ギル菊

光の世界  の続きです。 
 
 
 
 
 続・光の世界  下
 
 
 一晩過ぎて朝起こしに行くと、夜はさほどでも無かった彼女の熱は上がり、起き上がれない程になっていた。それなり寒い中、あのような納屋に居たのだから仕方ないし、また菊は家からあまり出たことの無かった為、気が緩んだのだろう。
 消化に良い食べ物を。と、妹が市場で買い求めた煮詰めて、薄味のリゾットを作る。けれど未だに少女はベッドの上、熱で浮かされ脂汗をジッとりと掻き、意識もろくに無い。青ざめていた頬は朱く染まり、黒い瞳は潤んでいた。時折一人の男の名前を呟くばかりで、纏まった言葉を喋るまでに回復はしない。
 ギルベルトさん。そう何度も囁くものだから、その男の事も調べてみれば、直ぐに正体は明らかとなる。が、その男と連絡は取れそうもなく、やはり王耀に引き渡すのが一番だろうかと、バッシュは未だに妹と話し合っていた。
 その妹、リヒテンシュタインは、もう三日ほども夢うつつの女の面倒を見るのに夢中になっている。時間さえあれば様子を見に行き、氷枕や食事も己で作っていた。
「菊さん、食べないといけませんよ。」
 もう最低でも三日も食していない。このままでは治るものも治らない。その頬に触れながらいつもの様に呼びかけると、ふ、とやっと菊はその瞳を覗かせ、初めて焦点を合わせる。その真っ黒の瞳に、見えていないと知りながら一瞬怯む。
「……ギルベルトさんは?」
 熱で掠れた声色が聞こえ、リヒテンシュタインは首を振った後、慌てて「それがコンタクトがとれないのです。」と言葉に出す。
 言葉に出した途端、菊は哀しそうな表情を浮かべ、そのまま目を細めてから、ゆっくりと体を起こした。ギョッとして止めようとするけれど、菊は床を足先で探り立ち上がる。
「きっと探しています。行かなくては。」
 よろつく菊の脇について、リヒテンシュタインは心配そうにその顔を見上げた。
「必死になって探しているのは、貴女の兄もまたしかりである。」
 いつの間に立っていたのか、バッシュは扉口に立って鋭い目を細め、菊を見やっている。菊は熱に浮かされた顔で、訝しそうな様子でそちらに顔を向けた。
「王耀は寝る間もなく飛び回っている。貴女はそれで良いのか?」
 歩幅大きく歩み寄ると、バッシュは小さく身を屈めて菊の顔を覗き込む。彼女はその気配に気が付いてか、顔を持ち上げてバッシュの声がした方向を辿るように首を動かしていく。
「……兄様」
 考えこんだ様子で首を傾げさせた菊は、苦しそうにそう呟く。明るく自分の名前を呼び、駆け寄ってくれるその声を思い出す。
 抱き上げてくれて、膝の上でせがまれるままいくらでも本を読んでくれた。両親が訪れる事の無くなった、寂しい小さな屋敷に、兄ばかりはいつまで経ってもやってきて、朝まで沢山の話をしてくれた。
「私のこと、探していらっしゃるのですか……」
「当たり前である。海に落ちた妹を捜さない訳がなかろう。」
 キッパリとした口調で返され、立ち上がっていた菊はそのままポスンとベッドの上に座り込む。
 しがみついていたギルベルトが微かに震えている事に気が付いたとき、何もかもを捨てる決心をした。このままこの人とどこへでも行ってやろうと、そう思ったのだ。けれど置いて行かれた方はどうなるのかなんて、そこまで意識は回らなかった。
 自分自身がうち捨てられたというのに、どうしてそんな事に意識が回らなかったのだろう。恐らく抱きしめてくれた彼の体温が、何よりも愛しいと感じたからだ。
「熱が下がるまで王耀を呼ぶのを待っておく、それまでよく考えておけ。」
 出て行く足音を追いかける様に菊は顔を持ち上げた。
 
 
 
