ギル菊

光の世界  の続きです。 
 
 
 
 
 続・光の世界  上
 
 
 クシュン、と横で小さなクシャミが聞こえギルベルトは隣で震える菊の腰に腕を回す。自身もズビズビと鼻を鳴らしながら、小さな炎に必死で手を伸ばす。
 どうにか海から抜け出すと、急いで炎を起こし服を渇かしているのが、今である。顔を出した太陽は燦々と輝き、それほど寒くは無かったのが唯一の救いであるが、これからのことは考えていない。
 意地でも帰りたくは無いけれど、都市に出れば捕まる可能性は大きい。都市に出なければ金は稼げない。金が手に入らないと、菊に服はおろか飯すら提供する事が出来なくなる。そんな事を散々悩んだ挙げ句、眠たそうな菊を引っ張り見慣れた屋敷を見上げた。
 しょっちゅう屋敷を抜け出していたことが幸いして、メイドが居ない場所も、屋敷から見えない位置も知っている。見上げればルートヴィッヒの部屋の窓は空いているから、自身の部屋に忍び込む際は静にやらなければならないだろう。
「動くなよ」と言い置くと、彼女は素直に頷く。だからいつものように、身長にパイプ伝いに己の部屋へと向かう。服は、取り敢えず菊にも男物だが何かしら持っていき、あと金もいくらか置いておいた筈だ。
 誰も居ないことを確認してから鍵が開いている事に気が付き、思わずしめしめとほくそ笑む。口笛を吹くのを堪え窓を開けたその時だ。
「おかえり兄さん、菊はどこだ。」
 誰も居ないとばかり思っていたのに、巨体の癖にルートヴィッヒは壁に背を向けて椅子にすわり、上手く隠れていたのだ。口から心臓が飛び出してしまうのでは無いかと心配するほどに驚いた。
「な!卑怯だぞ、ルーイ!」
 思わず声を上げるギルベルトに対し、ルートヴィッヒは眉間に皺を寄せ、酷く冷静である。ただ、その鋭い両眼はギラギラと怒りに煮えたっていた。
「菊は、どこだ。」
「うるせーな。下に居にいる。」
 知らず引き攣った笑みを浮かべながら、敢えて適当に答えると、ギルベルトは洋服ダンスを漁り始める。
「どうするつもりだ!どうせ何も考えていないのだろう?」
 それまで読んでいた本を床に投げつけると、ルートヴィッヒは更に声を荒げ、椅子から立ち上がる。凄まじい剣幕だが、ギルベルトは鼻で笑い受け流す。
「菊はオレに付いてくる、っつったんだよ。」
 机の奥に隠していた、ギルベルトが持ち得る全財産を鷲づかみにすると、あらっぽく袋に詰めていく。
「王耀はどうする。彼は酷く心配し、憔悴している。」
「己の家を守るためにカークランドに妹を渡したような奴だろ。」
 そこまで言って振り返ると、ルートヴィッヒは今までに見たことのない程、その瞳を怒りに燃やしている。それまで忙しなく動いていたギルベルトは動きを止め、ルートヴィッヒと向き合う。
「カークランドならば菊の眼を手術するほどの金は持っている!それに彼は……彼女を愛している。
 だからオレは……」
 握り締められたルートヴィッヒの拳が、微かに震えている。それは怒りか苦しみか、後悔か。
 しかし今はそのルーイに意識を向けるよりも、ギルベルトは先程のルーイの言葉に引っかかりを覚え、眼を大きくさせた。
「菊の目は、手術したら治るのか?」
「分からない……だが、可能性はあるだろう。」
 苦渋に満ちた弟の表情を見つめたから、ギュッと眉間に深い皺を寄せる。
「だが、菊の意志を無視したのは真実だろ。」
 噛み付くようにそう返すと、ルートヴィッヒは苦々しい表情を浮かべて、どう返すべきかと戸惑っているのが分かった。その隙を突いてギルベルトは駆け出すと、荷物を肩に掛けて窓に手を掛ける。
「兄さん!」と、ルートヴィッヒが声を上げるのを無視し、そのまま昇ってきたのと同様、柱を滑り落ちる。そして下で待っていた菊の腰に腕を回すと、キュッと抱き上げて林の中へと逃げ込む。
 後ろで菊を呼ぶルーイの声が聞こえ、菊もその呼びかけに答えるように、顔を上げてルーイが居るだろう場所を見上げた。
 
