。その先を聞くのが恐ろしく、現状が破綻するのだけは防ぎたかった。だから、これまで秘密にしていた言葉がその口から溢れそうになっていたのだ。
「お前が……『語学を勉強するということは、本気でその文化を尊重しるから』だって言ったんだ。何で忘れてんだよ」
「な、何の話ですか?」
菊にとっては突然話題が変わり、どうしていいのか分からずに眉根を降ろし困惑していた。が、ここまで言ってしまったのなら全て吐いてしまおうと、顔が熱くなるのも無視して先を続ける。
手元にあった日本語で書かれた和食レシピが、少しばかり歪んだ。
「お前は、なんでドイツ語勉強してたんだよっ。オレは、その、お前の事……」
喋っている最中に益々顔が熱くなってきて、下の根が緊張で乾きパサパサになってしまっている。一世一代の告白ではあるまいし、何をこんなに動悸が激しくなってしまっているのだろうか。
自分の一言がこの世紀に渡る長い二人の歴史に、大きな変化を及ぼすのが恐ろしく、そして期待しているのだ。
「ギルベルトさん」
視界を斜め下にやっていたため、彼女が一体どんな顔をしているのか分かっていなかった。名前を呼ばれ、ようやくそちらに目線をやると、菊も頬を朱くしてギルベルトを見やっている。いや、ただ熱のせいかもしれない。
しかし腕を伸ばされ、何も考える余地もなくそのままギルベルトは小さな彼女に抱き留められる。いつも抱くその体は、いつも以上に熱くて細い。そのままキスを送り、額に手にを当てる。
「本当に好いてくださってますか?」
「ああ」
耳元で囁かれる熱で掠れた声色に返事をすると、ポンポンと軽く背中を叩いてやった。
「エリザさんよりも?」
「だから何でアイツの名前が出てくるんだよ!アイツとは何でもネェよ」
折角良い気分だったのに、昔手痛く振られた女の名前は聞きたくも無い。その上もう、一体いつの話だと呆れてしまう程昔の事だ。ギャッと咆え立てるギルベルトに、菊は眉根を下ろして小さく笑った。熱で浮かんだ汗を拭い、もう一度キスを送る。
「エリザは、確かにガキの頃ちょっと気があったけど、今はぜんっぜん有り得ねぇ」
そこまで言って立ち上がると、台所から微かに焦げ臭さが漂い慌てて駆けて行った。
散々飲んで一泊してきたルートヴィッヒが、次の日の昼過ぎに帰ってきた。気怠そうにシャワーを浴びて居間に戻り、そして驚き瞬時に固まった。いつもどおりテレビを見てケセセセ笑ってる兄が、隣に座った本田の腰に腕を回している。
「あ、お帰りなさい。お邪魔してます」
照れて笑う菊の額には冷えピタ(持参)が貼られている。熱はもう下がったが、一応貼っとけと言われてそうしていた。
ああ、ほらやっぱり外国の方には変に思われるんですよ。とギルベルトに耳打ちすると、彼はそのままキュッと彼女を抱えなおし膝の上に乗せた。
「いや、ちげぇと思うぜ。な、そういうことだ、ルートヴィッヒ。よろしくな!」
嬉しそうに片手を挙げると、ルートヴィッヒは混乱した表情を浮かべたまま取り敢えず、すごすごと部屋に戻っていった。