 それなりの身分の人に拾われたのだろう、部屋は広く居心地が良いし、食事はおいしい。やっと熱が下がった頃、優しい声を持つ少女、リヒテンシュタインに連れられて菊は大きな庭を歩いていた。
「ギルベルトさん、が、心配なのですね。」
 どこか表情が浮かばない菊に対して、リヒテンシュタインは庭の花を手渡しそう尋ねると、菊の表情が曇る。尋ねられる事が無かったから、話もしなかったけれど、彼女は彼女なりに心配してくれているのだろう。
「ええ。しかし私では見つけられません。」
 哀しそうな声色でそういう菊は、手渡された花の花弁をそっと唇に挟んだ。リヒはその光景をどこか夢心地で見る。
 庭には主に黄色い花が密集して咲いていた。恐らくこの屋敷の主人が好んで黄色い花を集め、育てていたのだろう、見る限り一面黄色い世界である。そして薫りは一杯に満ち溢れる。
 その時どこからともなくヴァイオリンの音が響き、菊は顔を持ち上げて屋敷の方向を見上げる。そして嬉しそうに微笑んだ。
「兄さんが弾いているんです。兄の知り合いが得意で……兄さんってば負けず嫌いですから。」
 クスクスと喉を鳴らして笑うリヒテンシュタインにつられ、己の兄を思い出して菊も思わず笑い声を漏らした。ただの負けず嫌いにしては、その音色は美しい。
「オペラですね。」
 菊は屋敷を仰いだままそう言うと、そのヴァイオリンの音色に合わせて菊は抑えた声ながらに、一節だけ高らかに歌う。ギョッとしてリヒは菊を見やると、菊は照れた笑みを浮かべる。
「上手です!」
「兄が……幼い頃から、目が見えなくとも出来るからって、歌を習わせてくださったんです。今のはたまたま、いただいたレコードに入っていた曲でしたので。」
 照れて笑う菊は再び持っていた花をそっと顔に近づけた。未だに綺麗なメロディが流れ、どこか違う世界に来てしまったようだ。
「お兄さんが下さったのですか?」
「いいえ、蓄音機は……アーサー様から。」
 歌を習っていた、という話をした次の日に送られてきたのだ。「流石に貰えません」というと、「俺の所では旧型なんだ。でかくて邪魔だからやる。」といって寄越したのだ。けれど、蓄音機など最近作られたばかりなのに。
 「蓄音機を貰った」というと、今度は毎日の様にみんながレコードを持ってくるようになった。その為、菊の屋敷の一室は音楽室となってしまう。毎晩やって来る彼も、それは沢山のレコードを持ってきてくれた。いつもジャンルがバラバラで、彼自身菊が何を好むのか悩み選んでいるのだろうと、思わず笑ってしまう。
「……私、アーサー様にお会いしなくては。」
 浮かべていた笑みを消して、ポツリと呟く。その頃には音楽も途絶え、ただ鳥が鳴いている音と、風の音ばかりが聞こえてきていた。
「ここに居たのか……今王耀を呼んだ。直ぐに来るだろう。」
 扉から顔を出したバッシュの言葉に、リヒテンシュタインは戸惑いを見せたけれど、菊はただコクリと一つ頷くばかりである。
 
 
 