 
 一番小さな服を選んだものの、どうしたことか菊には大きすぎた。大きすぎて肩だとか見えてしまうし、動くと全て下に落ちてしまいそうである。
「やっぱりお前の服を取りに行った方がいいみてーだな。」
 しかし菊の屋敷に向かえば、先程のルートヴィッヒの様に誰かが待ち伏せしていないとも限らない。しかしこのままだと、あまりにも目の行き場に困る光景である。
 暫く思案していたギルベルトの服の裾を、誰かが(といっても一人しか居ないが)クイクイと引っ張っているのを感じ、ギルベルトは視線を落とす。そこには初めて口にしたのか、先程町外れのパン屋で購入したミートパイで口の周りを汚した菊が、ジッとギルベルトを見上げている。
「私の部屋の机の上に、大切な箱があります。もしも私のお部屋に行くことがありましたら、それだけはどうぞお願いします。」
 キュッとギルベルトの服の裾を掴み、顔を輝かせる菊を見やりながら、取り敢えず口の周りをグイグイと拭ってやる。
「なんだよそれ、めんどくせーなぁ。」
 眉を八の字にして、あんまり必死な声を出す物だから、変な嫉妬心を抱いて意地悪のつもりで投げやりに返すと、菊は切なそうな声を出す。
「お願いです、ギルベルトさん。とっても大切なんです。あの中には、手紙が入ってるんです。」
「手紙?」
 あまりに意外な答えに訝しげに返すと、菊はパッと表情を和らげ、それは幸せそうにふわふわと笑う。
「ええ、月に一度、兄さんが届けてく読んでださるの。父様と母様からの手紙が、あの箱一杯に入ってるんです。」
「へぇ……」
 それらしい動きをしていなかったから、菊との連絡を一切遮断しているのだとばかり思っていた。王耀は昔から菊に構っていたから分かるが……。
 先程ルートヴィッヒが王耀について言っていたことを思い出し、微かに眉を顰める。あれほどシスコンだと思っていたのに、遠く離れた場所に菊が嫁に行くのを良しとした。カークランドの家など、そう易々訪れられないのに。
「ね、もしも私の部屋に行かれるのなら、きっと取ってきて下さいね。」
 潤んだ目を上目遣いに、見えていないなど嘘の様だと思いながら、ギルベルトは「しょーがねぇな!」と笑ってしまった。菊は満足したのか、再びにっこりと微笑むとモグモグとパイを口に運ぶ。
 今日眠る場所も確保出来て居ないし、これからどうするのかさえ分からないというのに、今のあまりの平穏っぷりに考えるのさえ億劫になる。バイルシュミット家の領地の一角、それでも誰も来ない様な辺鄙な場所、それが今2人が居る場所である。
 この森の中でも一番大きな木の根に座り込み、鳥が鳴く音を聞きながら簡単に昼食を済ませてしまうと、今度は菊の家を見上げる。やはりここも見慣れた場所だから、忍び込む経路は頭の中に完全に入っている。
 しかしまた誰か張っているのではないかと思うと、眉間に皺を寄せながら窓を睨む。と、正門から音が聞こえ、ギルベルトは菊を抱き寄せて壁に背を付ける。
「また来るアル。菊の部屋はいじるんじゃねぇあるよ。」
 そういう声だけ聞こえ、直ぐに馬の蹄が鳴る音が響いた。恐らくルートヴィッヒはギルベルトが自室に忍び込んだのを、誰にも言っていないのだろう、屋敷は特に見張りも居ない。ギルベルトがまだこの付近に居るという情報が流れていない今ならばまだ、忍び込めるだろう。
「服は何が良いんだ?いつもキモノとかゆーの着てただろ。」
 相変わらずギルベルトの服を、裾を驚く程余らせて着ている菊にそう呼びかけると、彼女はふるふると首を振って「箱を」と繰り返す。
 忍び込むのは自分の家と同じで、手慣れた物である。先程の例があるから、上がり込む際は一番気を張ったが、やはりその部屋には誰も居ない。相変わらず何もない、薄暗い部屋である。
 グルリと部屋の中を見回し、机の上にのった木製の箱を見つけ出す。思った以上に小さな箱で、鍵が付いていたため中は見られない。クローゼットを開けると見慣れた服の数々が見えてくる。
 ギルベルトの服を捨てれば、菊の荷物を持ち出せるだろう。どうせ金さえ持っていれば、自分はどうにかなるもんだ。このまま馬車でも襲い、上手く国外に逃げ出せれば良い。
 あんまり簡単に上手く事が運ぶものだから、なんだか気が抜ける。窓から空を見上げると夕日が目を刺し、光に埋もれていく世界が眼前に見渡せた。風が吹くと世界が揺れ動き、何もかもが生きているのを全面に感じる。
 『カークランドならば菊の眼を手術するほどの金は持っている!』先程のルートヴィッヒの声が蘇り、ギルベルトは忌々しくて舌打ちをする。この風景を見たら、きっと菊は「美しいです!」といってはしゃぐか、ただ一心に見惚れるのだろう。
 自分が本当にすべきことは、菊を連れ出す事であっていたのだろうか。それで彼女を幸せになど出来るのだろうか。
「ああ、馬鹿らしい、くそったれ。」
 苛々としながらそう吐き捨てると、ギルベルトは窓から飛び降りた。音が聞こえて駆け寄ってきた彼女に箱を渡すと、嬉しそうにニコッと笑う。
 
