「こういうこと、前にもあったよな。」
青白い顔をしながらも、まるでいつもと同じ様子を取りなすように窓際に座った菊が、アーサーのその言葉に驚き、弾かれるように顔をこちらに向けた。泣き出しそうな黒い瞳が、アーサーの姿を捉えて震える。
……随分前に菊が階段から転げ落ちたとき、彼女は足首を完全に挫いてしまった。あの時は手紙さえ届かなかったから、家に帰ってからその事を知らされ、責任者に怒鳴り声を上げてしまったのだ。
結局彼女自身が口止めをしていたとあり、アーサーは誰も責められずに憤りばかり胸中に収めたのだ。本当に責めたかったのは誰か、そんなことは考えずに出る答えだ。
「オレはあの時、言ったはずだ。『オレにだって優先すべきものがある』って。
それが何なのか、まだお前が分からない訳ないだろ?」
憤りは悲哀に負けて、アーサーはそれ以上言葉に出来ずに瞳を瞑る。反対に菊はその目を大きくさせ、一心にアーサーの顔を見やった。
「私はただ、あなたの邪魔になりたくなかったのです。」
それはいつか聞いた言葉と寸分違わずに、あの時と同様、アーサーは自身の頭を片手で抱える。
アーサーも菊も黙り込むと、この部屋では窓の外から鳥のさえずりばかりが聞こえてきて、妙に不安感を誘う。菊は手に持っていた本をゆっくりと机の上に置くと、泣き出しそうな声でアーサーを呼ぶ。
何かを訴えるような、その泣き出しそうな菊の目を見やると、アーサーまで思わず眉間の皺を緩めてしまう。
「何でオレに何も言ってくれないんだ。」
彼女に近づくことさえ出来ず、その場でアーサーは、やはり昔と同じ質問を投げ掛けた。昔は、彼女はその質問に何も応えてはくれなかった。
扉口に立つアーサーと、窓際に座った菊の間には長い距離がある。その肌の熱さえ感じる事が出来ずに、アーサーは手袋越しに指を微かに揺らす。
「……あなたが帰ってこなくなるのが、恐かったんです。」
長い長い沈黙の後、泣き出しそうに震えた声で、彼女は小さくそう囁いた。
アーサーは驚き顔を持ち上げると、そこでやっと椅子に座っている菊のもとへと歩を進める。けれども俯いた彼女は顔を持ち上げようとせず、頑なに己の手に目線をやっていた。
「……帰らないって、どうして。」
菊の前の椅子を引くと座り、彼女の顔を覗き込んだ。胸の中であらゆる感情が混ざり合って、今何が言いたいのかも、もう分からない。ただ酷く、悲しかった。
菊はそれでも顔をフルフルと振ると、キュッと唇を噛んでそのまま俯く。血の気の少ない彼女の青い顔が、太陽が雲に隠れて出来た影のせいか、尚一層青白く見える。
「分からないです。でも、恐かった……いつか、仕事に出たまま帰ってこなくなるんじゃないかと思うと、恐くて。
だから迷惑をかけちゃいけないって。煩わさせてはいけないって……」
「そんな事しない。」
微かに眉間に皺を寄せると、アーサーは子供に言い聞かせるように、ゆったりと言葉を返す。
「分かってます、ちゃんと。でも恐かったんです。……ホントにあなたが帰って来なくなるんじゃないかって。」
顔を持ち上げた菊は、その眉を大きく歪めて泣き出しそうな表情のままアーサーを見上げ、悲痛な声色でそう言うと、小さく頭を振る。
「この国に来た時からずっと色んな人から言われました。国や、肌や目や髪の毛の事。
……それと、いつかあなたが後悔するって。」
彼女はすん、と鼻を一つ鳴らすと俯き、その動作と共に彼女の大きな瞳から涙がこぼれ落ち、音を立てて机の上に跡を残す。アーサーはぼんやりと椅子に座ったまま、泣いている彼女を見たのは何年ぶりだろうかと、そんな事を考えていた。
「オレは一度も後悔した事は無いし、これからも後悔なんてする気もない。」