 街を巡ってもカークランドの衛兵は、今も門の前に突っ立っていた。それは、彼はまだ菊を見つけていないという事なのか、それともギルベルトを見つけたいのか……
 実のところ、いっそカークランドに見つかっている方がまだましだ。もしかしたら、酷い目に遭っているかも知れない。生きているかどうかも、分からない。
「……クソッ!」
 路地裏にあるゴミ箱を蹴り上げると、壁に背を付けてズルズルとしゃがみ込み、己の顔を手の平で覆った。髭が伸び始めているし、髪もぼさぼさ、そしてもうずっと眠っていない。
 ギリギリと唇を噛みしめていないと、足下から崩れ去ってしまいそうだ。離れなければ良かったと思うけれど、ずっと離れない様にして街中を探れない事は分かっていた。けれど……。思考はいつもグルグル巡り、答えは出てこない。
 街は夜の活気が出てくるけれど、ギルベルトは路地の裏でジッと死んだように息を詰めていた。頭の中には、ただグルグルと菊の姿と声が巡る。
 顔色を変えて、先程出てきた酒場に飛び込みアントーニョを連れ出し菊の行方を2人で捜した。けれど街中にも、あの森の近くにも、納屋にも、菊の屋敷にも、どこにも居ない。
 彼らしくもなく真っ青になったギルベルトに、アントーニョは責めることも忘れて知人にあたったけれど、菊の情報は微塵も得られなかった。ギルベルトはアントーニョの所に部屋を借りたけれど、結局殆ど帰らない。
「……菊、菊……」
 体の奥が冷たくなり、寒く、カタカタと震え始めた。何も食べていないからだろうか。あまり眠っていないからだろうか。それとも、不安だからだろうか。ただ寒くて仕方なくて、ギルベルトは自身の体を強く抱いた。
『貴方がいらっしゃらない夜は、寒い日が多いです。』と、いつだか菊が言っていた。……あの言葉は、ルートヴィッヒに向けた言葉では無かった。菊が語った言葉は、全部自分に向けられた言葉だった。
 そうしてジッとしていると、段々と意識が遠のいていく。食べていないし寝ていない。それに連日の雨に濡れているし、体は冷え体力はもうそろそろ限界だ。
 一寝入りしたら……ほんの一寝入り、少しだけ休んだら、また菊を探しに行かなければいけない。もしかしたら、酷い目にあって自分の名前を呼んでいるかも知れない。泣いているかも知れない。
 そう思うと再び立ち上がろうとするけれど、体は強張りまるで言うことを聞かない。ただそのまま意識が遠のいていく。
 
 
 
 部屋に入って来るなり王耀は両腕を大きく広げ、ソファに座っている菊をスッポリと抱きしめ、腕の力を込めた。驚き身を縮める菊に対し、王耀は喜びの声を上げたが、語尾は涙声で揺れる。
「菊、菊!良かったアル!何かされなかったアルか?」
 菊の両頬を包み込んで、涙ぐんだ王耀がそう笑うと、その指が微かに震えているのに気が付き、菊はキュッと唇をつぐんだ。
「兄様、お父様からは何か連絡ありました。」
 王耀の言葉には応えず、にっこりと笑って菊はそう返す。瞬時、耀は戸惑い指先を菊の頬から手の平を離した。
「あ……ああ、勿論心配してたアル。」
「カークランドの家と関われると思っていたから?」
 耀は否定の言葉も肯定の言葉も言えず、ただどうしていいのか分からずに立ち竦んだ。けれど菊は先程から変わらない穏やかな笑みから、ほんの少しばかり悲しげな影を落とす。
「ねぇ、お兄様。ここまで異母兄妹を愛してくださるのは、きっとあなただけです。
 だから、私これからはお父様からより、貴方から手紙を頂く方が、ずっとずっと嬉しいです。……兄様、今まで無理させてしまいごめんなさい。」
 一瞬何と言ったのか理解出来ずに固まった後、耀は再びキュウッと菊を抱きしめる。その背を落ち着かせるように、菊はニコニコしたままポンポンと叩いた。
 その後ろでリヒテンシュタインはにこにことし、バッシュは腕組みをしたまま「うむ。」と一つ頷く。
「兄様、お願いがあります。アーサー様にお会いしたいんです。」
 暫く耀の背中をポンポンと叩いていた耀に、やはり穏やかに菊が言った。思わず体を離して菊の顔を見やると、耀は「ああ」と頷く。
 本当の所、カークランド家に嫁入りさせる事を耀は反対していた。アーサーは兎も角として、カークランド家は東の航路を開けるためであり、菊の両親からしたら西への繋がりを求める政略結婚だったからだ。
 初めて預かった菊の両親からの、本当の手紙には菊を諭す言葉が延々と述べられていた。悔しくて読みたくなかったけれど、目をかがやかせる菊にせがまれて読んだ。
 顔を強張せて聞いていた菊は、眉尻を下げてまるで諦める様な表情を浮かべると、微笑んで頷いてみせた。ふわふわと笑いながら「それぐらいしか使い道がありませんから。」と言った。そんなこと無いと、憤りながらも阻止できない自分が情けなかった。
「……ああ、分かったアル。直ぐ連絡を取る。」
 微かに顔を顰めるアーサーに対して、菊は柔和な笑顔を浮かべて、首を傾げてみせた。
「ありがとうございます。」
 