 一夜だけだと言い聞かせて、もう使われていない納屋に入り込む。見上げれば天井に葺かれていた藁は剥げ、星空さえ見える。藁が積まれている所に腰を掛けると、自室から持ち出したランプに火を灯す。
「ギルベルトさん、読んで下さい。」
 菊は菊の服に着替えると、あまりに美しい生地にこの場から浮いて見える。綺麗好きな菊が、こんな納屋に泊まるなど本当は好ましいとは思っていないだろうに、楽しそうに鍵を取り出しギルベルトに手渡す。
 面倒くさそうな様子で鍵を受け取り開けた瞬間、ギルベルトの動きが全て止まった。
「どうしました?」と、訝しそうな表情を浮かべる菊をよそに、ギルベルトは数秒黙り込んでから、開いた箱を閉める。
「……箱、間違えた。」ギルベルトは菊から視線を外し、片手で己の口を覆う。……間違える筈が無い。あの部屋には箱という箱はこれしかなかったし、鍵が使えたのだから。
 『兄さんが届けてく読んでださるの。』
 確かに彼女はそう言った。が、そこに入っていたのは便箋どころか、封筒にさえ何も書かれていない白い紙ばかりだったのだ。どう応えて良いのか分からずに、それ以上ギルベルトは何も言えない。
 最初訝しそうだった菊は、気が付いたのか途端に哀しそうな表情を浮かべると、それでもやはり、微笑んだ。それから腕を伸ばしてギルの胸元、首をペタペタ触ってから、キュッと抱き付く。
「ならばもう、火にでもくべてしまってください。」
 哀しげな声色が耳元で聞こえ、ギルベルトはその背中に腕を回し、強く抱いた。
「……なぁ、王耀に会いたいか?」
 ギルベルトの問いかけに、菊は顔を持ち上げてジッとギルベルトの顔を見つめてから、フルフルと首を振る。それから優しく微笑み、ギルベルトの顔を両手で包み込んだ。
「哀しい顔をなさらないで。」
 眉尻を下げる菊に、ギルベルトは一瞬体を震わせてから、慌ててその手を振り解いた。
「さっさと寝ろ。俺はちょっと外に出てくる。」
 もしかしたら、夜ならばカークランドの手が回っていないかも知れないし、馴染みの飲み屋で情報を得られる様に思えたからだ。確かに菊を置いていくのは気が引けるけれど、こんな辺鄙な所に誰かが来るとは思えない。
 けれども菊は眉尻を下げて、泣き出しそうな表情を浮かべた。
「朝には帰ってくる。」
 ポンポンと頭に手を置くと、ランプの火を吹き消して扉に手を当てた。一番に向かうべきなのは、やはり街の門を調べなければならない。この時代どこにも関所は存在し、出入りする人間を見張っている。
 そこでカークランドの人間が居ると、いつもなら金を渡せば容易く通してくれる門番も、通れない。闇に紛れて都市に出ると、フラフラと酔っぱらいばかりが街の至る所を歩いていたり、座っていたりする。
 目立たないように顔を隠し門番に目線を遣ると、そこにはカークランドの紋章を入れた剣を持つ人間が数人立っている。門は、男4〜5人が動かさなければビクともしない門である、馬で駆けぬく事さえ出来ない。
 舌打ちを一つすると、そこから裏路地に入り込み、一つの飲み屋の中へと足を踏み入れた。既に床にはコップや瓶の破片が散らばり、オカズと酒でベタベタだ。何人かの男はテーブルの上で踊り、その周りで数人が唄い、完璧に酔っぱらっている。
「おお!ギルベルトやん!最近自分来なかったなぁ。」
 顔を真っ赤にさせ、片手にウイスキーの瓶を持っている一人の馴染みの男が、ギルベルトの肩を組んだ。ホワホワと笑い、その頭をグリグリギルベルトの頬に当ててくる。
「よ、アントーニョ、元気か?」
 思わず笑みを浮かべるギルベルトに対し、アントーニョはそれまで浮かべていた笑みをフッと消す。
「菊ちゃん攫ってまうお前程やないけどな。」
 その声色と顔色があまりにも恐ろしくて、それまで知っている彼では無かったため、思わずギルベルトの笑みは引き攣った。というか、やはりその情報は出回っているのだろう。
「ほんま、信じられへん。そんな奴や無いと思っておったけど、思い間違いやったんやな。」
 組まれた肩が、ギシギシ音が鳴る。
「ちょっと待て、アントーニョ!無理矢理じゃねぇぞ、菊だって付いてくるっつったんだよ。」
 明確には言っていないけれど。ギルベルトのその言葉を聞くと、アントーニョは顔を持ち上げてようやく彼らしい表情を浮かべてみせた。
「ほんまー?まぁ、俺もカークランドはちょっと反対やったんやけど……」
 眉間に皺をよせ、考えるような仕草をしてみせるが、酔っていて思考が上手く回っていないらしい。
「な、どうやったらここ出られるか、知ってるか?」
「えー?関所だけやろうけど……今の時期森を抜けるとなると、狼が出るからなぁ。」
 そのアントーニョの言葉に、ギルベルトは思わずギョッとした。そろそろ餌が少なくなり、狼が人里に下ってくるということを、すっかり忘れてしまっていたのだ。頼まれて狼退治にまで出向いたことがあるのに。
 青くなるギルベルトを、アントーニョは訝しそうな様子で見上げる。取り敢えずアントーニョが持っていた酒瓶を掴んで酒場を後にする。早足で歩くギルベルトの後ろを、慌てたアントーニョの声が追ってくるが、それを無視して走り出す。
 