しばらく彼女が泣く様子をウットリと眺めていたい気もしたが、アーサーは直ぐに否定すると、彼女の隣の席へと移り、その腰を抱き寄せた。頬に甘い薫りのただよう、菊の頭を押し当てる。
「なぁ、菊。お前はもう分かっていると思っていた。オレは、お前とアルフレッドの為なら何だって投げ出してやる。」
頬に付いた涙を、菊は懸命に拭いながら鼻を啜る。その目尻に唇を寄せ、菊の背中を撫でて宥めに掛かった。
菊はその涙を拭いきると、アーサーに向かい顔を持ち上げて、小さく笑う。目元が擦ったせいか微かに赤く染まっているけれど、ほんわりとした笑顔を見ると、妙に落ち着く。ああやはり、泣き顔より笑顔の方が良い。
「苺のケーキ、焼きますね。アルとも約束したんですよ。」
ニッコリと微笑んでそう言うと、菊はテーブルに手を付いて立ち上がろうとするので、アーサーはそれを手助けする。
開いているわけでは無いが、窓からは冷気が少しばかり舞い込み、彼女の肌だけではなく、その服も少しばかり冷たい。もっと早く暖がとれるところに彼女を連れて行けば良かったと、小さな後悔がアーサーの胸の中を過ぎる。
思わず菊の小さな肩を強く抱くと、その足を止める。菊は驚きアーサーの事を上目勝ちに見やり、不思議そうにその目を大きくさせた。
「アーサー様、あとでお散歩行きましょうね。」
アーサーの腕に自信の腕を絡ませ、菊はバランスを取りながら身をすり寄せ微笑む。病に身を蝕まれるようになってから、菊は周りの景色全てがキラキラ輝いている様にさえ見えてならない。
アーサーは菊の頭に頬を寄せ、そうだな。と小さい声ながら、笑顔で返す。
甘く心地よい薫りが廊下の方まで漂い、アルフレッドは鼻を動かし、暖炉がある広間へと足を踏み入れた。瞬時、甘い薫りが強くなる。
「キク?何か焼いたの?」
ウキウキと笑いながらアルフレッドがそう声を掛けると、椅子に座っていた菊は顔を持ち上げた。その動作に従って、黒髪は艶やかに揺れながらキラキラ光り、こうしてみると、彼女は元気にしか見えない。
「苺のケーキです。前に約束しましたよね。今アルフレッドの分も持ってきてもらいますね。」
そう言いながら後ろを振り向き、自身にいつも付いている召使いに目配らせをすると、彼女は笑顔で一度、頷いた。
やがて出てきたのはパイ包みの苺ケーキであり、甘い薫りがホワリと浮き上がる。促されるままにキクの目の前に座ると、紅茶と共にキクが作ったケーキが載った皿が置かれた。
母が趣味として作る料理は、屋敷で雇っているフランスの料理人とはまた違い、酷く優しい味がする。それはケーキも同様であり、アルフレッドにとってはパーティーなどで食べるものよりおいしい。
「体の方は大丈夫なの?」
この間キクの体調が悪化した時は、アルフレッドは本当に心臓が止まるだろうかと思ってしまった。慌ててアーサーを呼び戻してしまった事は、今でも多少後悔している。
「なんとも無いです。」
小首を傾げて笑う彼女の姿は、自分の母親ながら相変わらず少女の様に見えて仕方が無い。
そうして考えると、自分は彼女の幼い頃などまるで知らなく、一体どんな事を考えて育ってきたかなんて、微塵も分からない。どんな思いでこの国に来たのかも、異文化でどれほど苦しんだのかも。
カチャリ、とフォークを皿の上に置くと、それに気が付いたのかキクもアルフレッドの方へと目線を持ち上げる。
「ねぇ、キク。結婚って、幸せ?」
それまでアルフレッドは大人しくモグモグとキクお手製のケーキを食べていたのだが、急に真剣な目をしてそんな事を聞いてくるから、キクは思わず目を大きくさせた。困った様子でかるく首を傾げ、はにかむ。
「そう、ですね。……私は、幸せです。」
意味もなく紅茶の中をクルクルとかき混ぜながら、まるで幼い少女の様に照れ、菊は酷く恥ずかしそうにそう返す。その様子が、嘘など一つも無いだろう事が分かるから、アルフレッドにとっては尚複雑だ。