 
 目を覚ますと何よりも先に頭の奥がジンジン痛く、ギルベルトは己の頭を抱え込んで低い唸り声を上げた。
「目ぇ覚めたみたいやな。自分路地裏に倒れてたんやで。」
 ニコニコしているアントーニョの顔を、それこそ機嫌が悪い様相で睨むと、空いた小さな口から唸りとも悪態ともつかない声が漏れた。目の前にアントーニョが見えるけれど、部屋はどうやら彼の部屋ではないようだ。
 アントーニョの家はゴテゴテとした物が多かった筈だが、寝ているベッドもシルクの様だし、なにせセンスが良い部屋だ。アントーニョにこんな繊細なセンスがあるとは、ギルベルトには到底思えない。
「おーぅ。目、覚めたか。俺の店の裏でぶっ倒れてるから、吃驚したんだぞぅ。」
 現れた主はニヨニヨしてギルベルトの横に座った。その姿を見て、ギルベルトは嫌そうな顔を一層嫌そうな顔にし、ギリギリと奥歯を噛みしめる。
 それは、古くからの付き合いで、女遊びの激しいアルセーヌであった。彼は貴族の家庭に生まれながら、服飾のデザインに興味があった為、ほんの余興で店を作ったところ大繁盛。町中に点々と彼の店が置かれている程である。その後ろに倒れていたのかと思うと、少し、いや、かなり悔しい。
「……今はお前等と遊んでる暇ねぇんだよ。」
 どうやら熱があるらしく、額はポッポと熱を持ち、頭の奥が痛い。やはり海にダイブしたり、雨に濡れたりした為だろう……思わず頭を抱えるギルベルトの後ろで、アントーニョの明るい声が響く。
「菊ちゃんやったら見つかったって。な、アルセーヌ。」
 その一言に、頭が痛かった事もすっかり忘れて、グリンとギルベルトはアントーニョに目を遣った。その瞬間鈍痛が走り再び頭を抱える。
「そうそう、本人から聞いたから確かだ。菊ちゃんはさ、今アーサーの別荘に居るってサ。」
 数秒固まった後、ギョッとしたような、安心したようなよく分からない表情をギルベルトは浮かべた。てっきり食い付いてくるかと思ったアルセーヌは、肩すかしを食らって不思議そうにギルベルトの顔を覗き込む。
「……そうか。」
 ギルベルトはベッドに座ったまま、ポツリと呟いた。なんだか諦めさえ滲んで聞こえたその声に、思わずアルセーヌとアントーニョは顔を見合わせた。
 が、次の瞬間座り込んでいたギルベルトがバッと立ち上がるものだから、ギルベルトの後頭部にアルセーヌの顎がヒットした。痛みに悶えるアルセーヌを余所に、ギルベルトが駆け出そうとするものだから、慌ててアントーニョはギルベルトの腕を掴んだ。
「ちょ、まさか乗り込む気ぃか?」
「あたりめぇだろ!」
 ギャッと咆えたてるギルベルトに、ギャッとアントーニョは驚いた。アーサーの別荘はこの街の外れにあり、行こうと思えば直ぐに行ける距離である。