 
 
 小さく鳴いた腹を押して菊はそっと目を開く。藁の中で眠りかけていたのだが、空腹に起こされてしまったらしい。起き上がって目を擦りながら、もう一度鳴く腹部に手を当てた。
 夕飯はギルベルトが取ってきた魚であったのだが、自分のを食べずに菊に譲ろうとしたものだから、菊は「お腹いっぱいですから。」と笑っていった。の、だが、実際はお腹が空いてお腹が空いてたまらない。
 ぼんやりとしていると、森の奥から何かが歩いている音が聞こえてきて、菊は顔を持ち上げた。
「……ギルベルトさん?」
 呼びかけても返事が無いから、菊は眉間に皺を寄せるとそっと立ち上がって、もう一度彼の名前を呼んだ。それでも返事が帰ってこないから、ゆったりとした足取りで扉に向かう。
 手探りでどうにか進むと、扉を探り当てどうにか閉めようとするのだが、歪んでいるのか扉は完全には閉まらない。焦る菊と反対に、足音は徐々に近付いてくる。それが人間の足音だと解り、菊は小屋の中を振り返る。
 当然ながらどうなっているのかは分からない。つまり、一体何処に隠れればいいのかも分からない。体を震わせてから眉をギュッと上げると、手探りで壁に背を付けて立つ。そのまま上手く通り過ぎてくれるのを願うしかない。
 ギギ……と音を立てて扉が開く。冷たい汗が背中に伝い、菊はその音から顔を背けさせた、が、直ぐに声がする。
「何をしているのだ。」
 咎める口調が浴びせられ、菊ばビクリと震える。どうしようかと思惑を巡らせている内に、ギュッと腕を掴まれたのを感じて思わず振り解こうとする。が、中々振り解けない。
「目が、見えぬのか?」
 ハッとする向こうの言葉に、菊も思わずハッとした。そして引き寄せられるのを感じ、咄嗟に自身を掴んでいるその腕にガブリと思いっきり噛み付く。
 油断をしていたのだろう、相手の掴んだその手の平が緩むのを覚えて、そのまま菊は彼をドンと押し外に飛び出す。確か彼は、野原だと聞いていたから、障害物は無いが、それでも一人で駆けられる筈がない。直ぐにぬかるみに足を取られ、菊は転び水溜まりに落ちた。
 慌てて立ち上がり這うように進んでいくと、パーンと銃声が鳴り響きビクリと菊は震える。
「狼が人里にまで降りてきている。吾輩はそれを心配して見回りをしていたのだ。」
 腰を抜かして座り込んでしまった菊の腕を掴み立たせ、男がそう言う。「さぁ、早く立たないと狼に殺されるぞ。」と急かされ、菊は震える足に力を入れる。
「私、ここで人を待っているのです。だから……」
「解った、見掛けたら吾輩が伝えておく。ここは危険過ぎるのである。貴女が狼に喰い殺されていたら、貴女の連れはさぞ困るだろう。」
 バッシュの言葉に菊は困ったように俯いた。確かに、菊が狼に襲われたりしたら、彼は一人になってしまう。けれど……
 戸惑う菊をよそに、再び二度の銃声が鳴り響く。知らず背を伸ばす菊の腰に腕を回し、男は声を潜ませる。
「直ぐ傍に居る」
「撃ったのですか?」
「いいや。空砲である。」
 菊を肩に担ぎ上げると、男はそのまま足早に歩き出す。菊がごねて声を出すと、男はそれ以上言葉を交わすつもりは無いらしく、ただ「伝えておく」と繰り返す。