そのまま照れ隠しの様に、菊はカップに唇を付け、頬を朱くさせると瞳を泳がせる。
「……オレも、幸せになれるかな?」
一瞬戸惑いながら、小さくアルフレッドがそう呟くと、菊は両手で包み込んでいたカップから唇を離し、そのまま丁寧に机の上に戻す。
「それは、あなたが自分で探さなくちゃいけません。
だけど私は……あなたが存在するだけで幸せですよ?」
そう言った菊に、アルフレッドはキョトンとしたまま視線をやれば、彼女は「ね。」と返し、嬉しそうにふんわりと微笑んでいる。アルフレッドも眉尻を下げて微笑むと、もう一度ケーキを口に含む。
学食で食べていた原色のケーキに慣れていたアルフレッドにとっては、やはり驚くほどにホッとしてしまう。パチパチと暖炉の炎が爆ぜる音が聞こえ、肌寒いながらもホカホカと暖まる。
「うん、とてもおいしいよ、キク。」
ニッコリと笑ったアルフレッドのその笑顔に対し、キクもフォークを咥えながらニッコリと微笑み返す。
まだ残っていた書類を済ませ、お茶を終えた菊を誘い、そのまま庭へと連れ出す。アルフレッドも一緒に誘ったのだが、彼は宿題をしなければならないと言って、自室へと戻っていった。……どこまでも嘘っぽいのだが。
外は随分寒いので、菊には暖かな服飾を出来るだけ纏わせると、一番日の光が当たるベンチまで連れて行き、座らせる。太陽が出ている内はまだ暖かいだろうし、ここは庭が一望出来る、彼女の特等席だ。
あまりにも寒い所だと肺に悪いと聞いていたし、あまり長居は出来ないだろうけれど、彼女を部屋にばかり閉じ込めていく訳にはいかないし、出来るだけ色んな所に連れて行ってあげたい。
菊は目を細めて心地よさそうにアーサーに腕を絡め、身をすり寄せた。これからこんな時間を、2人でいくらでも作っていけるのだろうと、そう信じていた。
そんなつもりが無くとも、どれだけ自分は彼女を放って置いたのかと、思わず考えずにはいられない。勿論仕事は自分の生き甲斐であるし、選択を誤っていたとは、思わなかった。それでも尚、何かが胸の奥に突っかかってしまってならない。
貴女は幸せかと、何度も聞きたくてたまらないけれど、彼女は絶対に微笑んで頷くだろうから、自分は納得出来ないのは目に見えている。それでも不安でならないのは、他文化に溶け込めずに苦しんだ彼女を見てきたからだ。
大体肺の病はここ最近この国で流行っているものだし、それは空気汚染によるものだという。彼女の本国の家には、それは大きな樫の木も生えていたし、果てしない程の畑だってあった。その光景を、菊は誰よりも愛しているのだろうのに、そこから引き離したのは自分だ。
彼女は幸せだろうか……?最近そればかり考えているけれど、例え「否」と言われても、きっと自分は菊を傍から離さない。何があろうとも、彼女を離す事は有り得ないだろう……
それはエゴイズムだろうに、選択肢はいつだって狭く、自分で勝手に言い訳を連ねてしまうのだ。
「あ。アーサー様、見てください。」
不意に横から声が聞こえ、物思いの奥に沈んでいたアーサーの意識は、そのまま覚醒へと向かう。
隣りに座った菊は、空の向こう一点を指さしていて、そこには最近まるで見掛けなくなった、虹がポカンと浮かんでいた。庭の向こうに広がる林の、端から端へ繋がるほどに大きな虹は、水気を多く含んでいる空中に、キラキラと美しく光る。
「……綺麗ですね。」
ホウッ、と一つ大きな、感嘆の意が含まれた溜息を吐き出すと、菊はうっとりとした様子でそう呟いた。
空も大気も雲も、一つ残さず太陽に照らされてキラキラと輝き、寒いというのに、それでも尚植物は懸命に腕を伸ばす。久しぶりにゆっくりと見た景色は、目が潰れてしまいそうなほどに、美しかった。