 あまり使われていない屋敷であるが、アーサーが菊に会いに来るときたまに泊まっている場所である。当然ギルベルトも立派過ぎるほど立派なその屋敷を見知っていた。
「相変わらずだな、お前は。単身で乗り込める訳ねぇだろ。」
 赤くなった顎をさすりながら眉間に皺を寄せ、アルセーヌはようやっと立ち上がる。顎先にヒットしたため、意識が飛びかけてクラクラとし、思わず片方の手の平で額を抑えた。
「で、さ。俺、今日アーサーんとこに行く予定だったから、従者の振りして乗り込もうぜ。」
「おまえの従者!?ぜっっっっっっっっっっっっっってぇ嫌だ!」
 ピクニックにでも行く予定を立てるように、それは楽しそうに言ったアルセーヌに、額に青筋を立ててギルベルトは怒鳴り返した。怒りで熱も吹き飛んだのか、怒鳴れば怒鳴るほど元気になる。
「じゃあお菊ちゃんは諦めるんやな。」
 にこにこ笑うアントーニョは、「そらそうやな、お前みたいな奴、お菊ちゃんとは似合わないもんな」と、簡単に言ってのける。その笑顔がどこか陰っていて、長い付き合いながら初めて観たその顔に、2人は軽く震えた。
 どうやら彼は、静ながらかなり怒っているらしい。そんなアントーニョが恐ろしく、ギルベルトもアルセーヌも彼から思わず距離をとった。
「……っ従者にでもなんにでもなってやる!服もってこい!」
 アントーニョに微かに怯んだけれど、それでもどうにか威勢を取り戻したギルベルトが声を上げるものだから、アルセーヌはギルベルトが居る側の耳を塞ぎながら服を手渡してやる。
 服を受け取ると彼は慌ただしく部屋を後にする。残されたアルセーヌは、恐る恐るアントーニョに視線をやると、彼は非常に難しい表情を浮かべていた。
「俺も、カークランドは嫌いや。でも、そんな理由で結婚を破綻させてええんかなぁ……なぁ、アルセーヌやて、カークランドの顔見知りやろ?なんでギルを助けるん?」
 眉間に皺をよせたアントーニョを見やり、アルセーヌは唇を尖らせてから肩を竦めた。そしてアントーニョの発言を鼻の先で笑う。
「俺は愛の味方だもん。……それに相手はあの菊ちゃんだぜ。本当に嫌だったら流されやしねぇって。」
「そ、やなぁ……そか、ダメだったら飲みに連れてったろな。」
 張り詰めていた糸を切るように、アントーニョはホワンと表情を緩めた。そこへ目深なフードを被さられたギルベルトが入ってきた。中には黒髪のカツラをかぶって、一応変装をしている。
「よし、行くぞ髭」
 先程までグズグズ言っていたのは誰か、ギルベルトは鋭い瞳をそのままムカツクほどに胸を張っていた。
 