 
 
 
「風呂と寝床、夕飯の残りはあるか?」
 寝ずに待っていた妹に尋ねると、リヒテンシュタインは目を大きくさせて兄であるバッシュが抱えている人物を見やった。綺麗な着物を着ているが、泥だらけである。
「どうしたのですか?」
 スープをよそりながらソファに降ろされる少女を見やり、リヒテンシュタインは首を傾げる。どこを見ているのか解らない黒い瞳は潤み、黒髪は乱れていて、顔色が悪い。
「納屋に居たのだ。」
「あの壊れた納屋に?」
 どこか呆けた様子の女性の顔を覗き込む。青白い顔に泥が付いているが、それ以上にその顔色が気になり、そっと頬に手の平を当てた。女性がビクリと震える。
「熱がありますね……」
 そう言い兄の顔を見上げると、バッシュは微かに瞳を細めた。
 
 
 
 発砲音が二発聞こえ、ギルベルトはハッとして立ち竦んだ。林が一斉にザワザワとざわめき、その音が空に反響する。
 まだ遠い。心臓がはやり、焦り、ギルベルトは再び走り出した。朝の内小雨が降ったせいで足下はぬかるみ、走るギルベルトの足をもたつかせる。
「菊!」
 納屋に転がる様に入り込んだ。笑って「どうしたんですか?」と迎えてくれる彼女を望んでいたのだが、そこはガランとして人気など微塵も無い。ただ、藁が少し乱れているだけだ。
 床に這い蹲ってみるが、そこに血痕は見あたらない。いや、もしかしたら先程アントーニョが言っていた狼から逃れようと、外に出たのかも知れない。
 名前を呼ぶけれど真っ黒な国は風に震えるだけで、何の返事もしてくれない。ただ虚しさばかりがそこに渦巻いた。
 
 
 扉を開けて出てきた妹に「寝たか?」と尋ねれば、コクリと一つ頷いた。リヒテンシュタインによって着替えと蒸しタオルで軽く綺麗にして、消化に良い物をと持っていったのだが、彼女は頑として食そうとしなかった。
 熱があるのだから薬を飲まなければいけないのだが、胃に何も入っていない状態で飲ませるのはまずい。なだめてもすかしても、待ち人が居るのだと繰り返すばかり。
「吾輩が先程戻ってみたが、誰も居なかった。夜の出歩きは危ない、きっと朝まで帰ってこないだろう。」
 それは真実から言ったのだ。本当に一度戻ったものの、誰かが戻ってきた痕跡は無かった。それに狼が出るというのに、そう夜道を歩く人間もあるまい。
 項垂れる少女を横目に、後のことは任せると言い置いてバッシュは部屋をあとにする。
 桜と名乗った少女はドレスを着ていたが、見目は東の人間であるし、納屋に置いてあった荷物にはキモノと呼ばれる衣服が詰め込まれていた。それらの生地は美しく、刺繍は細かい。あんな美しいものを、一般庶民が持っている筈がない。
 そこで東の貴族の中から、盲目の少女が行方不明になっていないか調べるつもりであったのだ。もしかしたら名前は偽名かもしれない、と伝えると、なんとも簡単に彼女の身元は明らかになった。
 
 
 
 
 
 上は終了。しかし続。