 
 
 目の前に現れた彼女は、最後に会ったときよりほんの少しばかり痩せたようであった。けれど初めから感じていたその美しさは微塵もすり減っていない。
 この街の別荘にずっと居座っていた甲斐があり、菊が見つかったという報せが入ったのはほんの少し前の事であった。彼女は兄に連れられてやってきたのだが、あのギルベルトという男の姿は見受けられない。
「こんにちは、アーサー様。今日はお願いがあって参りました。」
 椅子に座りふんわりと笑う彼女は、ゆっくりとその瞳を露わにする。瞳はあっても、どこも見ていない綺麗な瞳だ。
「あの男はどうした。逃げ切れないと思って、君を差し出したのか。」
 ふん、と笑うアーサーに対して、顔を持ち上げた菊は寂しそうな表情を浮かべる。そんな表情を見てしまうと、それ以上言葉を紡げずにアーサーは菊の真ん前の椅子に、無言のまま座る。
「……どうか、街の出口を開けていただきたいのです。理由は分かりませんが私などを嫁に迎えようとしてくださった事は嬉しかったけれど……」
「オレは、菊、お前の目が見えようが見えまいが、そんなことどうだって良い。俺はただ……本当にお前と一緒に居たかっただけなんだ。」
 菊の言葉を遮って出てきたそれは、初めて出た本音だった。何度も会いに行ったし、沢山話をしたけれど、とうとう愛をほのめかした事など無い。しかしもしそうしていたら、もっと彼女は自身の事を理解してくれただろうか。
 顔に熱が籠もり、アーサーは思わず自身の顔を包み込んだ。どうにか抑えようとするけれど、それ以上に感情が高ぶり、言葉が口から漏れてしまう。
「もしも君が戻って来るというのならば、その目の手術もさせてあげたいと思っている。」
 吐かれた息と同様に言葉が漏れる。と、菊は顔を持ち上げると、やはり眉尻を下げてほんの少し、寂しそうな表情を浮かべてみせた。
 ああ、そんな表情が好きなのだ。アーサーは手の平で覆った、その指の隙間で光に当てられた、綺麗な彼女がふんわりと微笑む。真っ黒な髪、細く綺麗な肢体。けれどそんな物以上に、彼女は彼女であるからこその美しさを持っている。
 その姿に焦がれ、時折みせる子供の様な素直さに憧れた。あの鳥かごの様な家から出して、その心の望むままを与えてやりたいと、思った。心の望むまま……
「私は、恐らく二度と空を見ることもありません。海も、木々も、見ることはないでしょう。でもだからといって己が哀れなど、微塵も思っておりません。あなたも先程仰ってくださったでしょう?私は目が見えようが見えまいが、どうでもいいのです。
 ……だってここにも光はありますから、アーサー様。何にも負けない、揺らぎ無い永遠の光です。ここは、光で溢れた世界です。」
 菊が言い終えるか終えないかの時、扉の後ろ、廊下のあたりで壁が勢い良くうたれる音が聞こえてくる。アーサーは驚き顔を持ち上げるのに対し、菊は冷静な顔つきで、やはり微かに微笑んでいる。
「菊!菊!てめぇら、菊をどこに閉じ込めやがった!」
 ギルベルトの咆哮が聞こえ、続いてアーサーの部下が制止しようとする声が響く。どうやら随分暴れているらしく、何人もの声と、暴れる音が大きく響いていた。
「……少しはオレの事、好いていてくれたか?」
 音がした方を見やっていたアーサーは菊に視線を戻し、うなだれ己の額を手のひらで包みこむ。アーサーの言葉に、菊はその黒い瞳を細める。
「あなたの事はとても好きです。でも……きっとあなたが使う好きとは違います。」
 きっぱりと言われた言葉に、アーサーは思わず苦笑を浮かべた。下手したら泣き出しそうな自分に戸惑いながら、菊の肩に手を置くと、肩口に額を当てる。ふんわりと感じられる懐かしい、甘い薫りに胸の中が熱くなった。
「君は、ずるい。」
 上ずる声色で一言そう言うと、菊が何か言う間を与えずに、振り解くようにアーサーは立ち上がる。と、そのまま扉を開け、五人がかりで押さえ込まれているギルベルトを見下ろした。
「て、てめぇ!菊はどこだ。」
 噛み付かんばかりの形相であるギルベルトを、アーサーの冷やかな翡翠玉が貫く。赤いルビーの様な鋭い瞳と、アーサーの瞳がぶつかり合い、暫く2人は黙り込んだ。
「菊に何かしやがったら、例え死んでもぶっ殺してやる!」
「……単身で乗り込んできたのか。本当に馬鹿な奴だな。
 ……離してやれ。」
 アーサーはフイッと体の向きを変えると、そのままギルベルトに背を向けて歩きだす。追い掛けようとギルベルトが体を持ち上げた瞬間、彼の名前を追い掛ける、懐かしくて綺麗な声が響く。
「菊!」
 手探りで姿を現した菊を、ギルベルトは両腕を広げて迎える。何の躊躇もせずに、菊は声がする方へ向い、腕を広げた。ギュウと抱きしめられると、頬に頬をすりよせられる。
「きゃんっなんかチクチクします!」
 菊は痛みに驚き、思わずギルベルトの頬を押さえて菊が声を上げると、ギルベルトは笑い声を立てて己の顎先をさする。ギルベルトの胸に手を当てて体を反らす菊は、ぷっくりと頬を膨らませる。
「あ、わりぃ。髭伸びてんだ。」
 喉を鳴らして笑い、ギルベルトは容易に菊の体を抱き上げた。菊は腕を伸ばし、頬がギルの顎にぶつからないようにギルベルトに身を寄せる。
「アーサーさん、さようなら。」
 菊の囁く様な声色に、もういないと思っていたアーサーの返事が、曲がり角の向こうから聞こえてきた。それは「ああ。」という素っ気ない言葉であった。
 
 
 その日の夜の内に、カークランド側から、海の沖で菊とギルベルトの水死体が見つかったと発表があった。馬車に乗っていた所、菊の気分が悪くなり、そこでギルベルトが潮風に当たらせようとしたが、足を滑らせて海に落ちた、と。
「確かにこれならばバイルシュミットも本田家もカークランド家にも被害が及ばんな。」
 朝のコーヒーを片手に新聞をみやりながら、思わずルートヴィッヒは感心の声を洩らした。
「だけどよ、知ってる奴は知ってるみてぇだったし、意味あんのか?」
 ルートヴィッヒは目の前でもそもそ飯を食らう自身の兄を見やり、顔しかめる。なぜ居るのだ、なぜ。
「兄さんの行動は後先を考えなさすぎる。少しでも俺の事を考えたか?」
「なんで俺がお前の事考えなきゃなんねーんだよ。」
 心底嫌そうな顔をする癖に、結局別れの前にこうして顔を見に来るあたり、彼らしい。思わず笑みが濃い苦笑を漏らし、ルートヴィッヒは軽いため息を洩らした。
「菊を幸せにしないと、いくら兄さんでも許さないぞ。」
「俺様を誰だと思っていやがる。」
 最後の一欠片のパンを胃に詰め込むと、ギルベルトは不適に笑ってみせる。これからどうするか考えてはいないだろうけれど、彼は十二分に頭が良いし、体力がある。恐らく仕事はどこでも見つけることが出来るだろう。
「そんじゃぁな、ルーイ。愛してるぜ。」
 んー。と一つ伸びる兄を見やりながら、ルートヴィッヒは軽く肩を竦めた。そして「俺もだ」と返すと、ギルベルトは昔のように柔らかい笑みを浮かべた。
 なんだか変わったようだと思い、どうしていいか分からずにぼんやりとするルートヴィッヒを余所に、纏め直した荷物を持ち上げた、彼は玄関に向かう。死んだことになった彼等は、もうこの街へはいられないし、菊の両親もバイルシュミット側も、当然2人が一緒になるのを反対するだろう。
「愛の逃避行なんざ、おもしれぇじゃねぇか。」
 と笑うギルベルトに、ルートヴィッヒは心底呆れてしまった。けれど幼い頃から夜な夜な彼女のもとに通う姿は、ルートヴィッヒさえいじらしいと思えたのも真実だ。
 
 街の出口に待機させていた馬車の前には、やはり彼女の友人が数人居た。馬車で列車があるところまで移動し、そこから列車に乗る手はずになっていた。
 まだ空は薄暗く、太陽は地平線の向こうにいるのか、世界は紫色に支配されている。遠くに見える山の合間から、涼しい一陣の風が吹き、ギルベルトの髪を揺らした。まだ見ぬ世界は、既に眼前にあるような気さえする。
「じゃあな、ギル。手紙待っとるからな。ああ、因みにその馬車、カークランドが用意したんやって。」
 馬車が動き出し、街から出る寸前に、アントーニョが大きく手を振りながらそう言った。ギョッとしたけれど、すでに馬車はスピードを出していて降りるわけにはいかないし、隣には菊が居る。
 最後に一つ衝撃を与えた事に満足したのか、アントーニョはいたずらっぽい笑みを浮かべている。
「くそっ、なんでよりにもよってカークランドの……」
 ブツブツと文句を言うギルベルトの服を、ちょいちょいと引っ張る手を感じそちらを見やると、にっこりと微笑んでいる菊と目が合う。いや、正確には会っていないのかも知れないが。
「ギルベルトさん、綺麗ですか?」
 そう言う彼女の指さす先には、山の合間から昇っている太陽はキラキラと輝きながら昇っていた。
「ああ、すっげぇ綺麗だ。」
「ふふ……そうですね、とっても綺麗ですね」
 菊を抱き寄せて、ギルベルトは窓から乗り出して空を見上げている。風邪にすくわれて2人の髪が絡んで揺れた。
 まだ2人の前に昇るのは、朝日だ。
 
 
 
 
 
 終わり?